2021/03/22

阿留辺畿夜宇和なスタイルはしんどくても

朝から酷く腹が下っているのだが、それでも片道1時間半を超える電車通勤が待っている。新町から新浦安駅にたどり着いただけで疲労困憊。モラルとマナーが控えめな千葉都民とともに京葉線で都内に運ばれる。なんてことはない。いつもの日常だ。


小学校が春休みに入ると2週間近く給食が用意されないということで、共働きの妻がフラストレーションを溜めて苛々している。

うちの子供たちは仕出し弁当が嫌いで、母親の手作りの弁当を好むらしい。

飯についてとやかく言うと飯が出てこなかった私の実家と比べると、相当に甘やかされている。

また、妻は食についてのこだわりが強く、原産地が明示されている食材しか子供たちに食べさせようとしない。

だが、妻は料理上手でもあるので、家族は誰も文句を言わない。

妻の料理が下手だったなら、子供たちは仕出し弁当やコンビニ弁当を希望することだろう。それを望むわけにもいかない。

なんてことはない。いつもの日常だ。

しかしながら、あらゆることについて変化に弱い私としては、子供たち春休みがやってくるという些細なことでも生活のペースが乱れ、ストレスがかかる。

しかも、給食は春休みではなく卒業式の頃から休止になる。そこから始まる弁当ウィークの直前の週末に、忙しい共働き家庭の弁当作りに必須の道具であるオーブンレンジが大破した。

妻がオーブンレンジのドアを開けっ放しにしていて、下の子供がドアに激突して壊したらしい。

上の子供が慌てて私の携帯電話に連絡してきたことが可愛らしく、妻が怒って暴れているわけではないことを知って安心した。

未就学児ならともかく、小学生がどのように衝突したのか分からない。

しかし、構造的に最も弱い部分に対して、最も力が伝わりやすい角度から衝撃を加えると、可動部は容易に破壊されるという軍事格闘術の手本のような結果だ。

擬人化すれば、オーブンレンジとしては顔見知りということで油断していたのだろう。

一撃で急所を突かれて息の根を止められたことが分かる。プロでもここまで鮮やかに破壊することができるかどうか。

怪我がなかったことは不幸中の幸いだったが、ドア部分が無慈悲なまでにもぎ取られ、ただの鉄屑になり下がったオーブンレンジを前に呆然とするしかなかった。

とにかく、これでは弁当作りが危機的状況だということで、ロードバイクに乗る余裕どころか、Amazonに頼っている余裕さえなく、日の出地区のケーズデンキで単機能の電子レンジを買ってきた。

そのドタバタでさらに疲れてしまい、気が付くと平日が始まった。

腹が下っている理由が過敏性腸症候群ではなくて、昨夜に飲み過ぎた酒の影響だと信じたい。

新浦安での地獄生活に耐え続けていたら、幽体離脱してアバターで身体を動かしているような状態になった。

ここまで苦しんでいるのに、給食だ弁当だと言っている場合ではない。

私が倒れたら、中学受験どころか、このマンションに住むことさえできなくなる。

そういえば、義母は何をやっているのだ。このような時、弁当を子供たちに届けるのがおばあちゃんじゃないのか?

