このままでは谷津道サイクリングのブログになりそうだ
「~がほしい」とか「~に行ってみたい」とか「~を知りたい」とか、人がネット上で情報を探す際のモチベーションの多くが「欲」に基づいている。当然といえば当然だな。そして、何となく想像していたが、「谷津道」というキーワードだけでHYPSENTが上位でヒットするようになってきた。
「谷津道ってなんだろう」とか「谷津道を走ってみたい」と思った人がググってみて、そこに谷津道サイクリングの情報があればそれでいいという話だな。
そのコンテンツの一部を提供した私自身が、生来の感覚過敏に苦しみ、共働きの子育てに苦しみ、往復3時間超の電車通勤に苦しみ、妻の実家の近くに住むというストレスに苦しみ、様々なことに苦しんでバーンアウトを起こし、ようやく回復してきたところで離人症に苦しんでいることなんて、全くもってどうでもいい。
ネット上で他者が必要としているのは情報であって、余程のことがない限り情報を提供した人のことなんて興味がない。
ブログブームの衰退には様々な要因があるはずだが、ブロガーのモチベーションを削り取るような個々の人たちの我欲も関係することだろう。要は、情報を提供する側よりも、情報を受け取る側が楽だということ。
こまめに写真を撮り、文章を書き、ブログにアップロードして記事を紹介したところで、他者がブロガーに感謝することは少なく、無料の情報をゲットしたという感じで素通りしていく。
その姿はまるでヘビがカエルを飲み込むかのように冷酷で、本能や欲求に基づいた動物的な行為にすら映る。
そして、ネット上で情報を得た他者たちは、自らの経験をSNSで発信し、「いいね!」が付けば満足したりもするわけだ。
だが、情報をネット上に発信する側としては、それが義務でもなく、楽しみとして発信していると思う。その楽しみとは何かというと、情報を発信することで自分の存在や経験を認めてほしいとか、まあそういった感情なのだろう。
趣味としてブログを続けている人たちにとっては、情報は窓口であって、本来は自分自身に興味を持ってくれたり、他者からのリアクションがあれば嬉しくなる。
自分はここにいて、自分はこのような経験をした。だから、知ってほしいと。それらがモチベーションになっているはずだな。ボランティア精神といった善意、あるいは不平不満や批判といった悪意によってブログを運営している人たちもいるが、ここでは除外する。
しかしながら、人の我欲はもっと冷酷だ。他者がネット上で必要としているのは、他者にとって有益な情報ということになる。自らの考えと同じ人をネットで探す人もいるだろうけれど、結局は同じ考えを見つけて共感したり、納得したいという自己の欲求がベースになっている。
情報を提供する側の心が折れてしまうと、ブログが更新されずに放置され、ブロガーだった人たちはリアクションが速くて手っ取り早いSNSに移行するのだろう。
しかも、数年前に実施されたGoogleのアルゴリズムの大型アップデートによって、個人ブロガーの日記的なコンテンツは検索でヒットされにくくなったようだ。
より他者の欲求に答えるようなプログラムを整えていく中で、情報を受け取る側の利便性は向上したけれど、情報を紹介する側としては楽しくなくなったと思う。アフィリエイトブログのブームはネット上にデブリを生み出したが、それらを駆逐しようとして箱庭的楽しんでいた趣味のブログまで無視されてしまい、ネット上を彷徨うことになったのかもしれないな。
それでは、なぜ、「谷津道」というキーワードで検索する人たちがいるのだろうかと考えてみると、その多くがサイクリストだということは容易に想像しうる。
ハイキングとして谷津道を歩くには長すぎるし、ランナーが走るには路面が荒れていたりもする。
ロードバイクやスポーツバイクを買って、荒川や江戸川、利根川といった河川沿いの遊歩道を走ってみたものの、途中で飽きてしまった人。
レースに出場したり、社会人のロードバイクサークルに入会してみたものの、途中で面倒になって疲れてしまった人。
河川敷や一般道で必死にペダルを漕ぐのではなくて、たとえば火野正平さんの「こころ旅」に出てくるような場所をロードバイクでのんびりと走ってみたいという人。
