2021/04/25

自他境界が曖昧な人を真正面で受け止めるよりも

身体に違和感を覚えてゆっくりと目を開けると、自室で倒れ込んでいた。今日が日曜日だということは気づいていて、陽が傾いている様子からは、すでに夕方に近くなっていることを察した。

布団を敷いて眠っていたわけではなくて、昼寝をしようとしたわけでもない。13時頃までの記憶は残っている。激しい目眩と動悸、偏頭痛に襲われ、床に座り込んで我慢しているうちに体の力が抜けて視界が真っ暗になった。おそらく神経調節性失神と呼ばれる症状だろう。


もはや満身創痍だな。どこで人生を間違ったのか。

少しずつ状況を思い出してきた。

日曜日の午前中、上の子供に対する妻の怒りが爆発して、怒鳴ったり物を投げたりと大変なことになった。

必死に妻を落ち着かせようとして、ようやく静かになってきたので私は自室に戻ったが、我慢し続けたダメージによって倒れてしまったということか。

妻は神経の線が細くて突然切れるので、夫婦共働きの子育てとか中学受験には向いていない人なのかもしれない。

癇癪の矛先は子供や夫に向かい、家族にダメージを加えてしまう。

夫が倒れても妻は知らない顔だ。自分の中で話が完結しない限り切れ続ける。

私は足りない夫だけれど、今までよく耐えたと思う。

妻の癇癪や暴力に耐えかねて離婚する男性はたくさんいる。

養育費を払わない男性は正しくないが、それを払わない背景には元妻への怒りや恨み、恐怖がある場合も含まれていると思う。

配偶者を精神的に極限まで追い詰めるなんて、気が狂っているとしか思えないが。

神経調節性失神はてんかん発作と間違われやすく、職場で倒れて病院に運ばれて、ドクターがてんかんを疑ってしまうと、しばらくは休職扱いになって戻ってくることができなかったりする。

ドクターとしても、本当にてんかんであった場合、それを見過ごして大事故になってしまったりすると大変なので、慎重に検査や経過観察を行うことだろう。

精神的なストレスやショックによって脳への血流が一時的に減少し、意識を失うことがあるなんて、我ながらハムスターなどの小動物のようだと感じはした。

興味深いことに、動悸や目眩、頭痛を覚えた私は、この状況を私自身で何とかしようとして、座禅を組んだ。おそらく、それが失神の引き金になったのかもしれない。

座禅やマインドフルネスといった活動は、自分から自我を切り離し、外部の環境と内面を同化させるような精神状態を引き出す感覚がある。

それらは脳の情報処理を応用して脳の精神的負荷を軽減させる知恵のようなもので、とりわけ宗教的な儀式ではないと私は理解している。

しかし、禅を組むのはもう少し落ち着いてから始めた方がよかったな。

心拍数が下がってもいない状況で自我を切り離そうとして、外部の情報が脳の思考の深部にまで突き刺さってしまったらしい。あくまでイメージだが。

天気が良い日曜の朝に目を覚ますと、私は愛車のロードバイクを整備して、サイクルウェアに着替え、昼前からサイクリングに出かけている。

この取り組みは、生きることに飽きてしまった私にとっての趣味という要素もあるし、感覚過敏によってストレスを帯びて調子を崩しやすい性質に対する認知行動療法のような要素もある。

