谷津道をひたすら走るロードバイク禅と思秋期の思考
ストレスが多い日常で心に溜まったプレッシャーを少しだけ抜いて、生きることの目標さえ分からないけれど、もう少しだけ頑張ってみようという気持ちになる。
住みたくもないのに住むことになった浦安市での生活も10年を過ぎ、よくもまあ発狂せずに耐え続けたものだ。
発狂してはいないが、心身には相当なダメージが蓄積している。限界を超えていつまでもつことか。
サイクリングという趣味がなかったら、間違いなく倒れて動けなくなっていたな。
今回の谷津道サイクリングも素晴らしかったが、それはまたそのうち記すことにして、サイクリング中の禅で心に浮かんだことをいくつか書き留めておく。
これぞ思秋期という感じのランダムでまとまりのない思考のループだった。
そもそも、ペダルを漕ぎながら禅ができるのかというと、可能だと思う。
座禅とは違うが、これは禅の心理状態とよく似ている。
禅と呼ぶと宗教色が出てしまうのだが、最近の言葉で表現すればマインドフルネスだ。
あまりにストレスが溜まりすぎていたり、特に大きな悩みがあったりすると、サイクリングの最中もそのことばかりを考えてしまったりもする。
自転車事故で頚髄を損傷して引退した政治家が言っていた話だったろうか、「走っている時には走ることに集中する」ことはとても大切で、事故に遭った時には別のことを考えていたと。
この話は非常に重要だと思う。
私自身が落車した時、あるいは落車しかけた時にも、走ること自体に直接関係のないことを考えていたケースがほとんどだ。
マインドフルネスの場合には、ひとつのテーマについて考え続けるのではなくて、「自らの呼吸」に集中する。
座禅の場合には「只管打坐」といって、とにかく座り続けることに専念する。
「只管」とは、ただ一筋にひとつのことに専念するという意味だな。
仏教的な哲学に限らず、日本では複数のことを同時に行うのは品のないことだという考えが引き継がれてきた。
テレビを見ながら飯を食べるとか、音楽を聴きながら勉強するとか、そういったことは良くないと。
脳が処理しうる情報量は限られているので、同時に複数の信号を入力させ続けると疲れてしまう。裏を返すと、ひとつのことに集中することで脳の負荷を減らすことができるという解釈になる。
座禅もマインドフルネスも同じような原理に基づくことなのだろう。
だが、ひとつのことに集中するのはとても難しい。単調になって飽きてしまうこともある。
自分の内面だけ整えようとしても、深い精神集中の状態に持ち込むことは容易ではなくて、そのためには周りの環境が大切だな。
寺で座禅を組むと一気に精神が深みに入っていく感じがするが、これをショッピングモールのフードコートでやろうとしても無駄な話だ。
私はスピンバイクに乗って禅を組むことがあるが、ローラー台の上での禅は不可能だった。ギャリギャリというタイヤの音がうるさく、ペダルを回す感覚が不快で仕方がなかった。
河川敷の遊歩道をロードバイクで走っている時も、なかなか走りに集中することが難しい。とにかく歩行者と自転車乗りが多くて、気を遣うことばかりだ。
一方向に自動車が走り続ける幹線道路はまだマシだが、千葉市から市原市や袖ケ浦市、さらには房総半島まで走りに行かないと走りに集中することは難しい。
都内までロードバイクで通勤していた頃は、真夜中の一般道はとても走りやすかった。日中よりも車が少なく、夜の都内は静かで和んだ。
浦安市に戻ってくると夜中でも慌ただしくて気分が崩れたが、浦安市に入る前までの道のりは貴重なリラックスのための時間だった。あの時間がなければ、バーンアウトがさらに進行して動けなくなってしまっていたことだろう。
ロードバイクに乗っている間に禅を組むことができそうな場所を探してたどり着いたのが谷津道だった。この環境は素晴らしい。修験道の山伏になった気分になる。
ひとつのこと、ここでは「ロードバイクに乗って走る」ということに集中し、ひたすらペダルを漕ぐ。
