離人感を使った棺桶ロックなイメージ
この心理実験が失敗すると深遠な心の淵に落ち込みそうな感じがあったりもするが、ちょうど生きることに飽きていたので良い機会だ。
過去を嘆いても、未来に怯えても仕方がない。大して誇れるほどの価値さえ分からない生き様だ。
少しでも有意義に現在を過ごすことができれば上等だろう。
私の低空飛行は個人レベルの変動なので、その基準は私自身にある。
繁忙期が続いているので平日どころか休日にも職場で普通に働いていたりもするし、夫婦関係も大して問題がない。子育てに悩むのは誰だってそうだろう。
ただし、長時間の電車通勤と浦安という街での生活には疲れ切っている。
この街はくだらないマウンティングや面倒な人間関係が多すぎる。
人口密度が高すぎる上に、自己愛が強い人たちが多すぎるんだ。
この街でハッピーに過ごしている人たちもいるそうだが、私は常にアンハッピーだ、不幸だ、地獄だ。
妻の実家の近くに住み幸せな生活を送るという偶像はずっと前に粉砕された。
だが、最近になって珍しく喜ばしいことがあった。
この前の祝日、出勤のためにミニベロに乗って浦安駅まで向かっていたら、ちょっとした気づきがあって面白くなった。
あまり楽しくない毎日が続いていたのだが、久々のヒットかもしれない。
何かというと、その日の早朝に見た夢のこと。目が覚めてもそのイメージが持続していて、大変に有意義な夢だった。
笑ってしまうくらいに単純な話だけれど、そうか、そういうことかと納得した。
このイメージは夢の中だけではなくて、実際の生活においても活用することができる。
バーンアウトをきっかけとして、自我が自分から離れていくような感覚が5年間くらい続いていた。
これは不思議だということで、自我が離れている状態で私を動かしている何かを「アバター」と名付けて生活していたわけだ。
アバターが発動している時の私は身体から人格が離れて地面に沈み込んでしまうような感覚があり、とても気怠く辛いわけだが、そのギャップを面白く感じた。
しかも、アバターが発動することのデメリットだけではなくて、メリットさえあることに気づいた。
何事も直球勝負の私と比べて、アバターには本音と建前を使い分ける器用さというか狡猾さがあって、その存在に任せていたら人間関係が楽になった。
大なり小なり、人々の悩みのほとんどが人間関係だと思う。その悩みを軽減することができることはメリットだな。
なんだこれは、もしかして人格が分裂して多重人格にでもなったのかと私は驚いた。
もしくは、幽体離脱を起こして別の人格が入り込んだのかというオカルトな可能性についても考察したこともあった。
だがしかし、これは離人感というもので、若い人たちにはよくあることなのだそうだ。
それを中年の親父になって起こしているのだから、中二病と言われても致し方ない。
離人感が強くなって生活に支障が生じ、診療を受ける場合には離人症という診断になる。離人症は解離性障害のカテゴリーに分類されている。
離人症という疾患は幼少期に虐待を受けた人に起こることが多く、強度のストレスなどによって誘因されるらしい。治療薬は見つかっていない。
子供の頃に他の家庭を詳しく知る機会はないと思うので、私が両親から受けてきた家庭内の教育は普通だと思っていたが、大人になって振り返ると明らかな虐待だったということが分かる。
しかしながら、離人症は子供もしくは若い人たちを中心として生じ、中年での発症は希という傾向は何を意味しているのだろうか。
おそらく、脳が完全に発達しきっていない段階で強いストレスを受けた場合、自らの思考や感覚を自分の体から切り離すような機序が働くのではないだろうか。
その機序にどのような意味があるのかについては分からないが、安全装置のようなものだろうか。
他方、中年の人たちの場合はどうなのか。
普通の家庭で育った人が中年になって、例えばブラック職場に勤めることになったとか、家庭内で配偶者から酷いモラルハラスメントを受けたとか、まあそういった強いストレスを受けた場合、離人感によって自我を自分から切り離す機序は働かず、そのまま自我が潰れて沈むということか。
具体的には、うつ病などの精神疾患を発症するということだな。
