同じテーマだけで連投するブロガーって、凄いよな
もうひとつは、FC2ブログを契約した際に参加することができる「ジャンルランキング」というサービス。ラジオボタンを押すだけで登録が完了し、ランキングで上位に入ったからといって何があるわけでもない。それらの評価はアクセス数に基づいているのだろう。
HYPSENTのサイトは、「心と身体」というジャンルのランキングにおいて、約30000サイトの中で1000位付近を漂っている。
それぞれのジャンルにはサブジャンルというカテゴリーがあり、「その他」という雑多なサブジャンルにおいて3000サイトの中で100位くらいだ。
これらの順位は上位5%に入っているように見えるのだが、実際には休眠状態あるいはネットデブリとなってしまったブログが大多数なので、全く大したことがない。
サブジャンルのランキングで同じくらいの順位に並ぶ他者のブログがあって、そのブログのテーマは独身男性が可能な限り自家発電を我慢するという内容。もはや何も言及することができない。
そもそも、ブログブームはかなり以前に衰退し、数年前だったかに行われたGoogle検索のアルゴリズムの変更によって、検索エンジン最適化(SEO)として有効だったテクニックもあまり機能しなくなったらしい。
さらに時間を遡ると、元々は趣味人が箱庭的な感じで更新していたホームページやブログの世界は、広告収入によって小銭を稼ぎたいというアフィリエイトブロガーたちの勢いに飲み込まれてしまった。
ネット検索でのアクセス流入によってアフィリエイトによる収益を欲するタイプのいわゆるアフィブログは、どんな言葉で検索しても上位にヒットしてしまい、内容は金太郎飴のように均一で、しかもあまり参考にならない上っ面の情報ばかりだった。
その後のGoogleのアルゴリズムの変更は、アフィブログを潰す上ではかなり効果があったのかもしれないな。
アフィブロガーたちは勢いを失い、ブログというツールから撤退してYouTubeや仮想通貨、あるいはネットでの転売や投資などに移行しているらしい。
また、最近ではウーバーで必死に料理を運んでいることもあるそうだ。
だが、すぐに拡散する情報を手に入れて、同じようなことを考え、同じような行動に出る人たちは多く、手っ取り早く小銭を稼ぎたい人たちの世界では激しい競争が繰り広げられ、いわゆるレッドオーシャンになっているようだ。
他方、アフィリエイトブログがネット上を埋め尽くすようになってからは、趣味としてブログを続けていた人たちはSNSに移行することが多い。
手間と時間をかけてブログのエントリーを重ねるよりも、SNSを使って気軽に情報を発信したいという気持ちもあるのだろう。
だが、SNSで情報を発信したところで、それらを他者が受け取ってくれているか否かは分からない。
例えば、ツイッターで他者から全くリツイートされなかったり、「いいね!」を押してもらえないユーザーがたくさんいる。
誰からもレスポンスがないにも関わらず、自分がネット上で孤独だということを自分で示し続けているようなものだと思うのだが、それでも地道にツイートする姿に哀愁を感じる。
そういえば最近、「オッドタクシー」というアニメに出会って、非常に興味深く視聴している。
この物語では、全てのキャラクターが人間以外の動物なのだが、言葉をしゃべってきちんと生活しているというシュールな設定がなされている。
しかも、動物たちが楽しく生活しているというストーリーではなくて、社会の冷たい現実や、人の欲深さや醜さを隠すことなく詰め込んでいる。
主人公は小戸川という名前のタクシー運転手のセイウチで、年齢は40歳を過ぎたくらい。
そのタクシーの乗客たちの人生が紹介されることでストーリーが進んでいく。
最初の方の話だったろうか。
ツイッター依存症のようになってしまっている男子大学生のカバがタクシーに乗り込んでくる。
彼は、四六時中、スマホでツイッターを眺め、どうすれば自分のツイートがバズるのかを必死に考えていた。
「バズる」という言葉は、ツイートが膨大な数のユーザーから認められて、リツイートやいいねが殺到するという現象のことを意味するらしい。
主人公のセイウチは、そのカバに尋ねる。「ツイートがバズることに、何の意味があるのか?」と。
確かにそうだな。
