ボサノヴァを聴いて突然やってきた絶望感と気怠さがいい
夫婦共働きの子育てが忙しいのか、私の家庭のスタイルが忙しいのかよく分からないのだが、とかく妻は忙しく動き回り怒鳴り声を上げ、子供たちは言うことを聞かずにやりたい放題。これが我が家の日常だったりもする。
ゴールデンウィークといっても、相変わらず我が家は慌ただしく、私は家事に勤しんだり、自室で仕事を続けたり、ペダルを回したり、何だかよく分からないうちに時間が過ぎた。
先日の手賀沼までの谷津道ライドで日焼けした両腕やふくらはぎが小麦色に変わってきて、少しの満足感に浸る。
家族が寝静まるまで私の心の平穏は訪れず、しかも上の子供が夜遅くまで起きていたりもするので、深夜にならないと落ち着いた気持ちになれない。
翌日が休日の時には、Amazonのプライムビデオで適当に映画を流してみたりもする。
トップページでなぜか勧められたのは、「メランコリック」という邦画だった。
インディーズ作品なのだろうかと思いながら視聴したら、脚本の荒さでやはりインディーズだと気づいた。
このような作品は荒削りだが、夢の中で見かけるシーンのような面白さがある。サスペンスコメディーというジャンルなのかもしれないな。
しかし、その内容は期待外れだった。
延々と殺人が繰り広げられる舞台が浦安市内の猫実の銭湯だということに気づいて、私は気分を害した。
なんだこれ。監督は何を考えてこの作品を撮ったのだろうか。
猫実の銭湯に通っていた人たちの気持ちを考えたことはあるのか。
市民にとってたくさんの思い出があるかもしれないのに、どうして架空の設定ではなくて実名で銭湯を舞台にするかな。
そのような設定が逆にリアリティを削いでしまう。
そのようなことまで考えが及ばない監督の作品は、やはりストーリーが雑だった。
途中から訳が分からない支離滅裂な展開になり、グダグダな内容になった。
最後まで我慢して観たのだが、何だか雑すぎて面白みに欠ける内容だった。
浦安市内で拳銃をぶっ放せば、いくら温和な浦安警察署でもすぐに駆けつけることだろう。
主要人物が捕まらずに安穏としているなんて、夢オチのエンディングしかありえない。
サスペンス作品は、極限まで現実だと思わせる紙一重のリアリティが必要なのに、笑いどころが見つからない三流のコメディだったな。
確かに大切な時間を無駄にした視聴者の気分がメランコリックになるので、まあそのようなものだろう。
レビューの星は1個で十分だな、これは。
全く合わない邦画を視聴して不機嫌になったので、ここはひとつ阿部寛さんに助けてもらおうと思い、「恋妻家宮本」という映画を視聴してみた。
夫役が阿部寛さんで、妻役が天海祐希さんという最強に美しい夫婦像なのだが、27年間連れ添った夫婦の二回目の恋という感じでとても気分が穏やかになった。
しかし、子供が生まれてから自立して家を出るまでがあまりに早急で気持ちが追いつかなかった。
しかも、あの二人の息子とは思えない長男役のルックスにゲンナリした。ここは男前の若手俳優をキャスティングするところだろ。
ということで、福山雅治さんが主演した「そして父になる」を視聴した。素晴らしい映画だった。特に母親たちの複雑な心理描写と父親たちの短絡的な思考表現が巧みだった。
そして、篠原涼子さんが主演した「今日も嫌がらせ弁当」を視聴してみた。
シングルマザーの苦労だけでなく、思春期の子供を育てる大変さをかなり上手に表現していて、役者の人たちの演技も気持ちがこもっていた。
何より、苦境でもへこたれない主人公の母親の姿や、病気で妻を失ったシングル世帯の父子の生き方も心に響いた。
冒頭のインディーズ作品は酷い出来だったが、その後の邦画は有意義な時間を私に与えてくれた。
邦画には、この国の気候や文化にも似た特有の湿り気があり、しかし表情だけで温かい気持ちを伝えるような深みがいい。
人生とは映画のようなものだというフレーズを耳にしたことがあるのだが、五十路近くまで生きてくると確かにその通りなのかもしれないな。
自分が今際の時を迎える時、自分自身の生き方の中でどのようなストーリーが描かれているのだろう。
大して華々しい映画ではないことは確かだが、長い時間を生きてきたので全く内容がないというわけでもないだろう。
たまにはしっとりとした邦画の良さを堪能するのもいい。
すっかり朝が近くなって、ベランダの向こう側が少し薄暗くなってきた。
私は基本的に夜型なので、気を抜くとすぐに昼夜が逆転してしまう。
下の子供は休日になると妻と私の布団を並べて、家族で一緒に眠ろうと主張する。
この家族愛は上の子供にはあまり認められないことが面白い。
眠っていても壁のような迫力がある妻に背中を向けて、目覚まし時計をセットせずに眠りに落ちる。