ふとしたきっかけで千葉県の北部に面白いサイクリングコースが数多く広がっていることを知ったサイクリストが、「谷津道」というキーワードに興味を持つシチュエーションはたくさんある。
サイクルレースはヨーロッパが本場だが、ヨーロッパの人たちが日本に来て気づくことがある。それは、海外のロードレースをピーキーに模倣したようなサイクリストが多いということだ。
これからレースに出場するのかと言わんばかりの格好で車道や河川敷に出て、必死にペダルを回すことがロードバイクのサイクリングだと思っているのかと。
趣味なので別にどうでもいいという話なのだが、そのスタイルに飽きてしまった、あるいは疲れてしまった人たちが出てくるのは当然のことだろう。
私自身もその中の一人で、今はロードバイクからドロップハンドルを取り外してマルチポジションハンドルというフラットハンドルの一種に交換してしまっている。ビンディングペダルも取り外してフラットペダルに変更した。
そこから見える視界は、今まで感じたことのない開放感があり、ロードバイクがさらに好きになった。
すると不思議なもので、河川敷や一般道ではなくて、もっと楽しくて心地よい場所があるのではないかと疑問に感じ、かなり地味で小規模ではあるが自転車に乗って一人旅に出かけることにした。
しかし、谷津道サイクリングの先駆者になっているブロガーのサイトにアクセスしたところ、思ったよりも近くにその場所があることを知った。
そのブロガーのお名前を承諾なしにブログに掲載することは失礼だと思ったので、ここでは伏せるけれど、とても面白い書籍やサイトを世に出してくださっている。本当に素晴らしいコンテンツだと敬服する。
谷津道とは何かについては、HYPSENTの他の録に記した。
しばらくの間は「谷津道」の探索を楽しみに生きよう
大柏川と大津川経由の谷津道サイクリングで手賀沼へ
谷津とは、丘陵地が浸食されて生じた谷状の地形のことで、その谷津を通る道が谷津道と呼ばれている。
このような地形は日本全国にあるのだが、千葉県の北部の下総台地の場合には、浸食を受けた後で水位の上昇で海底に沈み、そこに土砂が堆積し、その後で水位が低下して地面になったという歴史があるらしい。
細い川が流れ、土地も肥沃な谷津は田畑に適した平地であり、実際に農業に活用されている。
加えて、千葉県北西部の場合には都市化が進んで幹線道路が張り巡らされたので、谷津道は主に農業用の道路として用いられており、人や車の往来が非常に少なく、緑が豊かだ。
谷津道を走るサイクリングを始めてから、私自身の中に大きな変化が生まれるようになってきた。
仕事はともかく、長時間の電車通勤や忙しい共働きの子育て、さらには妻の実家があるという理由で住みたくもない鬱陶しい街に住むといった様々なストレスを抱えて、私のHPはゼロになってしまうことが多い。
実際、2015年頃にバーンアウトを起こして感情を失い、そこからの数年間は地獄のような日々だった。
それらの環境は今でも変わっていないわけで、環境が変わらないのなら自分を変えるか潰れるかのどちらかだなと思った。
そして、以前から趣味として続けていたロードバイクによるサイクリングが、心身の健康の維持のために有用だと気づいて今に至る。
だが、河川敷や一般道を走るサイクリングは、確かに爽快感もあるがストレスも多い。リフレッシュした感じはあるけれど、平日が始まればすぐにHPがゼロになる。
谷津道サイクリングの場合には、日曜日に出かけると水曜日くらいまでHPがゼロにならずに残っていて、木曜日になれば週末が見えてきて気分が楽になる。
五十路近くまで生きてきてようやく実感してきたことがある。
それは、私たちが物差しというか規格というか、まるで方眼紙のような世界の中で生きているということ。
社会には法律や条例といった様々なルールがあり、職場にはコンプライアンスがあり、家庭の中や親戚付き合い、子供たちが通う学校や塾、あらゆる場面で方眼紙のようにタテとヨコが決められている。それらの多くは社会を形作る上で必要なものなのだろう。
しかし、それ以外にも人の心の中には様々な規格が作られていて、それらが集合体となって不文律として存在している。