私自身は気持ちが悪くなるのでツイッターを使わないのだが、このSNSでは無数の自己顕示欲と承認欲が渦巻いている。
フォロワーがいたとして、本当にその人たちがツイートを受け取って読んでいるのだろうか。
リツイートもいいねもないという状況は、結局のところ無視されているのではないだろうか。
それ以上に不思議なことがある。
ツイッター上では、とても知的で意義深かったり、多くの人たちのためになる大切な取り組みが発信されていても、ほとんど無視されているように思えるツイートが多数認められる。
これらのツイートにどうしてリアクションがないのか、私には大変興味深く思える。
回りくどく表現すれば、ツイッターユーザーの知性や教養の多様性によって、それらのツイートの意味があまり理解されていないのだろうか。
ネットの黎明期、ブログという概念すら広がっておらず、趣味としてホームページを立ち上げて更新していた人たちは、ある程度のITスキルがないとサイトの運営が難しかった。
そのため、ユーザーにはそれなりの知性や教養が必要となり、ユーザー同士のコミュニケーションにおいても同じくらいのレベルになっていたのかもしれない。
だからこそ、ユーザー同士でチャットが始まったとしてもリアルな場面での会話のように見えたのか。
では、SNSが普及する前の時代、自らサイトを運営するようなスキルや背景、余裕がなかった人たちは、自らの内面や主張をどこに投影していたのか。
考えるまでもない。匿名の掲示板やスレッド、個人サイトのコメント欄といったツールに短文のメッセージを投げ込んでいたわけだ。
それらのコメントは必ずしも礼儀正しいとは思えず、誹謗中傷や罵詈雑言、陰湿なものが数多く認められ、便所の落書きとまで揶揄されることがあった。
現在では、ツイッターやヤフコメといったツールが彼らの主戦場になったのかもしれないな。
多分に架空の設定を含んだ概念ではあるけれど、日本には古来から輪廻転生する「六道」という世界があると想像されてきた。
人間が住む世界が人間道、誰もが知っている地獄という概念は地獄道に相当する。
そして、六道の中には、常に戦い続けることで苦しみと怒りが絶えない世界があって、それは修羅道と呼ばれている。
ツイッターやヤフコメで常に他者と戦っている人たちの姿を眺めると、それが人々の空想の産物であったとしても修羅道というイメージによく似た現実社会が存在していることを実感する。
むしろ、修羅道という世界そのものが、現実社会の人々の攻撃性や衝動性を反映したものなのだろう。
人の知性や教養、道徳、感情などには当然ながら多様性がある。
多様性がある人々が、たったひとつの社会という器の中で生活しているのかというと、実際には違う。
社会はある程度のフィルターがかかった小さなユニットが無数に存在することで成立していると解釈しうる。
学校や職場はその典型だな。
それらのフィルターは必ずしも個人の努力だけで通過することができず、完全な公平性が保たれているとは思えないことがある。
けれど、ユニットがあるからこそコミュニケーションが楽な場合もある。
では、リアルもしくはネット上においてそれらのフィルターが解除されて、多様性と一言で表現しえないくらいの状態、つまりカオスに至った場合にはどうなるか。
私なりの理解としては、リアルな場面が電車や駅の中、ネットの世界ではツイッターがそれらに該当する。
経験したことがある人なら分かるはずだが、公立保育園の父母会や公立小中学校のPTAもカオスのようなものだ。
その保育園を利用しているだけ、あるいはその小中学校の学区に住んでいるというだけというザルのようなフィルターを保護者が通過してくるので、実に多様な人たちが集まる。
そして、保護者同士の意見が対立したり、意味不明なルールが定められたり、挙げ句の果てには任意入会とは名ばかりの強制入会がまかり通っている。
混沌とした状態をひとつの方向に導くこともできず、毎年、毎年、同じことで保護者たちが苦しむ。これがカオスでないはずがない。
だが、カオスにおいて自らを保つことができる人たちは、とても丈夫な精神構造だなと敬服しているのだが、その丈夫な精神構造の理由について私は興味があった。
無数の人たちが自我や内面を吐露しているような海にいても気にならない人たちは、かなり強力な自他境界を有しているのだろうなと思う。
