2021/06/09

意に沿わず千葉都民になった夫の夢と現実

難しい案件が一段落し、それなりの報酬が手に入りそうだ。早めに仕事を切り上げた私は、職場があるビルの地下駐車場でカイエン・ターボに乗り込み、少しの満足感に浸った後でエンジンをかける。以前に乗っていた911の方が好みだが、子供がいると仕方がない。

オフィスがある港区から浦安市内の自宅までは少し距離があるが、その不便さの代償と妻の実家の近くに住むことへの感謝の気持ちとして、義父が浦安市内に分譲マンションを用意してくれた。「この辺だと、プラウドかな...」と見繕ってくれたのだが、とてもありがたいことだ。


妻と結婚した後、彼女の実家は、まるで血の繋がった息子のように私を迎えてくれた。義父母のアドバイスの通り、浦安市は人が輝き躍動する街だ。本当に素晴らしい。

浦安市を第二の故郷と表現するのは適切ではなくて、むしろ故郷よりも居心地が良い。私はこのような街で、そして、このような家庭で生活したかったのだが、まさか結婚してから実現することになるとは。

大手航空会社の国際線のキャビンアテンダントだった妻は、いつも優しくて美しく、私をサポートしてくれる。彼女の素敵な笑顔は、初めて空の上で出会った時から色あせることがない。

結婚後の妻は国内線に搭乗しているが、忙しい夫婦共働きの毎日でも何とか都合を付けて家庭を支えてくれている。

私がもっと家庭に貢献することができればと、いつも心苦しく感じているのだが、経営者としての厳しさや辛さを妻としても感じ取ってくれているようだ。とてもありがたい。

共働きの子育てにおいて妻の実家がここまで頼りになる存在だとは、独身時代は想像したこともなかった。

妻と義実家との関係は親しき仲にも礼儀がありつつ、私が気付かないくらいに自然と義父母からの子育てのサポートが入る。

結婚したら、妻の実家の近くに住んだ方がいいという話は本当だったようだ。

妻や義父母への感謝以上の言葉を用意するならば、出会えたこと自体が私の人生の最高の幸運だと思う。

結婚後の幸せをかみしめながら、首都高に乗って我がホームタウン、浦安市を目指す。

混み合う道路で500馬力を超えるカイエンの恩恵を感じることはないのだが、駆動系だけでなくハンドリングやサスペンションまで全てが洗練された上質な乗り心地を楽しむ。

何より、仕事も家庭も忙しい毎日の中で、前方のテールライトの光の筋を眺めながら一人になると気持ちが安らぐ。

大きな借金を抱えて軽自動車で移動していた独身時代の若き日の自分に対して、今の私が一言だけ伝えることができるとしたら、何を伝えるのだろう。

プレーヤーから気に入ったジャズを流し、その音色に耳を傾けながら、短いナイトクルーズを楽しもう。

帰宅した後の仕事の成功のお祝いは、冷やしておいたシャンパンだな。上の子供が大学を卒業するまでの学費が全て用意できたのだから、自分自身へのプレゼントを用意しても差し支えないだろう。私立の医学部に進みたいのなら、父親としては、もう少し頑張らねば。

そういえば、今はコロナ禍で搭乗業務が減ってしまっているが、いつか妻が再び空の上で活躍する日がくる。

その前祝いも兼ねて、妻と乾杯しよう。

....という架空の物語を帰宅時のJR京葉線の車内で想像していたら、重い気持ちがさらに重くなった。アスキーアートで表現するなら、これだな。

...._| ̄|〇

10年以上も耐えてきた毎日の電車通勤の地獄があまりに辛すぎて、正気を保つことができずに逃避的な思考に陥ったらしい。

あまりに慢性的で苛烈なストレスで、心身が限界に達した。

左耳が聴こえない。

激しい耳鳴りが一日中続いている。帰りの京葉線の車内で、辛さや情けなさが込み上げて目に涙を浮かべた。

わが人生、どうしてこうなった。おかしいよな。妻も義父母も浦安が住み良い街だと言ったよな?

じゃあどうして、私は毎日疲れ果てて生きてるのさ?

ストレスで左耳が壊れたよ。これ、ストレス性の難聴だよ。どうしてくれるのさ?

これで住み良い街のはずがないでしよ?見事に健康を害しているじゃないか。浦安に引っ越したから。

だが、正気を保つことができなくなったという表現は正しくないな。

何度も電車を乗り換えながら、3時間もかけて千葉県内の自宅と都内の職場を往復するという行為自体が、感覚過敏持ちの私にとってはすでに正気を失った行為だったわけだ。

あはは!壊れて当然だよな!

ポルシェ!?

義実家が住宅を用意!?

妻がCA!?

子供を私立の医学部!?

