諸君、私は新浦安が大好きだ。
アニメファンならば、すぐに分かる体で行く。
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私は新浦安が好きだ。
私は新浦安が好きだ。
私は新浦安が大好きだ。
ディズニーが好きだ。
総合公園が好きだ。
ベイシティバスが好きだ。
イオンが好きだ。
ニューコーストが好きだ。
ケーズデンキが好きだ。
不動産屋が好きだ。
鉄鋼団地が好きだ。
団地群が好きだ。
戸建街が好きだ。
京葉線が好きだ。
境川が好きだ。
猫実川が好きだ。
三番瀬が好きだ。
街並が好きだ。
自治会が好きだ。
埋立地が好きだ。
小学校が好きだ。
中学校が好きだ。
市役所が好きだ。
市議会が好きだ。
日の出、明海、高洲、入船、今川、富岡、弁天、舞浜。
この街のありとあらゆることが好きだ。
朝晩の通勤でシンボルロードの歩道をミニベロで走っている時間が好きだ。
新町の住民たちが自転車に乗って赤信号に突撃して行く姿を見かけると、リスクを承知で自らの利益に向かって猛進するアッパーミドルたちの強い意志に圧倒されて感極まる。
かつては日本トップクラス、現在でも千葉県内で有数の浦安の財政力が好きだ。
近い将来に財政が赤字に転落することが分かっていながら、市立小中学校の大規模修繕を後回しにしてでも、数十億円をかけて新たな施設を建設せざるをえない浦安行政の都合を察すると、推理小説のトリックが分かった時のような清々しい満足感がやってくる。
自宅から新浦安駅までの時間や東京駅から職場までの時間を含めずに、「浦安は最短20分で東京にアクセスできる好立地!」とアピールする新浦安在住の市議会議員や不動産屋、浦安の大ファンが好きだ。
新浦安駅の中に自宅があり、東京駅の京葉線ホームが職場というあり得ない想定のセールストークを信じて転入してくる人が本当にいること、また当代島地区から浦安橋を渡って東葛西に走り込めば最短数分で東京にアクセスできる好立地なのに、やはりここは千葉なのだということを悟った時の感動は、今でも忘れない。
この街は公園や体育館、図書館などの施設が充実していると誇らしげに語る人たちの輝きに充ちた表情が好きだ。
市民受けが良い施設には喜ぶが、治水施設の未整備や老朽化を気にしない市民が、いざ大雨がやってくると防災マップをチェックして数メートル以上も水没するではないか行政は何をやってるんだとツイッターで激しく批判し、大雨が去ると何事もなかったかのように再び行政に無関心になる優しさと寛大さに心が温まる。
浦安市の防犯カメラの数が元町と新浦安で偏っている、市長の地元の元町が優先なのかと指摘する新町の意識高い系が好きだ。
過去に防犯カメラを設置しようとした時に、「私たちを監視するのか!?」と明後日の方向から突っ込みながら、すでに公的施設や民間企業等に防犯カメラが数多く設置されていることに気付かない市民が住んでいたのはどこの地区なのか、また浦安市内の犯罪発生率がどのような現状なのかを思い出すと、彼らの価値観の集中力と自らの見識のみを信じる自己愛に美しさすら感じる。
「この街は住み良い」と義父母や妻に推されて引っ越し、その直後に震災がやってきて街が液状化で崩壊した時の記憶は、私の人生での貴重な教訓だったと懐かしく感じている自分のことが好きだ。
ライフラインが寸断され風呂にも入れずに都内の職場に通勤したところ、都内に住む同僚たちは普通に生活していることを知った時には悲しくなったが、自宅で猫砂を敷いて大便を垂れた時には心の中で新たな世界への扉が開き、天にも昇る気持ちになった。
1日に100万円以上の税金が使われている音楽ホールについて、すでに建設されてしまったのだから有効に活用しようと前向きになっている人たち、真相を追求して対処すべきだと指摘している人たち、そして、他にも金がかかる施設があるではないかどうして音楽ホールだけを槍玉に上げるのかと反論する人たちの議論を見かけると、もうたまらない。
近い将来に財政が赤字に転落し、年齢分布が一気に高齢化することによる財源の縮小と関連予算の増額が追い打ちをかければ、そのような賛否が分かれる施設を建設する金すらなくなり、既存のインフラや行政サービスを減らしながら耐えるだけで精一杯になり、パンとサーカスを求める市民がしばらく沈黙した後で、「ならば民間資本だ!行政がなんとかしろ!」とツイッターやブログで主張する姿を想像するだけで、絶頂に達する。
どんな時間帯でも歩道を人々が出歩き、自転車と自動車が駆け抜け、京葉線の通勤快速電車のような勢いで毎日が過ぎていく活動的な街の雰囲気がたまらなく好きだ。
各駅停車であれば停まるはずの「モラル」「マナー」「余裕」「気遣い」といった駅をすっ飛ばし、ひたすら「利己」という駅に向かって突っ走っていく空気の中で深呼吸すると、気持ちが高まって心拍数が上昇する。
すでに混み合っている新浦安駅から京葉線に乗り、千葉都民やディズニー客の人混みに巻き込まれながら自宅と職場を往復することを強いられ、心身ともに極限まで疲弊し蹂躙されることは最高だ。
東京から千葉に引っ越してきたことの後悔、間違いなく心身にダメージを加える慢性的なストレス、そして電車や駅で目の当たりにする人々の内面を感じるたびに、自分の身体から自我が離れて幽体離脱し、死を擬似体験しているような興奮さえ覚える。
私は、妻の実家がある新浦安に引っ越し、魅力あふれる街で10年以上も過ごした。
本当に素晴らしい。私はなんと幸せなのだろう。
しかし、これからも私はこの輝かしい街で老いて朽ちるまで生活し続けるのか?
