2021/04/29

テレワークと超回復

「ああ!? なんだそりゃ!?」と思うことばかりで、一体、何がどうなっているのか分からなかったわけだが、それも1年以上続くとようやく分かってきた気がする。

偉い人たちが次々と退職して随分と風通しが良くなり、知らない顔の人たちが増えてきた。スペシャリストとは聞こえが良いが、不器用でマニアックで出世に関心がない私にとっては、どうなろうと目の前の仕事をこなすだけだな。


私はガッチャマンに憧れて仕事を求めたわけだが、これがガッチャマンとは思えない。

まさにGANTZのように先が読めない展開になってきた。色々と都合があるのだろう。

いや、GANTZのような使命感すら感じない。

ああそうか、そのことに真っ先に気づいた人たちが落胆して辞め始めたということか。

やはり...バーンアウトによって調子を崩したことは痛かった。

泥船になったところから飛び去るには推進力が必要だ。その力を失った状態では、そのまま居続けるしかない。

だが、現状が本当に泥船なのだろうか。

これから先が全く読めない。

確かに法には触れていないかもしれないが、その範疇でモラルやマナーを失った人たちが動き始めた。

まあ、人の心は思ったほどには丈夫ではないし、ここまで来れば崩れ去って我欲に向かうのだろう。

自分自身に直接的に関係しなければ、思いは低きに流れるということだな。

論理的な思考の道筋を越えたところにある無数の選択肢、さらには偶然や奇跡に近い「運」が関係するような世界。

誰も答えが分からないし、答えが分かれば苦労はない。

しかし、ここで考えることを放棄せずに、できる限り落ち着いて対処することが大切なんだがな。

何を今さらと言われるかもしれないが、次世代を担う子供たちには「論理的」な思考を養うトレーニングが必要だと思う。

それと、自分だけではなくて社会全体のことを考える「道徳」という教育。

様々な人たちによる色々な思惑があって教育の姿が変わってきてはいるが、筋道立てて考えることと、人として他者を思いやる心。

この二つを教育の主軸にする必要があると思う。

...という立派なことを思いながら、所詮は雇われ人の私は、自宅の自室の限られたスペースでテレワークに勤しむ。

テレワーク。

マジかよ、いや、テレワークかよ。

「いや、これ、絶対にガッチャマンじゃないでしょ!?」と思いながら、まあとにかく色々と都合があるのだろうと上からの指示に従う。

バスケット漫画の「SLAM DUNK」とかで、「6番目の男」といった表現があるけれど、いつまで出番を待てばいいのか。

ベンチで座っておけということか。

性格に合わないんだよなと思っても、指示がそうなのだから仕方がない。

周りには、「いざ、我、首級を挙げんとす」という輩が多くて、さもしいと感じる。

ここで活躍して幹部からの評価を得れば、出世して生涯年収もアップすることだろうから、目の色を変えて頑張る気持ちも分からなくはない。

しかし、それは全体のことを考えているのだろうか。

自分自身のメリットに向かって突き進んでいるのなら、それは正気を失った沙汰ではないのか。

そして、色々な都合があって下がってろと言われた人は、このようにテレワークということか。

なるほど、そのようなさもしさにうんざりして、他の職場に転職する人たちが相次いでいるということか。

皆が重圧から解き放たれたような清々しい表情で職場を去って行く。

何だかなと思って転職しようにも、私には次を見つけるための力が整っていない。

昨年に声かけがあった時に、何も躊躇わずに転職すれば良かったのか。

しかし、それでは私の職業人としての矜持を失うことになる。

その矜持を保持しようとして踏みとどまった結果が、これなのか。

相変わらず、大事なところで判断を間違えるんだな。自分は。

職場にもグレードというものがあって、ダウングレードする形であればどこかで雇ってくれる場所があるかもしれないが、それは職業人としての矜持を放棄するということも意味する。