まさに寝言は寝てから言えという話だな。私にとっては夢の中でしか生じないことだ。

当然だが、夢の中で見かける優雅な話は現実では生じない。

それなのに、夢の中で見かける地獄のような話が現実で生じている。それが、私の生活だ。

もうどうでもいいから、サイクリング中に心臓発作を起こして、すぐに死ねないかなと思うことさえある。生きることが辛くて辛くて仕方がない。

浦安出身の妻と結婚して、不本意にも千葉県に引き摺り込まれて千葉都民にされてしまったがために、私の人生は苦しみと忍耐の連続になった。幸せなはずがない。

合計3時間もかけて自宅と職場を往復する生活では、残業が長引くと帰りの電車の中で日付が変わる。次の日の出勤は通常通りだ。

この話だけで千葉都民の夫の生活サイクルが異様だということが分かる。

妻は、「往復3時間の通勤なんて、普通でしょ?」と言い放ったりするが、確かに普通なんだ。

「千葉都民の父親としては」という限定的な話だが。

その苦痛が普通だと思ってほしくはないが、普通だと思っている千葉県出身の妻が多いのではないか。

千葉県民の女性と結婚して、妻が千葉県に住みたいと希望して、義実家がぜひ千葉県へとゴリ押ししてきて、「そうか、家族の幸せのためならば、千葉県に住んで長時間の通勤を我慢しよう♪」と考えている若い男性がいたら、絶対に止めた方がいい。

それは地獄の入り口だ。その先に楽園はない。

今なら引き返すことができる。子供がいなければ離婚も選択肢のひとつだ。

それを切り出して、何たることだと憤る妻や義実家であれば、離婚した方がその後の人生が楽になる。我慢して生き続けたら、本当に地獄が待っている。

妻がなんと言おうと、義実家がなんと言おうと、千葉県にだけは絶対に住まずに都内に留まることだ。

長時間の通勤地獄で精神を枯渇して倒れる中年男性なんて全く珍しくないし、毎朝目を覚まして生きることが辛く感じるような惨めな生き方をしたくなければ、絶対に千葉都民にならないことだ。

千葉都民になって、妻や義実家が喜ぶのは最初の半年だ。そのうち、夫が苦しみながら長時間の通勤に耐えることなんて、妻や義実家にとっては意識すらしない当然のことになる。

しかし、本人にとっては地獄の苦しみが続くことになる。都内に住む父親たちには1日に24時間が用意され、千葉都民の父親たちには22時間程度の時間しか用意されなくなる。

嘘だと思ったら、通勤時間帯の東西線や京葉線に乗って、中年男性たちの腹回りを見れば分かる。

彼らの多くがタヌキの置物のように膨らんだ腹をベルトに引っかけて、不健康そうな皮脂を額に浮かべている。

それならば運動すればいいじゃないかと思うかもしれないが、運動する時間がないんだよ。1日が22時間しかないから。

フルで仕事をして、自宅に帰って睡眠時間を確保しようとしたら、往復3時間以上の通勤なんてどう考えても異常なことなんだ。しかし、それが普通だと言われて従っているだけの話。

やはり、異常だと思うよ。限りある命の中で、毎日、3時間もかけて職場に通うなんて。

それが普通だと考えている妻や子供たちもおかしいと思う。自分たちが快適な生活をするためだけに、夫であり父親である人をずっと苦しませることになるんだ。その人が老いてリタイアするまで。

長時間の通勤という無意味で非生産的な行為のために、大切な時間を捨てる人生なんて、愚かで意味がない。

私自身が10年以上もその狂った生活を強いられた。妻や義実家がそうあるべきだと言うから。これは何かの宗教なのか。

なので、千葉県民の妻や義実家の誘いには絶対に乗ってはいけない。離婚もやむなしという強い気持ちで千葉都民になることを拒否すべきだ。

私自身、こんなに無様な生活を強いられることになるなんて、千葉都民になった時には想像もしなかった。

いつか仕返しをしてやろうと恨んだところで、熟年離婚するか、義父母の介護を拒否するくらいのことしかできない。どうせ妻は私の意見なんて無視して行動するだろうし。

熟年離婚が、さも男の悲劇かのように描かれることがあったりもするが、なんだそれはという気持ちだな。性的には何の関係もなくなっているだろうし、子供たちが自立するまでは耐えようと思いながら連れ添った人だっているわけだ。

ステレオタイプな情報発信しかできないメディアの思惑に乗るつもりもない。結婚とは、社会的な制度でしかない。

最近、義実家が私の自宅にアポ無しで突撃することがなくなった。というか、義実家とは今年に入って一度も会っていないし、会いたくもない。

私に無断で突撃してきたら、私が怒って義実家と喧嘩することが分かっているので、妻としてもブロックしているのだろう。あの人たちだけは許せない。

それにしても、深夜まで酒を飲んだわけでもなく真面目に働いて帰るだけなのに、電車の中で今日が昨日になり、明日が今日になるなんて、何とも虚しいものだ。

しかも、すでに日付が変わったのに、相変わらず車内は千葉県民がたくさん乗り込んで混み合っている。

新しい日が始まろうとしている時ではあるが、乗客たちの目にはどんよりとした疲れだけが映り、希望に充ちた輝きなんてものは映っていない。彼ら彼女らも、長い時間をかけて通勤地獄に耐えているのだから、当然だな。

