中年男性の中二病には、仮性と真性の二種類があるらしい
子供の発達において欠陥のように扱われている過集中という性質を勝手にオーバードライブと名付けて発動していたら、気が付くと終電の時間になっていた。
片道1時間半を超える都内から浦安までの帰宅を考えると気が重い。自宅に到着した時には日付が変わっている。
今日は金曜日だ。このまま朝まで仕事をして、始発で自宅に帰ろうか....いや、もうそろそろ観念して都内にアパートを借りて家族と別居しようか。
これまでに何度も別居を考えた。こんな生活を続けている限り、職業人としてフルパワーで働くことなんてできやしない。
これだけストレスを抱えながら都内と浦安を往復しているのに、家族からの感謝や労いもない。
仕事が一段落して、トボトボと歩いて駅に向かう。けれど、気分は悪くない。いくつかのトラブルが立ちはだかっていたが、経験を積めばそれらは想定外ではなくて想定内の出来事になる。
それでもお手上げになる状況というものは必ずあって、そのような時には自分の思考のプロセスをひとつずつ確認して、どこかにピットフォールがないかをチェックするだけの話だ。
終電間近の地下鉄の駅には、泥酔した若者や中年、そして吐瀉物が点在している。このコロナ禍で暢気なものだと呆れるわけでも、これだけ我慢を強いられたのだから弾けてしまったのだろうと配慮するわけでもなく、単なるひとつの風景だと冷たい眼差しで眺める。
過集中が解けると、急に疲労感や空腹感がやってくる。電車に乗り込むと酒気帯び客が残した吐息や体臭の臭いが充満していて、吐き気がやってくる。
首都圏では往復3時間の通勤なんて普通だと妻や義父母は言うけれど、私が普通ではないのだから、この通勤形態は私にとっては異常なことだ。
代わり映えのしない窓の外の真っ暗な景色を呆然と眺めながら、まあ今日はこんなもんだなと仕事の達成感に浸る。
最近の小学生たちは現実的で具体的な将来の夢を持つことが多いそうだ。
私の子供の頃の夢は、ガッチャマンになることだった。
そして、オッサンになった今の夢も、ガッチャマンになることだ。
いい年をこいた中年が何を言ってるんだと気持ち悪く思われること間違いなしだな。
確かに、ガッチャマンになるには歳を取り過ぎた。しかも、職に就いてみたら、ガッチャマンではなくてGANTZのような世界だった。
なんてことだ。両者は「ガ」しか重なっていないではないか。
いや、ガンツなので、「ン」も重ねっている。
小文字だけれど、「ツ」も重なったか。
浦安市の定住人口は16万4千人。これだけ人が多い街なのに、私の知人や友人に該当するのは、たったの3人。本当に素晴らしい街だ。
コロナ禍でずっと連絡をとっていなかった東野地区の友人と久しぶりに顔を合わせた時、彼は「ずっと心配していましたよ!」と声をかけてくれて、何だかほっとした。
さて、先日、青少年ではなくて中年男性の中二病には、大きく分けて2種類あることに気づいた。
そのきっかけをくれたのは、文化人ではなくて警察官だった。
警視庁の現役の捜査一課の課長が、アナウンサー兼記者の女性と会食した後、公用車で女性を送ったことが問題視されてニュースになった。
捜査一課長は、ノンキャリアのエリートコースなのだが、最近では女性絡みのスキャンダルがとても多いように感じる。
本人の適性なのか、それとも当該人物を捜査一課長のポジションから引きずり降ろしたい人たちによるトラップなのか。
捜査一課が担当する内容を勉強すればすぐに分かることだ。
しかしながら、立場を考えると不適切な行動であることは間違いないわけで、まあ世の中はこんなもんだろうと諦めてしまっている私がいる。
どれどれ、どんなご尊顔なのか拝んでやろうかと、その捜査一課長の名前でネット検索したところ、その姿を見て大笑いしてしまった。
なるほど、これは仕方がない。
もちろん、現役の捜査一課長としては不適切だと叱られることかもしれないし、警視庁としても適切な処分が必要になるかもしれないが、その上で私の気持ちを確認すれば、この件は許してやってもいいではいかと思った。
なぜなら、ネット上でヒットする写真の彼は、精悍な顔立ちに加えて、通勤電車ではほとんど見かけない「サイドバックリーゼント」という髪型だった。
団塊ジュニア世代であれば、サイドバックリーゼントが誰の代名詞なのかすぐに分かるはずだ。今では五十路が近くなって頭髪も元気がなくなってきただろうけれど、高校時代には私を含めて彼の真似をした人がたくさんいたことだろう。