日曜日の朝、カーテンを開けると天気が良かったので、これはサイクリング日和だなと思ったのだが、ベランダに出ると妙な空気の重さがあった。

おそらく、現時点では晴れているが、これから気圧が下がるのだろう。しかも、妻の機嫌が悪そうだ。

両者の組み合わせは黄信号だ。

自転車を整備しながら、これからサイクリングに出かけるかどうかを思案する。天気のことだけを心配しているのではなくて、私の家庭にはもっと重大なことがある。

洗濯物をハンガーに干していたら、案の定、上の子供の部屋から甲高い怒鳴り声が聞こえてきた。

妻が上の子供の態度に激怒して大暴れしている。

このような時、私は、妻の味方になることも、上の子供の味方になることもしない。

だが、子供を養育する保護者として、子供の心に傷が残るくらいの情緒的虐待を行うことは許されない。物を投げたり、暴力によって痛みを加えることも許されない。

癇癪持ちで電子レンジのように熱くなる妻の性質から考えると、あまり良くない展開が想像しうる。

部屋のドアを開けると、凄まじい圧の表情の妻が金切り声を張り立てて上の子供を叱っていた。

その表情は般若というよりも不動明王に近い。

宗教的な意味合いではなくて、言い伝えや学問的な側面で記すと、不動明王は大日如来の化身とされていて、どの絵や像を見ても怒っている顔をしている。

とにかくもの凄い表情で怒っている。

大日如来は真言宗では絶対的存在なのだが、曹洞宗で育った私にはどこまで絶対的なのかが分からなかったりもする。とにかく絶対的なのだろう。

そして、大日如来は穏やかな表情をしているが、人々や社会が悪い方向に進んで言うことをきかないと、怒りをまとった表情で顕れるとされている。

その時の姿が不動明王だと解釈されている。

私の母と妻はともに気性が荒いが、妻の場合には子供への愛情があり、それが厳しい躾けとして顕れる。

確かに般若よりも不動明王だな。

仏教では、千日回峰行という想像を絶する荒行があって、行者は生身の不動明王という扱いになるそうだ。

その苦行において、行者や信者が唱え続ける不思議なフレーズがある。

 ノウマク サンマンダ バサラ ダン センダ マカロシャダ ソハタヤ ウンタラタカンマン

これは、不動明王の真言だ。

真言とは、不思議な力を持つ言葉とか、呪(じゅ)と呼ばれている。呪文のような解釈なのだろう。

もちろんだが原文にはきちんとした意味がある。それを原文のまま読むと呪文のようになるのだが、その方が神秘性があって何だか高まる。

しかも、十年とか百年といった期間ではなくて、平安時代、つまり千年以上前に生み出されたフレーズが今でも残っていることに驚く。

現在の、あるいは映画で再現された修験者たちが唱えているフレーズも、不動明王の真言だったりする。

例えば、「劔岳 点の記」という映画において、山頂を目指す帝国陸軍の測量隊のメンバーに対して剣岳の登り方について貴重なアドバイスを送る修験者が、修行の最中に唱えていたフレーズも不動明王の真言だ。

一度も人類が登頂を果たしたことがないはずの剣岳において、どうして修験者が登り方を知っていたのかというシーンは、クライマックスやエンディングへの伏線になっていたりもして面白い。

