2021/03/19

負けたくないが勝てなかった故郷の同級生

金曜日の深夜まで残業を続け、ようやく年度末の仕事が片付いてきた。帰りの地下鉄では、2回連続でホームにたどり着いた瞬間に私を残して発車。ウンザリしながら待ち、次の電車に乗る。待ち時間や車内で考えていたのは、私が子供の頃から張り合っている同級生のこと。


ここでは「マサキ」という仮名で呼ぼう。私の身内であれば、誰のことなのか分かるはず。

マサキの母親は私の父親のイトコなので、彼と私はハトコという関係になる。

私は幼少期に祖母が母親代わりだったので、祖母の妹の孫であるマサキと遊ぶことがよくあった。

互いに同じ町に住んでいたので、彼と私は保育園から公立小学校、公立中学校まで同じだった。

郷里はドが付く田舎だ。ひとつの学年で2クラスしかなかったのだが、なぜか彼と私は別のクラスになることが多かった。

かなり時間を遡ると、マサキの両親に結婚の話が上がった時、私の実父が反対したらしい。

あの男は結婚相手として相応しくないと。

イトコの結婚のことなんて関与する必要がない。

だが、私の実父は、とかく面倒な親戚関係に首を突っ込む。

実父の妻、つまり私の母は情緒的虐待によって、私に大きな心的外傷を残した。親戚の縁談について父がとやかく言えるはずもないのだが。

そして、マサキの両親はめでたく結婚し、私と同じ年にマサキが生まれたというわけだ。

マサキの父親は大の野球ファンで、小学生の野球チームの運営に深く関わっていた。

マサキも当然のように野球チームのメンバーで、確かポジションはショートだったと記憶している。

彼は私よりも小柄だが、俊敏で運動能力が高かった。

今でもその印象があり、私の郷里に限った話でもないが、少年野球のチームは、子供だけでなく親同士の交流の場になっている。

親子同伴のバーベキュー大会やキャンプ、餅つき大会などのイベントが用意され、彼らはその話題を小学校で自慢していた。

多分に親が関わった偏りのある子供たちの力学だ。

もちろんだが他のチームとの試合。その後は親同士の飲み会。

マサキや彼の父親は、その輪の中心にいた。

マサキ本人の社交性が高い上に、彼の親や野球を通じて得られた地域の繫がりが、彼の周りを取り巻いていた。

小学生や中学生の頃は、少年野球チームの男子たちが常に目立つ存在だった。

今はサッカーチームの方が目立つのだろうか。

Jリーグが始まる前、しかも大した娯楽もないド田舎だ。放課後の広い校庭を野球チームが独占的に使用していた。

小学校という苦手な集団生活で四苦八苦していた私には、友達と呼べる同級生もおらず、孤立することが多かった。

変わり者だとイジメを受けたこともよくあり、そのような嫌がらせを加えてくるのは決まって野球チームの連中だった。

私の野球人嫌いはこの時期から続いている。

一人ひとりの力は大したことがなくても、徒党を組んで大きな顔をしたがる。

今でも荒川の河川敷でロードバイクに乗っていると、歩道でバットを振り回している野球中年に顔をしかめる。

いい年なのに、どうして茶髪なのだろうか。

もとい、私が子供の頃の野球チームは、単なるスポーツというよりも、非常にローカルな社会の繋がりとして、親から子の代まで続いていた。

野球チームのメンバーが他の子供と喧嘩をすると、速攻で野球チームの母親たちが尾ヒレのついた情報を井戸端会議で撒き散らした。

私の実家は大きな借金を抱え、しかも両親の性格がアレなので、親子を含めた地域のコミュニティとは無縁だった。

田舎の公立小中学校はエスカレーター式の一貫校のようなもので、中学に上がると、当時の野球チームのメンバーが野球部に入り、勉強は苦手だが野球と喧嘩は得意という、よくある歌舞いた集団が形成された。