私の人生は、どうしてこうなったのだろう。苦痛と拘束しかないケージの中、身動きが取れずに恨めしく前方を睨むことしかできない産卵鶏のような目つきで、見たくもない窓の外を見る。

浦安になんて住みたくなかった、浦安に住むんじゃなかった、どうして住んでしまったんだと、何十回も心の中で唱える日々が続いている。

バーンアウトで倒れた後でさえ、週末の自宅に突撃を繰り返して追い込んできたり、子育てをサポートしてくれなくなった義実家への憤りは今も冷めない。今年に入ってから一度も顔を合わせていないが、このまま死ぬまで顔を合わせたくない。

私のことを一度もお義兄さんと呼ばず、独身のまま、ずっと義実家に居座って生活している義妹の存在も気に掛かる。すでに職を持ったのだから、さっさと実家を出るべきだ。

いつまで義実家に残っているつもりだろうか。自立した成人は、自分で住居を用意し、自分で食物を用意し、自分で身の回りを整える。それらを両親に頼っている生活は、寄生とも表現しうる。

そのような生活を続けているのに言うことだけは立派で、義妹は、何だかんだと上から偉そうなことを言う。

私としては、親離れもできていない人が何を言うかという気持ちだ。

独身男性から見て、生まれ育った実家から一度も外に出ていない独身女性と結婚することは勇気が要る。

もちろん、そのような女性と夫婦になって幸せに生活している男性がいたりもするが、往々にして実家依存の傾向があると思うし、妻を見ているとまさにそう感じる。

私がいくら義妹のことを嫌っていたとしても、「アイツが老いても、絶対に面倒を見るな。アイツはお前たちの子育てを全く手伝ってくれなかった」と、ジジイになった私は子供たちに遺言を残すことくらいしかできない。

それでも、厄介なオバサンの世話をしたくないと感じている我が子の配偶者たちにとって、私はせめてもの理解者になりうるだろう。そのような状況にならないためにも、義妹と話を付けておかねばなるまい。

一人で生きるというのであれば、「全てを一人で対処する」という責任を負うべきだ。自分の両親に寄生するのは構わないが、私の子供たちや配偶者たちに寄生することは許されない。

義父母としても、義妹が義実家から出て行かないから未だに子離れできず、我が家までを巻き込む。

妻が自立した存在だということを完全に理解していないから、未だに我が家に干渉を繰り返す。

自己肯定と自己愛が強すぎるんだ、義実家は。だから家の中でさえ家族同士でマウントを取ろうとする。だから喧しい。

そして、このような義実家との関係に苦悩して、私の精神はさらに磨り減って消耗してしまう。

すでに世代交代が行われて、次世代を担うのは娘夫婦や孫たちだ。

義父や義母としてはどう考えても隠居するステージなのに、お父さんとお母さんという気持ちが抜けず、爺と婆になりきれない。

それは歪な共依存の家族模様であり、全国で問題になっている。無関係な他者から見れば気持ちが悪く感じるかもしれないが、共依存の本当の怖さはリアルに経験しないと分からない。

家族が分厚い殻を被って巣を作り、家族全体で盲信しているかのような価値観を子供の配偶者にまで押し付ける。しかも、そのままの状態で家族が老いていく。

親が老人になっても、子が中年になっても、家族の状態が変わらないなんて、気持ちが悪くて仕方がない。しかし、子離れ親離れができない共依存の家族はそのスタイルを疑問に感じない。

その家族の子供が結婚すると、配偶者よりも実家の味方になるというパターンだ。

これから結婚して家庭を持とうと考えている独身男性は、妻となる女性だけでなく、その家族についてきちんと調べて先に進んだ方がいい。その先に地獄が待っているかもしれないから。

妻と結婚した後で、義実家に子供部屋オバサンや子供部屋オジサンが居座っていて、さらに義実家の近くに住まざるをえない状況は、配偶者としては悲劇でしかない。

ああ、さっさと浦安という街から脱出したい。

それにしても、未だにというフレーズの繰り返しだ。何も変わらない。

かつては陸の孤島と呼ばれた場所どころか、その沖合にあった浅瀬を埋め立てて土地を作り、さあ駅が出来ましたよ、住宅地が出来ましたよ、テーマパークが出来ましたよという勢いで人々が移り住んだ。

その中には義実家も含まれていたということだ。私なら絶対に引っ越しはしなかったと思う。

しかも、以前の浦安町のように蒸気船で都内からアクセスしなければならない状態ではないが、どれだけアピールしたとしても都内へのアクセスは悪い。都内に住んだ方が絶対に職場への通勤が楽だ。

JR京葉線は、ほぼ無理矢理に他の路線に接続しているような形になっているし、ディズニー客が押し寄せてさらに混み合う。他方、東西線においては人道的に問題があるくらいに混み合う。

浦安から都内に通勤する上で、快適な鉄道なんてありはしないんだ。東京駅付近に職場があれば、富岡や高洲から高速バスに乗って通勤するという手段もあるが、料金はかさむ。

そして、私のように万策尽きた千葉都民の父親としては、まるで奴隷のように鉄の箱に押し込められて、辛いと嘆いたところで、許してくれと泣き叫んだところで、家族のために苦痛に耐えるしかないわけだ。

