ペルソナが崩れかけた社会を眺めて知りうる本性
また、世界や日本国内、あるいは自分が生活する地域といった様々な社会において、これまでは見過ごされてきた歪みが眼前に引きずり出され、それらの大きさに呆然としている自分がいる。
人にはそれぞれの考え方や価値観があり、全体として豊かな多様性を生み出している。
しかし、そのような多様性があるからこそ、人は他者を理解することは難しく、他者の内面を受け入れることも難しい。
職場や地域社会など、様々な場面において多くの人たちに出会い、意思疎通を行い、互いを理解しようとしたり、時には仲良くなって力を合わせたりもする。
コロナが広がり始める前、自分たちは平凡な日常を送っていた。
そして、まだ2年も経っていない期間で、社会はこのような有様になった。
社会に脅威がやってくると、人々の心は荒立ち始め、どこかに悪者を設定して自らのフラストレーションを晴らそうとする性質がある。
また、互いの支え合いといった道徳は必ずしも非常時には通用せず、人は自らの利益を守ろうとする。
守ろうとするのは自らの利益だけではなくて、自らの欲求についても同じだろう。
人には様々な欲があり、たとえそれが他者にとって不利益を生じることであっても追いかけてしまう。
これらの性質は人の内面のさもしさを反映していると言えるし、そもそも人の内面とはこのようなものだと再確認する機会とも言える。
加えて、マスコミが流す情報というものは現実の一部が切り取られていたり、様々な都合によって加工されたものだということを、多くの人が知っていると私は思っていた。
しかし、実際はそうではなかった。
かなり多くの人たちがメディアの情報によって思考や感覚を動かされてしまっている。
テレビのワイドショーだけでなく、一般のネットユーザーのツイートの内容をそのまま受け入れてしまっている人たちがいかに多いことか。
感染症対策のレベルを超えて、もはや精神疾患のような強迫観念に駆られて非典型的な行動に出る人を見かけることがある。
他方、行政やマスコミに対して必要以上に反発して、マスクを外し、酒を飲んで大騒ぎする人たちもたくさんいる。
さらには「自分たちは洗脳されている!」とプロパガンダに似た言動に出たり、そのような煽りを真に受けて信じ切ってしまっている人たちまでいる。
多様性という言葉だけでは説明しがたい混沌とした世の中だな。
大昔の地獄絵図の中には、疾病や飢饉といった脅威が襲来した時の社会の様子が描かれていると思しき作品がある。
他者を助けようとする姿は見かけられず、鬼に追いかけられて自分だけ助かろうと必死になる人たちの姿が目立つ。
それらは何を表現しているのかというと、人間の内面の脆さと醜さなのだろう。
スケールはずっと小さくなるのだが、浦安市の新町で生活し、コロナ禍によって何かが変わったのかというと、やはり地域社会の人間関係はささくれ立ってきたと思う。
このエリアは平時から人情味が控えめで、我が強くて短気な市民が多いのだが、さらに尖って剣山のようになってしまった感がある。
浦安市や自治会が主催する街のイベントなんて、あまり意味がないと感じていたのだが、その考えは間違っていた。
街が街たりうるためには、驚くほどにたくさんの要素が必要なんだ。
地域の人々が集まる機会は大きく減り、他の世帯の人たちと挨拶する機会も減ってきた。
さらに、駅や道端で市民同士が口論になっている光景を見かけることもあるし、私自身も市内の駅やショッピング施設で同じ市民から喧嘩をふっかけられたり、不快な思いをすることが増えた。
町全体が苛立っていて、通勤とサイクリング以外は浦安市内に出たくない。
現実的に考えて、この状況がいつまで続くのかというと、国民の大半にワクチンが接種された後ということになる。それが1年後なのか数年後なのかは分からない。
他の風邪コロナウイルスのように、多くの人たちが免疫を賦与されるまで、現在のプロテクションは続くことだろう。
ワクチン接種の流れをマスコミが支援してくれるかどうかは分からない。むしろ後ろ向きに引っ張ることが予想される。
マスコミ業界で働く人たちだって、組織の方針というものがあって、それに逆らうことは難しい。気持ちは分かる。
