中学受験のクライシスを前に数分間の夫婦の会話で至った結論
夫であり父親である私としては、中学受験の方針については妻と子供に任せている。
模擬試験の結果をチェックすることはないし、志望校の選択にも意見を出さない。
あまりに入学金と授業料が高い学校は回避してくれ、それと、あまりに通学に時間がかかる学校は良くないとコメントする程度。
中学受験は親の受験とも言われていて、自転車ではなくて自動車の新車が買えるくらいの金がかかり、もちろんだが子供の学習についても時間や手間がかかる。
子供の適正や能力についてかなり突っ込んで考える必要があり、ビジョンが明確に固まっているわけでもない子供のモチベーションを上げる必要もある。
親としては、少しでも偏差値の高い中学校に合格してほしいという期待や見栄が生まれて当然かもしれないし、自分の遺伝子を受け継いだ子供ということもあって、子供の学力の偏差値が自分の偏差値のように感じて一喜一憂することもあるだろう。
また、受験が近づいてくると、親のメンタルには何度ものクライシスが訪れるそうだ。二月の勝者というシリアスな漫画に描いてあった。
子供を受験塾に通わせると、とかく中学ではなくて、もっと先のビジョンについて子供たちにイメージを与えるような圧があったりもする。
なぜ、偏差値の高い中学を狙う必要があるのか、それは難関大学に合格するためではなくて、将来の夢を叶えるためだと。
そして、機関紙には様々な分野のプロフェッショナルが登場して子供たちに夢を語るわけだな。
その中でもよくあるのが、研究者とか科学者の類のインタビュー。まあ、勉強とは頭で行うことなので、将来は博士になりたいとか、そういったイメージを子供たちに植え付ける意図が露骨に見える。
その論理であれば、研究者の世界は、例えば灘高から東大理三に合格した人たちや開成から東大理一に合格した人たちで埋め尽くされるはずだ。
しかし、現実はそうではない。受験と研究は似て非なるもので、日本全国には特定の分野について怪物のようにマニアックな人たちがいる。
将来の夢は研究者だと鼻高々に東大に入学して学部から大学院の修士課程に進み、他の大学から大学院に合流してきた猛者たちの実力に圧倒されて挫折し、博士課程なんてコスパが悪いと言って早々に諦め、赤門のレッテルが通用する大手企業に就職して鼻高々を維持している人たちは多い。
残念だな。夢だった博士になれなくて。
また、東大法学部から霞ヶ関の官僚というルートならば納得することができる。受験競争の延長で国家公務員試験に合格し、さらに頑張って局長や審議官、事務次官の椅子を狙うわけだ。
だが、中学受験で難関校を狙う子供たちに霞ヶ関の重要性を説いたところで、今ひとつ伝わらないことだろう。
そういえば、小学校のイベントか何かでキャリア教育を兼ねた演技があったそうで、「将来は〇〇になりたい!」と夢を語る題目があった。
たくさん用意されたキャラクターの中に「官僚」という設定があって、子供がその格好をする無茶振りがあったそうだ。
なるほど堅実なキャリアプランだと思ったが、案の定、その役は人気がなくて立候補する子供がいなかったらしい。
うちの子供が両親に、そもそも官僚とは何かと質問したのだが、妻にとって官僚とは踊る大捜査線の室井管理官のようなイメージを持っていたようだ。
明らかに勘違いしている。
ということで、私から子供に説明して、国会の委員会で登場する官僚を動画で見せようとしたのだが、なんだそれでは浦安市役所の職員と同じ格好をしている人たちじゃないかという漠然としたイメージが返ってきた。
ワイシャツを着て、スラックスを履き、首にネームプレートをぶら下げ、役所で働いているという点は確かにそうだな。扱っている予算の額が違うとか、そういったことを言っても子供にはよく分からないだろう。
国会期間中の官僚は寝不足で目がくぼんでいて、浦安市役所の人たちと比べてワイシャツはシワだらけになっていて、男性なら青ヒゲが生えているはずだ。そして給料の額は多分あまり変わらない。
しかし、床にダンボールを敷いて仮眠を取りながら必死になってこの国を動かしている。それが官僚だ。どうだ素晴らしいだろと子供に伝えたのだが、全くリアクションがなかった。
浦安市役所に20代のキャリア官僚が出向してきたら、ヒラ係員ではなくてたぶん課長のデスクが用意されるのだ、どうだ凄いだろと子供に説明しても馬耳東風だった。
さて、コロナ禍が世界を覆い、子供たちの職業人生のビジョンとしても大きな変化がやってきた。
赤ん坊の頃は東日本大震災で液状化と放射能汚染で苦労して、中学受験の頃にはコロナ禍。全くもってタイミングが悪い子育てだなと思いはする。