また、映像データが残っているわけではないのだが、平安時代は山岳信仰の修験者たちが様々な山の頂上まで登って開山するという取り組みが行われていた。

おそらく、彼らは不動明王の真言を唱えながら懸命に山頂にアタックしていたのだろうなと、何とも興味深い。

耐えがたいストレスを受けた時、何も考えずに外部の情報を脳に取り込むと、当然だが脳へのダメージが大きくなる。

唖然として思考が止まるとか、そのような状況では自分をしっかりと保つことが大切なわけだが、そこまでセルフコントロールに長けた人は少ない。

「この言葉は、不思議な力がある呪文だ」と唱え続けることで、正気を保ったり、精神を統一させる行為は世界中に認められる。

原理的には脳のシステムを応用したと理解することもできるし、それらを信仰のひとつとして活用したという歴史も理解することができる。

さて、長く連れ添っていると、妻が激高して子供を問い詰める行為にもパターンが見受けられる。

「どうするのよ!?どうするのよ!?」と金切り声で同じ質問を連呼するとか、物を手にして投げつけるとか。

かつての私は、妻が怒って暴れると、その状況を夫として、もしくは父親として真正面から受け止めようとした。

結果、ストレスが過多になり、通勤地獄や義実家との関係を含めたストレスによってバーンアウトを起こし、感情を失った。

妻が癇癪を起して自分の感情を制御することができなくなるという性質は、結婚して子育てに入ってから分かったことだが、おそらく義父母はそのことを知っていたのだろう。

初めて妻が家庭で大暴れして憔悴した私は、義父母に相談した。

しかし、「うちの娘は穏和な性格だ」と義父母が答えたきり、全く対応がなく突き放された。あの時の恨みは今でも忘れない。

妻本人としても、私が求婚しなければ一生独身だったと、大して感謝もせずに言い放つぐらいだ。

ジョーカーを引いたつもりはないのだが、切れ性の妻と連れ添うと精神修行としては効果がある。

感情を失い、自我を切り離すことにも成功した。短い人生で不思議な世界やより多くのことを知ることができたと思えば幸運なことだ。

だが、今回の件においては、必ずしも妻だけが悪いとも思えない。

中学受験を前に、上の子供が自分の学習計画を自分で立てると言い出して、結果、計画自体を立てずに学習をサボっていた。

大丈夫なのかと子供部屋のドアを開けたところ、学習のために用意したアイパッドでYouTubeの動画を見てくつろいでいたらしい。

妻としては、塾のために弁当を作り、忘れ物があれば届け、夜には迎えに行き、母としてできる限りのことを続けてきた。

それにも関わらず、上の子供は怠けていた。

休息の時間は用意してあるはずなのに、ずっと怠けていた。

学習計画を立てるために用意したノートを私が確認してみると、最初の数ページに計画が書かれていて、その後のページには落書きが書き連ねられていた。

これはさすがにあんまりだと思った。

昭和の父親ならば、ここで子供をブッ飛ばす状況だ。

私が子供の頃は、拳骨のひとつやふたつでは許されない。壁に吹っ飛ばされるぐらい殴られても仕方がない。

だが、時代は変わった。子供を殴って躾けるようなことは法的にも許されない。以前は看過されていただけの話だな。

しかし、親が子を叱る時、親は感情的になってはいけない。

怒鳴り散らすことも演技として必要かもしれないが、物を投げつけることは違う。

とにかく妻を落ち着かせることを第一に考えて発言している最中、私の自我はどこにいたのかというと、とっくに自己から離れてどこかに失せてしまっていた。

その時に妻を説得しているのは、自我が離れて抜け殻になっているようなアバターだ。

かろうじて残った私の顕在意識だけで自分をコントロールしているような不安定な状態だった。

我が家の場合、互いの不満や衝突が多い共働きの子育てにおいて、離婚せずに何とか夫婦関係を維持していられるのは、妻の努力ではない。私の忍耐によるものだ。

妻は感情的になると見境がなくなって怒りを放出しているが、絶対に自分の非を認めないし、謝りもしない。

自己肯定が強すぎるのは妻に限らず、義実家の面々についても言える。なので、あの家では盛んに喧しいマウント合戦が繰り広げられる。飼い犬さえも喧しい。

私が妻に対して怒りを放出すると、間違いなく離婚に突き進む。

実際に離婚に突き進んだ夫婦は数知れず、結果として子供が不幸になることが多い。

バーンアウトで感情を失ったり、今でも解離性障害で苦しんでいるのだが、忍耐を続けてきて良かったと思える日が来ることを信じる。

妻としては、私が何かの拍子に自ら死を選ぶくらいに危険な状態だということは知っているはずなのだが、この人は感情的になると全く関係がなくなる。

子供が反省するまで、妻の怒りが収まるまで、何とも建設的ではない状況のままで時間が過ぎていく。

平日の通勤地獄で疲れ果て、ようやく休日がやってくれば、これだ。

妻が暴れて物を投げつけたり、子供にかかっていく時には収め、再び妻の叱責を眺め、ストレスで胃がキリキリと痛みながら、心の中で不動明王の真言を唱え続ける。

前世だとか何だといった解釈を持ち合わせてはいないが、おそらく私のこれまでの生き様の中で不徳があって、結果としてこのような状況になっているのだろう。

「自分の人生はどこで間違ったのか」というフレーズはよく聞くが、間違ったとしても進み続けなければならないのが人生だ。

上の子供のパーソナリティが遺伝的要因によるものか、もしくは子育てという環境的要因によるものかは分からない。

しかし、この子供の自他境界が曖昧になっていることは親としてよく分かる。

幼少期の教育において、妻が厳しく干渉し過ぎたかもしれない。母親にどうすればよいか聞かないと動けない子供になってしまった。

妻が仕切ってしまい、私には子供の教育に参加する余裕も時間もなかった。

往復3時間の通勤があるのに、物理的に考えて無理だな、それは。

自他境界は、古典的な精神分析学の頃から主な研究のテーマになっている。

自分の頭の中で、「どこまでが自分で、どこまでが他者か」という判断は簡単なようで簡単ではない。

自分が正しいと思っていることでも、他者としては正しいと思っていないということはよくある。

自他境界が明確になっている場合には、「自分は自分、他者は他者」という線引きがなされたりもするのだが、成長の途中であったり、色々と苛立つような社会的環境の中では、自他境界が不均一になってしまうことがある。