同時に、ワクチンの接種に対してプロパガンダを広げる人たちがさらに増えてくることも考えられるし、現在の対策において心が耐えられなくなる人たちも増えるはずだな。
人は物事について完全に理解した上で動き始めるのではなくて、本人なりにある程度分かったつもりになったところで動き始める。
そこに個人の我欲が絡んでくるので、さらに話が難しくなる。結果としてカオスが生まれる。
実際、駅や電車の中ではマスクを外して缶のアルコール飲料を飲み、大騒ぎしている人たちが珍しくないし、感染の拡大を抑制することが難しくなってきた背景には外れてしまった心の箍があるのだろうか。
さて、とても個人的な経験ではあるのだけれど、コロナ禍は私個人の非常にローカルな人間関係にも影響を及ぼしている。
「へぇ、この人は、このような性格だったのか」と、今まで知らなかった内面に気付くことが多い。
それぞれの人たちの外的な側面、つまりペルソナは必ずしも内的な側面を反映しないことがある。
誰もが心に仮面を被せて社会生活を送っていると解釈してもいい。
だが、コロナ禍は人々のペルソナにまで影響を与えている。
個々の内面に大きな精神的負荷がかかっているのだろう。
私の場合には、コロナ禍の前からバーンアウトに苦しんで地獄のような生活を送ってきたので、実はあまり大きなインパクトを感じていなかったりもする。
平時であっても辛くて仕方がない人にとっては、コロナがやってきたところで大して脅威に感じないということか。
いや、コロナによってダメージが増幅して、さらに疲れて止めを刺される人もいるのだろう。
運営企業やディズニーファンには恐れ入るが、私の場合には、浦安にディズニー客が殺到しなくなって、生活しやすくなった。
ということで、コロナがやってくる前から苦しんできた私は、ずっと前から地獄にいたと解釈しうるわけで、負荷は増えたけれど、割と冷静にコロナ禍の社会を眺めている感覚がある。
子供の頃の虐待と浦安に引っ越してからのバーンアウトの後遺症で、自分から自我が離れているような離人症の症候があるためか、社会全体が苛立った不思議な世界に自分が放り込まれて、その姿を眺めているかのようだ。
人々の不満や苛立ちのベースラインが高くなっていて、感情がペルソナを突き破って露出しやすくなってきたことは間違いない。
むしろ、ペルソナそのものが融け出しているような感覚もある。
これまで隠してきたはずの内面が流れ出して、リアルなツイッター状態に近くなってきたな。
感情のベースラインが何かと明確に定義することは難しいのだが、在宅勤務の時にキッチンで袋ラーメンを作ろうとして鍋で湯を沸かしている時、何となく分かった。
蛇口から常温の水を鍋に入れて沸騰させるまでには時間がかかる。
温水を鍋に入れて加温した方が沸騰までの時間が短い。当然のことだ。
多くの人たちの感情はすでに温度が上がって熱くなってしまっている。その状態から沸騰までの時間は短い。
これだけ大きな社会の変化がやってきて、人々は多大な我慢を強いられているのだから仕方がない。
コロナ禍がやってくる前、私の人間関係はもっと穏やかだった。
そもそも友達が少なく、バーンアウトを起こしてからは他者に期待することもなくなった。
人はどこまで生きても孤独な存在なので、孤独を恐れないことが心の安定に繋がる。
大昔に「犀の角のように独りで歩め」というフレーズを釈迦が残しているくらいだから、的外れな考えでもないだろう。
他者に期待しなければ失望もなくなる。
そのように生きていると、人間関係が楽になった。
しかし、コロナ禍では無用のトラブルが降ってくることが増えた。
ひとりで進もうにも、目の前に立ちふさがって来るのだから始末に負えない。
ああそうか、だからサイの角なのか。孤独に生きるには強さが要る。
特に、コロナ禍の混乱では自己愛が強い人たちが厄介だな。
相手にしなくても向こうから絡んでくるので鬱陶しく、強烈な自己肯定を他者が曲げることは不可能に近い。
自己愛が強い人たちへの対処法はいくつかあるが、私なりに最も重要だと思うことがある。
それは、自己愛が強い人たちが、自分の自己愛の強さを認識していないという前提で対応すること。
彼らにとってはそれが普通の世界なので、疑問を持つことも反省することもない。