そうなんだ。共働きの育児や長時間の電車通勤、義実家との関係などのストレスをため続けて体調を壊した私が、どうしてうつ病ではなくてバーンアウトを起こしたのかが不思議だった。
一般的な流れとしては、うつ病になるはずだったのに、不思議なものだと私は感じていた。
ストレスによって自我が潰れるのではなくて、自我が本体から遊離したように感じることでストレスをいなすなんて、科学と非科学の間のような出来事だな。
義実家や妻が住みやすいと主張して曲げない浦安という街に引っ越し、鬱陶しい人混みに顔をしかめ、毎日、往復3時間以上も電車や駅で苦痛を受け続けてきた。
2年間のロードバイク通勤を除いて10年近くもの期間を耐え続けた。このような生活を続けていたら、いつか頭がおかしくなるぞと思っていたが、別の意味でおかしくなった。
古典劇の役者が身につけていた仮面にちなんで、人間の外的な側面のことを「ペルソナ」と呼んだのは、カール・グスタフ・ユングだったろうか。
ユングの心理学として有名な人だな。
それぞれの人たちは自分のペルソナを外に見せて生活している。
電車や駅ではモラルやマナーが崩壊している人を見かけることが多くて、内面がペルソナにまで影響していることが分かる。
他方、私が頭の中で何かを考えていたとしても、ペルソナとして出力しなければ他者は判別しえない。
そのことは、離人感を覚えてアバターに言動を任せていた方が、夫婦仲や職場の同僚を含めて人間関係が楽になったということからも分かる。
問題は、離人感が生じ続けている時の私の自我をどのように認識するかということ。
まるで自分の体を残した状態で、自分の思考や感覚が地面に沈み込むかのようだと私は表現し続けているわけだが、この表現は相当に後ろ向きで、卑屈で、情けない。
もっと中二的、いや、この体験を前向きに捉えることができそうな表現がないかと思案している。
自らの精神が傾く大きな原因として、「自分は無様だ」とか「自分は惨めだ」といった自己否定があると何かの本で読んだことがある。
うつ病の場合は自己否定を通り越して、自己の存在そのものを否定し、結果として死のうとするのだろう。
うつ病から寛解した人たちの中には、「自分を好きになること」や「自分を受け入れること」の大切さを感じた人が多いと思う。
対照的に、自分のことが大好きで自己愛が強い人たちは、何があっても決して自分が無様だと感じないし、他者に責任を押し付けて開き直ることだろう。
その結果として、強力なメンタルタフネスを有しているとも解釈することができそうだ。
「あなたは、絶対にうつ病にならなさそうですね」と言われたりすると、自己愛が強い人たちは、それが褒め言葉だと認識して誇ったりもするらしい。
笑える。
そのフレーズは褒め言葉ではなくて、皮肉や揶揄だということに気づいていない。
まあとにかく、いつまでも自我が地面に沈むようなイメージを持ち続けていると、自分が無様だと思い込んでしまう。
このような場合、自分自身の思考や感覚に対して分かりやすいイメージを用意し、暗示をかけてしまうという方法があったな。
人の脳の活動は、確固たる自我があって完全性を保持しているように思えて、実際には脆い。
思想や宗教について他者から影響を受けて信じ込んでしまう人たちは珍しくもないし、自己啓発セミナーや悪徳商法の類で洗脳に近い状態になってしまうこともある。
昨今ではSNSによって人格の操作が行われることもあるそうだ。
それはサスペンスでもホラーでもなくて、各国の政府機関が深刻視している懸念でもある。
遠く離れた世界のどこかから他国の人たちを洗脳するような形で操作して、反社会的な行動に駆り立てようとする戦略があるそうだ。
ネットという匿名の世界では相手が誰かなんて適当に認識するだろうし、日本語に違和感がなければ日本人だと思うことだろう。
この話は、公安の警察官だった人がどこかで紹介しておられた。
ツイッターのアカウントが突然凍結されてしまったといったユーザーがいたら、自らの思考が操作されていないかをチェックした方がいいと思う。
そのようなユーザーは様々な人たちから生涯にわたって監視の対象になっているはずだが。