少なくとも、上の子供の場合には、父親はともかく母親が中学受験のために努力を続けてくれているのに、その恩を返そうという気持ちは見当たらない。

自分の中で欲求があり、おそらく他者も同じような感じなのだろうと、頭の中で他者の一人である母親のことを無視して好き勝手に過ごしてしまう。

その姿を見かねた妻が激高したということだ。

それでは、当の妻の自他境界が明確なのかというと、ずっと連れ添っている私としては、どう考えても曖昧だと言わざるをえない。

自他境界が曖昧になり、自分よりに密度が勾配した際には、「自分こそが正しい」という自己肯定や自己愛に向かって進むのだろう。

そうなると、他者が何と言おうと受け付けず、自らの価値観こそが正しいと信じてしまう。

生涯の伴侶であるはずの夫が、今、この現時点で生きることに疲れてしまっているなんて、妻としては認めるはずもない。

だが、妻に限らず、自他境界が曖昧になってしまっている人は、新浦安にとても多い。

繰り返すが、「新浦安には、自他境界が曖昧な人がとても多い」と思う。

地方行政のスタイルとか、街のインフラとか、そのようなことは私にとっての住み辛さには直接的には関係していない。

もちろん、そのような点を含めて私にとって最悪なわけだが、せっかちで利己的な市民が犇めき合って生活していることが嫌だ。

気に入らない。最悪だ。

私は以前から不思議に感じていた。

東京のすぐ隣の街で、新興住宅地。距離はともかく、都内に通う人たちのベッドタウンというよくある街のはずなんだ。

しかし、実際に住んでみると、自己肯定や自己愛が強い人たちで溢れている。

私はずっと都内に住んでいたのだが、ここまでおかしな人たち....というと語弊があるが、自分大好きな人たちが集まって巣を作っているような街に住んだことがない。

保育園や小学校などの保護者は、自分こそが優れているという感じでマウンティングに精を出したりもするし、表面上は礼儀正しくても会話を続けるとすぐに他者の批判や自身の肯定。

ピーキーという形容詞が最もふさわしいのかもしれない。

嘘だと思ったら、新浦安を通っているシンボルロードという道の歩道に立って、数十分でも構わないので往来を見渡せば分かる。

歩行者がいるのに自転車で疾走する老若男女。赤信号を無視して突撃する人も多い。

車道を見れば、この距離で必要なのかと思える高級車が駅前のイオンや新町方面に向かって走っていく。

保育園の前では井戸端会議が開催され、会話の内容は人の噂話と悪口ばかり。

ああ、そういえば、私の手持ちのパソコンには面白いデータがある。

それは、浦安市内のツイッターユーザーのアカウントを調べ尽くしたデータだ。

大手のIT企業や電気メーカー、金融業、マスコミ、教員、浦安市役所の職員、法人の社長、主婦、リタイアした高齢者など、同じ地元だからこそ分かるタグで調べさせてもらった。

花火や停電、水害の危機があったりすると、よく分かるんだ。

「ああ、この人は浦安のあの地区の〇〇さんだな」と。そして、上から容赦なくつぶやいていると。

すべてのツイートをブログに引用したい気分だ。

浦安市民の内面がよく分かる。とても短気で神経質で自己中。私が言うのもアレなのだが。

さらに、浦安という街から首都圏全体に視野を広げてみると、コロナ禍のストレスによって自他境界が崩壊してしまった人たちがもの凄い勢いで増えている。

「これくらいなら大丈夫だろ、いや、それでも他者のことを考えるとよくないな」と自省していた人たちの自他境界が崩れ、スペクトルが自分よりにシフトしてしまうと、「自分が考えていることは他者も考えていて当然だ」という思考になる。