私は本当にこの街が大好きなのか?
本当は気に入らない街の生活を、これは素晴らしいと自己に暗示をかけているのではないか?
この状況から脱するにはどうすれば良いのか、自分自身に問う。
どうすればいい?
潜在意識を漂う私の一部よ。
汝は我。
我は汝。
偽りのない本当の声を聞かせてくれ。
私はこれからどうすればいい?
「引っ越し!」
「引っ越し!」
「さっさと引っ越し!」
「引っ越し!」
「引っ越し!」
「さっさと引っ越し!」
よろしい、ならば引っ越しだ。
◇
さて、HELLSINGという漫画に登場する「少佐」の演説の前半部分を真似て、私なりの地域愛を並べてみた。
最後に懐かしいノイズが入ってベクトルがずれたが、あのパワーフレーズだけは外せなかった。
布団叩きはともかく、ヘルシングの作中では、この演説によって少佐が戦争を肯定し、部下たちの士気を高めるシーンが延々と続く。
もちろんだが私は戦争を肯定しない。
作者としては社会に破壊をもたらす狂った指導者というキャラクターとして、わざと少佐を登場させたのだろう。
それにしても、少佐の演説は言葉のリフレインや緩急が多彩で、人の思考に突き刺さる感じだな。
よくある演説はステレオタイプな内容を大声で連呼することが多いように感じるが、彼のように人を引っ張り込むような話し方は参考になる。
アニメの中では声の強弱や少しの沈黙まで追加されるので、さらに迫力がある。
また、ヘルシングという作品は私を含めて根強いファンがいるけれど、PTAが歓迎するとは思えない漫画だ。
だが、うちの子供たちがもう少し大きくなったら、あえてヘルシングのアニメを見てもらおうと思う。
世界の歴史の中には、フィクションよりもさらに悲惨な状況を引き起こした人物が数多く実在したわけだ。少佐のような演説を展開した人たちもたくさんいた。
それらの事象を教科書で学ぶだけでは、悲劇を理解することは難しい。
世の中に悲劇をもたらす最も大きな原因とは何かというと、それは「狂気」だと思う。
過去の歴史の中だけではなく、現在においても、また、自分たちが生活する街においてもたくさんの狂気が認められる。
過去の狂気と悲劇を、決して忘れてはならない。
それらが肥大すると、逆に市民の気持ちを行政から遠ざけてしまいかねない。
翻って、私はどうして少佐の演説を真似て録を記そうとしたのだろうか。
毎回、毎回、「浦安での生活が辛い」とか「引っ越すんじゃなかった」と嘆き続けている私だが、ナイーブな録を残し続けると自分の気持ちまで低空飛行することが分かってきた。
この低空飛行を終わらせるためには、前向きに考える必要がある。
少佐の演説は方向が間違っているけれど、確かに前向きだ。
「浦安は住みやすい」とか「浦安に住みたい」といったフレーズを街中で見聞きするたびに、それらは本当なのだろうかと疑問に感じながら生活している私がいる。
しかしながら、この街のことを気に入っている人たちから見れば、私のような人物は神経質で意識高い系で鬱陶しくて気持ちが悪いと感じることだろう。
感じ方や生活スタイルは人それぞれなので否定はしないが、私としては、この街が素晴らしいとは思わないし、住んでいて苦しく感じる。
この街が周辺の自治体と比べて多大な問題があるかと言えばそうではなくて、どの街でもよくある課題を抱えている。
それらがあったとしても生活していて満足することができる街が、その人にとって住みよい街なのだろう。
私の場合には、妻の実家が浦安にあるからという理由で引っ越したのだが、本来ならば通勤経路や市民性、街の雰囲気といった点を重視して引っ越す必要があった。
妻の実家との関係も良くない。もっとサポートがあると思っていた。あったのは私の家庭に対するサポートというよりも干渉だった。
結果として、この街は私の生き方に合っていなかった、いや、私の生き方がこの街に合っていなかったわけだ。
妻が切れると「嫌なら引っ越せばいいでしょ!」と投げ捨てるように怒鳴ったことが何度もあったが、私は液状化で崩壊した街を眺めた時から転出することを心に決めている。
子供たちの転校を回避する上で、今はそのタイミングとして相応しくないというだけの話だ。
私には浦安に住み続けるという選択肢そのものがなく、この街の現状や課題と真剣に向き合うつもりもない。
この街に住み続ける人までが行政について無関心になっていることは否めないが、その結果は将来になって分かる。
そのような状態が訪れた時でさえ、この街の市民の多くは行政への無関心を貫くはずだ。自分のことしか考えない人が多すぎる。
私は引っ越した先の街からその様子を眺めることにしよう。