私の偏見でしかないが、当時の公立中学校の野球部はヤンキーとかツッパリと呼ばれる人がとても多かった。

母校の東京大学の野球部が弱い理由がなんとなく分かる。

だが、公立中学では、そのガラの悪さが女子生徒たちには魅力的に映るそうで、とにかく野球部はモテた。

その野球部においても、マサキは先輩から可愛がられ、同級生たちが常に周りにいた。

昔は変形させたデザインの学生服が流行ったりもして、野球部は流行の最先端だったな。笑えるほどに小さなスケールの世界だが。

マサキの父親が地元の少年野球チームの世話人だったこともあり、彼の先輩や後輩を含めて、まるで身内のような野球ネットワークとでも言えそうな関係が作られていた。

マサキは自己愛が強く、目立ちたがり屋の性格なのだが、癪に障るような言動はなくて面白い人だ。

マサキにはタカシ(仮名)という少年野球チーム時代からの親友がいて、とにかく二人は目立った。

ビー・バップ・ハイスクールのヒロシとトオルのような感じで人気があった。

当時の私はどうだったのかというと、すでにド田舎の公立中学校の雰囲気にウンザリしていた。

中間試験や期末試験の五教科の点数が常に490/500点台。

職員室では私に全教科満点を取らせまいと、特に理科の中年男性の教師が必死になっていたな。

彼は難関進学校に入って深海魚になってしまい、大学受験に失敗して卑屈になったそうだ。いつも寝癖頭で性格が悪く、勉強ができる生徒を嫌う癖があった。

その理科教師は、授業でつぶやいただけ、教科書にも載っていない内容まで試験に出すような性格の悪さで、教師という権力で生徒に圧を加えて喜ぶような人だった。

私としても、理科だけは常に満点を取ろうとして、お陰で理科が好きになった。今から思えば大切な師だな。

しかし、周りと明らかに変わっているのに、何の療育も施されないどころか、家庭で酷い扱いを受けていた私がまともに集団生活を送ることができるはずもない。

少しのことで反応したり、教室がうるさくて耳を塞いだり、過集中に入ったり、空気の読めない発言をしたり。

これでクラスの同級生たちから浮かないはずがない。

自分たちと違った存在を排除しようとする陰湿で懐の浅い田舎の不文律は、大人だけでなく子供たちにも浸透していた。

予定調和で私は同学年の野球部の連中からのイジメに遭った。

勉強ができたこともリスクだったのかもしれないな。

そもそも、最終的には銀杏の紋章を授与される人が田舎の公立中学に放り込まれて、学内の試験で無双にならないはずがない。

ヤンキーたちは、私の諸々が気に入らず、イジメて這いつくばらせようとしたらしい。仲間もいないので怖くないと。

しかし、小学生時代と違って、私は成長期で身体が今と同じくらいに大きくなっていて、身体能力もそれなりに長けていた。

音楽の授業中、野球部の同級生のひとりから嫌がらせを受けたので、私はその男子生徒に反撃して乱闘になった。

それまでの私の怒りの蓄積は激しく、ひとりを床に沈めて顔を踏みつけた後、別の野球部の輩が加勢に来たので、同じように沈めようとしたところで、男性教師たちから取り押さえられた。