結果、マスクを外して人混みを歩いたり、集団で大声を挙げながら酒を飲んで騒ぐ人が増え、感染を広げている。

他方、自他境界が崩れて他者よりにスペクトルが偏ってしまった人たちは、何か分かりやすい主張を展開する人たちを受け入れて洗脳状態になってしまい、自分で考えずにネット上やリアルの世界で行動したりもする。

テレビのワイドショーに洗脳されたような状態の高齢者、もしくは一部の突飛な主張をする若者に随伴する人たち。

病んでしまった社会はともかく、自宅で失神するような状態の私が偉そうに言う立場でもないな。

夕方に目を覚まして、トイレと洗面台の掃除、それと子供たちの上履き洗いに取りかかる。よくよく考えるとサイクリングに出かけている余裕はなかったな。

妻が切れたとか、上の子供が言うことを聞かないとか、そのようなことは置いておいて、とにかく夫として、父親として最低限のことをやっておこう。

そして、家事が一段落した後で、近所のホームセンターまでミニベロに乗って出かけた。

デイツーという市内で唯一のホームセンターなのだが、その店舗の駐輪場にミニベロを停めようとしてトラブルがあった。

自転車を駐輪しようとしていたスペースの近くに、奇妙な自転車が停まっていた。

ただの古びたママチャリなのだが、よくあるコンクリートブロックが2個も前カゴに入っていた。

このコンクリートブロックが本当にコンクリート製なのか、もしくは樹脂で作られた軽量なものなのか、とにかく不思議な状態で自転車を停める人がいるものだと、私はその状態を見つめていた。