最初、「他人は他人、自分は自分」というラインが明確だからこそ、多様性がある世界でも自分を保ち続けられるのだろう」と解釈していた。
確かにそうなのかもしれないが、電車通勤やツイッターを眺めていると、自他境界が明確というよりは、自他境界そのものが曖昧で、自己という存在が自他境界を埋め尽くしているような人たちが多いと感じる。
その延長線上には強い自己肯定や自己愛といった精神構造があるということか。
私の場合にはどうなのかというと、おそらく自他境界が曖昧な上に、それらが他者側に偏っていて、自分の中に他者が入り込んできて苦しんでいるのかもしれない。
その性質が他者の気持ちを慮るというベクトルに向かないことが不思議だが、自他境界を素通りして入ってくる他者の内面を必死に抑えようとしていることは分かる。
自我が自分から離れたように感じる離人症の症候が生じ始めてから、自他境界をどのように保つのかということは私にとっての大きな命題になった。
よくよく考えてみると、自己肯定や自己愛といった存在は、度が過ぎると社会性に支障を生じるかもしれないが、人が強く生きる上でのモチベーションとしては大切だと思う。
「自分は優れている!」とか「自分はここが凄い!」といった自負は、客観的に見て大して優れていなくても自分が信じている限りは意味がある。
自分なんて今すぐ消え去っても世の中は何も変わらない、むしろ消えた方がいいんだと思いながら生きている人と比べれば、ずっと力強いと思う。
ところで、細々と続けているブログというツールについて言えば、ブロガーの種類は二通りに区分されると思う。
ひとつは、毎回のエントリーにおいて特定のテーマのみを連続して投稿しているブロガー。
もうひとつは、特定のテーマがあるわけではなくて、日替わりで内容が変わるブロガー。
私の場合は明らかに後者だな。
アフィリエイトブログが全盛だった頃、より多くのアクセス数を集めるためには、前者のスタイルが望ましいという風潮があった。
同じテーマについてのエントリーを発信し続けた方が、Googleのロボットが内容を認識しやすくて、キーワード検索にひっかかりやすくなるというSEOのテクニックがあった。今ではあまり効果がないようだが。
また、アフィリエイトを副業として実施している人たちにとっては、ブログのテーマと異なるプライベートな内容について紹介すると、身バレ、つまりどこの誰なのかが分かると困るということで、特定のテーマ以外のプライベートな内容については触れないことが良いという不文律があったらしい。
副業が認められていない職場で副業としてアフィブログを運営していることがバレたら、後で困ったことになるということだな。そこまでして小銭を稼ぎたいものだろうか。
その流れを受け継いでいるのかどうか分からないが、現在においてもメインテーマ以外には全く触れないというブログが珍しくない。
あくまで私見だが、自らのプライベートについて全く紹介しないような人のブログが信用に足るブログと言えるのだろうか。
感じ方は人にもよると思うのだが、メインテーマ以外のプライベートな内容について全く言及しないブログは、何か背景や都合があってそのようなスタイルになっていると考えて矛盾しない。
例えば、自転車についての記事ばかり頻繁に連投しているブログがあったりもする。
毎日のように自転車のネタばかりが続いて、このブログ主は自転車以外のことを考えないのだろうかと勘違いするくらいだ。
それらのブログは往々にしてアフィリエイトのプログラムが組み込まれている。
職場に副業がバレると困るということだろう。
また、街づくりといった行政的な内容ばかりが執拗に発信されるブログがあったりもする。
どうしてこのような内容になるのか調べてみると、ブログ主が市役所の職員だったりもする。
市長にバレると困るということだろうか。
市役所の職員ならば、言いたいことがあれば担当課の中で主張し、きちんと仕事において実行すればいいじゃないかと思うのだが、色々と都合があるのだろう。
例えば、自分が街づくりについて関心があったとしても、人事異動で希望する担当課に配置してもらえないとか。
浦安のとある大ファンたちのブログの場合には、街の良さをアピールすることで不動産の賃貸や売買を捗らせたり、街の発展に乗じて投資で金を稼ぎたいという意図が透けて見えたりもする。