もちろんだが、路面の状況を確かめ、前方の安全に注意し、的確にギアをチェンジさせるのだが、とにかく走ることに集中する。
すると、不思議なことに、頭の中には走ることと関係のない様々なことが浮かんでくる。
それらを分析的に考え続けるのではなくて、否定も肯定もせずに受け流す。
受け流さずに思考を消し去ろうと意識すると、その思考に頭の中が支配されてしまうので、集中すべきことに意識を戻す。
ここではペダルを回すこと。只管ペダリングという解釈になるのだろうか。
禅であってもマインドフルネスであっても、ひとつのことに集中して、他の思考を受け流すということが極意というか、基本的なことだな。
さて、ロードバイク禅の最中に頭の中に浮かんで受け流してしまった思考があったのだが、自宅に帰ってきて冷たいハイボールを飲んで眠る前に、何だか忘れてはいけない感じがしたので書き残す。
〔1〕 街の財政のこと
浦安市民にはあまり関心がないことかもしれないが、実際の生活には深く関わってくること。
コロナ禍によって各自治体の財政が悪化しているが、浦安市のダメージはとても大きいと思う。様々な対応をとろうとしても、それらの事業を支える金がなくなってきているはずだ。
浦安というと、とかくディズニーの減益がクローズアップされたりもするが、この街の首を絞めているのはディズニーというよりも、地方交付税なのではないかと思う。
国から地方交付税として財政的なサポートを受けている自治体の方が圧倒的に多いのだが、浦安市は財政力が高いということで地方交付税の措置を受けていない。つまり、不交付団体だ。
コロナ禍においては、各自治体が大変だということで地方交付税にコロナ対応の分の予算が追加されている。特例加算という制度だったと記憶している。
だが、浦安市が地方交付税の不交付団体だという話ならば、当然ながら特例加算もないということになる。
昭和のギャグではないが、非常に厳しい。
市の貯金に相当する財政調整基金も取り崩しが続いて、いつか底を突くはずだ。
問題は、その状況を行政が市民に分かりやすく伝えているかという点だな。市議会議員も同じく。
浦安市の財布が寂しくなっていることに気づいていない市民が多いと思う。
財政のことが気になって浦安市のサイトにアクセスしてみたら、相も変わらず市民に対して分かりやすく説明しようという気持ちが感じられない難解で回りくどい内容のページがヒットした。
何だこの文章は。難解な文章で煙に巻くつもりだろうか。
この街の行政はこのパターンが多い。ガードを上げすぎて亀になり、難解な行政用語を使ってくる。
頭の良い人は難しい言葉を使って説明しない。
他者に説明する時は、相手が理解しやすいように平易な言葉を使うことが大切だ。
これらの難解な文章を分かりやすく翻訳して簡潔にまとめると、多くの場合、以下のフレーズになる。
「だってしょうがないじゃない」
そして、引き返せないところまで来て市民から怒りの矢を受ける。
まあいいや、引っ越す予定なので知らんがなと。
海老名市は職員の給与を減らすことになったそうだが、浦安市もそうなる日が来ることだろう。
〔2〕 新築の一戸建てと優しい妻という幻想
大柏川沿いの谷津道から大津川沿いの谷津道に入る時、鎌ケ谷市を通っているのだが、北初富駅の付近に新しい戸建てが並ぶエリアがある。
若い子育て世代が引っ越してきたのだろう。街の中はとても活気があって、明るい雰囲気が漂っている。
以前、浦安の東野地区のサイクリストとライドに出かけた時のことを思い出した。
その時は別の街だったはずだが、同じように新築の戸建て街が並んでいた。
バーンアウトからようやく回復してきた頃だったが、同時に離人感が出現して、それでも彼の前では普通の人を演じようと努めていたという記憶がある。
当時は共働きの子育てで不満を溜め続けた妻が怒りを放って自宅で暴れていたので、私は疲れ切っていた。
私はつぶやいた。