そう、柴田恭兵さんのサイドバックリーゼントだ。
普通のリーゼントヘアは、両サイドを頭頂部にかき上げてワックスやスプレーで固めるわけだけれど、サイドバックリーゼントは片方だけをかき上げる。簡単なようで実は難しい。
捜査一課長とサイドバックリーゼントの接点はひとつしか考え付かない。
「セクシー大下」だな。
状況証拠から、今回の捜査一課長は、ドラマや映画の「あぶない刑事」で柴田恭兵さんが演じた大下勇次、通称「ユージ」という警察官をリスペクトしていると思われる。
しかも、ユージのサイドバックリーゼントと、捜査一課長のサイドバックリーゼントをよく観察すると、髪をかき上げる方向が左と右で逆になっている。
つまり、ポスターや画面に映ったユージと鏡を交互に確認しながら同じ髪型にしようとセットすると、右と左が逆になる。なんと、そのようなところまで真面目に取り組んでいたということか。
ネット上では、「中二病じゃないか!」というコメントが飛んでいたりもしたが、私も彼が中二病をこじらせていると感じた。
しかし、それは誹謗中傷や罵詈雑言の類ではなくて、職業人としてのイメージや目標として素晴らしい心がけというか、夢を追い続ける明るい心理状況としての中二病という意味だな。
なので、私は彼を尊敬するし、おそらく警視庁の人たちも「セクシー大下なら仕方がない」と苦笑いすることだろう。
ユージなら奇麗な女性を覆面パトカーに乗せて横浜をドライブするかもしれないし、そのようなシーンがあった気もする。
翻って、ユージのような警官が実在していて、しかも捜査一課長に昇格していたなんて、とても素敵なことだ。何だか胸が熱くなるじゃないか。
未就学児や小学生、中学生の男の子たちは、将来の夢について様々な姿を想像する。
そこから高校や大学の受験が始まり、次第に現実というものを実感し、抗おうにも理想は儚くも散り、仕事が生きるための手段になり、気が付くとネクタイを締めて電車に乗り、子供の頃に描いた夢とは大きく離れた現実の中で生きる。
しかしながら、稀ではあるけれど、子供の頃に憧れたヒーローたちの姿を追い求めた結果として、完全ではないけれど部分的にオーバーラップした世界で職業人生を歩むことができる人たちがいたりもする。
手塚治虫先生のブラックジャックに憧れて、本当に移植外科のドクターになってメスを振るっている有名な教授がいたりもする。
強面の表情からは想像がつかなかったりもするが、持ち運んでいるバッグがBJにそっくりだったりもして苦笑いしてしまう。
また、超時空要塞マクロスのバルキリーのパイロットに憧れて、国際線の航空機の機長になってしまった人がいたりもする。
航空自衛隊に行こうとしたけれど、色々と都合があったらしい。
おそらく、空港から離陸する時にはコックピットからマーシャラーの指示を見つめて方向を定めた後、「マクロの空を~貫いて〜」というマクロスのオープニングのBGMを脳内再生しながら、アフターバーナーを点火するように空に羽ばたいていることだろう。
マクロスやガンダムのキャラクターに憧れて職業人になった人たちは思ったよりも多い。
レッドブルエアレースにて活躍している室屋義秀さんが、アムロ・レイに憧れてパイロットを志したことは有名だ。
また、日本のロボット工学の研究者たちがロボットを開発すると、人型でなくても構わないはずなのに人型が考案されたりもする。明らかにロボットアニメの影響を受けていることだろう。
IT系の職業人の中には、攻殻機動隊に憧れてサイバーな職業に就いた人たちがたくさんいる。
作中の「イシカワ」に憧れてシステムエンジニア等になった中年男性が日本中に百人どころか千人くらいいるはずだな。
とりわけ、昨今ではサイバーセキュリティが重視される時代になり、フィクションだったはずの世界の中で、彼らは実際に働いているわけだ。大きなモチベーションになっていることだろう。
スラムダンクの安西先生に憧れてバスケット部の顧問を引き受けた高校の先生がいるかもしれないし、サラリーマン金太郎に憧れて会社員になった人がいるかもしれない。
もちろんだが、彼らは人前でそれらの憧れを口にすることはなくて、尋ねられた時に「実はね...」と恥ずかしそうに紹介することだろう。中年男性が照れながら紹介する姿はとても趣がある。
