2021/04/27

高校時代の純愛から夫婦になった人たちって幸せなんだろうな

前日に「HELLO WORLD」という高校生の純愛をベースにしたSF系のアニメ映画を鑑賞して、これは素晴らしいと感動した。話が二転三転するアクロバティックな展開も面白かった。

その感動を妻に伝えたのだが、「純愛なんて、非現実的だ、妄想だ、ありえない」と全否定された。妻の発言はほとんどが全否定だ。相変わらず歪んだ性格だなとうんざりして以後の会話を打ち切り、私は自室に引きこもった。その時、「そうか...そういうことか...」と大切なことに気づいた。


妻の主張は彼女の生き方と何ら矛盾していないし、そのような思想を持つことは自由だ。

ただし、このような性格だったのなら、結婚する前の交際時に隠さず示してほしかった。

それならば結婚に至らなかったから。

結婚してから本性が出て、性格のミスマッチで苦しむ期間の方がずっと長い。

どうして私は妻の本当の性格に気付くことができなかったのだろう。

そして分かったことがある。そうか、なるほど確かにそうなんだ。

話を整理すると、私はアニメについては幅広く視聴するのだが、高校生の男女の真面目な純愛をテーマとして、タイムスリップや空間移動といったSF的な要素を取り入れた作品に出会うと、その世界観に浸かって感動する性質がある。

五十路近くになったオッサンがそのようなアニメを見て喜ぶなんて、なんと気持ちが悪いのだと我が子たちから言われそうだが、アニメで登場する女子高生を見て興奮しているわけではない。

まあそのような嗜好があるオッサンも世の中にはたくさんいたりもするわけだが。

このような高校生の純愛をテーマにした映画を見て、その世界観に浸かることができるか否かは、当然だが高校時代に純愛を経験したか否かという経験論に左右されることだろう。

ほら、柑橘系の果物の香りのように、まさに「甘酸っぱい思い出」という書いていて気恥ずかしくなるほどの恋愛だな。

私は学生時代に共学の高校に通って、それなりに思い出深い恋愛を経験したので、そのジャンルの映画を見ると当時の記憶が浮かび上がってきて懐かしくもあり、楽しくもあり、切なくもある。

一方、妻は中学受験によって中高一貫の女子校に入学した。

当然だが、中学には女子生徒しかおらず、高校にも女子生徒しかいない。

学校の枠を越えることができれば話は違うが、同性での恋愛を除けば純愛を経験することは困難だったことだろう。

そして、卒業すれば数年で成人するわけだから、思春期に男女の恋愛を実体験せずに大人になる。

男子校や女子校といった類は、余計な面倒がないと聞くけれど、結婚すれば長い期間を男女で連れ添うことになる。

そのような環境で育ち、男女の間合いを必ずしも理解しないまま夫婦になっている人たちもいるはずなんだ。

妻は大学時代も社会人になってからも実家で暮らし、そして結婚して今に至る。

私も相当に変わっているが、妻も相当に変わっていて、大学時代に男性と交際しかけたことがあったようだが、すぐに縁遠くなったらしい。私としては、だろうなとしか言えないが。

そもそも、妻が男女の恋愛感情を本当に理解しているのかどうかも分からない。

つまり、私が純愛モノの映画を見て感動してその気持ちを妻に紹介したところで、妻としては経験したこともなく、現実に存在するかどうかも分からない世界というわけだ。

そのような妻が結婚して子供を産んで育てている。

うちの妻は、どうして私と結婚したのだろうか。恋愛感情が発展して結婚に至ったとは思えない。

この点について妻に尋ねると、「ほら、その愛情の結晶が部屋の中を歩いているではないか」と子供たちに言及するのだが、愛情がなかったとしても生物学的には生殖が成立する。

この状況はおかしなことなのかというと、そうでもないのだなということに私は気づいた。

男女の恋愛においては、お互いのことを理屈抜きで好きになり、共に連れ添おうとするわけだな。

一方、結婚とは社会的な制度であり、システムであると解釈することもできる。

恋愛の結果として結婚があるというパターンは否定しえないが、必ずしも純愛の延長線上に結婚があるわけではない。

いわゆる婚活では、女性から見た判断材料として提示される情報には、学歴だとか職歴だとか年収といった要素が付加される。

それらを女性が見て、結婚する際に相応しい相手なのかどうかを考慮することは間違いないだろう。

自分の息子が連続して東大医学部に進んだ母親の自伝の中に、「合格すれば、彼女なんてすぐにできる」と子供たちの男女交際を禁止したエピソードがあったが、なるほどそれは間違っていない気がする。