難関大学を卒業すれば頭が良い人だとか、収入が高ければ職業人としての成功者だとか。仕事と家庭を両立することができる父親は優れていて、それができない父親は駄目だとか。
このような不文律は趣味の領域にまで入り込んでいる。ロードバイクに乗るのであれば、コンポはデュラかアルテ、ナップサックやフラットペダルは邪道だとか。
女性についてはよく分からないが、四十路や五十路の中年男性が経験する思秋期とかミドルエイジクライシスでは、自分の存在がそれらの方眼紙の上に存在する点でしかなくて、方眼紙に沿って描かれた自分なりの線、つまり自分の生き方が本当に正しかったのかと疑問に感じてしまうのではないか。
その方眼紙に描かれた線が正しかったと自負することができる人は少なくて、「ああ、この角をこっちに曲がっておけば良かったんだ...」と後悔したり、「そうだ、今、ここでこっちに向かうべきなんだ!」と急に方向を変えようと焦ったり。
とはいえ、方眼紙の上にはすでに多くの線が描かれてしまっていて、どうにもならなくて諦めてしまったり、「それが人生というものだ」といかにもオッサン的ではあるけれど核心的な結論に至ったりもする。
そのように不安定な思秋期に入った中年男性に必要な存在とは、じっくりと落ち着いて考え事に浸ることができる環境だと思う。
ここでは方眼紙のような世界で生きていると表現したけれど、その方眼紙を上から眺めているわけではなくて、あくまで高さという概念がない二次元的な世界にいるように感じる。方眼紙を上から眺めることができていれば、オッサンになってから悩むこともない。最初から全体像が見えるわけだから。
どっちに進めばよいのか分からず、とにかく進んだら上手くいったとか、やはり失敗だったとか、そういった経験の集まりが人生なのだな。
谷津道をのんびりと走っていると、人生の方眼紙を上から眺めているような気持ちになる。自分はどうして頑張ってきたのだろうとか、自分は人生のどのようなステージにいるのだろうとか、これからどうしようとか、様々なことを落ち着いて考えることができる。
また、それらの考えはロードバイクのサイクリングにおいても当てはめることができて、あまりに方眼紙が多い環境で走っていたのだなということに気づいた。
谷津道はGPSのサイクルナビでは表示されない。自分で地図や地形図を調べたり、小高い丘を見かけたら近づいて周囲を走ってみたり、右に行くか左に行くか分からなくなったら、とにかく自分の勘で進んで記憶したり。
私には、それらのサイクリングが、ビデオゲームよりもずっとリアルで楽しいアドベンチャーゲームのように感じる。
しかも、その舞台は緑あふれるワインディングロードだ。ここには、「ロードバイクはこうやって乗るべき!」という方眼紙はない。
ビンディングペダルなんて付けていたら谷津道で落車するかもしれないし、落車して機材が壊れても誰も助けてくれない。パワーメーターなんて見ている余裕はないし、心拍数をチェックしていたら道が分からなくなる。
そもそも谷津道を走る上ではロードバイクである必要はなくて、クロスバイクでもマウンテンバイクでも構わないと思ったりする。
ドロップハンドルからマルチポジションハンドルに変更したのは、ドロップハンドルのロードバイク乗りたちと同じように見られたくないという気持ちもあったが、単に路面が荒れているので幅40cmのハンドルではふらついてしまうという理由もあった。
そういえば、HYPSENTではカラー写真をアップロードしないつもりだったのだが、谷津道サイクリングの風景はモノクロやセピア色では表現することが難しいということに気づいた。自分が見て楽しむという理由でカラーで記しておこう。
千葉県北西部の谷津道は幹線道路を走っていると見つけることが難しく、小さな川と小高い丘を目印に自分で探す必要がある。
浦安から北東の方向に進むのであれば、船橋市内の高根公団の付近から桑納川沿いの谷津道を走って八千代方面に向かうルートがある。
このルートは浦安市内のサイクリストから教わり、谷津道サイクリングのきっかけになった。私なりの谷津道の好みで言えば、中の上くらい。