この半年くらいの間、うちの妻にはどんよりとした中学受験のクライシスがやってきていることが感じられていた。
受験まで1年というステージになると、このままの受験塾で良いのだろうかとか、これから偏差値を上げることができるのだろうかとか。実家が近いので、義父母から何か言われることもあるだろう。
他方、私の中に中学受験のクライシスがやってきたのかというと、そうでもなくて、クライシスというよりも諦観がやってきた。
受験塾に通い始める前、上の子供は顔が私に似ていて、頭の中身も私に似ているのだと思っていた。
入学試験や就職試験で落ちたことが一度もない私に似ているのならば、受験塾での模擬試験なんて無双になると思っていた。
私の実家は大きな借金を抱えていたので、塾に通うことさえできなかったが、我が子の場合には塾に通うこともできるし、浦安市は千葉県内や都内の進学校を狙うことができる好立地だ。
しかし、塾での試験が終わる度に妻が自宅で怒っていることから察する通り、上の子供の成績は難関校を狙うにしては控えめな状態だ。
子供の教育費ために私の趣味に費やす金を節約する気が失せるほどに。
妻が怒って差し詰まっていることも理解することができる。
父親として、上の子供の状態を観察してみると、地頭はあまり悪くないようだが、集中力が持続しない性格のようだ。
おそらく、私と上の子供との違いはここにある。
私の場合には、診断を受けたことがないので確実ではないが、ガイドライン上ではASDに該当する。昔はギフテッドなのかなと思ったのだが、日本にはそのガイドラインがないのでよく分からない。
そして、ASDの人には感覚過敏だけではなくて、「過集中」という性質があることが多い。何かに興味を持つと、それに集中してしまい、時間が過ぎることさえ忘れてしまうという状態だな。
誰から教わったわけではないのだが、少年の頃の私は、過集中を勉強に使えば成績が伸びることに気付いた。
あれはそう...中学二年の夏の頃だったな。
試験勉強を鍛錬や苦行だと思うから嫌いになる。これはゲームだと思えば、過集中の対象になるわけだ。
他者と比べて卓越した知能があれば別だが、人間の知能なんてそう違いがあるものではない。より難関に進む度に知性の高い人たちが集まり、競争はさらに激しくなる。
そのような状況では、食事や睡眠を減らしても疲れが少なく、ずっと集中力を維持することができる性質はひとつの武器になる。
ということで、私は過集中を仕事にも使っている。
中学生の頃と違うのは、過集中を「オーバードライブ」と名付けて、自分のひとつの能力だとほくそ笑んでいることくらいだろうか。
コミック作品によっては、スタンドとかペルソナ、シギル、ARMS、スペックといった感じで。
まさに中二病なので、変わっていないといえば変わっておらず、たとえ発達障害だとしても、何が障害だ授けられし異能と呼べとばかりに悲壮感がない。
だが、共働きの子育てと通勤地獄でバーンアウトを起こした時には感情が喪失して、オーバードライブを発動することができなくなった。あの時は真面目に焦った。仕事にならず、全てが終わったと思った。
そして、バーンアウトから回復して、今度は離人症に苦しんでいるわけだが、オーバードライブは戻ってきた。その時の「いでよ、封印されし過集中よ!」という感じの中二的な喜びは筆舌に尽くしがたい。
漫画だと過集中というフレーズの横に、オーバードライブというルビが入って、背中の辺りから大きな何かが発動し、効果音とともに周りの空間が歪むイメージだな。
実際の過集中では、時間の感覚が止まる。そこにあるのは、ただ静かな楽しさだけ。
あくまで個人のレベルだが、普通の人たちが入ることができず、時間の流れが感じられない異世界が実在しているなんて、定型発達の人たちには信じられないことだろう。
しかし、ASDな人たちはその異世界を行き来することができる。これって障害なのだろうか。
当事者だから言うが、これらの性質は人類が進化を試みている過程ではないのか。
さて、中二病はともかく、上の子供が私と同じオーバードライブを有していたとすれば、受験塾の勉強を楽しんで続け、試験でも無双になり、トップ集団に入っているはずなのだが、どうやら状況は異なっているようだ。
ツール・ド・フランスであれば、先頭集団で大落車が起きない限りステージ優勝は不可能だな。
むしろ、我が子は様々なことに気が散って、しかも受験というハードル自体をあまり深刻に考えていない。
なぜなら、深刻になっても、すぐに別のことに向かって気が散ってハードルのことを忘れるからだ。