塾の送迎も助けてくれない。

義実家の近くに住めば、もっと子育てをサポートしてくれると思っていた。

これでは通勤が辛く、気に入らない街での生活が苦しいだけで、私にとってのメリットがない。

義母は、孫たちからおばあちゃんと呼ばれることを嫌がり、グランマと呼べと言い張る。

おばあちゃん呼ばわりされたくないのかもしれないが、十分におばあちゃんだ。何にこだわっているのやら。

義母の生き方は、私が考える祖母の姿ではない。

宗教色を除いた上で記すと、鎌倉時代の高僧の明恵上人が残した有名なフレーズがある。

それは、「阿留辺畿夜宇和」という言葉だ。「あるべきようは」と読む。

人は、「ありのままに」生きるのではなく、今をどのように生きるべきかを自問自答し、「あるべきように」生きることが大切だと明恵は説いた。

義実家においても義母や義妹は大のディズニーファンだ。「ありのままで」生きることの方が好きだろう。

しかし、祖母の「あるべきよう」とは何か。

実家の近くに住んでくれた娘夫婦に感謝し、共働きの子育てで困っていたら「孫のために」助けるという姿が祖母のあるべきようではないか。

あるべきようではなく、ありのままで振る舞うから、私が苛立つということか。

しかしながら、「私は忙しい、義母に何とかしてもらいなさい」と妻に意見することが、夫としての私の「あるべきよう」なのかというと、それは違う。

共働きの父親として、私はあるべき姿になれていない。あるべきように生きようと無理を続けたところ、バーンアウトを起こして倒れた。

ストレスフルな浦安に引っ越して来たことが、全ての元凶だ。

何が住みよい街だ。引っ越してすぐに液状化で崩壊し、今では街中を歩くだけで心拍数が上がる。

都内の職場までの鉄道は辛うじて繋がっているだけだ。

通勤だけで仕事と家庭の時間が削られ、大切な寿命の一部が電車と駅で浪費されている。

もとい、義母に対して不満や憤りを感じるのは私の自由だが、それを外部に放出して私と義実家がドンパチすることは、妻や子供たちとしては困る。

ストレスを受けると自我が自分から解離したように感じるので、それを黒い棺桶に入れて紐で引っ張って生きるというイメージは相変わらずだ。

義実家に対する感情もその棺桶に入れて蓋を閉じておこう。

明恵の話に戻ると、平安時代や鎌倉時代の僧侶たちの中には、宗教家というよりも学者や芸術家といった側面を持った人たちが数多く認められる。

明恵の場合には、歌人としても有名だが、私なりに考えると哲学者としても優れていたと思う。

阿留辺畿夜宇和については、「今」という時間軸において、自分がどうあるべきか、自分がどのように生きるべきかを考えるという、言われてみれば普通のことのように感じるフレーズだな。

だが、普通だからこそ実行が難しいことは多々あるわけで、阿留辺畿夜宇和を実行することは非常に難しい。

今、この電車通勤で見えている光景。

電車の中ではどのように座るべきか。隣の座席に荷物を置いて、人を近づけさせない千葉都民の姿は、今、乗客としてあるべき姿なのか。

駅の乗り換えでスマホゾンビになって通路をふさいでいる若者や中年たち。

前を見ずに歩くことは、通行者としてあるべき姿なのか。

このように考えてみると、生きていて心を波立たせることの多くは人間関係であり、さらには他者が阿留辺畿夜宇和を守っていないと感じた時に苛つきが大きくなる。

では、高僧になってくると何があっても心が動じないのだろうか。そんなはずはない。

末端の寺ならばともかく、由緒ある寺の多くは人里から離れた静かなところにあるわけで、あえて人から離れて生きることを説いた名僧は多い。

だが、それができれば苦労はない。

人が集まって生きる上では、それぞれの人たちに相応の配慮が必要だ。少なくとも通勤中の千葉都民の多くにはそれを感じない。

だから疲れる。

ところで、明恵とか阿留辺畿夜宇和という話になると線香臭く感じてしまう人がいるかもしれないが、なぜか海外、特に米国の偉人の言葉ならばすんなりと受け入れてしまうのが日本人の性質だったりもする。

子供の頃から米国に憧れるような教育を受けて育ったのだから仕方がないかもしれないし、それが大国の思惑だったなんて、ほとんどの人は何も気づいていないことだろう。

例えば、Apple社の創業者であるスティーブ・ジョブズが、スタンフォード大学でスピーチした時のフレーズだっただろうか、とても有名な話がある。

彼は、毎朝、鏡に向かってやることがあった。

それは、「自分にとって、今日が最後の日だったとすれば、今日やることが、本当にやりたいことだろうか?」と自問自答することだった。

その答えがノーという日が続いたら、何かを変えなくてはならないと。

スティーブ・ジョブズが若い頃から仏教に傾倒していたことは有名な話で、この習慣は何かの文章で読んだと彼は紹介していたが、おそらく仏教関連の書物だと思う。

しかし、日本人の意識高い系の場合には、さすがスティーブ・ジョブズだという話になるのだろう。気持ちは分かる。

オリジナルがどこなのかなんてことはどうでもよくて、彼の言葉にもあったけれど、過去、現在、未来といった時間の流れにおいて、「今」というポイントに限定するのはどうしてだろうか。