明らかに危ない生徒だな。GANTZのようだ。

どうやら戦う場所を間違えたらしい。体育館の裏にすべきだったか。

だが、戦意を喪失して茫然としている野球部を見て思った。

野球部のヤンキーたちは単独になると大して強くない。

強くないのに集団になっているから強く見えるだけなんだ。子供のマターに親までが踏み込んで。

人は誰しも弱さがあって、弱いからこそ群れを作る。

本当に強い人は、群れなくても生きられる人ではないのか。

私が野球部の連中からイジメに遭っていたのは同級生どころか教師たちまで知っていた。

しかし、誰も助けてくれなかった。

マサキは野球部の中心にいて、しかも私の親戚だ。けれど、彼は長いものに巻かれて知らない顔だった。

そのエピソードがあって、私はマサキを含む野球部の連中を見下すくらいに偉くなろうと、屈折した競争心を持つようになった。

それと、PTAの役員は野球部の生徒の保護者が歴任していた。

その子供たちがイジメをやっていても、教師たちは見て見ぬ振りをしていた。

教師たちは自分たちの都合で野球部の親たちに気を遣ったのだろう。

学校のイベントやPTA活動で積極的に支援してくれる親が教師たちから歓迎され、その見返りが用意される構図は、昔も今も変わらない。

PTAに対する私の強烈な嫌悪感と、公立中学に対する不信感は、その時に生まれた。

親になった今でも、PTAなんて廃止すればいいと考えている。

私が公立中学を全く信用しなくなったのも、その時からだ。

イジメを受けていた私が反撃に出た背景を教育委員会が詳しく調べれば、当然だが校長や教頭、教師たちの対応まで調べられる。

教師たちは自分たちの責任が追求されることを恐れたのだろう。

学校のことが教育委員会に知られたからといって、事務局にいるのは出向してきた教員だ。どこまでも隠蔽に走るだろう。

最近では自分たちの責任を考えて、教育委員会が真っ先に記者会見で反省しきりに謝罪したりもするが。

当時は教師による体罰も多かったが、それも見過ごされてきた。

そもそも、あまり啓蒙されていない地域の中学校だったので、乱闘騒ぎなんて日常のことだった。

チンピラが女子生徒を迎えに車で校舎にやってくるとか、まるでドラマのようだったな。

1対複数の乱闘ということもあり、イジメの首謀格はボコられて男前になったが、私が追求されて叱られることはなかった。

その後、野球部の保護者たちの井戸端会議で私や家族のことがボロクソに罵られ、その他の親にもあることないことが広められた。

群れることで威張るような弱い親たちに育てられれば、子供たちも同じような人間になる。

大きな産業があるわけでもなく、衰退し続ける町で、大人たちは湿気の高い人間関係の中で生きていた。

こんな町、早く出て行こうと思った。希望が見えない。

私の野球嫌いはさらに激しくなり、今でもロードバイクに乗って河川敷を走っていて、マナーの悪い少年野球チームの保護者を見かけると気持ちが苛立つ。

あの人たちはどうして黒のミニバンを荒っぽく運転し、路上で喫煙するのか。

だが、反撃してからは、私に対する野球部からのイジメはなくなった。

小学生時代から続いた長いイジメだったので、ひとりずつ沈めていこうと思っていた。リアルな中二病だな。

しかし、野球部のリーダー格のマサキとタカシが、真っ先に逃げたらしい。

正確には、彼らがイジメを指示したわけではなくて、取り巻きのヤンキーたちが面白半分で私をイジメていた。

そのヤンキーのひとりが、授業中にイジメられっ子からフルボッコにされて、公開処刑されたわけだ。

おそらく、野球部の生徒たちには自分たちで話し合って反省するような知性はなかったはずだ。

どこまでも子供たちに干渉する野球好きの保護者たちが話し合って、私に関わらないように指示を出したのだろう。

私は同学年からさらに色物として距離を置かれることになり、修学旅行の観光バスで隣に座ってくれる人を探すことにも苦労するという中学時代だった。

バスケット部に所属してはいたが、ゼロか100の人間関係しか築けない私が、メンバーたちと上手くやっていけるはずもない。

体格が良かったり運動能力が高い生徒たちは野球部に集まってしまい、バスケット部は弱小だった。