すると、「どうして、こんなところに停めるかなぁ~!」と、一目で頭がおかしな人が...いや、自らの内面に浮かんだ感情を適切に制御しえない人が近づいてきた。

年齢としては私よりも一回りくらい若いだろうか。

彼の容姿は目元や顔の輪郭から見て日本人っぽくないが、流暢な日本語を使っているのでたぶん日本人なのだろう。

それ以上は言わないが、新浦安にはたくさんいる。

見ず知らずの人に対して、いきなり不満を口に出して投げかけるなんて、最初から喧嘩腰なわけなのだが、彼のように衝動性を抑えられない人は浦安の新町にとても多い。

新町に限らず、中町を含めた新浦安では、このように絡まれることが珍しくない。

街として成熟していないことが原因かもれないし、ただ単にモラルやマナーといった意味での民度が低いことが原因かもしれない。おそらくその両方なのだろう。

 「夢と魔法の国がある新浦安!」

 「ベイシティの整った街並みの新町!」

まあそのようなセールストークが飛び交ったりもするわけだが、そこに住んでいる人たちの中におかしな輩は多い。

浦安の新町でよく見かけるタイプとしては、社会的なステータスとしてはそれなりに高く、収入もあるのだが、自分こそが正義という感じがやたらと多い。

都内であれば、何かの感情を持っても口に出すことがない人が多いのだが、新浦安では「思ったことを口に出す人」がとても多いのだ。

その傾向は、浦安市役所の人たちなら分かるはずだ。

感情の抑えが利かない人たちが、どうして東京の隅の隣の街に住みつくのか、私には理解ができないのだが、とにかく多い。

シンボルロードを自転車で疾走し、道を開けろと怒鳴ってくる母親とか。

近くのショッピングセンターの店員に向かって怒鳴り散らしている子育て世代の父親とか。

市役所の職員に対してネチネチと批判を続ける高齢者とか。

車道を自転車で逆走する若者や高齢者とか。

レジ待ちで順番を無視して割り込んでくる人なんて珍しくない。

公立小中学校のイジメ対策だか何だか知らないが、イジメなんて日常茶飯事だろう。

うちの子供たちだって、学校で嫌な目に遭ったことはたくさんある。

さらに、あの担任は相応しくないからと、保護者同士で署名を集めて学校に提出し、教諭を異動させたケースまであると聞く。

なんとピーキーな市民性なんだ。

すべての市民に当てはまるわけではないが、半数以上がせっかちだと思う。

首都圏の他の自治体から新浦安に引っ越してきた父親たちの中には、この街のあまりの民度の低さに驚き嘆いている人たちが珍しくない。

繰り返しになるが、ここでの民度とは、常識に照らし合わせて通常なら持ち合わせているはずのモラルやマナーという意味だ。それらが欠けている人が新浦安に多い。

いきなり皮肉を飛ばしてきた男性に対して、私は答えた。

「すみませんが、それは私に向かって言っているのですか?」

ああそうだと、彼はいきなり喧嘩腰で答えてきた。

新浦安によくある、品位のない低レベルなトラブルだな。

彼なりの主張としては、「駐輪場に広いスペースがあるにも関わらず、自分の自転車の近くに駐輪するとは何事だ」という意味不明な内容だった。

私としては、限られた駐輪スペースを有効活用するために、適切な間隔で自転車を駐輪しただけなのだが、より広く間隔を取らなかったことが気に食わなかったらしい。

いい歳をこいた男なら、その程度の不満であれば飲み込んで立ち去ればいいだけの話だ。余程に暇なオッサンなんだな。

しかも、前カゴにコンクリートブロックを2個も入れて駐輪している人に言われたくない。

小さな子供が駐輪場にやってきて、その自転車が倒れてしまったらどうするつもりなんだ。

他者への迷惑や危険を考えもせずに、私に対して上から物を言える立場でもあるまい。何だこの人、やはり変だ。

たぶん、春になって頭がおかしく....いや、適切な思考が回らなくなった人だと思うのだが、そもそも駐輪場のルールとして車両の間隔が規定されていない。

また、私の行動において、我が国の一切の交通法規に違反していない。

その点について私が反論すると、「コロナが流行っているのに、すぐ近くに停めるとは何事だ」という意味不明な反論が飛んできた。

コロナ?

ああ、ここにもコロナ脳がいた。

近くに停めていた自転車からコロナウイルスが感染するはずがない。

また、私と彼がすれ違ったからといって、そこでコロナに感染するのか?

ありえない。やはりこの人は思考がおかしい。

コロナに関わらず、浦安の新町には、このようにピーキーでおかしな人がとても多い。

ああ、引っ越したい。

浦安になんて住みたくない。

そもそも、自転車の前かごに本物のコンクリートブロックを2個も入れて駐輪している輩に、私の駐輪についてとやかく言う権限はない。

「コロナが何だと言っていますが、あなたのウレタンマスクから鼻が出ていますよ。口論するのなら、鼻を出さないようにしてもらえますかね」と私が指摘すると、彼は気が付いたかのように鼻を隠し、再び話し始めると鼻が出た。

コロナを主張のひとつにするのなら、ウレタンマスクから鼻を出している時点でロジックの急所をさらけ出しているようなものだ。

せっかくホームセンターに来たのだから、鼻が飛び出すようなボロボロのウレタンマスクではなくて、新しいマスクを買ったらどうだ。

これでは私が濃厚接触者に該当してしまう。

新浦安民のひとつのパターンとして、「最初の威勢だけは良い」という点が挙げられる。

思ったことをドヤ顔で口に出すのだが、その衝動性の背景に緻密なロジックは存在しない。

最初は威勢よく指摘するのだが、論理戦になると主張がグダグダになる。その程度の人たちなのだろう。

加えて、自他境界が曖昧で、「我こそは正義」という輩が多過ぎる。

そこまであなたが立派なのかよと突っ込む気持ちがなくなるほどに。

そのような人たちは、その場を収めてくれる審判がいないと、自分で事態を収めることすらできない。

ただ言いたいことを言って、言いっ放し。

ただのクレーマーのような人たちなので、最終的な審判という存在であれば警察しかない。

しかも、本当に警察を呼ぶと、それまでの威勢はどこに行ったのやら、急にしおらしくなる。

まるで、担任の先生がやってきた時の小学生のようだ。

しかし、「先生」がいない状況だと、言いたい放題で我儘し放題。

この自己主張や自己肯定、自己愛の強さは新浦安の市民の傾向だと思う。

10年以上住んでいるが、もの凄い。自分大好きな人たちが群れをつくって生活しているように感じる。

そのようなアグレッシブさが功を奏して社会的なステータスや高収入に結びついたのかもしれないが、そのような人たちと同じ街で生活して快適なのだろうか。私は心が落ち着かない。一皮むけば我が出るような人たちだ。