働き盛りの時期にバーンアウトを起こして業績が上がらなかったのは痛い。しかもそれが仕事というよりも家庭の都合だったのだから。

しかしながら、五十路が近いオッサンになってくると、様々な事象が後になって意味を生み出すことを知る。

たぶん、これだって何かの意味が生まれるのだろう。後付けサクサクかもしれないが。

この状況だって、それまでの私の職業人としての生き方を映し出していると反省すべきことなのだろう。

ベテランになってくると上司も同世代か年下になってくる。

上からテレワークで働けと言われて、「ああそうですか」と自宅にいても、必要だと思えば出勤したところで誰も文句を言わない。

上としては人事権という目先のニンジンをチラつかせて部下に言うことを聞かせようにも、出世に関心がないのだから意味がない。

なので、「必要だから出勤しました」とやってきても、特に叱られることもない。

五十路近くになってきたベテランのスペシャリストという存在は、上から見ても使いづらい存在なのかもしれないな。

だが、ベテランだからとか、スペシャリストだからとか、そういった立場に胡座をかいていると寝首を掻かれるので...というか寝てもいないわけだが...差し障りのない範囲で指示に従う。

例えば、私が「この街は最高だ!」という環境に住んでいて、住環境が好きで好きで仕方がなければ、テレワークの指示があれば喜んで従うのだろう。

だが、現状はどうだ?

街中に出るだけで心拍数が上がるような、個人的には最悪の街に住んでいて、そこでテレワークをしろと指示があるのだから、出勤した方がずっとマシだ。

だが、「私はこの街にいたくないのです!」という理由はテレワークを拒否する理由にならない。

「え!? だったら引っ越しなよ、ていうか、どうしてそんな街に住んでるの?」と指摘されれば一発論破だな。

かといって、浦安で育った妻や、浦安で生まれ育った子供たちの前で、「この街は最悪だから、お父さん、テレワークを拒否して職場に行くよ」とは言い出せない。

ということで、おとなしく自室にこもってテレワークに励むことにする。

まあ、頭を使って稼ぐ仕事でもあるので、それなりのノートパソコンとネット環境があれば、それなりの仕事をこなすことができたりもする。

そのような内容の仕事を自宅のテレワークでこなして、職場でしかできない仕事を出勤してやればいいという簡単な話なんだ。

それにしても最近のノートパソコンやクラウドシステムの進化は凄まじい。

自分の頭が付いて行かないくらいに使いやすくて、テレワークでサボりたくなる気持ちすら失せる。

私が浦安という個人的に最悪な街でテレワークを行う際には、可能な限り浦安という街に出なくても用を足すことができるように工夫をしている。

最寄りのコンビニまで行き、そこでコーヒーと紅茶、スナック、カロリーメイト、酒、そして袋ラーメンを買って急いで自宅に戻ってくる。

浦安という街に出ると様々な負の感情に襲われて嫌な気持ちになるので、さっさと自室に引きこもる。

そして、自室に引きこもってテレワークを始めて、そこからは一切外に出ない。

普通だったら、自室にずっといると気持ちが鬱になって、散歩したいという気持ちになるかもしれない。

しかし、私の場合には浦安という街が嫌で嫌で仕方がないので、散歩なんてしようものなら逆に体調を崩す。

むしろ、自室に閉じこもって仕事をしていた方がずっとリラックスすることができるわけだ。

朝飯はカロリーメイトと紅茶。

そこから仕事を始めて、数時間は過集中。

腹時計ではなくて、実際に時計の針を眺めてそろそろだというタイミングで袋ラーメンを鍋に入れ、適当にグツグツと煮て、冷蔵庫から卵を取り出して鍋に放り込む。

そして、パソコンの画面を眺めながらラーメンをすすり、夕方まで紅茶やコーヒーを片手に仕事を続けるわけだ。

テレワークの仕事が終われば、自室のチャブ台の前にあるスピンバイクに乗り込んで、ペダルをこぎ続け、適度に汗をかいたところで風呂に入り、冷蔵庫から酒の缶を取り出して自室に持ち込み、プシュッと開けて飲み干す。

そして、ノートパソコンで映画やアニメを見て、歯を磨いて眠りにつく。

インドア派という範疇を超えて、おそらく火星行きのスペースシップの中で正気を保っていられるのはこのような人だという姿を体現している感がある。

しかしながら、ゴールデンウィークに入って、休日とテレワークでそのような日々を過ごしていると、私の中で大きな変化が生じてきた。

毎日、浦安から都内の職場までの往復3時間の電車通勤の地獄は、私の心身に大きなダメージを生んでいたことは知っていた。

また、今すぐにでも引っ越したいという浦安という街での生活も、私の心身に計り知れないダメージを生んでいたことも知っていた。

上からテレワークの指示があって、そのような苦悶の日々を少しだけ回避しただけなのに、私のメンタルが急速に回復していることを実感している。

職場で苦手な同僚と顔を合わせなくて構わないという点もストレスを減らしてくれる。

筋トレで例えれば「超回復」に近い勢いだ。方向性は異なるが。

それにしても...私は浦安というストレスフルな街での生活とか、様々な人と一緒に鉄の箱に押し込められて人混みに巻き込まれる長時間の通勤が本当に苦痛なのだなと再確認した。