体育の授業のバスケットで、バスケット部が野球部に負けた時には愕然としたな。

それ以上に私を苦しめたのは、小学生の頃から始まった希死念慮だった。

自分が何のために生きるのか、いや生きなくてはならないのか。その悩みが中学生になってさらに強くなり、すでに生きることが退屈になっていた。

高校からは私立の進学校に入ったので、激ローカルな人間関係から解放された。

当時は両親が商売を変えて借金が増えた頃だったので、特待生として授業料の免除を得るために必死だった。

また、私立の進学校にはガラの悪い野球部がやってこない。

様々な地域から生徒が集まるので、保護者同士の関係も簡素だ。陰険な井戸端会議そのものが成立しない。

その高校で、数人ではあるが人生を通じて付き合いのある友人もできた。

私は大学入学を機に故郷を離れ、Uターンなんて全く考えず、ひたすらに首都圏で生き残ろうとした。

嫌な記憶しかない郷里に住み続けるなんて御免被りたい。

遅かれ早かれ、この地域は過疎化が進んて消失することは予想が付いた。

東京での生活は自由で開放感がある。しかも、私が変わっていても迫害されない懐の深さがあった。

東京大学はさらに素晴らしい場所だった。私よりも変な人が多くて、死とは何かと研究し続けている教官さえいた。

そして、数十年の月日が流れた。

私は父親同士のマウンティングでは負けない仕事に就いた。

嫌で嫌で仕方のない町を脱出して東京に移り住んだのに、そこで千葉県民の妻と出会い、千葉に引っ張り込まれ、嫌で嫌で仕方のない町で生活している。

都内在住の独身男性たちは、千葉県民の女性と結婚する時には気を付けた方がいいぞ。彼女たちは夫を千葉県に引っ張り込む傾向がある。

その間、マサキはどうしていたのかというと、野球部御用達のボーダーフリーの公立高校を経て、偏差値35程度の私立大学に進み、卒業後にそのまま郷里に戻った。

彼は、実家の近くにある僻地の村の役場に職員として就職した。若者が少なく、地域枠を使ったのだろう。

当時、マサキの父親の兄弟、つまりオジさんは首長だった。役場にはたくさんの野球部OBが勤めている。そのコネもあったのか。

浦安市役所にも地域枠と思われる採用が多い。たくさんの浦安高校や浦安南高校の卒業生が市役所で働いている。

浦安市役所は東京に近く、ディズニーの華やかなイメージもあり、給料は日本トップクラスということもあり、市外出身の有名大学卒も採用され、地域の高卒との間で色々とあるそうだ。

千葉大卒が浦高卒に顎で使われることがあってもおかしくない。

それは地方の役所ではよくあることだ。学歴が通用する世界とは思えない。

学歴とは、そこで何を学んだのかという経歴のはずだが、実際には大学名のレッテルのようになってしまっている。

学歴が大切だと思えば、浦安市役所ではなくて、千葉市役所や千葉県庁の方がいい。

浦高卒ではなくて東大卒が上司であれば気が済むのなら、霞ヶ関に行けばいい。

あそこはワンダーランドだ。28時まで時計の針が回り、学歴よりも命の大切さを知ることができる。

また、故郷の野球部のネットワークだって笑い話ではない。

現在の浦安市の教育長、つまり行政のナンバースリー...副市長が二人いるのでナンバーフォーか...は浦高の野球部のOB。現市長は大の野球好き。

市役所や支援者にも野球部OBがいることだろう。

だが、市役所や役場は、市民とのインターフェイスとなるストレスや苦労の多い仕事だ。

その土地で生まれ育ったという地域愛や帰属意識がないと務まらない仕事なので、私は地域枠の採用は大切だと思う。

また、スポーツを通じたネットワークも否定はしない。お互いの人となりを知る上で有用なのだろう。

実は、アメリカの地方の役所では、このネットワークが野球ではなくてアメフトに置き換わっているらしい。

採用試験に応募した学生が、オフェンスラインマンだったら優遇されるとか、マジかよ的な話を聞いたことがある。

クォーターバックやラインバッカーといった花形のポジションではなくて、地味なオフェンスラインマンが優遇されるのは、フォーメーションを記憶する知性と、地味でもチームのために努力する忍耐力を要するからなのだそうだ。