そういえば、以前、東海大浦安高校にて「世界一行きたい科学広場」という催しがあって、子供たちを連れて行ってみた時のこと。
科学広場なのだが、陸上自衛隊の習志野駐屯地が近くにあるので、校門の横には装甲車が展示されていて、2人くらいの自衛官がリクルートも兼ねて...いや、科学と国防という意味も兼ねて気軽に質問に応じてくれたりもする。
しかしながら、装甲車がカッコいいと子供たちが集まってくるが、自衛官に興味を持って近づいてくれる子供たちは少ない。
何やら寂しそうだったので、私はゴツそうな体躯の自衛官の近くに行って、同世代の人生相談という体で話を聞いたことがある。
就職の頃にはバブルがやってきて、合コンでは自衛官なんて相手にされなかったとか、不況になると自衛官の応募が増えるとか、夢のない現実的な話に花が咲いた。
年齢を考えると、防大卒ではなくても陸尉への道があると思ったのだが、彼は陸曹から上を希望せずに退官したいそうだ。
不思議だなと思って、私は彼に尋ねた。
「あなたが自衛官を志そうと思ったきっかけは何ですか?子供の頃の夢と関係があるのですか?」
すると、彼は少し照れ臭そうに答えた。
「実は...子供の頃に見たサンダース軍曹に憧れまして...私はサンダース軍曹になりたかったんです」
その答えを聞いた時、私は何かこみ上げる感動を覚えた。中二病を立派にこじらせている。
サンダース軍曹というのは、機動戦士ガンダムに登場したサンダースではなくて、「コンバット!」という昔のテレビ番組に登場したチップ・サンダースのこと。
「コンバット!」は、第二次世界大戦のノルマンディー上陸作戦からストーリーが始まり、テーマとしては戦争なのだけれど、内容としてはヒューマンドラマに該当すると思う。
映画のランボーといった作品のように銃器をぶっ放して戦いまくるという内容ではなくて、人間の内面を重視した話が多い。
また、戦争物によくある、味方は人間で、敵は人間ではないといった偏った世界観ではなくて、相手も同じ人間なんだという視点で物語が描かれている。
先の中年の陸上自衛官は子供の頃、ギルバート・ヘンリー少尉の下で一分隊の隊長を率いるサンダース軍曹の姿をテレビで見て、将来、彼のようになりたいと憧れたそうだ。
そして、自衛隊は軍隊ではないけれど、ポジションとしてはサンダース軍曹と同じ立場になり、部下を率いてミッションに参加している。
それって、素晴らしいことじゃないかと私は思った。
映画やドラマ、アニメに登場するヒーローたちは、現実ではありえない設定になってはいるけれど、その姿に少しでも近づくと男の子たちは感動するわけで、その気持ちは中年になっても変わらないと思う。
厭世的になっていた私の職業人生を方向づけたのは若き日に出会った1本の映画だった。今での自宅には同じDVDが何枚も大切に保管されている。
その登場人物はヒーローというよりも脇役だったけれど、今でも仕事中に同じポーズをとって機嫌をよくしたり、同じ状況に陥って脂汗を浮かべることがある。
子供の頃に夢見たガッチャマンにはなれなかったけれど、その脇役と同じポジションらしき職業人になることはできた。
映画のストーリーと比べると、何だかショボくも感じるし、実際にショボいわけだが、それでも憧れを形にすることができただけで、リタイアする際には、私の職業人生が有意義だったと思えることだろう。
翻って、昨今の小学校のキャリア教育、あるいは中学受験の塾では、とかく現実的な将来像を子供たちに考えさせようとする。
それらは間違ったことではないけれど、子供の頃にフィクションの世界のキャラクターに憧れて、その憧れを大切に心に残したまま大人になり、たとえ掠るくらいの世界であっても満足しながら働くことができれば、本人にとっては大きな意味があると思う。
...と、ここまで思考を巡らせていて、私は重大な認識の誤りに気付いた。
子供の頃に憧れたキャラクターのイメージを中年になっても大切にしていて、しかもそのイメージと実際の職業人生を重ね合わせている人たちのことを、私はオッサンの中二病だと考えていた。
しかし、古代の偉人ググレカスに中二病の定義を教わったところ、若者の中二病とは、そのような意味ではないらしい。
中二病は、「思春期の若者たちにおいて認められることがある身の丈に合わない背伸びした言動のこと」と定義されているようだ。