朝が来れば子供たちが腹を空かせて起きて暴れるし、妻は朝一番でいきなりテンションが上がるタイプなので、私が目を覚ますタイミングはたくさんある。
気怠い休日の朝がやってきて...といってもすでに昼が近いのだが....自室に入り、パソコンを立ち上げて仕事の続きを始める。
最近、ボサノヴァ・ジャズという音楽のジャンルを好んで聴いていて、この落ち着いた雰囲気がとてもいい。
昼間にコーヒーや紅茶を片手にくつろいでいる時にも、夜にウィスキーを飲みながらまったりしている時にも合う。
通勤中のようなストレスフルな環境ではデスメタルが適しているのだが、自分が心から寛ぐことができる自室...昔風に表現すれば書斎だろうか...では、明確なリズムがない音楽の方が気持ちが安らぐ。
ボサノヴァはブラジル音楽のジャンルのひとつで、日本人にはあまり聞き慣れないかもしれない。
私がボサノヴァの良さを知ったのは四十路に入ってからで、若い頃はサンバとどこが違うのか分からなかった。
小野リサさんという日本人のボサノヴァ歌手の声に魅了され、このジャンルがとても身近になった。
明確なリズムを刻む米国やヨーロッパのロック、あるいはその流れの影響を受けているJ-POPも良いものだが、絶妙にリズムを外してくる南米の音楽は脳に優しい。
何より、歌詞がポルトガル語なのだろうか、英語や日本語だと歌詞が頭の中に入ってくるのだが、全く聞き取ることができない。
人の歌声が限りなく楽器に近い感じがして、歌詞を理解しようとしなくても済むのでとても気楽だ。
小野リサさんの歌声もいいが、同じようなトーンの曲をどこかで耳にしたことがある気がする。
このような時、デジタル化された時代はとても便利だな。
AIによって紹介されるリストを眺めていると、頭の中で浮かんだ曲が並んでいた。
そうそう、アストラッド・ジルベルト (Astrud Gilberto)さんだな。
「イパネマの娘」や「おいしい水」といった曲の名前を知らなくても、カフェやバーで聴いたことがあるかもしれない。
アップテンポの演奏の中で流れてくるジルベルトさんの歌声の心地良さは、文章で説明しがたい。
感覚過敏の中で最も辛いのは聴覚過敏だと私は考えているわけだが、聴覚が過敏だからこそ、心地良い音が聞こえた時には脳が震えるほどに気持ちがいい。
小野リサさんの方が明るくて抑揚がある感じだな。
ジルベルトさんの歌声は前向きでもあり、気怠くもあり、平坦でもあり、何だろう....憂いや諦めさえも達観した奥行きを感じる。
彼女は今でもご存命なのだそうだ。彼女ほど本国よりも海外で評価が高い歌手は少ないかもしれないな。
夕食後にハイボールをひっかけて、ジルベルトさんの歌声に耳を傾けていたら、彼女が歌う「トゥ・ミ・デリリオ」という曲に感情や思考を引っ張り込まれた。
どうやら気持ちの深度を下げすぎたらしい。自分の感情がどんどんと深みに沈んでいく感じがある。ダウナー系の淵だな。
急激に自分を包んでいく希死念慮にも似た絶望感。
けれど、なんだろう。
まあいいかという気になってきた。
生きていると苛立ちがあったり、失望があったり、不安があったり、後悔があったり。
それらに抗うかのように何かの希望や楽しみを持ったり。
そういった様々な感情が波打ってループする感じがあるのだけれど、この状態では「もういいや...」という絶望に近い諦めがやってくる。
かといって、現状を悲観しすぎて逃げ出したくなる気持ちもなくて、全てが滑って流れていくイメージ。
いやはやこれは不思議な感覚だな。
色々とストレスフルな毎日に加えて、社会が混乱して訳が分からなくなってきている。
少し先の未来が簡単に予想しえないという煩わしさがあり、どうしてそうなるかなという苛立ちがあり、何だかんだと言っても気を張って生きているのかもしれないな。
そのテンションの糸がプツッと切られた感じがしなくもないし、そんな糸なんてさっさと切って肩の力を抜いた方がいいという気がしなくもない。
音楽は人類が生み出した最高の発明のひとつだと私は思うわけだが、感情を丸ごと引っ張り込まれた感じがして面白い。
たぶん、私が生きてきた時間のどこかで、ジルベルトさんのこの曲を耳にしたのだと思う。
彼女ほど有名な歌手であれば、どこかで曲が流れていたとしても矛盾はない。
その時、私はどのように生きていたのだろう。
全く記憶が残っていないのではっきりしたことが分からないし、記憶が残っていないのか、自分で記憶に蓋をしたのかも分からない。
今はただ、この前向きな絶望というか、爽やかな気怠さというか、不思議な感覚に浸っていたいという気持ちだな。
おっと、明日は仕事がある。
慌ただしい日々が再び始まる。
いつまでも連休気分を引きずっていてはいけないな。
だが、久しぶりに心が落ち着く休日を取ることができた気がする。
とてもありがたいことだ。