目の前のコンクリートブロック君も、それなりの収入があって、新浦安に住んでいるのだろうか。

ママチャリの前カゴにコンクリートブロックを入れているという時点で明らかに非典型的なコンクリートブロック君だが、職場ではそれなりの地位について、それなりに礼儀正しくしているのだろうか。

しかし、この目の前のアレな人はともかく、それなりの社会的ステータスにいる人でも、プライベートな空間にやってくれば、ムカつくことがあればすぐに口に出して同じ街の住民とトラブルを起こす。

それが、新浦安という街で多発しているという理解になる。

もしくは、コンクリートブロック君は、新浦安によくいる子供部屋おじさんなのか?

新浦安の暗部なのだが、ステータスの高い両親と同居しているけれど、自身は無職で引きこもっているというケースがある。

私の自宅の近所にもそのような家庭がある。

両親はそれなりの学歴と職歴があって、新浦安の新興住宅地に家庭を構え、息子に同じような人生を押し付けてしまって潰されたパターンだな。

それは親のエゴというものだ。

イラついて面識のない人に絡む理由も分かるし、暇もあるだろうし、職場で働くような状態ではなさそうだ。

そうか、だから思ったことが口に出て、普段からきちんとマスクを付けて生活する必要がないから鼻を出し、パーソナルスペースやコロナを極端に怖がり、しかも口論になると豆腐のようなロジックで立ち向かってくるのか。

それにしても、彼はノッペリした表情だな。

彼の顔には、社会や人生の苦労が全く刻まれていない。苦労したことがないのであれば、当然か。

このような人に絡まれる私も、随分と老いたものだ。

また、このように絡んでくる人がいる街に住んでいること自体が、私の人生の最大の失敗だ。

私としては、自転車の前カゴにコンクリートブロックが入っていて興味深かったので立ち止まっていたというロジックで、彼に対して嫌がらせをしたわけではないと説明し、自他境界が曖昧な人たち向けの対応で誤魔化すことにした。

自他境界が曖昧、かつ自己よりに偏った人たちには、自分が否定されることを極端に嫌がるという性質がある。

彼らを落ち着かせるためには、私の頭の中に彼らの姿がきちんと存在していることを理解させる必要がある。

私としては「ああっ、てめえ、ナニ言ってんだ!ゴルアッ!」と怒鳴ったり、もしくは110番に電話をかけて、「お巡りさん、不審者がいます!コンクリートブロックを2個も前カゴにいれて絡んでくる変な人です!」と通報しても良かったのだが、彼の頭の中は相当に差し詰まっているらしい。

数時間前におそらく失神していた私が言うのもおこがましいが。

面識のない同じ市民の自転車の駐輪位置について、パーソナルスペースを主張するとか、どう考えても頭がおかしい...いや、適切な思考が働かないとしか思えない。

とりあえず、彼の主張は分かったと理解を示し、お互いに勘違いもあったということで話をまとめた。

話をまとめたのは私だ。

彼は最後まで自分が間違っていないという体だった。

コンクリートブロック君としては、自分が言いたいことを言い放った後、相手が反撃した時に場を収める術を持っていない。

言ったら言いっ放し。くどいようだが、新浦安でよくあるパターンだ。

そして、「間隔を置いて駐輪した方がいいですよ」というコンクリートブロック君の捨て台詞で、お前は何様だと私は完全に切れかけたが、不動明王の真言を唱えながら必死に耐えた。

「君こそ、面識のない人に対して、法的根拠のないことを主張することは慎んだ方がいいですよ」と言ってやりたかったが、言ったところで理解するような人でもない。

ウレタンマスクから鼻を出して、ママチャリの前カゴにコンクリートブロックを2個も入れたオッサンが、どうして上から偉そうなことを言っているのか。

やはり、警察を呼んで納得するまで話し合った方が良かっただろうか。

彼の豆腐のようなロジックは、豆腐だからこその手強さがある。

なぜなら、そもそも論理的な筋道がなく、水掛け論にならざるをえないからだ。

私は思うのだが、あのような状態で、彼はよく職場で働いているなと思う。

思ったことが口に出てしまうというのは、かなり危ういのではないか。

コンクリートブロック君がニートであれば問題はないのか。別のところに問題がある気がするけれど。

人生は一度きりだ。そうやって我を張って生きればいい。そして、自分が間違っていたことに五十路になって気づくんだ。

私のように。

また、このトラブルが新浦安だったから、彼がおかしなことを言っても何とかなった。

これが池袋とか新宿だったら、相手によっては無事では済まされない。コンクリートブロックを自転車に乗せているなんて、バイオレンスな人たちから見ればカモネギじゃないか。

