プロの道具は自分で買うんだよ
高級とはいっても私にとって高級という意味。ゼブラのシャーボのフラッグシップモデル。定価が約1万円。Amazonで6千円くらいだったろうか。
ロードバイクの趣味では消耗品のタイヤを一つ買っただけでこれくらいの金額になると思うと、この趣味は金がかかるということを実感する。
本当に高級な万年筆だと5万円を軽く超えたりするが、いつも千円未満のペンを使ってきた私にはシャーボでも書き心地が格段に違う。
数年前、長時間労働と共働きの子育て、それと長時間の電車通勤の疲れでバーンアウトしかけた。
その前は仕事での人間関係の方が厳しくて、相性の悪い中ボスとのバトルが続いていた。
職種に限らず、私は職業人としての矜持が足りない人を嫌う。当時は私も若くて鼻っ柱が強かった。部下を支えない上司が部下の成果に乗っかるとは何事だ、貴様にはプロとしての矜持がないのかとやり合った。
まあ、組織においては少しでも上の地位に就いた人が偉いので色々と辛い目にあったが、組織の中はともかく組織の外では世渡りのようなマウンティングの力学は働かないし、誰がどんな仕事をしているのかはすぐに分かる。
要はメリットがあるかないかという厳しい世界だ。地道に仕事を続けていれば職場の外の人たちが認めてくれると信じて耐え抜いていた。
そして、中ボスがいなくなり、上司はボスだけという動きやすいポジションになった。
そこから仕事に身が入ると思っていたが、今度は子供たちが大きくなり、新米パパのブースターのような新鮮なモチベーションがなくなってきた。
共働きの妻は新婚時代とは別人のように荒くなったが、個性的な子供たちと妻のこだわりの強さなら仕方がない。
仕事と家庭と通勤で睡眠時間が削られ、公私ともに疲れ切っていたのだろう。気がつくと感情が枯渇しかかっていた。
ロードバイク仲間には実名ではなくハンドルネームのまま接していた。自分という存在から離れるとリラックスできるから。私が本心から笑顔を見せることができたのはその場だけだった。
バーンアウトの寸前でロードバイクに乗りまくって何とかするという荒療治は、今となっては笑い話のように感じる。しかし当時は必死だった。
今まで普通に行うことができた仕事ができない苦しみはとても大きかった。ある課題が目の前にあった時、そのゴールまでの道筋が頭の中に浮かぶのだけれど、身体が動かない。いや、実際には頭が行動を抑えてしまっている。
その根源が何かというと、おそらく自分自身への信頼を失っていたのかもしれないと回想している。自らを最も信じてあげられるのは自分自身なのだけれど、自分で自分を信じられなくなる時にはパフォーマンスが落ちる。
子育てに入って妻の性格が荒くなるなんて普通のことだ。夫婦喧嘩になったら潔く謝って、一緒に風呂に入って背中を流してあげたり、まあとにかく肌を重ねた方が解決が早い。
しかし、夫婦関係を真正面から受け止めて「どうして、この女性と結婚したのだ」と、その人生を選択した自分を自分で責めてしまったり。それ以外にも職場でも通勤でも自らの判断を否定し続けると、自分のことが嫌になってしまう。これがメンタルを削ることに最近になって気づいた。
様々な場面で強靭なメンタルを持っているように感じる人というのは、自らを否定することがないように感じる。ネット上で炎上しても何らダメージを受けているように思えない人を見かけるが、強力な自我があって自らを責めることがないからなのかもしれない。
さて、何だかんだと悩んでも、残りの職業人生は限られている。今までの折り返しだと思えばとても短い。その距離感を知った今、これから職業人としてどのように生きるのか。
長時間の電車通勤なので、毎日のエピソードとしては電車の中が多い。ほとんどの場合、どうでもいいストレスでしかなくて、勉強になることなんて全くないと言い切ることができる。