人の苦悩を生み出すのは、同じことが気になって頭の上を覆う思考のループだと思う。
その思考のループを潜在意識のもとに断ち切っているというわけか。
やはりこの能力も人類が進化を試みている証拠だな。
だからこそ、妻は真剣に考えろと腹を立てて怒り、まるでブラック企業の営業職の上司のように徹底的に上の子供を詰めて、タスクを乗せる。
これでは勉強を楽しむことができないではないか、このままでは子供の能力をスポイルしてしまうではないかと心配になるのだが、上の子供は妻が怒鳴って叱っても、翌日にはケロリとしている。
なぜなら、妻に叱られて反省しても、すぐに別のことが気になって忘れるからだ。
相手の力を吸い取るタイプの異能だな。
夫である私は長時間の通勤地獄に加えて仕事が忙しく、受験のことについて役に立たないし、子供は自分の言うことを理解しようとしない。妻としてはフラストレーションが蓄積して当然だな。
それでは、上の子供の学力について、学問的に考えてみよう。
人間の能力とか才能といったものは、当然だが多様性があって、中央を山とした正規分布のパターンを取る。
机上の試験問題を解くという能力について、その優劣を正規分布させたものが偏差値という概念や理論になる。
山の中央であれば偏差値50。右側に行くに従って偏差値が高くなり、左側に行くに従って偏差値が低くなる。
受験する学校の偏差値というものは、受験産業の人たちが受験生の学力のデータを取得し、どの程度の偏差値の人たちが合格したのかを逆算しているわけだな。
そして、半数近くが合格した受験生の偏差値を、その学校のボーダーとして設定していると私はうろ覚えしている。
偏差値を計算することができない学校のことを「ボーダーフリー」と呼んだりもするが、これはあまりに難しくて受験することさえ難しいという意味ではなくて、偏差値35を下回っている状態の学校だな。
では、子供の学力にはどのような背景があるのだろうか。
このような場合、環境的な要因と遺伝的な要因に分けられる。
地頭が良くても学習することができない環境で育った場合、あるいは必要な教育が受けられなかった場合には、環境的な要因が関わっている。
また、親が効率的な勉強の方法を知っていて、子供がその方法を受け継ぐことができたというパターン、あるいは親が厳しく子供を管理して偏差値を上げていくというパターンにおいても環境的な要因だな。
受験塾という構造自体が環境的な要因を生み出していると考えて矛盾しない。
親の収入によって子供の学習環境が異なるのはけしからんという指摘があっても、このような構造は変わらない。それは、自分あるいは自分の子供のことを優先する人間の本能のようなものだ。
では、上の子供の学力が伸び悩むことにおいて、環境的な要因が関与しているのだろうか。
経済的には問題がないが、妻が考える受験勉強と上の子供が考える受験勉強との間に大きな隔たりがあることは否めない。
妻は生真面目な性格で、黙々と受験勉強を続けるタイプだったそうだ。あくまで自称。その割に落ち着きがない。
上の子供はすぐに気が散って勉強に集中することが難しくなる。
それをもって妻が感情的になり、上の子供を叱り、母子ともに癇癪を起こし、勉強に集中できず、勉強の時間も減るという悪循環が生じている。
かといって、私が早めに帰宅して上の子供の勉強を見るという余裕はない。ここで手詰まりがあるということか。
次に、環境的な要因ではなくて、遺伝的な要因について考えてみよう。
上の子供に遺伝子を提供した私の地頭はそれほど悪くない。
しかし、ASDらしきものに起因する過集中という性質を勉学に流用するという、ある意味チート的な行為がなかったなら、今のように勉強ができたかどうかは分からない。
上の子供は注意力が散漫で、過集中を起こさない。
「好きこそ物の上手なれ」とは言うけれど、上の子供は科目によって好き嫌いが大きい。
では、上の子供の地頭が妻の遺伝子によるものだと仮定すると、どうしてここまで落ち着きがなくて集中力が持続しないのかという点に疑問が生じる。
確かに、妻にはADHDの気があって、距離1メートル、半径30センチという進撃の巨人のターゲットポイントのような視野の狭さがあるし、うっかりして何かを忘れるということもあり、何かを続けていると飽きやすいという性質がある。
最初、私は上の子供は妻に似ていて、なんだ自分の遺伝子と戦って怒っても仕方がないだろと思ったのだが、上の子供と妻の性格はよく似ているようで、明らかに違う。
だとすれば、この遺伝的な形質はどこからやってきたのか。
私の遺伝子と妻の遺伝子が混ざり合って、合成ポケモンのようになったと考えても矛盾はしないのだが、私はこの形質をどこかで見たことがある。
