トグル入力のようにトントンと
どれだけ時代遅れなオッサンなんだと呆れられる話だな。
スマホのフリック入力なんて、キーボードのローマ字入力に比べれば面倒で意味がないと、私は端から食わず嫌いのような認識だった。
また、私は今でも通話専用のガラケーを愛用していて、家族へのメールはトントントンとキーを押し続けるトグル入力でショートメールを送っている。
ところが、今回の録で試しにフリック入力を使ってみたところ、思った以上に便利なことに気付いた。
予測変換や変換候補との相性がとても良い。入力ミスが減ってかなり快適だな。
まだヨチヨチとフリック入力を続けていて、使い慣れたトグル入力の方が速いくらいだが、キーの位置を覚えればもっと速くなることだろう。
油断するとフリック入力を忘れてトグル入力を使っていたりもするが、おそらくそれらを併用した方が便利かもしれないな。
これは良い機会だ。
実のところ、最近の私はスマホで録を書くことが億劫になっていた。
録を残すことのモチベーションというよりも、技術的な問題。
この歳になると老眼が入ってくるので、スマホでのローマ字入力が面倒になってきた。
昔は本物のキーボードがせり出してくる携帯端末があったりもしたのだが、最近ではタッチ式の画面ばかりになった。
このような端末でブラインドタッチのローマ字入力は難しい。
かといって、わざわざノートパソコンを取り出してブログを書く気にもなれない。
思いついたことをメモのように入力する感じが気楽でいい。
さて、離人感を覚えて気持ちを沈めないための認知療法として、夢の中で思い付いたイメージを使ってみたわけだが、どうやら結構な効き目があるらしい。
奏効したといっても医師の診療を受けたわけでもないし、自分自身を対象とした心理実験のようなものだ。
自己暗示の類が、妻を含めた他者から理解されるはずもない。
ストレスで自我が身体から抜ける気がした時には、それを恐れず、悲観せず。
そして、自我を薄型の黒い棺桶に入れて紐で繋いで持ち運ぶイメージを持つと楽になるなんて、なんの冗談だと笑われることだろう。
「オッサンなのに中二病ですか」と思われても仕方がない。
バーンアウトの真っ最中にはイメージだなんだと言っている場合ではなかったので、これでも随分と余裕がある状態なのだろう。
しかし、以前から苦しんでいた酷い目眩は明らかに沈静化して、生活がとても楽になってきた。
例えばこの事象が宗教施設で生じていたならば、不可思議な力を信じてしまう人がいることだろう。
だが、私なりには、この事象は超自然的なものではなくて、脳の情報伝達の経路を少し変えたという解釈になる。
詳しい機序はさっぱり分からないが。
ほぼ偶然に近い確率でイメージが当て嵌まったということか。
よくよく考えてみると、離人感を覚えて自我が自分から離れ、地面に沈み込むというこれまでイメージこそが、自分自身に負の思考の淵に落とし込んでいたのではないか。
家庭でも自らの自我を棺桶に入れて、父親という役を演じるのはいかがなものかと思いはするが、これが現実だ。
休日の夕食時。
鍋を囲んで家族団らんのはずが、自分の皿のうどんが少ないと上の子供がごねた。
そのことに対して、妻が癇癪を起こして激怒し、持っていた食器を投げつけた。
壁に向かって物が飛んだので大事に至らなかったが、「落ち着いて!」と妻を諌めることにも慣れた。
妻はすぐに感情を発火させて怒るのだが、家族が怪我をしたら、私は警察に通報しなければならない。
その時点で妻は逮捕されて家族は崩壊だ。
妻はそれだけ危険なことをしているのだが、頭に血が上ると止まらない。
義実家ではこのように義母や義妹が暴れるのだろうか。
妻のような暴れ方は、家庭内暴力やモラルハラスメントに該当する。
だが、日本の民法は妻の暴力による離婚について向き合っているとは思えない。
同じ市内に住む自己肯定強めの義父母に言いたい。
義父母の家庭内教育は、間違っていた。
私が夫としてどれだけ心を痛め、苦しみながら生活しているか、義父母は分かっているはずだ。
なぜ、何もないかのように開き直っていられるのだろう。面倒なことからは逃げるのか。
妻の癇癪持ちやフェミニズムに気づかずに結婚したのは私なので、自己責任だが。
妻は激昂したままダイニングからどこかに行ってしまった。
同じく癇癪持ちの上の子供と口喧嘩なのだろう。
案の定、玄関先で妻子が口論を繰り広げている。
自分の遺伝子と抗うことに意味はあるのか。
これは子供への躾けではない。妻が感情を爆発させて怒りを撒き散らしているだけだ。
これが幸せな家族の姿であろうはずもない。
以前の妻は同じように夫に当たり散らし、バーンアウトするまで追い込んだ。
もっと早く妻の性質に気付くべきだった。もはや手遅れだ。
下の子供と私だけで鍋の中身をつついていると、子供が口に人差し指を交差させて私にサインを送ってきた。
私が妻と口論をするなという意味だろう。
下の子供は家族愛が強い。この子がいなかったら、すでに離婚していたはずだ。
以前の妻は、毎日のように自宅で暴れ、大声を上げ、物を投げつけた。
下の子供が小さな身体で仲裁に入った悲しい思い出を忘れることができない。
加えて、私が困窮して相談したのに冷たく突き放し、仲裁に入らなかった義父母のことも忘れない。
私の家庭に干渉を繰り返しておきながら、面倒事からは逃げて我関せずか。
本来の意味で情けがない。
だが、下の子供の心配には及ばない。
私の感情や思考のほとんどは、いつもの棺桶に入れて自室に置いてある。
ここにいる私は、父親という役を演じているだけのこと。
家族が目にしている私の姿は、私の一部でしかない。
そのように思い込まないとやってられない。
他の世帯がどうなのかなんて、比べても嘆いても仕方がない。
これが現実だ。
生きることと、望むことは違う。
とにかく子供たちが大きくなるまで、コツコツと地道に毎日を積み重ねるしかないのだろう。
明日は晴れるそうだ。
サイクリングの準備をして、さっさと眠ろう。