「ああ、いいな...このような素敵な戸建てに住んで、優しい妻が迎えてくれたら、私の人生はとても楽なのですが...」
すると、信号待ちで彼は振り返って、笑いながらこういった。
「妻が優しくなかったら、素敵な戸建てに住んでも、意味なくないですか?」
彼の発言を受けて、「この野郎、空気が読めないやつだ」と私は感じなかった。
そうなんだ。器は関係なくて、結局は人間関係なんだな。
私がつぶやいた理想は、私以外が丸ごと入れ替わった世界であって、早い話が幻想なんだ。
それが可能だと信じていたからこそ、未だに未練がましくイメージを追っていただけのこと。
結婚する前に色々と気づかなかった時点で、その後の私の人生はレールの上に乗っていたのだろう。
望むことと、生きることは違う。
〔3〕 オッサンの煩悩が生まれる仕組み
非常に長らく続いていた思秋期だが、ようやく自分なりの答えにたどり着こうとしている感がある。
それは、身体だけでなく心の中まで正真正銘のオッサンになるためのプロセスだったのかもしれないな。
正真正銘のオッサンが何かという定義は難しいのだが、その先にははっきりとした「老い」があって、「諦め」がある。その先にあるのは「死」であることは間違いない。
思春期の青少年たちが大人になる前の段階で悩み戸惑うかのように、中年の男性たちは老人になる前の段階で悩み戸惑う。
そんなことを三十路の時には考えたこともなかったし、本人が考えようと考えまいと身体機能が確実に衰えてきた段階で思秋期に引っ張り込まれるということか。
そういえば、思秋期の真っ最中、たまに襲ってきた衝動があったことを思い出した。
それは、若いとか若くないとか、綺麗だとか綺麗ではないとか、そういったことは関係なくて、もう一度、女性との間で恋愛の淵に入りたいという意味不明な感情だったな。
プラトニックというよりも、もっとペイズリー柄の煩悩だった。すでに生殖のステージは終わったのに何だろうかと不思議に感じた。
当時は、自分の生き方は間違っていたんだ、このような辛い毎日は私が人生の判断を見誤ったからなのだと、自己嫌悪の嵐が吹いていた。
とにかくどこかに逃げ出したい、自分の内面を受け止めてくれる人を見つけたいという感じだな。
今から振り返ると笑い話だが、この衝動に駆られて不倫に突き進む中年男性は多いそうだ。
探偵事務所や離婚専門の弁護士事務所が繁盛し、週刊誌が「スクープ!」と盛り上がったりもするのだから、潜在的な件数としては商売が成り立つレベルなのだろうな。
そのような中年男性の煩悩を手っ取り早く、しかし中途半端に充たすことをターゲットにした様々な商売も展開されていて、いやはや、男はどこまで生きても動物なのだなと思ったりもする。
また、思春期の訪れが性的な成熟とリンクしているのと同じように、思秋期の訪れは性的な衰えとリンクしているのかもしれないな。
とりわけ共働きの子育てを続ける毎日は、男にとって非常にストイックだ。マスコミがあまり報じないことではあるが、夫婦という関係は制度だったと実感する。
深い孤独感や虚無感といったネガティブな思考が頭の中を覆い尽くしたり、もう全てを捨て去ってこの世を去ろうかという自殺念慮が性的な衰えとどのように繋がっているのかは分からない。
「おい、元気だな」と笑ってしまうかのように旺盛な爺さんが世の中を騒がせたりもするが、爺さんになっても旺盛な人は、確かに元気だ。多様性と判断しても構わないし、何らかの異常だと判断することも可能かもしれないな。
人生は一度きりだからと、不貞を犯して突き進む中年がいたりもするわけだが、一度きりだからこそ、地味に生きてみようかと思う。
真面目に働き、家に金を入れ、趣味の時間はペダルを漕ぐ。もうそれでいいやと。
今回の谷津道のロードバイク禅では、まともな話から煩悩の話まで様々なことが思い浮かんだな。
それは混乱した社会の状態や私の内面を反映しているのだろうし、潜在意識の中まで食い込んでいたのだろうな。
心の中に刺さったものを禅で取り除き、再び前を見て生きる。