毎日、3時間も通勤に消費され、しかも街中は人と自動車が溢れて鬱陶しい。このような街で削られ、老いて、朽ちていく自分が無様でしかない。

この苦しみを真正面から理解して労おうとしない妻に対しては、何度も離婚を考えた。通勤という話に留まらず、夫が苦しんでいるのに助けようとしない妻に愛想が尽きたからだ。しかし、子供のために踏みとどまった。

通勤地獄があまりに辛かったので、都内に安アパートを借りて家族と別居することも考えた。しかし、それでは過干渉で鬱陶しい義実家が私の自宅に押し寄せてくることを危惧したので、踏みとどまっている。

妻との関係ならば我慢できても、まさか義実家との付き合いがこれほどまでにストレスフルだとは思っていなかった。

そういえば、結婚とは家と家の問題だというけれど、確かに当事者だけでは済まされない話なのだな。かといって、結婚しようと考えた時、相手の実家のことまで詳しく知ることなんてできやしない。

つまり、結婚とはギャンブルのようなもので、私はそのギャンブルで失敗した。

子供たちが市外の私立中学校に入学したら、さっさと浦安から脱出する。

ところで、冒頭で想像していた架空の帰宅シーンだが、オッサンたちがイメージする格好良いオッサンの姿というか、まあそのようなものだと受け取ってもらえることだろう。

都心にオフィスを構えて、企業間の物騒なトラブルについて高額で対応する敏腕弁護士が、大きな仕事を成し遂げて高級車に乗って走り出すという感じ。

中二病をこじらせた昭和のオッサンとしては、TM NETWORKの「Get Wild」という曲が流れるシーンを想像したりすると、さらに高まる。「シティーハンター」のエンディング曲だな。

一方、私の劣悪で過酷な通勤においては、Get Wildなんて素敵な曲が似合うはずもない。

子門真人さんの「およげ!たいやきくん」か、ゴダイゴの「ガンダーラ」か、森田童子さんの「たとえばぼくが死んだら」か。幸せな結婚生活を夢見ていたが、地雷のような義実家が背後に構えていて、完全アウェイで最悪な状況で私は中年時代を過ごすことになった。

結果として体調を崩しながらも、とにかく家庭を維持するために金を入れる存在になった。そこに将来への希望があるか?

今はただ、この劣悪な街から脱出することだけを願いながら生き抜くだけ。悪夢のような出来事と言ったりもするが、私にとっては悪夢が10年以上も続いている。

自分の家庭を夢見て結婚して、そこに子離れできない義父母がセットで付いてきて、しかも妻が義実家から精神的に独立できずにいる。

まあ、離婚せずに耐えているだけでも立派じゃないか。普通の男性ならとっくに逃げ出していると思うよ。

実際、妻の実家が浦安だという理由でこの街に引っ越してきて、妻や義実家との関係に苦しんだ父親たちを目にしたことはある。

その人たちが、その後、どうなったか。

いなくなったよ。

夫婦は離婚して、夫はどこかに引っ越して、妻と子供たちもどこかに引っ越した。

妻の実家の近くに住むと離婚する傾向があるというのは、経験則を持って考えるとよくあることだ。

しかしながら、浦安市の新町に住んでいると、冒頭のように優雅なオッサンが想像ではなくて現実として存在していたりもする。

冒頭のシーンはフィクションではあるが、都内にオフィスを構えている経営者の中年男性はたくさんお住まいだし、ポルシェに乗って職場に通勤している中年男性もいたりする。

浦安の新町は海に近づくにつれてマイカーが派手になり、ベンツやBMW、ボルボ、ポルシェなどに乗って近所のヤオコーやOKストアに買い物に行く市民の姿をよく見かける。レクサスについて言えば、田舎で軽トラを見かけるくらいの頻度だな。

地方だと信じられないかもしれないが、田舎でバキュームカーを見かける頻度よりも、浦安の新町でランボルギーニやフェラーリを見かける頻度の方が高いと思う。

同じ4駆でも、スズキのジムニーよりも外車のジープの方がたくさん走っているなんて、普通に考えるとおかしなことだが、新町では日常の光景だ。

この町は、何かがおかしい。

それと、浦安に妻の実家があって子育て世帯が引っ越してくる場合、義実家によっては住居費の一部もしくは全部を支援してくれるという話が本当にあるらしい。

奥さんの実家が浦安市内というケースは多くはないが珍しくもない。そのような父親たちに話を聞いてみたところ、浦安で居を構える際に、義実家から住居費を助けてもらった人が多かった。

私は義実家から経済的に何も助けてもらっていないのだが。

新町の物件は非常に高価だったりもするわけで、若い子育て世代がどうしてこんなに住んでいるのかと私は不思議に感じていたわけが、そのように義実家から助けてもらっている夫がいるそうだ。