その母親は恋愛と結婚を履き違えているし、このようなタイプと連れ添った夫が気の毒だなと感じることはあるが。

世間一般のレベルから外れた容姿でも、女性の扱いが下手でも、東大卒の男性医師は女性から人気がある。

自分が女性だったら絶対に交際しないだろうなという容姿と性格の男性でも、女性の方から近づいてきてリードして、すぐに結婚してしまったりもする。

それは東大に限ったことではなくて、国立大学の医学部卒の男性たちの結婚のペースはもの凄かったりする。

適齢期の女性から見れば、相手の男性にそれなりの収入があることは間違いないだろうし、結婚して生まれた子供の学力の偏差値が70を超える可能性もある。

様々な要素を取り除き、ひとりの男性として見た上で恋愛の対象にならなくても、制度や人生を考えた上では結婚の対象になるということだな。

先ほどの男性医師との結婚に限らず、高学歴あるいは高収入といった男性の要素が、将来の伴侶としての判断基準になることは間違いない。

結婚というシステムの中では、男女の愛情がどの程度かに関わらず、自分にとってメリットがあるのかどうかという点で話が進むこともある。

この傾向は、女性から見た男性という話に限ったわけではなくて、婚活パーティーで資料が配付された時、男性が最初にチェックするのが女性の容姿と年齢だったりもするそうだ。

容姿については否定しない。性格が悪くても美人なら許してしまうのが男のサガかもしれない。

そういえば、知り合いのハイスペックな女性が、浦安市主催の婚活パーティに参加し、女性のプロフィール欄の年齢の部分に細かくチェックマークを書き込んだ男性から軽くあしらわれてげんなりしたという実話を耳にしたことがある。

夢がないとか、打算的だとか様々な指摘があるかもしれないが、恋愛と結婚は違う。

だが、それが現実でもあるということか。

どこかで大問題になっているが、いくら相手の男性のことが好きでも、無職で評判も悪いという理由で周りの人たちから猛烈に反対されるケースもある。

すでに結婚して子供を育てていると、「夫婦とは何か」とか「結婚とは何か」といった命題が目の前に立ちふさがることがある。

結婚とは社会的な制度だと割り切って捉えれば、様々な疑問が割と腹落ちしたりもする。

国内の至る所で既婚者の不倫が生じて問題になったりもするわけだが、結婚という男女の生き方を決める制度の中で生活していて、明らかに恋愛の対象となる異性と出会い、制度を踏み越えてしまうと考えると、まあなんとも男女の関係は難しいものだと思ってしまう。

話は戻って、「純愛とは何か」という言葉の定義は難しい。

純愛という言葉を「邪心のない、ひたむきな愛」と定義すると、かなり広範なレベルになってしまう。

だが、「肉体関係を伴わないプラトニックな恋愛」が純愛だと定義すれば、なるほどそうかもしれない。

高校生の恋愛をプラットホームにしたアニメ映画の場合、内容は間違いなくプラトニックな恋愛なわけだ。

その世界観には、まとわりつくような肉欲にまみれたシーンは登場しないし、はにかむことが多い何とも爽やかなシーンが続く。

しかも、エンディングから先には様々な未来が待っていて、この二人は将来、幸せに生活するのだろうなという前向きな気持ちになることができる。

しかし、話を現実世界に移して真面目に考えてみると、高校時代の純愛からスタートして結婚し、子供を育てている夫婦は、この世の中にどれくらいいるのだろうかと気になった。

大学生になると学校名だとか学部だとか、そういったレッテルが貼られてしまうが、高校時代の同級生あるいは先輩や後輩の場合には、レッテルがない状態での素の人間性を互いに観察することになる。

制服が決められている状況が大半であり、同じような格好をしている男子生徒および女子生徒の集団生活の中、違いといえば容姿や性格、部活や学力くらいだろうか。

男性に限れば、〇〇大学卒とか、大手企業の総合職とか、年収〇千万円とか、長男ではなくて次男だとか、そういった細かな仕様が個人に貼り付いていない段階だな。

そのようにフラットな状態で互いに共鳴して引き合い、言葉で説明することが難しい感情を生じるのだから、純愛とは神秘的だなと感じる。

他方、成人してからの結婚というステップはどうなのか。様々な思惑、都合、打算が交錯し、子供ができた後はレスになって手を繋ぐこともない夫婦が大勢いる。

そう考えると、大人になってからの男女交際の方が判断基準が豊富で、交際に至る機会が多かったりもする。互いを品定めするということだ。

将来的に結婚を考えている場合には、男性の学歴や職歴、収入についても交際時の判断基準になるだろうし、女性の年齢や交際歴が気になったりもすることだろう。

だが、高校時代の純愛から結婚に至った場合には、ほとんど素の状態から互いのことが好きになって一緒になるということか。

関係がマンネリになるとか、飽きてくるとか、そういったネガティブな意見が散見されるかもしれないが、生殖のステージが終わってからの夫婦関係においては、純愛から続いた結婚の方が幸せかもしれないなと思う時がある。