しかし、バーンアウトの危機から脱した感がある今になって振り返ると、かつて電車の中で見かけた二人の男性たちの会話がとても大切だと感じられた。
その二人は終電近くの電車に乗ってきた人たちで、一人は50代の後半だろうか。もう一人は二十歳付近の若者だった。
聴覚過敏は人それぞれだが、私の場合には興味のある対象について指向性のマイクのように聞き耳を立てることができたりする。これを使うと保育園やPTAの井戸端会議を聞き取ることもできる。
どうやら二人は同じ職場の同僚で、その職場は料亭か寿司屋といった和食の店なのだろう。50代の人は板長とかそういった存在で、もう一人の若者は見習いか何かなのだろうか。
そして、仕事についてベテランが色々と相談に乗っていた最中、「包丁はどうしている?」と若者に尋ねた。
若者は「えっと、お店の包丁を...」と答えた。するとベテランが顔をしかめて「そりゃいけないな。貯金や給料をはたいてでも、自分の包丁を買った方がいいよ。包丁は料理人の命だ」と諭した。
私はその会話を聞いて、自分の若き日のことを思い出した。
その若者と同じくらいの二十歳の頃、私は大学の学部学生だった。実家が大きな借金を背負っていて、地方から都会に出て一人暮らしをしていたが仕送りだけでは生活ができない。色々とアルバイトを続けて書籍を買ったりもした。
進級すると、レポートを活字で印刷するような機会が増える。それまでは手書きで何とかしていたのだけれど、さすがに厳しくなった。
駅の近くの大きな電化製品の店に行ったもののパソコンは高額で手が届かないし、プリンターを別に買うなんてことも難しかった。クレジットカードなんてなかったし、財布の中にあったお金は限られていた。
すると、店の隅に型落ちのワープロが置かれていて「展示品につき特価!」の札が付いて売られていた。かなり古い文豪シリーズだった。食費を削ればこのワープロを手に入れることができる。無理して買おうと考えていた時、父親と一緒に同世代の女子学生らしき人が後ろを通りがかった。
おそらく父と娘がパソコンを買おうと店を訪れたのだろう。
その父親が私に聞こえるように言ったセリフを今でも忘れない。
「こんなデカくて古いワープロ、誰が買うんだよ。これからはパソコンだろ、あはは」と。
彼の娘も一緒になって笑っていた。
人は生まれる場所を選んで生まれることはできない。もっと裕福な家庭に生まれていれば、こんな辛い目に遭うこともなかったと思った。
私が住宅やマイカー、家具などに金をかけずに子供たちの将来のために貯金をしているのは、その時の悔しさを引きずっているからなのかもしれない。
しかし、当時の私としては現実問題としてこのワープロくらいしか買うことができなかった。
店員に取り置きをお願いしてアパートに帰り、小銭までかき集め、銀行の口座に残ったわずかな金まで引き落としてワープロを買うことにした。しばらくは卵かけご飯でしのいだ。
ようやく手に入れたワープロは私にとってとても貴重な道具だった。手書きよりもキーボードの方がずっと楽に長文を書くことができて印刷も簡単だ。タイピングは独学で覚えた。頭の中に浮かぶ内容がすぐに文章になって出力される。
そして、大学で与えられた課題についてレポートを提出すると、教授から褒められた。それが嬉しくて仕方がなかった。
大学院に進んだ後も奨学金で食いつなぎ、就職した後も若い頃はお金が足りなかった。それでも仕事については身銭を切ってでも道具を揃えていた。他者と共用で道具を使うと感覚がずれて使いにくい。
自分が長年使うための専用品がほしいというのはわがままだと言われるかもしれないし、実際に言われたこともあった。しかし、そうすることで仕事に身が入った。
人は仕事をして地道に生きることで生計を立てるわけで、職業人として生きる上で必要なものを用意するのは自分への投資だと思った。