点と点は繋がって線になり、線と線は交差して面になる。

テレワークという働き方は性に合わないが、それによって意味が生まれることもあるのだろう。

本調子ではない上に、社会の変化が大きすぎて、私の感覚や思考が浮き足立っていることは分かっていた。

それでも何とかせねばと、藻掻いていた。

まあこれも気づきのためのきっかけだな。

曹洞宗では、「只管打坐」という考えがある。

座禅の極意というか、基本的なスタイルだ。

子供の頃に祖母に連れられて座禅を組んだので、あまり深いことは分からない。

しかし、それによって何かの目的を成し遂げようとして座禅を組むのではなくて、座って心を落ち着かせるという行為そのものが大切なのだと学んだ。

では、今の社会はどうなのか。

不確定な情報が錯綜し、何が正しくて、何が間違っているのかも分からず、しかし世の中を煽りたい人たちの思惑に乗って、大多数の人々の心が乱れてしまっている。

明らかに間違った方向に突き進んでいるのに、自らの欲求を満たそうとしている人たちもいる。

この混乱を機に自らの思惑を実現するために、全体を間違った方向に引っ張ろうとする人たちもいる。

荒れた状況の中で、自分はどうすべきなのか。

どうすべきなのかという答えを見つける前に、とにかく座って心を落ち着けることが大切だな。

「テレワークで只管打坐をやっておりました!」と報告すると、間違いなく叱られるので真面目に働くわけだが、あまり複雑な思考を必要としない単純作業を中心に行うことにした。

心の中に漂う様々な感情や思考を受け流し、ひたすら作業に集中する。

自分はどうしてテレワークを行っているのか、テレワークとは何なのか。

1年以上もテレワークを指示されて、しかも業務量と残業が増え、もはや心も体も崩壊しかけている外資系企業の日本人社員がたくさんいるそうだ。

自分で決めて就職したのだからそんなこと知らんがなと思いはするが、色々と都合があったのだろう。

再び緊急事態宣言が発令されて、彼らはどんな気持ちなのだろうか。

人は自分について直接的に関係のないことには関心を持たない。

ここまで常軌を逸した社会情勢の中、他者がどうなろうと知ったことではない感じて当然かもしれない。

しかし、他者を気遣う心の余裕までなくすことは、本当に正しいのか。

しかし、それらについて分析的に考えることは禅ではない。

頭の中に浮かぶ思考や感情を否定せず、しかし肯定もせず、ただひたすらそのままにする。

「禅とは座禅だけではなくて、日常の全てのことが禅なのだ」と僧侶がおっしゃっていたが、おそらくこのような作業も禅に近いのかもしれないな。

禅宗で勉強になることは、日々のルーティンを乱さないことだ。

うちの妻は変化が大好きで、同じことの繰り返しを嫌う。

妻の場合には禅宗ではないので深く考えないようにしているが、この生活も禅なのだなと考えよう。

さて、環境が違うのでペースは上がらないが、まあこれくらいで良しとしよう。

テレワークの時間が終わり、自室でおもむろにシャツとパンツを脱いで全裸になり、レーシングパンツを履いてスピンバイクに乗る。

東京大衆歌謡楽団の演奏をヘッドホンで聴きながら、ひたすら無心でペダルを漕いで汗だくになり、シャワーを浴びてハイボールの缶を開ける。

適度に酔ったところで、妻が作ってくれた旨い夕食を堪能し、酒を楽しみながら映画やアニメで心を癒やす。

本当は寝食を惜しんで仕事で燃え尽きたいのだが、そのような指示が降ってこないので仕方がない。

今は来たるべき時を前に回復してコンディションを整えるステージだと考えよう。

何事もネガティブに考えることは易しいが、ポジティブに考えることは難しい。それでもポジティブに解釈しよう。