もっとサイクリングが楽しい谷津道は他にもある。
桑納川沿いの谷津道の場合、道の駅やちよで休憩して東に向かうと印旛沼があり、佐倉ふるさと広場で風車を眺めることができる。
しかし、この風車の辺りには、荒川沿いのキッチンとれたてほどではないが、脚のスペックと釣り合わないハイスペックなカーボンロードバイクに乗り、人前でピチパン姿を見せつけるオッサンたちが多いので、私は行かない。
どうしてオッサンにもなって身体のラインが透けるようなウェアを着て街中を歩くのだろうか。若い人たちならば格好が良いが、オッサンがそれをやると気持ちが悪い。
この人たちは、ピチパンのままコンビニどころか飲食店にさえ入っていく。何の恥じらいもなく、汗の臭いと加齢臭を漂わせながら。
なにせ、その姿が格好良いと思い込んでいるのだから仕方がない。
そして、「オレはまだまだ若い!」と、歩行者や自動車の迷惑も考えず、レーサー気取りで必死にベダルを回し、自己顕示欲と承認欲を満たそうとする。
ハイスペックなロードバイクは、その性能が必要だから買ったのではなくて、自分の稼ぎがいいと見栄を張りたいから。もしくは自分の脚力の弱さをトレーニングではなく機材で補って速く見せたいから。あるいはその両方。
オッサンにはオッサンの渋さや格好良さがある。落ち着いた雰囲気や奥行きのある思慮深さなど。
長く乗り続けたからこその味わいが出たロードバイクに乗って、礼儀正しく走りつつ、本気を出せば向かい風で若者たちを引っ張るくらいの剛脚とか。
無数のサイクリングルートを記憶していて、帰り道には家族のためにさり気なくお土産を買って帰ったり。
ライドの最中でメカトラブルで困っている人がいたら、自転車店員なみのスキルで修理して直してあげたり。
そういったオッサンの良さをサイクルライフに反映させればいいのに、あくまで若いレーサーを気取ってイキる姿には、気持ち悪さを超えて哀愁が漂う。
イギリスでは、彼らのような中年男性は「マミル」と呼ばれている。「Middle-aged Man in Lycra」の略で「MAMIL」。
この言葉は日本でも普及してほしいものだ。
マミルたちは自分が格好良いと思ってやっているだろうけれど、周りから見ればあまり格好良いとは感じられない。
髪や肌の艶がなくなり、往々にして腹が出ているオッサンたちが、レーサーの真似をしていることがダサくて無様だという意味で、マミルというスラングで貶されているらしい。
日本では腹が出ておらず、鶏ガラのように痩せたマミルがいたりもするが、鍛え上げられた体躯のヒルクライマーというわけではなくて、単に衰えて食が細くなっただけだったりもする。
ピチパンの上からはっきりと見てとれる大殿筋と大腿筋の劣化が哀れだな。ニッカーを履けばスリムで粋な中年男性なのだが。
谷津道はいい。マミルが全くいない。彼らのプライドは農道を走ることを許さないのだろう。
それぞれの谷津道は数kmくらい続くことが多く、谷津道と谷津津を繋ぐ道を自分で探す必要がある。
先ほどの写真は市川市の辺りを流れている大柏川沿いの谷津道から大津川沿いの谷津道に入る時に通っている道。
歩行者の姿はほとんどなく、抜け道にしている地元民の自動車が通る程度。
ここは大津川沿いの谷津道だったと思う。
大津川沿いの谷津道は、おそらく柏市や鎌ケ谷市、松戸市、流山市といった地元民が自動車で走行する際の抜け道になっているようで、357号線や16号線のように混み合ってはいないが、自動車の往来が多かったりもする。
ガードレールがない稲田のすぐ横を自動車で走っていて、ハンドル操作を間違ったらドリフターズのコントのようになる気がしなくもない。私自身がバランスを崩した時にはロードバイクを残して自分だけでダイブしようと思う。
ここは大津川沿いの谷津道に入る前の森のような場所を走っていて、あまりに背が高い木々に驚いた風景。
これは写真のトリックではなくて、2階建ての家屋よりも高い場所に葉が茂っていて、その向こう側に住宅が並んでいる。
これらの住宅の中の人たちは、窓を開ける度にこの光景が広がっているはずだが、樹木は伸びるばかりでどうしようもない。
見通しが良い上に自然あふれる姿ではあるが、シュールでもある。
