オフラインな生活
今度は12月。ここからはクリスマスや年賀状、大掃除といった家庭でのイベントさえ追加される。
仕事に限っていえば無理だと思える計画については相談して締め切りを遅らせてもらうしかない。人が処理しうる量には限りがある。
本年をもって解散することにしたロードバイクサークルのメンバーからは、数人ではあるけれどメッセージが届いている。とても有り難いことだ。心が温かくなった。
しかし、多くのメンバーが無視している状態だ。苦労してサークルのサイトを運営し、ライドをアナウンスし、写真を撮り続け、新規入会希望者とメールでやり取りし、プライベートの多くの時間を費やしてきた。
結果として残ったのは数人の友人との繋がりのみ。社会人スポーツサークルの運営の難しさと無意味さを実感する結果となった。それもまた人生の勉強なのだろう。
私の都合で大変申し訳ないが、今、これからの生き方を考えている状態なので頂いたメールを開けずにいる。
ログでは考えを書きとめることができるが、メールの場合には相手がいる。自らの考えを整理できていない段階でメッセージを返すことは正しくないと私は思うから。
多少人生に疲れてはいるが、仕事と家庭が落ち着いた頃、一緒に走ろう。
治療が必要なくらいに疲れているわけではなく、ロードバイクという趣味に飽きたわけでもない。夫婦共働きで複数の子供たちを育てていれば疲れて当然で、サークルどころかロードバイクという趣味を続けられることさえ有り難い。
また、サークル活動を通じて人の内面をたくさん知ってしまうことになった。人は自らのメリットを優先し、メリットがないと判断すれば去ってしまう。それはロードバイクという趣味そのものについても同じことが言える。
ところで、オッサンなので昔話をするが、ネット環境が整っておらず、WindowsやMacが発売される前から生きてきた立場から振り返る。
昔と今を比べるとネットを介したまとわりつくようなストレスが増えたように感じる。
確かに便利なツールではあるが、ネットを通じて入ってくる膨大な情報が脳を疲れさせているのではないかと私は思った。
そういえば、最近では姿を見かけなくなったロードバイク乗りの若者から貴重なアドバイスを頂いたことがある。
彼はシステム系の仕事だったのでネットには詳しいのだが、プライベートはネット断ちをすることで精神的な疲労を減らしているそうだ。
電車通勤で周りを眺めれば、皆が首を下げて口を少し開いた不自然な格好でスマホを眺めている。
歩きながら動画やゲームに熱中している人さえ珍しくない。スマホゾンビと表現されることもあるようだ。確かに皆が取り憑かれたかのように同じ不自然な格好で歩いている。
昔の偉大な歌手は上を向いて歩こうと歌ったが、今の人々は下を向いて歩いている。
この人たちは限られた一生のどれくらいの時間、この電子回路が詰まったプラスチックの板を眺めて生活するのだろう。
私が苦手にしながらも興味深いと感じている存在にSNSがあって、とりわけツイッターは不思議なツールだと思う。
ブログよりも敷居が低くて即時性があり、匿名性があるように感じられるので、人の内面がそのままネットに放出される。
バカッターと揶揄されることもあるが、ツイッターユーザーが馬鹿だという意味ではない。黙っていれば露呈しない思考や感性が分かってしまうという意味だろう。
人は内面にマスクをした状態で社会で生きている。ところが、ツイッターにはその人の知性や感情、教養や道徳など、様々なことが放出している。
明らかに仕事の時間なのに頻繁に投稿している人もたくさんいるし、グローバル企業に勤めているはずなのに他国を罵倒するような投稿をする人もいる。
受けを狙ったツイート、何を食べたとかどこにいるとか、..いや、それがつぶやきというものだな...という情報を他者に伝えて、他者からリツイートやいいねをもらうことで満足するという形だろうか。
私なりに気になるのは、性欲をベースにツイッターを使っている人たち。まあそれも人の内面ではある。また、犯罪性のある事象に自ら入っていく未成年たちも気になる。
膨大な数の人たちの感情が放出されている海に浮かんで、それが楽しいのか。四六時中誰かと繋がって、それで心が支えられるのか。
アフィブログの類でよくある話だが、一度、ツイッターのアカウントを削除して生活してみるといい。随分とリラックスできるだろうから。
それと、上から目線のコメントが並ぶ某ニュースサイトも見ないようにするとストレスが減る。
ロードバイクを趣味としている人たちなら、サイクル関連のメディアやブログなどにもアクセスできないようにする。
ブラウザでブロックツールを入れれば一瞬でアクセスを閉じることができる。
別に読んで楽しくないけれど、何だか気になるのでアクセスしてしまうサイト...HYPSENTも該当するな...についてもどんどんブロックしてしまう。
3G回線が終了するまでまだ時間があるので、ガラケーを買ってスマホのSIMを抜いてしまうという荒業さえ有効かもしれない。私はそうしている。電車の中で考えたことをスマホに打ち込んで、自宅のWi-Fiに繋いでログに残すだけ。
すると、やってみた人しか分からないかもしれないが、しばらく不便だけれど一日の時間が長くなり、自らを縛りつけていた何かから解放されたような感覚がやってくる。
SNSでたくさんの投稿を続けている人たちが、果たしてどのような人たちなのか。自らの優位性や経験をネット上でアピールして、他者から認めてもらいたいという承認欲求の強さが映る。
少し心得があると、そのネットユーザーが何らかの人格障害もしくはメンタルな疾患を有しているかどうかまで分かったりする。
質問票で尋ねなくても自らが頻繁に内面を公開してくれるので、それらに該当するかどうかをチェックリストで判断するだけの話。
それらのアピールを受け取ることで楽しいのなら良いことだが、疲れてしまう人がいることだろう。いいねの数を見れば実質的なフォロワーも分かる。
しかし、最近では気に入らない人たちをネット上で見かけても突っ込みさえないことがほとんどだ。
この変化も興味深い。ネットで突っ込む作業そのものが面倒で、無視する方が楽だというロジックだろう。
メディアについていえば、それが職業なので仕方がないが、本質的な情報以外にも様々な意図を感じる。良くないニュースに目を向けることも大切だが、良くないニュースばかりでは疲れてしまう。
新聞の場合には息抜きのような記事が入っているが、ネットニュースではトピック性のある情報が並んでいて、ネットユーザーたちの不平不満までコメントとして並んでいたりもして、それで心が穏やかになるはずもない。
それが趣味なら人の自由だということはもちろん私も理解していて、とても個人的な価値観でしかないけれど。
だったらお前もログを残すなと言われそうだが、あいにくバーンアウトしかけた時に承認欲求も焼き消えてしまったようだ。
誰もが情報にアクセスし、便利なネットツールによって自由に意見を発したり受け取ることができる世の中になった。
しかし、それによって本当に人々の生活が豊かになったのだろうか。いつか揺り戻しのような形でネットの在り方が変わってくるような気がする。
人は誰しも自分が思っている程には他者から関心を集めているわけではないし、他者から無視されているわけでもない。
プライベートで使用するネットツールというものはどこまで行っても道具や手段でしかなくて、どこでリアルな世界と接続するかどうかで有用性が見えてくるものなのかもしれない。
スマホを眺めながら歩いたり自転車に乗っているような人たちは、もはやネットの世界に頭が依存してしまっている気がしてならない。
一度、スマホから手を離してオフラインになる時間も必要だな。常に情報が頭に入り続ける状態は脳に疲労を蓄積させる。
さて、夜遅くだがスピンバイクに乗ってペダルを回そう。