大人になってからの交際を経て結婚した場合には、大なり小なり、相手の素の性格を完全に理解しないまま婚姻という制度に従うパターンになる。

その時は魅力的に感じてゴールインしたけれど、いざ結婚してみると互いに不満が蓄積したり、ああこんな性格だったのかと愕然としたり。

まあ、それらを含めて結婚なのだろうなと思いはするが。

しかも、結婚は男女ふたりだけの話ではない。結婚すると、相手の実家との相性が幸福度に大きく関係する。

素敵な異性と巡り会ったと喜んで結婚の挨拶に参上したら、義父母が地雷のような人たちで、しかも結婚後は配偶者が義実家の味方になって苦悩するなんてことはよくある。

私もそのパターンだな。一度も義実家に泊めてもらったことさえない。

また、双方の実家としても、大学時代あるいは職場といった段階で男女が出会って結婚する場合には、相手の実家としてはどこの馬の骨とも分からない人が挨拶にやってくるわけだ。

警戒したり考えが衝突することは珍しくない。

高校時代からの付き合いであれば、将来的に義父母になる人たちと面識があるわけで、お互いの実家が同じ地域というパターンがあり、お互いに共有する情報量が多い。

今では廃れてしまったお見合いという風習は、見方によっては優れたシステムだな。

確かに結婚は個人という要素だけでなく、家という要素も絡んでくる。

自分の場合はどうなのだろう。

高校時代の1つ下の後輩とプラトニックな恋愛を経験した時、たった数年とは思えないくらいに刺激的な時間が流れた。

交際といっても、携帯電話さえ普及していなかった頃の話だ。

互いに手紙を交換したり、学校から駅まで一緒に歩いて帰ったり。

休日に近くの公園に行ったり、海を見に行ったり。

結局、彼女とは上手くいかなくて交際が終わり、まあこんなもんだと諦めて迎えた卒業式の日。

校門の前で当時の彼女が待っていてくれて、高校生活で最後の日に、海が見える高台の城跡の公園に二人で行った。

田舎の高台の公園なんて、近所の人たちでさえ散歩にくることがない。

二人で並んでベンチに座り、海を眺めながら、これからどうするのかとか、あの時はこうだったねと話が続いた。

恋愛モノのアニメ映画でよくあるシーンというか。

思い切って彼女と手を繋いでみたら、想像以上に柔らかくて温かくて、今から思えば子供から大人への階段を登っている時なのだろうな。

帰り際にさりげなく顔を近づけ、周りに人がいないかドキドキしながら唇を重ねた時には、まさに天にも昇る気持ちだったな。

その後で国立大学の二次試験だったので、コンディションとしてはどうたったのだろう。

何だかよく分からないうちに受験が終わって合格し、私は郷里を去った。

大学に入学した後も、彼女との連絡は続き、手紙をやり取りしたり、当時としては大変な料金を払って深夜に電話したりもした。

だが、よくある話かもしれないが、互いの距離が遠くなると心の距離も遠くなるのだろう。

気がつくと連絡を取り合う機会が減り、一度か二度の手紙で交際が終わった。

その後、一般教養が終わる大学二年生の頃、私は人生の選択で大きな悩みを抱えていた。

このまま進むと、それなりに安定してはいるが、私が望んでいる方向ではないことは分かっていた。

この方向は私の両親が勝手に決めて押しつけてきたものだ。

私が我慢してその道のりを歩き続ける必要はない。

しかし、ここでドロップアウトして、そこから自分の力で前に進むことができるのかどうか。

もはや全てを諦めて死のうかとも思った。猛烈な孤独感があった。