野球で例えると、4番の一塁手とか投手ではなくて、下位打線の捕手とかバントと犠牲フライが得意な遊撃手だろうか。

もとい、その後、市町村合併によって、マサキは役場の職員から市役所の職員という立場になった。

彼は中学時代から交際していた学校で最も美しい、ほら、よくマドンナと言われたりする女性と結ばれ、洒落た一軒家に住んでいる。

彼女も私の同級生だったが、当時から綺麗で性格が明るくて、裏表のない人だった。

中学生の頃から二人はお似合いだと私は思った。

田舎の良さは、住居費の安さだ。

浦安の海沿いの墓の前であれば、7千万円から1億円くらいの値が付く戸建て住宅でも、田舎ならば1千万円台だったりもする。

親戚から土地を格安で譲り受ければ、もっと安い。

マサキはマイカーで楽に職場に通い、自宅の内装はログハウスのように凝ったデザインになっているらしい。おそらく地域の友人たちに安く仕上げてもらったのだろう。

たくさんの子供たちに囲まれて幸せそうだ。

彼の親友のタカシだけでなく、野球部の連中も故郷に残っていることが多かった。

都会での競争に負けて帰郷した人もいるだろうけれど、最初から都会が上という価値観がないのだろう。それは正しい判断でもある。

しかも、自然豊かな環境で子どもたちを育て、アウトドアを楽しみ放題だ。

地方の市役所の40代の年収としては500万円くらいだろうか。家はすでにあって、食材も安い。

自主財源に乏しく、消失が危惧される自治体であっても、国からの交付金があるので、マサキが勤める市役所が破綻することはない。

私見だが、累進課税が重い我が国では、かなり前から年収が1000万円を超えても稼いだ気がしない。

児童手当は以前から所得制限があって一律、今後は世帯年収1200万円以上は対象外になる。

おそらくうちの妻がマサキよりも稼いでいる我が家は、軽く制限を超えて児童手当がなくなる。

しかも、私立も含めた高校の無償化では、世帯年収910万円未満が対象になる。間違いなく我が家は対象外だ。

そもそも仕事の価値と年収は関係がないと私は考えている。

通貨は道具であり、あればあったで嬉しいが、人間が決めた価値観に基づく。

求めたらキリがないし、年収を誇ることはメッキの見栄えを誇るようなものだ。

ただし、より高い年収を稼ごうとすれば、往々にして身を粉にして働く必要がある。

稼いだ分が税金として徴収され、他の世帯への補助にまわることを否定はしないが、子供を育てることにおいて所得制限をかけることは正しいのだろうか。

一方で、あまり苦労せずに大金を稼ぐ人たちもいる。

金がなくなって自ら世を去る人もいる。

金ってなんだろうな。

私の場合には、仕事の年収よりもその内容が中二病的な思考にフィットしていて気に入っているだけだな。

だが、マサキは無駄な力をかけずに効率よく、ストレスなく生きている気がしてならない。

隣の芝生は青いとは言うが、青いにも程がある。

私は今、日付が変わりそうな帰宅時の電車の中にいる。

やっと座席に座れたのだが、隣のオッサンがマスクを外して安酒で底辺飲みを晒している。

反対側の隣に座っている青年は、10分以上も一定のリズムで頭部を左右に激しく振り動かしている。

そして、これから電車を降り、スマホゾンビを避けながら駅構内を歩き、心拍数が上がる街に戻る。

蜂の巣の穴のようなマンションの自宅に帰宅し、冷めきった夕食をひとりで食べる。

この街は私にとって寝床があるだけの存在だ。

街への思い入れなんて微塵もない。

疲弊しながら職場と自宅を往復することが愚かなことだと思いながら、どうすることもできない。

これって、本当に豊かな生き方と言えるのだろうか。

そうか、40代の父親が脱サラして地方にUターンあるいはIターンすることがあるというのは、このような問題意識と解決なのだろうか。