よくよく考えてみると、そのような支援は夫にとって情けないことではない。

娘夫婦が自分たちの家の近くに住んでくれるということは、義実家から見て最大のリスクヘッジになりうる。

体調を崩した時にも、やがて老いて介護が必要になった時でも、娘夫婦や孫たちが助けてくれるはずだ。

金なんて、あの世まで持って行くことができやしないのだから、早い段階で娘夫婦に恩を売って先払いしておいて、良好な関係を維持しておこうというスタイルは、なかなか自然で分かりやすい。

他方、娘夫婦が自分たちの家の近くに住んでくれたのに、それが当然だと考えたり、感謝もしない義実家というパターンもある。

私もそのパターンだった。

義理の息子に恩を売らずに、恨みを買うつもりなのだろう。

妻の実家は金についてとてもセコい。我が家に対して口は出すが、金は出さない。口を出すなら金も出すのが親だろうが、そんなつもりは毛頭ない。

しかも、妻はそれが当然だと信じ込んでいる。あの親からの洗脳は解除されないのだろう。いくら説明しても互いの主張は平行線。

もはや相互の理解は不可能だと悟って、夫の役を演じている。義父母がいなくなれば、あの洗脳も解けるのだらうか。

都内に新居を構えた時、義父母は文句ばかり言い、有形無形の圧力や嫌がらせを私に加えてきた。

義母は、新婚夫婦の自宅に毎晩9時に電話をかけてきた。妻は普通に電話に出て、毎日のことを義母に報告した。この家族は子離れ親離れができていない共依存の家族だと思った。

いい加減に鬱陶しくなり、ならばと浦安市に引っ越してきたのだが、義実家からの住居費のサポートは1円もなかった。

引っ越し祝として、どこかで買ってきた弁当だけ。

義父母のマイカーに取り付けたチャイルドシートでさえ、我が家の家計から捻出して支払った。

このような金への執着には驚いたし、結婚したことを後悔した。

しかも、義父は以前、命に関わる病にかかって死ぬ寸前になり、私がお世話になっている人たちに助けてもらった。それは、私が身を粉にして働いてきた結果でもある。義父は不摂生で病気になっただけのこと。

私がいなければ、義父はすでに墓石の下にいる。義母や義妹の生活も傾いたことだろう。

それなのに、妻や義実家は、私の扱いが軽くはないか。ここまで私が消耗して苦しんでいるのに。

私は金には困っていないが、子育てくらいは手伝ったらどうなんだ。

義父が死にそうになった時に、「ああ、それは困ったなぁ」と、私がスルーするという選択肢もあった。そうしていれば、義父は確実に命を失っていた。

私にどのような人脈があるのかなんて、妻も義実家も知らなかったわけだから、どうしようもないという体で義父の死を迎えることだってできた。

義父の命を助けてもらって、妻や義実家は考え方を変えるのかと思ったら、全く変わらなかった。

確かに妻や義父母は私に感謝してくれた。最初の数ヶ月だけ。1年も経てば何もなくなった。

妻が家庭で暴れ始めたり、自宅への義実家の突撃が増えたのは、そのエピソードの後だ。恩人のメンタルを破壊するなんて、凄まじい価値観だ。

そういえば、あの時、義妹は一度も私に感謝しなかった。何様なんだ。

終わることがない私の愚痴はこれくらいにしよう。

加えて、浦安の新町では、奥さんがキャビンアテンダントだった、もしくは今でも現役という人が珍しくない。

私が住んでいる日の出地区には日本航空の社宅があったので、保育園に子供を送っていくと、現役のキャビンアテンダントのお母さんを見かけたりもした。

容姿だけでなくて挨拶や所作が美しすぎたので不思議に思い、ご本人に直接尋ねると角が立つということで妻に尋ねたら、CAだという話だった。

凄くないか?

一体、どのような生き方をすればキャビンアテンダントと結婚することができるのだろうか。

ということで、浦安の新町という環境では、冒頭の架空のストーリーのような話が架空では済まされなかったりもする凄まじい街だと私は理解している。

例えば、公立小学校の学級では、様々な背景や個性を持った子供たちが集まる。

その中には、キラキラした輝きがあるというか、友達から「スゲー!」と注目される子供たちがいるわけだな。

浦安の新町の場合、その光景のオッサンバージョンが展開されていて、しかもキラキラしているオッサンがやたらと多い。

他方、私自身はそのような環境において極めて地味な存在で、学校やクラスに馴染むこともできず、ただ時間が過ぎることを望んでいるかのようだな。そもそもこの環境を全く望んでいなかったし、今も望んでいない。

人の生き方というものは、生まれた家庭の経済的な背景や遺伝学的な素質といった要素に加えて、他者との出会いや偶然のタイミングといった要素の影響を受ける。

どのような家において、どのような状態で生まれるのかなんて、自分が考えたところで仕方のない話だ。しかも、自分が懸命に努力したところで実現しえない希望もある。

加えて、結婚や職場がその典型ではあるけれど、特に苦労もなく幸せな方向に進む人もいれば、ずっと苦労して耐え続ける人もいる。

つまり、世の中は公平な姿では存在しておらず、不公平がデフォルトだと考えて差し支えないのだろう。

ということで、都内で何度も電車を乗り換えて、その度にホームで電車を待つ間に目眩がやってきて意識が飛びそうになる。その苦痛に耐え、大嫌いなJR京葉線に乗り、優先席の隅に座る。