その人は実在し、実際に近くに住んでいるような感覚がある。
しかし、私の自我がその記憶に蓋をして閉じてしまっている。一体、誰なのか。
受験が近づいてきて、精神的に一杯になってしまっている妻に対して、どのような学習にしようとか、そういったことを私が意見すると大噴火になる。
目の前の課題についてではなく、もっと根本にある上の子供の性質について考えた方がいいと思った。
なぜなら、中学受験とは、より高い偏差値の大学に合格し、より高いステータスの職業に就くことがそもそもの目的や意義ではないからだ。
しかし、多くの保護者たちは、難関の私立中学校に合格することができれば、そこから自動的に山の頂上に登ることができるというイメージを持ってしまうことだろう。
その一方で、受験業界は子供たちに目先の受験ではなくて、ずっと先の職業人生についてニンジンをぶら下げて、そこに向かって子供たちを引っ張ろうとする。
受験塾の数学や理科の先生だって本当は科学者になりたかったのかもしれないし、社会の先生は新聞記者、国語の先生は弁護士になりたかったかもしれない。
彼らは子供たちが理想とする職業の現実を知っているわけではなさそうだ。その階段まで子供たちを連れて行くという大切な仕事だが。
自分の子供に対して、将来の職業人としてのビジョンを用意するのは誰なのかというと、ひとつは本人であることに違いはない。
しかし、ある程度のルートを想定して考えておくことは親の担当なのだろう。
そのためには、上の子供の遺伝的形質がどこからやってきたのかを推察することが重要だ。
その人物の生き方や軌跡を参考にすれば、これからの方向性が見えてくる。
ということで、私は妻に対して尋ねた。
「この子は、誰かに似ている気がするんだ。誰なんだ?」と。
妻は、ギクッとした表情で振り向いて、明らかに心当たりがある人物の名前を呟いた。
その人物とは、浦安市内の義実家に住み続けている妻の妹。つまり、私の義理の妹だ。
なるほど、私の記憶がロックされていた理由も分かる。
そうなんだ。義妹と話をした限りでは、地頭が悪いはずがない。むしろ頭の回転が速い。しかし、国立大学に合格することができなかったことが不思議でならなかった。
落ち着きがなくて集中力が続かないという性質は、裏を返せば様々なことに気が付くことができるという性質でもあるわけで、私の過集中と同じで使い方次第で武器になる。
そして、義妹はその力を受験勉強では上手く使いこなせなかったが、職業人としては武器として使いこなしている。
しかも、上の子供と義妹は仲が良くて、とても気が合うそうだ。
両者が同じ脳のOSを持っていて、波長がシンクロしていると考えれば納得しうる。
また、妻が上の子供を叱っても、そこに怒りと愛情が混ざっていると感じるのは、義妹を叱っているように私が感じるからだろう。
となれば、話は早い。義妹をモデルケースとして設定し、彼女の生き方を参考にして、どこを修正し、どこを伸ばし、どのようにキャリアデザインを考えればいいのかという話になる。
例えば私に確固たる教育論があって、「目標は渋幕に合格すること。滑り止めは市川。それ以外は認めない」とか、「大学は東大のみ。千葉大は負け組だ」とか、そういった偏った主張があれば別なのだが、子供の人生は子供のものだ、私のものではない。
加えて、東京大学の銀杏の紋章を手に入れることが、必ずしも人生の成功ではない。
ほら、ドラゴン桜の冒頭で、熱量高めのパワーフレーズがあったと思う。詳しくは伝説の偉人ググレカスに従うことにする。
「賢いヤツは騙されずに得して勝つ。馬鹿は騙されて損して負け続ける。これが今の世の中の仕組みだ。騙されたくなかったら、損して負けたくなかったら、お前ら勉強しろ!東大に行け!」というセリフ。
まあ確かに正しいことかもしれないな。大手企業の採用試験では東大卒の受付窓口は別に用意されていて、面接を受けてから採用通知の葉書が届く前に、速攻で人事から電話がかかってくることが多いそうだ。
しかし、有名大学卒というレッテルを自分に貼ってもらい、自分はエリートだと誇りながら生きて行くことは、社会の空気に騙されているのではないか。
日本の英知が集まり、OBが様々なエリアの中枢に進む場所でもっと踏み込むと、この国の裏側まで知ることになる。
夜空で輝く月という存在が、実はずっと同じ表面でしかなかったということに気付いた時、それを虚しく感じることもあるだろう。
また、職業人として生きるには学歴ではなくて、スキルや能力、才能といった要素の方が大きい。当然だが国家資格も重要だ。