確か、春休みの頃だったな。

そのような悩み多き時期に自宅で引きこもって、昼夜逆転の毎日を過ごしていた時のことだった。

すでに男女としての交際は終わりを迎えて、連絡を取ることもなかった高校時代の彼女が、住所だけを頼りにやってきて、私のアパートのインターホンを押した。

「全く、この人はいつもアポなしでやってくる」と唖然とした。

東京で部活の大会があり、その帰りに立ち寄ったらしい。

田舎から近い地方都市の国立大学に入学した彼女は、高校時代よりもずっと美しくなっていた。

田舎の高校の制服を着て、スッピンで校則通りの格好をしていた女性が、それらの制約がなくなり、化粧して現役の女子大生なのだから、ギャップがあっても当然だろうな。

しかし、当時の私は将来への希望もなくなり、一体、どうやって生きていこうかと絶望の淵に落ちていた。

高校生時代の夢と自信に溢れた姿ではなく、ショボくれた無様な姿を見て、彼女は落胆したことだろう。

この状況は、昔に交際していた彼女が私の自宅に泊まりにきたというパターンだ。

本来なら喜ぶべき状況だったはずだ。

当時の私は交際している女性もいなくて問題もなかったし、彼女が来てくれて嬉しかった。

しかし、どうやって生きていくのか、生き続ける必要があるのかと悩んでいる時に誘われて困った。

若い男性ならば、ここでオスになって肌を重ねてしかるべきなのだろうけれど、契りを交わしたからには結婚して相手を守るべきだとという考えだった。

しかし、その力が自分にはあるのだろうか。将来の方向性すら定まらずに、こんな状態で結婚するなんて無理だなと。

情けない話だが、彼女と人生を共にして、幸せにする自信が全くなかった。

夜も更けて灯りが消え、彼女から求められたのだが、気持ちに応じることができなかった。

高まる気持ちを抑えながら、「この先の責任を取ることができない」と、若き日の私はあまりに無様な言葉をつぶやいた。

常夜灯が薄っすらと照らした彼女の姿は、とても美しかった。

翌日、見晴らしの良いデートスポットを二人で訪れ、田舎の高校生時代には経験しえなかった場所で食事をとり、夕方には海沿いの公園で水面を眺めた。

卒業式の頃のことを二人で思い出したり、とても懐かしい時間が流れた。

しかし、過去と違ったのは、手を繋いでいないこと。

顔を合わせて会話するのは、これが最後だなと思った。情けなくて涙が出た。

駅まで彼女を送って、姿が見えなくなるまで手を振り、ひとりのアパートに戻った。

私が初めて煙草を吸ったのは、その時だ。

しばらくして、彼女から手紙が届き、二人の関係が戻ることはないことを察した。

プラトニックな恋愛から大人の恋愛に進もうとしている時に、私がそれを躊躇したのだから仕方がない。

けれど、その数日の記憶は数十年2経った今でも残っているし、今では映画の光景のように感じる。

古臭い表現だが、まさに青春だな。

当時、私たちはまだ20代の前半だった。

そして、今、私たちは50代に入ろうとしている。

お互いにオッサンとオバサンだ。子供たちがそのような話を聞けば、「キモいよ」と笑われることだろう。

しかし、今のオッサンやオバサンだって、爺さんや婆さんだって、昔は若かったわけで、それなりの恋愛を経験した人たちが多いはずなんだ。

すでに過去を振り返っても遠い記憶しか残っていないけれど、もしも、彼女が突然訪ねてきた日の夜に、気持ちに応えて肌を重ねていたら、現在はどのような生活になっていたのだろう。