だが、人の考え方や捉え方は人それぞれなので、様々なテーマを取り扱うよりも、ひとつのテーマについて取り扱っているブログの方が手っ取り早くて有用だという見方があるかもしれない。
あくまでブログ主ではなくて、他者から見た場合には。
そのように内容が偏ったブログに意味がないのかというと、ユーザー側からするとむしろ逆なのかもしれないな。
ブログにアクセスする場合、アクセスする側のネットユーザーには、もちろんだが多様な背景がある。様々なことを経験し、様々なことを考えている。
そして、自らがアクセスするサイトは、そのような雑多なテーマがある生活の中での一部ということだ。
なので、アクセスするサイトが雑多なテーマである必要はない。自分にとってメリットのある情報、あるいは暇つぶしの娯楽として楽しめる情報があればいいという話だな。
一方、ブログを更新する側の人、つまりブロガーという立場に状況を反転してみると、他者からのアクセス数を意識すればするほど、他者からウケるコンテンツを用意しようと取り組むことだろう。
ブログを継続する側としては、その時に思いついたことを含めてブログを更新したいと感じはしても、同じテーマのエントリーが延々と続いた方がアクセス数を稼ぐことができるのならば、それを続けようという気持ちになるのだろうな。
そういえば、古典心理学の先駆けであるカール・グスタフ・ユングは、人が社会生活を送る上で演じる外的側面のことをペルソナ(persona)と呼んだ。
昨今のネット社会では、多数のユーザーが現実とは異なるペルソナを被った形で存在している。
自分がペルソナを被って生活する中で都合が悪い情報については、最初から取り扱わないことだろう。
その背景にあるのは、自分を他者に対してより良く魅せたいという虚栄心かもしれないし、自己愛かもしれないし、まあとにかく自分を取り繕いたいという気持ちなのかもしれないな。
なので、他者に向けて発信しても差し支えないテーマについては執拗にエントリーを投稿し続けるが、その他の話については全く紹介しないというブログが増えるという結論に至る。
ネットというツールを使って自分をどのように表現しようと、それは個人の自由だ。
そして、同じテーマについて連投を続けるブログには、途中でネタ切れがやってきて、プツンと更新が途絶えて、デブリのようにネット上を彷徨うことが多かったりもする。
ブログ主はどこに行ったのかというと、ツイッター上で元気に短文のツイートを連投して、そのプロフィール欄に更新が止まったブログのURLを張っていたりもする。
ツイッタラーによくあるパターンだ。
それが無様だと言いたいわけではなくて、予定調和を実に美しくトレースしているのだなと感心している。
よくよく考えてみると、箱庭のような楽しさがあったホームページやブログといった趣味の世界は、すでに元には戻らないのだろうなと思う。
情報通信技術に詳しくなくても、個人がネット上に内面を発信することができるようになった。
その結果、ネットがカオティックな様相を呈することは最初から分かっていたことだ。
できるだけ多くの人たちから注目されたいとか、できるだけ多くの人たちに認めてもらいたいとか、そういったことを考える必要はないのかもしれないな。
他者からレスポンスがあったところで、現実の生活は何も変わらない。
自分が発信するコンテンツが、世界のどこかで誰かに受け取ってもらえることは素晴らしいことだが、情報を受け取る側のユーザーの数に対して、情報を発信する側のユーザーの数が飽和してしまっている。
そうなると、情報を発信したとしても、必ずしも誰かが情報を受け取ってくれるとは限らないという状況になるわけだ。
かつて更新していたブログ等では、月間のPVが何万回といったサイトがあったが、それらのサイトが自分の生活をどれだけ豊かにしたのかというと、あまり意味がなかった。
ネットで検索したら都合の良い情報がネット上に転がっていたと、それが当然のように使う人たちばかりで、感謝の声が自分に届いたことなんてほとんどなかった。
また、当時は連絡窓口を用意していたりもしたのだが、送られてくるメッセージは何だか意図が分からないことが多かった。
若い頃は、ネットが発達すれば生活がより幸せになると思ったりもしたのだが、それらはあくまでも現実の世界をサポートする道具に過ぎなかったらしい。