また、その背景としては、思春期に特有の自己愛の偏りと、将来が決定づけられていない可能性に充ちたステージがあると考えて矛盾がない。
しかしながら、「中二病をこじらせた中年男性」として私が理解していた内容は、先述の通りなわけだ。
確かに、子供の頃に憧れたキャラクターの姿を追い求めて職業人生を進むという身の丈に合わない感覚はあるけれど、職業人としては部分的に理想が達成されていて、自分だけではなくて他者がその憧れを耳にしても納得しうる状態だ。
だが、私が理解しているオッサンの中二病は、若者たちにおける中二病の定義とは明らかに異なっている。
これはかなり痛い勘違いだ。
今までの私のブログで中二病と記載した部分が全て間違っていた。
つまり、私がオッサンの中二病として理解していたのは、「仮性」の中二病のような状態なのではないか。
何だか男性に特有の悩みのような表現になってしまったが、ということは、本来の定義に見合った「真性」の中二病をこじらせている中年男性はどこにいるのだろう。
自らの誤りに気がつくことはとても大切なことで、それに気づいただけでも大きな意味がある。
なるほどそうかと、ネットで調べてみると、ツイッターやブログ等には真性の中二病をこじらせた中年男性が無数にいた。
そうか、ブログを続けているとたまに執拗に絡んでくる輩がいるのだが、まさに真性な人たちだったわけか。
大して有名ではない大学を出て普通の会社で働いているサラリーマンが、自分は聡明で博識な人物だとブログでアピールを続け、「コイツは頭が悪い」とか「コイツはアホだ」といった低俗な語彙で他者のブログを見下すなんてことはよくある。
その人がどれだけ立派な人なのかは分からないが、おそらく自他境界のラインが自己よりに偏ってしまっていて、自分が考えていることは他者も同じように考えていて当然だと思っているのだろう。
あるいは、自分が小さな人間だということに薄々気づいていても、それを認めることが嫌で、ネットという匿名の空間で精一杯に背伸びをしているのかもしれないな。
そう考えると、確かに真性の中二病の定義に当てはまるし、男子中学生のように突然やさぐれるところも似ている。
加えて、私はこのようなタイプによく絡まれるのだが、自己愛性パーソナリティ障害を有しているとしか思えないほどに自己愛が強い人たちの中にも、真性の中二病のような症状が認められる。
真性の中二病に特徴的なのは、職業人あるいは社会的なステータス等において、現実の自分と身の丈が合わず、背伸びした理想を持っているという点。
興味を持った人について詳しく調べてみたことがあり、その中にはリアルな状態が分かる浦安市民も含まれているのだが、そこまでネット上でマウントを取ることができる程には立派な人ではないという印象があった。
彼らの本名でネット検索しても、何らヒットしないことがほとんどだ。
サラリーマンであっても、活躍していればメディアに登場したり、セミナーの講師として招待されたりもするはずだが、本当に何もヒットしない。
マラソン大会やスポーツ競技会のリザルトで名前が掲載されている程度。
ツイッターやブログでは威勢がよいのだが、本業はどうなのか。
職業人として第三者から評価されていないので、趣味の世界で自己顕示欲や承認欲求を充たしたり、いつも上から言われるので、ネットでは逆に上から言ってみたいのだろうか。
確かに、思春期の若者たちの中二病をこじらせたまま中年男性になったという感じだな。
自己愛を背景に、身の丈に合わず背伸びした言動という中二病という定義に当てはまる。
学歴は過去のものであって、中年になって過去の事象を変えることは難しい。
職歴は過去から現在までの軌跡であって、中年になった残り少ない時間でそれを変えることも難しい。
しかし、自分はこんなもんじゃない、もっと素晴らしい人なんだという考え方を変えることも難しく、結果として、ネット上に自らの虚像を作り出してしまうということだろうか。
いや、そのような人たちの心の中にある虚像を他者に知らせる手段として、ネットという存在が流用されてしまったということか。
中年になるまで真性の中二病をこじらせてしまった人たちは、認知行動療法でそれらを改善させることは難しいことだろう。
ネット上で運悪く出くわした時には、念のため、氏名や電話番号などの情報を調査した後で、以後は無視して一切のコミュニケーションを絶つしか術がない。
仮性は何とかなるが、真性は厄介だ。