郷里には嫌な記憶しかないので絶対にUターンすることはないが。

だが、気付いたことがある。

子供の頃、私にはマサキの姿が輝いて見えた。

彼らが集団で楽しそうにしている姿が素敵だと思い、ボッチな自分が無様に思えた。

学生時代の私は、マサキや野球部の連中を見下していた。

イジメの恨みもあったし、私は彼らに勝ったと思った。

勉強せずに野球ばかりやっているからそうなるんだ。あはは、素晴らしい眺めだと。

安田講堂を見上げ、自分こそが競争社会の勝者だと思った。

そして、私は都内で職に就き、彼らをさらに見下すようになった。

夜の地方の田舎は真っ暗だ。都内のビル群のネオンを眺めながら、彼らに勝ったと思った。

稀に帰省して、当時の野球部の連中の暮らしぶりを親から聞き、子供の頃の威勢はどこに行ったのかと心の中でほくそ笑んだ。

小中学生の頃、学年でいつも目立って、教師や同級生たちからちやほやされたマサキもタカシも随分と地味になったじゃないかと。あはは、良い眺めだと。

そういえば、寄ってたかって私にイジメを加えたアイツはどうなった。なるほど、職を転々としているのか。そこに仲間はいないようだなと。

しかし、そのように歪で醜悪な私の競争心は間違っていた。

自分の人生が下り調子になり、泡のような優越感と中身のないプライドに浸っていたことを悟った。

子育てを機に東京都から千葉県の浦安市に引っ越して、私の生き方は、故郷にいた頃と変わらないくらいに酷い状況になった。

毎日が辛くて仕方がない。とても無様な生活だ。

まさに「人を呪わば穴二つ」だな。

狭い街にこれだけの人が住んでいるのに、同世代の友人はたったの3人だけ。

全て357号線の向こう側の友人だ。自宅がある浦安市の新町には、友人と呼べる存在がいない。

血の繋がった親戚は浦安どころか千葉県にひとりもいない。完全アウェイだ。

そのような状況で、毎日、毎日、消耗しながら長時間の通勤で顔をしかめ、疲弊しながら耐える生活が豊かな生活とは言えない。

現にバーンアウトで苦しみ、離人症らしき状態になりながらも解決までの道は長い。

浦安住まいの地獄から解放されるのは50歳を超えてからの話になる。

これらの状況から判断すると、私の現状はマサキや野球部の連中と比べて劣っている。生き方という全体において。

いや、生き方というもの自体が、比較して優劣を付けるものではない。自分が劣っていると考えた時、自分が無様になる。

しかし、何も知らない彼らから見れば、田舎から東京に出て働き、ディズニーがある街で生活している私の生活を羨ましく感じているかもしれない。

事実、私の実父は今でも私のことで親戚や近所に自慢してまわっているらしい。

実家の経済状況で私がどれだけ苦しんだのか、また、幼少期の親からの暴力による心的外傷で今も苦しんでいることなんて、分かってはいない。

しかし、それだって、私が口に出さなければ誰も分からない。当時を知る人たちは寿命がやってきて少しずつ世を去っている。

そして、いつかは私も世を去ることになり、遺書代わりにこのブログだけが残るということか。

つい最近まで若者だったはずなのに、子供の頃の記憶も残っているのに、想像以上に人生は短く、時の流れは速いな。

まるで、夢のようだ。

そう考えると、五十路のオッサンになってまで郷里の同級生たちと張り合って、勝った負けたと考えること自体に意味がなかったということか。

今の居住環境が悪過ぎて、故郷で生活している同級生たちの姿が幸せそうに見えていることは確かだが、その軌跡を選択したのは私自身だ。

義実家や妻の推しを拒否していればと今さら後悔しても、苦渋に満ちた10年という時間は戻ってこない。

だとすれば、現状を耐え、毎日を丁寧に生きよう。

この街に引っ越した時のような失敗を避けねば。

せめて晩年くらいは穏やかな気持ちで生活したいものだ。

この苦しさも懐かしくなることを願って。