優先すべき人たちが乗ってきたら席を譲るが、この状況では私も優先される乗客だなと思ってしまったりもする。明らかに具合の悪い乗客だ。浦安に引っ越したから、こうなった。

そして、なぜ私はこのパターンが多いのかと嘆かざるをえないのだが、次の駅で安酒の缶を手に持ったオッサンが乗り込んできて、私の隣に座った。

彼はおもむろにマスクを外して安酒の500mL缶をちびちびと飲み始めた。いわゆる「底辺飲み」だな。

個人的な考えとしては、オッサンの行動の中で最も愚かで醜い行為のひとつが、在来線での底辺飲みだ。

品位のかけらもないし、駅や電車といった公共の場での飲酒を法律や条例で禁止し、私人による逮捕を認めるべきだ。

駅構内でアルコールを販売するコンビニも取り締まればいい。駅は危険な場所なのに酒を売るとは何事だ。

しかし、底辺飲みを晒しているオッサンは優先席に座るなと私は言わない。

自宅に帰るまで酒を我慢することができないのだから、アルコール依存症だと考えて矛盾しない。

アルコール依存症は明確な病気なのだから、底辺飲みのオッサンたちは病人に該当し、優先席に座るというロジックが成り立ってしまう。

このような人たちは病気なので、注意しても改めることができない。モラルなんてすでに崩壊しているのだから、ルールを定めて罰を与えないと止めるはずがない。

このような底辺飲みのオッサンが出現しない通勤経路があれば苦労しないが、千葉都民はあらゆる鉄道のルートを利用する。

つまり、浦安に引っ越さなければ、長時間の電車通勤地獄に苦しむことはなかったわけで、底辺飲みのオッサンに苛立つという苦しみも、浦安に引っ越してきたことが原因だというロジックが成り立つ。

やはり浦安に引っ越したことが間違いだった。我が人生の最大の失敗だ。

この姿はあまりに無様だ。これから先も生き続けて、何か良いことがあるのだろうか。

しかも、今日の私は体調がすこぶる悪い。妻に話したところで、「ああ、だったら病院に行ってきたら」と言われて話を打ち切られるので言わなかったが、朝に目を覚ましてから酷い耳鳴りが続いている。

一日中、左の耳だけが「キーン」という大きな音が鳴っていて、突発性難聴だったとしたら速やかな処置が必要だ。しかし、特に慌てることもなくそのまま我慢し続けた。

もういいや、色々と諦めた。

原因なんて分かりきったことだ。毎日続く通勤地獄の心的ストレスの影響以外に何があるのか。

ストレスで聴覚系が異常を起こすとは不思議だなと思ったりもするが、聴覚は神経系との繋がりが非常に強いわけだから、まあそのようなことも起こるのだろう。

左耳の耳鳴りは、昨日の深夜に始まった。しばらくして落ち着いたので何とかなったと思ったのだが、翌日から耳鳴りが止まらなくなった。

昨日に何があったのかというと、そのきっかけも通勤地獄に関係している。

浦安市内には東京メトロ東西線とJR京葉線(と武蔵野線)が走っている。昨日は深夜まで仕事が続き、その関係で東西線で帰宅した。

東西線と京葉線は、多数の千葉県民が都内にアクセスする時に乗り込む電車ではあるけれど、客層が明らかに違う。

京葉線はスラックスとワイシャツを着たビジネスマンが多く、東西線はカジュアルな服装をした人が多い。前者においてはディズニー客が追加されるので割とシュールな光景が広がる。

後者においては乗客が若者や学生だけという話ではなくて、ビジネスマンとは思えない格好の中年が乗っていたりもする。職種も異なるのだろう。ヒゲ率や茶髪率が高いのも後者だと思う。

そして、京葉線と比べると東西線はとても混み合っていて、非典型的な感じの乗客に出くわすこともよくある。京葉線や武蔵野線の乗客もアレだが、東西線の乗客もなかなかアレだ。

昨日の場合には、深夜の東西線で運良く座席に座ることができてラッキーだと思っていた。しかし、次の駅で隣の座席が空き、全く歓迎したくない男性が会釈もせずに堂々と座り込んできた。

自分の顔から数十センチくらいの距離でスマホを見つめ、ヘッドホンを耳に付けて、取り憑かれたかのように画面を突いている姿が異様でしかない。

彼の容姿を具体的に表現することが難しいのだが、映画のハリーポッターと動物のナマケモノを足して割った感じの男性で、年齢は私よりもひとまわり若くて30代半ばといったところか。

昔、オタクファッションというスタイルが取り沙汰されたことがあったが、当時のスタイルとあまり変わっていない。

小太りの体型の場合には、両足を閉じて座ってもらいたいものだが、足の筋力が衰えているのか、私の太股の辺りに彼の太股が近づいてきて、その温もりが気持ち悪い。

そして、深夜の帰宅で疲れ切っている私の隣で、その男性は取り憑かれたようにスマホゲームに興じていたのだが、ゲームの内容を見て背筋が凍る思いになった。

恋愛シミュレーションゲームというジャンルだろうか。二次元の可愛らしい女性の顔がスマホの画面一杯に映り、メッセージをやり取りする感じなのだけれど、そのやり取りが速すぎて視界にチラチラと点滅が入ってくる。