適度な自己愛はモチベーションや出世、名声に繋がることもあるが、過度になれば恥に繋がる。
自らの恥を恥として認識しない人を相手にしても仕方がない。
自己愛が強過ぎる人たちのもうひとつの対処法としては、自らの言葉に錨を付けて感情の海に沈めること。
これも釈迦が残したフレーズだな。
彼らは他者のリアクションを鏡として自分を認識する性質があるようで、だからこそ他者にアピールして認めてもらおうとする。
自分はこんなに優れている、自分はこんなに頑張ったと。
裏を返せば、彼らにとって鏡にならない人たちや、自己愛を傷つける恐れのある人たちは忌避の対象になる。
つまり、自己愛な人が距離をとって近づいてこない状況を作ることが、最も効果的な対策だな。
相手にすると自分が消耗するだけだ。
だが、自己愛が強過ぎる人たちの中には黄金聖闘士のように優れた人たちがいたりもするので、私は勉強のために5年、10年という長い時間をかけて、そのような人たちと人間関係を深めてきた。
しかし、コロナ禍がやってきてからは、そのような人たちとの繋がりがプツリと切れ続ける事象が増えてきた。
黄金聖闘士たちは誇り高き人たちなので、交渉になると他者を気遣ってWin-Winの条件を考えることが普通だった。
しかし、最近では、一方的な要求がやってくる機会が増えた。
感覚過敏を持っている人たちは、相手の言動や文章を観察して、意図や感情まで読み取ることがある。
その性質が、感覚過敏持ちの生きづらさのひとつになっていることも確かだ。
変化が多い社会では、混乱に乗じて功名心を充たそうとする人たちが増えるわけで、自己愛が強い場合には、これぞチャンスとばかりに高みを目指すのだろう。
そのために他者を利用したり、調略を仕掛けて蹴落とすこともある。
私としては、メリットが全くないどころかデメリットしかない不条理な要求については毅然と断ることにしている。
断る理由を説明することは難しい。
相手が口に出したり、文章に書いていない心の中を見透かした上での説明になるので、自己愛が強い人はそれを嫌がる。
優秀だと信じている自分の思考を他者が先回りしてくると、自己愛が傷付くのだろう。
そのような場合、彼らの縁切りの早さは凄まじい。
自分にとって利用価値がないと判断すれば、あっさりと人間関係を遮断してしまう。
コロナ禍が続くのは長くても5年くらいだろう。すでに2年目に入っている。
そんなに簡単に人間関係を切ってしまって、これからどうするのだろう。
おそらく以後の関係の再構築はないだろうし、私にもそのつもりはない。
職業人生における人間関係なんてリタイアすれば意味がなくなるとは思うが、たまに再会して昔を懐かしむことがあればいいなと思う。
しかし、このような縁切りでは関係の維持は困難だ。
長い期間を通じてやり取りを続けて関係を深めてきたつもりだったが、崩れ去るのは一瞬だ。
コロナ禍がやってきてからは、自分の利益を我武者羅に追求する人が増えてきた。
より多くの成果を挙げて、より高いポジションに就きたい人たち、あるいは自分をより良く魅せたい人たちの欲求は凄まじい。
だが、そこには激しい競争があるレッドオーシャンが広がっているわけだ。
功名心を成就させられる人は限られていることだろう。
利用価値がないと判断した人との縁を切り離し、次に利用できる人を延々と探し続ける戦略の先にあるのは、さぞかしハッピーな職業人生なのだろう。
定年を迎えた瞬間に誰からも相手にされなくなり、まともな趣味もないという、実に素晴らしい老後だな。
バーンアウトで出世の道が途絶えて功名心も灰になったことは、長い時間を考えると意味があるのかもしれない。
当然だが、人がひとりで生きることは難しい。
しかし、他者を意識し過ぎず、他者に深く依存せず、他者に期待しないという心構えは、これからも続くストレスフルな社会で生きるために大切かもしれない。
今まではペルソナに隠れて分かりづらかったが、実際には信頼に値しない人が誰で、無害な人が誰なのかが分かってきた。
しかも、個人的な人間関係だけでなく、社会全体のペルソナが崩れてきたようにも感じる。学ぶことは多い。
それらは今後の自分の行き方を考える上で貴重な経験だな。