あくまで自験でしかないが、出世欲が強くて世渡りが上手な人は身銭を切ろうとしない。職業人生全体を計算しているかのように振舞うが、中身は大したことがない。
他者の力を上手く利用して自らの利益にしようとする。他者の力に依存するから本人の能力が育たたず、能力がある人を管理下において、成果に乗ろうとする。
そのためには上司の絶対的なイエスマンに徹し、トラブルの責任を回避し、より高い地位に就こうとする。「私はこんなに高いマネージメント能力があります!」とアピールして。優れたリーダーが育たない背景はこのような出世競争があるのだろう。
他方、自らの職業人としての矜持に重きを置く人はそのようなことを気にしない。まさに職人気質で対立を恐れないし、自腹を切ってでも仕事をやり抜こうとする。
上からの指示でも間違っていたら毅然と拒否し、言った以上は責任をとるような。
日本の社会は現場が支えてきたと私は考えている。よくあることだが、財務が悪化したからと人件費の削減として現場のスペシャリストの数を減らし、本来は判断ミスの責任をとるべきジェネラリストを減らさないから、さらに現場が疲弊するわけだ。
もとい、最近の私は職業人としてよりも子供たちの父親として生き、自身の視野がとても狭くなっていることに気づいた。
また、バーンアウトになりかけていたので、目の前の仕事をこなすだけで精一杯だった。
様々なストレスに耐えているので仕方がないことだけれど、若き日にどのような職業人でありたいと願って前に進んだのか。
何とか万円プレーヤーになり、職場の環境も整ってきて、自腹で道具を買うこともなくなった。共働きの妻や子育て、義実家、長時間通勤といった日常の要素が強くなり、職業人としてどのように生きるのかということまで頭がまわっていなかった。
同時に目まぐるしく過ぎ去っていく日々、近づいてくる職業人としてのリタイアの日。
そして、ストレスがあれば趣味のロードバイク用品をポチって自己満足とは情けない。これでは、食費を削ってでも将来に投資した若き日の自分に対して申し訳が立たない。こんなダサいオッサンになんてなりたくなかったはずだ。
ということで、この年末はロードバイク用品を買わずに、仕事に必要な道具を自腹を切って買うことにした。
あまりに高価なものは家計に響くので、ある程度の価格で仕事で毎日使うもの。残りの職業人生において傍に置いて初心を思い出すことができるもの。プロの気概というか、自分を見つめ直したい。
出入りの業者を呼んで、これを私費で買うからと手配をお願いした。間違いなく仕事へのモチベーションやパフォーマンスが上がるはず。
うちの妻はこだわりが強いが、こういった買物についてはとやかく言わない。ロードバイクの趣味も心身の健康の維持のためだと説明すれば何ら文句がない。荒い性格や希に物を投げつける癖はともかく、私のような人物には良い組み合わせなのかもしれない。
そして、注文していた道具が届いた。先のシャーボ以上に仕事が捗る。ロードバイク用品に出費するよりもはるかに意味があった。
電車の中で身銭を切ってでも自分の包丁を買えと若手を諭していたベテランの料理人の話には続きがある。
「お客さんに喜んでもらう料理を作ろうとしても、食材はいつも状態が違う。同じ素材なんて全くないんだよ。そんな時に頼れるのは自分の舌と包丁だけだ。他の人が使う店の包丁じゃあ、包丁まで状態が変わる。自分で研いだ専用の包丁が大切なんだよ」と。
若い方の料理人はそのアドバイスを神妙に聞いていた。
ベテランの料理人は話を続けた。
「包丁の刃が自分の切り方に合うくらいに削れて、柄の部分も自分の指の位置に合わせて削れた時、お前は一人前の料理人になっているよ。外に修行に出たり、独り立ちして店を構える時にも、その包丁はいつも一緒にいてくれる」と。
その若者はとても重要な師に出会ったと思う。彼がベテランの料理人になった時、若者に同じアドバイスを送ることだろう。