この男性は、現実の女性と肌を重ねたことどころか、二人きりで会話したこともないのだろう。こんなに高速の男女のやり取りが成立するはずがないし、そもそもシミュレーションになっていないだろ。

こうやって二次元の世界に浸りこみ、たくさんの乗客がいる電車の中でもスマホゲームに没頭している姿が気持ち悪い。

このような男性こそ、魔法使いにならずに結婚すればいいと思う。千葉都民になって、房総半島に自宅があっても耐えることができるはずだ。

それにしても、この男は、やたらと落ち着きがない。私がASD傾向なので臆せずに言うが、電車で見かける千葉都民の成人には発達の多様性があるような人が目に付く。

電車の中はともかく、駅構内でスマホゾンビになっているような人たちは、集中力があるわけではなくて、多動性や衝動性が強くて落ち着きがないケースが多いと私は勝手に理解している。

「もしかして、この男は浦安駅までずっと隣に座り続けるのだろうか...」という懸念は現実となった。彼が放つ非典型的なストレスは凄まじい。スカンクのガスのように精神に強烈な打撃を加えてくる。

かといって、「君、電車の中で恋愛シミュレーションゲームに熱中するのは控えなさい」と私が注意することに法的な根拠が全くないわけだ。それは嗜好によるものであり、私が個人的に不愉快に感じているだけの話になる。

気持ちが悪い男性のすぐ隣で、目を閉じても太股が近づいてくるし、かといって座席から離れて立ち続けることも癪に障る。

いきなり彼のスマホを取り上げて投げつけたり、肘鉄を食らわせたりすると、当然だが私が逮捕されるわけだ。モラルハザードが生じていたとしても、それを制限するルールというものがない。

そして、彼は全くストレスを感じることなく、私がその分のストレスを受け取っている。

どうしてこんなくだらないことで苦しんでいるのだろう。浦安に引っ越さなければ、このような不毛なストレスは生じえない。

新婚時代に都内に居を構えた時、義父母が色々と批判してきたり、まだ夫婦で住んでもいない状態なのに、契約者の私に無断で妻の合い鍵を使い、義実家オールスターズがマンションの中に立ち入ってきたりもした。

素敵な女性と結婚できたと思ったのに、過干渉で毒のある義実家がセットだったと気付いた時の落胆は大きく、この先の途方もなく長い道程を想像して気が滅入った。

そのマンションから職場までは、自転車で30分の好立地だった。

しかし、義父母や妻の希望通りに浦安に引っ越して、私の生活はどうなったか。

住みたくもない鬱陶しい街に住んで心拍数を上げ、毎日顔をしかめるようなストレスが満載の往復3時間の電車通勤だ。そのせいで体調を崩し、職業人生さえ上手く進まなくなった。憤りがループする。

そして、今の瞬間はこの有様。隣でスマホの恋愛ゲームに熱中している気持ち悪い男による耐えがたいストレスを耐え続けていたら、突然、左耳が耳鳴りを起こした。

凄いよな。精神的なストレスが、感覚的に分かる形で影響するのだから。いつか脳の血管が切れると思うよ。

その時の耳鳴りは駅を出た頃には止まっていたが、一晩寝て起きたら大音量の耳鳴りがずっと続いていた。

そして、左耳の耳鳴りは朝から夜まで続き、現在帰宅している京葉線の座席の上でも鳴り響いている。気が狂いそうな高音は、どれだけ辛くても止まらない。

先に記した通り、座席の隣にはマスクを外して底辺飲みを晒す太鼓腹のオッサンが、真っ赤な顔をして酒を飲み続けている。この状態、真面目に考えてアルコール依存症だと思う。

ストレスで耳鳴りが生じたとすれば、この状態でストレスが減るわけがない。

あはは、凄いよな。ストレスで片耳が聴こえないとか、どんだけ劣悪な生活なんだよ。

誰か助けてくれと思ったところで、誰も助けてはくれない。幸せな人生って、どうすれば辿りつくことができるんだろうな。

自分なりには真面目に学んで、真面目に働いて、真面目に家庭を持ったつもりなのだけれど、どこかで間違ったからこうやって苦しむことになったのだろう。どこで間違ったかが分かったところで、もはや過ぎた時間は戻らないが。

新浦安に到着した。ふらつく足取りで電車を降りる。

日付を越えたにも関わらず、新浦安駅では大勢のビジネスマンたちが下車して改札を過ぎていく。

浦安の財政力はディズニーによるものだと勘違いしている輩が全国にいて、NHKでさえずっと勘違いしたままニュースを流しているようだ。私はテレビを見ないのだが、文字化されたネットニュースでその内容が伝わっている。