阿留辺畿夜宇和においても言及されていたが、「自分がどうあるべきか」を考える際の時間軸は、「今」という時点に固定されている。

ビジネスによくある考え方としては、過去のことを顧みて、将来のことをイメージし、それに合わせて現在を生きるというパターンだと思う。

それも正しい。明確なビジョンがないまま過ごして方向性を見誤ることはある。

だが、どうして「今」という時間が大切なのか。

その起源をずっと遡っていくと、釈迦の言葉にまで戻るそうだ。この場合、仏教の中での概念としてのお釈迦様ではなくて、実在する人物としての釈迦だが。

彼は宗教家というよりもリアリストであって、彼自身が残した言葉の多くはとても現実的だ。大昔の言葉なのに、現代でも役に立ちそうな名言があったりもする。

その中でも、過去や未来ではなくて「現在」を大切にしなさいというフレーズは、多くの仏教における柱のひとつになっていると思う。

私たちが生きている時間というのは、もちろんだが過去から未来に向かって流れている。

その思考においても、過去は過去でしかなくて、未来の方向でどうするかという話になる。今、生きている時間は現在だからだ。

しかし、視点を現在ではなくて、未来に向け続けるとどうなるかというと、そこには死が待っている。

つまり、死が近づいてきた時点では現在と未来とがほとんど同じ地点にあるわけだな。

一度、死んでみようかなと思った人たちなら分かると思うのだが、そのような気分になった時には過去や未来といった時間の概念がなくなって、今という時点しか頭の中で考えられなくなる。

実際には、過去と現在と未来がひとつに集まってしまった状態なのだろうか。

そこから、やっぱりもう一度生きてみようかと思いとどまった人たちなら分かると思うけれど、過去とは何かというと、現在の積み重ねでしかないと感じる。

当たり前といえば当たり前だが、それを感じながら生きている人は少ないはずだ。

こうやって形而上学的に自問自答を繰り返していった結果として、「今、どうすべきか」という点が大切だと釈迦が考えついたのかもしれないな。

私も泥酔して床に沈んでいる時に、「変えることができない過去よりも、どうなるか分からない未来よりも、現在を大切にしようではないか」と感じる時があるが、おそらく近いところにいるのだろう。

また、どこかの予備校の先生が「今でしょ!」というパワーフレーズを連呼して人気になっている。その言葉が受験生たちの心に刺さることは当然かもしれない。

彼のフレーズは、現在という時間軸を大切にした釈迦やその弟子たち、そして阿留辺畿夜宇和に似ている気がしてならない。

とはいえ、阿留辺畿夜宇和を守らない方が職場では出世したりもするわけで、真面目に生きていれば疲れないのかというとそうでもない。

あるべき姿を心掛けて生きた結果として疲れて倒れたり、他者に対して苛ついたり、良心を利用されて他者から騙されたりすることもあるだろう。

世の中を正論だけで渡っていくことは簡単ではないし、それによって出世するどころか、むしろ出世できないこともあるだろう。

阿留辺畿夜宇和を守ることが本当に正しいことなのかどうか分からないが、たぶん何か良いことがあるからずっと昔の言葉が残っていると考えよう。

まあ確かに、過去と現在と未来の時間軸がひとつになる時でさえ、そこにあるのは「今」という感覚なのだろう。

その時にも、自分はどうあるべきかを考え続けるような爺さんは、それはそれで素敵かもしれないな。

街を見渡して、ありのままに生きているシニアの姿はよく見かけるが、あるべきように生きているシニアの姿を見かけることは珍しい。

それほどまでに、阿留辺畿夜宇和が難しいということか。

全てにおいてその考えを守ることは不可能だが、心がけながら生きてみよう。残りの時間は少ない。

そういえば、ブログで後ろ向きなことばかりを残し続けるのは、ブロガーのあるべき姿ではない気がしてきた。

そろそろ前向きな話についても重ねていこうか。

阿留辺畿夜宇和、阿留辺畿夜宇和と唱えることもストイックで素敵だが、「朝、鏡を見て、今日が最後に日になるのなら、自分は何をなすべきか...」というスティーブ・ジョブズの習慣も格好いい気がするな。

ぜひそうしよう。