ここは谷津道を探していて失敗し、大変な道に入り込んでしまった時の風景。
浦安市の隣の市川市でのエピソードだと言って信じる浦安市民がいるかどうか。しかし、市川市内には面白い道がたくさんある。
ロードバイクに28Cのタイヤを取り付けて走ることができる限界がこれくらいだな。
千葉県北西部の場合、市街地を走っている最中に小さな森のような丘や山を見かけて近づいていくと、その付近に谷津道があることが多い。
Y字に分岐した道があれば、できるだけ人通りが少ない方が当たりだったりもするのだが、たまにグラベルのような道に入り込んでしまって自転車を担いで歩く時もある。
この瞬間まで、グラベルロードバイクなんて何の意味があるのだと思っていたけれど、やはりこのような道ではマウンテンバイクが便利であって、グラベルロードバイクに何の意味があるのだろうと今も思っている。
ここは大柏川沿いの谷津道から大津川沿いの谷津道の手前で曲がって、白井市内の金山落としという用水路沿いの道を目指そうとした時の光景。
谷津道ではなくて一般道...というか海上自衛隊の基地のすぐ脇なので一般道と言えるかどうか分からない。
たまに、この付近の地元民は自動車に乗って勢いをつけて自転車を追い抜いていくのだが、さすがにこのカーブの前では減速してくれる。
左側の黄色の看板はあまり見かけたことがない。
このカーブをドリフトで曲がる時には注意せよという意味だろうか。
頭文字Dが好きな人たちにとっては、このカーブを見ると、あの有名なシーンを想像するかもしれない。私も想像することが多い。
須藤京一が搭乗するミスファイアリングシステムを搭載したランサーエボリューションを、高橋涼介のサバンナRX-7が右コーナーのアウトサイドから四輪ドリフトで鼻を押さえて追い込んでいくシーン。
「ハッキリ言えば、右コーナーがヘタクソだってことさ!」
と、高橋涼介が決め台詞を残すのだが、素になって考えると須藤京一の方が正常だと思う。
いくら見張り役がいる夜中のバトルだったとしても、見通しが悪い右カーブの反対車線に相手を追い込んでいく高橋涼介は、法的どころの話ではなくて思考がおかしい。サイコパス指数が高めだな。
作中にて彼が医学部の学生で、近々医者になるという設定もおかしい。
ここは場所を忘れたけれど、どこかの谷津道。
絵に描いたような長閑な風景。空の青色と雲の白色、樹木の緑色、畑の茶色のコントラストが美しく感じた。
バーンアウトを起こしてからは、目にした風景がモノクロの画像として頭の中に記憶されるようになってしまったのだけれど、この風景の色彩は何となく思い出すことができる。
このような経験を続けていけば、モノクロになってしまっている私の画像記憶が色彩を取り戻すかもしれないと、少しだけ期待してしまう。
そういえば、谷津道を走っていて思ったことがある。
こころ旅では火野正平さんがひとり旅をしているように撮影されているけれど、実際はマッチョな自転車乗りの撮影隊が随行してナビゲートしている。
つまり、こころ旅についてサイクリストが抱くイメージというものは、実際は虚像だということだ。
しかし、今の谷津道サイクリングは本当のひとり旅だ。
孤独であることの贅沢さは、普段は孤独になることが難しいからこそ味わうことができる。総じて幸せなことなんだな。
加えて、こころ旅でドロップバーの自転車に乗っているのは火野正平さんだけで、マッチョな撮影隊たちがフラットバーのスポーツバイクに乗っている理由も分かった。その方が走ることが楽で視界が広くて色々と便利なのだろう。
火野正平さんがドロップバーのクロモリロードバイクに乗っている姿は絵になるが、こころ旅の撮影隊が乗っているスポーツバイクの方が、こころ旅的な走り方に適しているのだと思う。
さて、このままではHYPSENTが谷津道サイクリングブログになってしまいかねない。
感覚過敏を抱えて生きることの辛さを切々と書き記し、自分がどれだけ苦労して生きたのかを遺書として家族や孫たちに残そうと思ったのだが、このペースでは「あのジジイ、結構、人生を楽しんでいたじゃないか!」と突っ込まれそうだな。
まあそれでもいいか。残りの時間は短い。