しかし、実際に浦安の財政を支えているのは、毎日頑張って働いている市民からの税金だ。その重要性を明確に伝えようとしない浦安行政に対して疑心を感じざるをえない。

新浦安駅から遠くにある駐輪場まで歩いてたどり着き、そこで自転車に乗って自宅に戻る。

浦安の行政はあまり賢明ではないと思い続けながら10年以上が経ったが、この駐輪場の管理はその最たるものだ。この点については別の録で記したい。

その時の私はすでに怨念の塊になっていて、浦安に引っ越すようにプレッシャーをかけてきた義父母に対して、またこの苦しみを看過する妻に対して激しい憤りを蓄積させていた。

浦安に住むことのストレスは、単に辛いとか苦しいというレベルを超えて、すでに心身が壊れてきている。ここまで苦しみながら浦安に住み続ける意味なんてどこにあるんだ。全ては妻や義実家の都合じゃないか。

どうして私がこんなに苦しんで生き続けなくてはならないのか。しかも、あの人たちは私に感謝なんてしていないし、労うつもりも毛頭ない。何が住みよい街だ。大嘘だったじゃないかと。

酷い耳鳴りを我慢しながらペダルを漕いでいると、駅前の道路を隔てた広場でひとりのシニア世代の男性が立っていた。年齢は60代くらいだろうか。

何やら念入りにストレッチをしているのだが、ジョガーのような格好ではなくジャージ姿でもない。これから筋トレをしようという雰囲気でもない。

少し離れたところで眺めていたら、彼は両腕を水平な位置まで上げて肘を曲げ、たったひとりで社交ダンスの練習を始めた。

その姿は、多少は年齢を過ぎているが、映画の「Shall we ダンス?」で役所広司さんが演じた杉山正平によく似ている。

以前から社交ダンスを続けてきたというよりも、中年あるいはリタイアしてからダンスを始めたのだろう。また、奥さんと一緒にダンスを楽しんでいるというよりも、ダンス教室で誰かにパートナーをお願いしているということか。

どのような気分なのだろう。作中の役所さんのように、何か新鮮でときめいた感情があったりもするのだろうか。

それにしても、深夜で人通りが少ないとはいえ、彼は新浦安駅前の目立つ場所で真面目に社交ダンスの練習をしている。

彼くらいの年齢であれば、子供たちが独立して家を出て、マンションにしろ戸建てにしろ使わない部屋をダンスの練習に使うことができると思うのだが、なぜに駅前の広場で練習しているのだろう。

けれど、彼としては理由があって、そのスタイルに落ち着いたはずなんだ。自宅で踊るなと奥さんから言われたのかもしれないし、ダンス教室で他の女性と手をとって踊ることに気が引けたのかもしれない。

そのような理由にまで私が踏み込む道理はないし、ひたすら真面目に取り組んでいるからこその迫力がある。

浦安に住んで、アレが嫌だ、コレが嫌だと神経を磨り減らし、しかも実際に襲ってくる心身の不調に怯えながら私は生きている。

幸せそうに生きている同世代のオッサンたちの姿を眩しく感じながら、一方で私の生き方は何と無様なのだと過去の判断を嘆きながら。

深夜の駅前で社交ダンスの練習に励んでいるシニア男性の姿は無様かというと、むしろ立派だと思う。自分自身の力で現状を変えることや、変えようとすることは容易ではない。

今は駅前の広場で練習しているけれど、彼はいつか大勢の人たちが見守る舞台で、悠々とダンスを披露する時がやってくることだろう。

だが、彼の健気な姿が逆にシュールに感じて、私は自転車に乗ったまま叫びたくなる気持ちになった。

おそらく、このまま老いた自分の状況を、彼の姿と重ね合わせてしまったからなのだろう。あのような姿になりたくないと、私は感じた。個人的な感覚なのだから、どうしようもない。

彼の姿に感動して私が発憤することはなく、かといって不審者がいましたと警察に通報することもなく、「ああ、浦安なんかに引っ越すんじゃなかった...」と、いつもの結論に至る。

駅前でお爺ちゃんが社交ダンスの練習をしているなんて、23区ならありえない話だし、千葉県内の他の街でもありえないだろう。しかし、新浦安は色々な意味で規格外の街だ。

海を埋め立てて土地を用意し、その土地に地震がやってきて水が吹き出たと大騒ぎするような街だ。

人気が減ったテーマパークの周りには夜中に暴走族がやってきたり、とにかく意味不明なことばかりが続いて、何があってもおかしくない。

私は肩を落として自転車のペダルを漕ぎ、途中のコンビニで安いハイボールを買って自宅に帰る。

耳鳴りがうるさくて眠りづらいと思ったので、多めに酒を飲んで気絶するように眠りにつく。全くもって健康に良くないことは分かっているのだが、それを言うなら浦安という街に住み続けること自体が健康に良くない。

もういいやと、諦めているうちに意識が飛んだ。

梅雨時期でサイクリングに出かける機会が減ってくると、すぐに気持ちが落ち込んで低空飛行になる。

ストレスを減らすことが難しい状態で、ストレスは相変わらず積み重なっていくのだから当然だな。