ボコられて頭の上からコンクリートブロックが降ってくるだろう。

そう考えると、新浦安は平和だな。

夕暮れの空を眺めながら思った。

もう...嫌だ...こんな歪な街に住むのは...

おかしいだろ、普通にホームセンターで買物をして、こんなに思考のおかしい人に絡まれるなんて...

新婚時代に新居を構えた台東区は、確かに浅草が近かったので色々な人がいた。

けれど、アグレッシブに絡んでくる人なんていなかった。

どうして、浦安の新町は、ここまで好戦的な人たちが多いんだ。これで住みやすいわけがない。

浦安に引っ越したから、こんなくだらないトラブルに巻き込まれた。

都内に10年くらい住んだけれど、こんなに程度の低い口論なんてありえなかった。

浦安に引っ越してきてから何度目だよ。おかしな人に絡まれるのは。

数十回といった話ではなくて、百回近い。

警察官にも話を聞いたが、新浦安は他の自治体ではあまり見られない特異な住民トラブルがよくあるそうだ。

これだけ変な人が多ければ当然だろう。

意味不明な言いがかりや突飛な言動によるトラブルが生じるのが、新浦安の恐さと鬱陶しさだ。

自分が気を付けていても、自己肯定や自己愛を丸出しにした市民が絡んでくる。

少し我慢して言葉を飲み込めば互いの気分が悪くならないのに、エゴを前に出してしまう。

都会でもなく、田舎でもなく、人工的な社会実験のような街だ。

市民の自転車の通行を見るだけで分かる話でもあるが、とかくせっかちで神経質で我が強いのが新浦安、とくに新町住民の性質だな。私が言うのもアレだが。

元々は優しくて礼儀正しくても、これだけストレスがかかる街ならば苛々するだろうし、苛つきは連鎖して増幅する。

埋め立てに次ぐ埋め立てという人工的な環境の中で、さらに感染症のストレスがやってきて、色々とフラストレーションが溜まっているらしい。

施設だとか多くのイベントだとか、そういったことでガス抜きして、街の課題を誤魔化していただけじゃないのか。

他の自治体から人々がやってきて、寄せ集めの集団を形成し、とりわけ市民としての帰属意識が育つこともなく、自らの利益と利便性を追い求めているだけだろ。

だからこそ、同じ街の市民に向かって暴言を吐いたり、自分の都合を優先して他者に迷惑をかけるということだ。

これが街の姿なのかと私は疑問に感じるし、これだって街の姿だと感じもする。

気に入らない街ならば引っ越せばいい。

おそらく、浦安という街での生活にフラストレーションを抱えている市民としては、私はかなり閾値に近いはずだ。

なぜなら、閾値を超えた人たちは子供の学校だ何だとこだわらずに引っ越しているから。

そのような人たちは、ネット上でこの街の生活が酷かったと発信することはない。

むしろ、浦安のアピールをしている人たちの発信が上塗りして間違ったイメージを広めてしまう。

家庭の中も、街の中も、狂騒曲が鳴り響き、もはや生きていることが嫌になるけれど、我慢して生きることにしよう。

自他境界が曖昧になってしまった人たちに対しては、無視するか、仏のように接するしか手立てがない。

そのような人たちの意見を真正面から受け止めて理解しようとすると、自分が消耗して疲れてしまう。

それにしても散々な日曜日だった。

「浦安で生活していると、休日に街から出る必要がない!素晴らしい!」とアピールしている人たちは、どのような利益があってアピールしているのだろう。

嘘だ、それは。

48時間もいると死にたくなる。

不動明王でさえ、これでは救いようがないと立ち去る環境だと思うよ。

この街は。