それと、よくよく考えてみると、人が職業人として生きる中でのスケールとは、大抵が自分の目で見渡せる範囲でしかない。
どこかに就職したとして、その建物を遠くから眺め、その建物の中に入り、そこで働き続けていれば、自分の職業人としての世界はその建物の中という話になる。
その小さな世界の中で勝った負けたとか、遣り甲斐があるとかないとか、まあそういった感情を持ちながら働くわけだな。
その世界が自分にとって居心地の良い場所であれば、社会的なステータスや不文律なんて関係なくて、それが本人にとってのより良き生き方になる。
一方、大多数が何と言おうと、その世界が自分にとって向いていなかったならば、職業人として生きていて苦しくなることだろう。
親として、子供の将来、特に職業人生を考えることは、単に受験の偏差値で一喜一憂する話ではないように感じる。
加えて、人の幸せは仕事だけでは決まらない。何をもって幸せと感じるかは人それぞれだ。
私は妻に、「そう、この子は、君の妹さんとよく似ているんだよ。彼女の生き方を参考にすればいいんじゃないかな」と答えた。
いつもはブルペンキャッチャーにボールを投げ込むような妻だが、今回は違った。
義妹の外的な性質、つまりペルソナについて私は理解しているが、彼女の子供の頃や内面については、妻が知っている。
思い当たることは多々あったはずなんだ。しかし、上の子供の外見が私に似すぎていて、そのことを受け入れられなかったのかもしれない。
珍しく妻が私の意見を素直に聞いて理解してくれたので、「妹さんの職業人生は大したものだよ」と、私は再びボールを投げてみた。
その頃から、妻は上の子供の偏差値というよりも、日々の学習の習慣や生活のリズム、日常のしつけについて丁寧に取り組むようになった。
だが、頭の回転が速いのに落ち着きがなく、集中力が続かないという人物は、私にとってもうひとりの心当たりがある。
それは、私の母親だ。
しかし、母の場合には好き嫌いが激しく、気に入ったことには過集中を起こすことがあった。なんとも捉えどころのないタイプだ。
また、上の子供は私の母のような激烈な攻撃性がない。癇癪の起こし方は妻とそっくりだ。義実家の遺伝子なのだろう。
しかし、上の子供が義妹に似ていると妻に伝えるだけでは、その重さを妻に載せ続けてしまう。
念のため、「まあ、うちの母と似ている気もするんだよね。けれど、あの人に比べたら、ずっと大人しくて理解力と社交性があるよ」と妻に伝えた。
おそらく、受験塾に通い始めた頃に妻が描いていたゴールイメージは、あと半年もすれば大きく変わると思う。
私は中学受験を経験していないので、その大変さを理解していない。
しかし、日本の社会では、大人になるかならないかという早い段階で職業人生の進路が決まってしまうことは否めないので、あまり悠長に構えていられるはずもないのだが、あくまで中学受験は通過点だ。
職業人生の方向性が決まった段階で、そこからがスタートになるのだろう。
そのための子供の適正や選択肢をどのように考えるか。
中高一貫校を探す時、親としては上位層の多くが難関大学に合格するような学校が気になるはずだ。
それはとても分かりやすい実績ではあるし、当然のように中学入試の偏差値が高くなる。
だが、子供の性格や適正が分かっていて、職業人生のビジョンが見えてきた時には、その学校の中間層もしくは下位層がどのような大学に合格しているのかという点がポイントになると思う。
そのような解釈を受験塾の講師が必ずしも分かっているとは思えない。なぜなら、彼らは中学受験には詳しくても、職業人生のレパートリーについては一般人でしかないからだ。
上の子供が努力して私立中学校に入っても、上位層ではなくて、そこから下の層に位置する可能性がある。
そこからターゲットを狙うには、上位層だけが突出しているよりも、下位層を含めて全体を引き上げるような学校が大切になる。
高い偏差値の学校に合格することが、必ずしも成功ではないことを、どうやって上の子供に理解させるか。
子供の職業人生を登山にたとえて、その山に登ったことがある人が身近にいたということが分かっただけでも、私たち家族にとっては有り難いことだ。
その山に登るためにはどのようなルートがあって、どのような装備とトレーニングが必要なのかを、事細かく教えてもらうことができる。
また、義妹と上の子供の遺伝的形質が似ているとすれば、私たち両親が上の子供を諭すよりも説得力がある。
本来ならば自分で麓から登って山頂にアタックするわけだが、上の子供の場合にはベースキャンプが用意されていて、そこから始める形になる。
わが家の子育てを全くサポートしてくれない義妹だが、思わぬところで世話になりそうだ。