彼女と別れた後の私は、漫画の「妻をめとらば」のように、女性との交際と破局のループが続き、婚期が遅れた。

仕事が忙しくて婚活に時間をかける余裕もなかった。今度こそ、今度こそと頑張ってみたのだが縁がなく、気が付くとオッサンになっていた。

現在の妻との結婚がラストチャンスだと思って先に進んだ。

そこに妥協があったのかというと否定はしないし、妻としても様々な算段があったことだろう。

妻がスーパーに買い物に行くと、最初に見限り品からチェックする習慣がある。

賞味期限が切れかけている野菜とか。

「これはね、皮を取ったら味なんて変わらないわよ」と。

一方で、食材の産地には異常にこだわる。

いくら新鮮でも、リスクがありそうな産地の食材は絶対に買わない。

まあそういった性格が結婚とどのように関係しているのか分からないが、婚活中の男性としては、私は見限り品になっていたことは間違いない。立派なオッサンだった。

けれど、妻としては、私はそれなりに学歴も職歴もあり、経済的に不自由することはないと判断したはずだな。

やはり見限り品だな。私は。

しかし、高校生時代からの彼女と結婚して早めに所帯を持っていたら、どんな人生だったのだろう。

子供が生まれていたとすれば、そろそろ成人する頃だ。

今のような尖った仕事には就いていなくて、平凡なサラリーマンだったかもしれないな。

浦安に住むなんてことはありえなかったし、義実家との関係に苦悩し、完全アウェイの状況で私だけが孤立することもなかったはずだ。

自宅では夫婦で地方の方言を話していることだろう。

子育てが一段落しても、今のように夫婦で手も繋がない毎日になっていないかもしれないな。

冒頭の話に戻ってしまうのだが、恋愛モノのアニメ映画では、偶発的に時間軸を飛び越えてしまう要素が付加されることが多い。

物理学的法則に基づくと時間が決して戻らないことは分かっているけれど、せめて空想の世界では過去に戻ってみたいなという人々の感情と共鳴するのかもしれないな。

高校時代の彼女は言いたいことを言う性格で、行動力がとても高くて、それなりに苦労することもあったが、明るくて穏やかな性格だった。

そして、歌がとても上手で、読書家で、文字と声がとても綺麗だった。

一枚も写真が残っていないので、どのような見た目だったのかは記憶を遡るしかないのだが、DREAMS COME TRUEのボーカルに眼鏡をかけた感じだったな。

ズータンズのボーカルのような感じでもあったが、凜とした強さがあった。

しかしまあとにかくカエル顔という表現になるだろうか。

うちの妻もカエル顔なのだが、彼女の面影を追い求めていたわけではなくて、おそらくカエル顔を好む性質が私にあるのだろう。カエルにも種類があることを結婚してから知った。

そして、彼女は今、小学校の教師になり、結婚して子供もいて、頑張れば浦安からロードバイクで到着する範囲で生活している。

若き日の彼女が、どうして田舎から首都圏にやってきて就職したのかは分からない。

地方の国立大学に進んだのだから、その地方の都市部で就職したとずっと思っていた。

では、今になって彼女に会いたいなと思うのかというと...会いたくないな。

このような白髪頭で老け込んだ姿を彼女に見せたくないし、夫婦として連れ添ってきたのならばともかく、20代の頃からタイムスリップで50代になるというのは互いにショックが大きい。

男性と比べて女性は過去の交際相手についてことを気にしないらしい。

おそらく、彼女は私のことを忘れ去ってしまっていることだろう。しかし、ネットで検索したら驚くかもしれないな。

純愛と言うと何だか古くさくもあり、若い人たちからは気持ち悪くも感じるだろうが、当時の良き日の思い出は、できれば心の中で大切にしておきたい気がするな。

これから二度と経験することもないエピソードだ。

それにしても凄いことだ。

お互いが30代で独身であれば、時間が過ぎていたとしても関係を戻すことができたことだろう。

そこから10年経つと、40代。

結婚や子育てといった人生のクライマックスが、たった10年くらいの期間に凝縮されているように感じる。

そして、50代になると人生が一段落し、60代になったら還暦だ。

恋愛なんて言葉を口に出すこと自体が似合わなくなる。

そう考えると、若い頃は意識したことがなかったが、想像以上に時の流れは速く、笑いと絶望感が混ざり合った感情さえ浮かんでくる。

そのようにアンニュイな思秋期のオッサンが高校生の恋愛モノのアニメ映画を鑑賞して、妻にその感動を伝えて全否定が返ってくると、遠い目をして人生を遡ってしまいたくもなる。

相手の本当の性格がマスクされた状態で結婚しても、結婚は結婚だ。

確か民法で定められた社会的制度なので、性格が合わないといっても、泣いて嘆いて精神が追い詰められても婚姻は続く。

ギャンブルに近いルールかもしれないな。

しかしながら、純愛から結婚まで続いた夫婦がいたとすれば、とても素敵なことだなと思う。

互いを理解した上で連れ添うのだから。

そのような人たちに対して嫉妬や嫉みを感じることはないが、決して元に戻らない時間の長さと、若き日の自身の判断の重さを感じる。

まあ、今になって淡い思い出に浸ったところでどうなる話でもないな。

高校時代の彼女と関係が続いて夫婦になっていたとしたら、バーンアウトを経験して感情を失い、自我が解離して悟りを開くこともなかっただろう。

生きていると、良き日もあって、悪き日もあって、全てが集まってひとつの小説や映画のようになる。

純愛という思い出が残っているだけでも幸せなことなんだと考えよう。

そうだ、これから紅茶でも煎れて、ドリカムの曲を流しながら黄昏れよう。