それはさておき、他者ではなくて自分自身に対して暗示をかけることは意外に難しい。
イメージを自分で用意して、そのイメージを自分に刻むことは、トリックが分かりきった推理小説を読むようなものだ。
では、今回、夢の中で見て頭に浮かんだイメージはどうなのかというと、それを作り出したのは私自身の脳だが、私自身が意識して生み出した産物とは言えない。
睡眠中の意識がない状態で浮かんだイメージということになるので、無意識での産物という解釈になるかもしれない。
ドヤ顔で言うことではなくて、夢とはそのようなものだな。
では、どのようなイメージなのかというと、自分自身から解離しているような状態の自我を棺桶に収納して、それに紐を取り付けて引っ張りながら生活するというものだ。
我ながら笑ってしまう。
自我が地面に沈み込んでしまうというイメージよりも機動性が高くて持ち運びが便利かもしれないが、なぜに棺桶に入れる必要があるのか。
しかも、棺桶の形が面白い。日本式の直方体の白の棺桶、もしくは大昔に使用された丸形の桶ではなくて、ほら、ドラキュラが入っているような黒くて菱形のようなタイプ。
まあ睡眠時の夢だから何でもありなわけだが、きちんと金色で十字架まで描かれている。
キリスト教の皆さんに失礼なので十字架をイメージから外しておく。
しかも、その棺桶は人が入ることができないくらいに薄くてスタイリッシュだ。
身体ではなく、形のない自我を格納するのだから、別に薄くても構わないという解釈だな。
それならば、どうして棺桶なんだ?意味が分からない。
ミニベロに乗って浦安駅に向かってペダルを漕いでいて、どうして私がそのような意味不明な夢を見たのだろうかと、それまでの生活を回想していた。
すると、「なんだ、そういうことか」と気づいて再び笑ってしまった。
最近、深夜に帰宅して夕食をとりながら、Amazonプライムで動画を観ることが多い。
それらの作品の記憶が脳に記憶され、離人感がある時に自分の本体をどこかに収納することができないかと夢の中で考えたらしい。
どうしてドラキュラが入っているようなデザインの棺桶になったのかというと、間違いなく「HELLSING」というアニメの影響だな。
あの物語は大変に面白い。まさに不死身のヒーローという感じだな。彼のように生きられればどれだけ素晴らしいことだろう。
そして、その棺桶を紐で引っ張りながら歩くという奇妙なスタイルは、「勇者ヨシヒコ」でよく見かけるシーンだな。
このドラマで佐藤二朗さんが天才だということを知った。彼が演じる仏の役は、僧侶が観たら失神するかもしれないが、声を上げて大笑いした。
そして、棺桶がやたらと薄型でスタイリッシュなのは、「BEATLESS」のレイシアが使っていた武器のイメージが混じったな。
五十路のオッサンがビートレスを観ていたということがバレてしまったわけだが、この作品はエヴァンゲリオンへのオマージュが所々に組み込まれていて面白かった。
新浦安ではレイシアのような母親を見かけることは全くないわけだが、彼女のような理想像を好んでいる父親はたくさん以下略。
ということで、自らの身体から自我が離れた感覚を怖がることなく、何だか分からないが夢の中で見た棺桶に格納して、紐で引っ張って移動するイメージを持つことになった。
もちろんだが、このイメージは単なる想像でしかないが、やけにリアルだ。けれど、幻覚でも何でもない。
なるほど、自我が地面に沈み込むイメージよりも随分と気持ちが楽だ。
イメージの対象が棺桶とは盲点だったな。前向きなのか後向きなのか判別することが難しいけれど。
また、離人感を覚えている時に絶望する必要はなく、神経質で我の強い自分を箱に入れて持ち運んでいるくらいの気持ちで丁度いいのかもしれないな。
「あいつは我が強い」という批判のフレーズは、すなわち自我がペルソナにまで浸透してしまっていることを意味するのではないか。
となると、自我をあえてボックスに収納することができれば、我が強くない人になれるかもしれないと皮算用を行ったわけだ。
しかも、私が無理に棺桶をイメージしなくても、勝手に後ろで引っ張っている感じがあり、電車の中ではきちんと自分の前で立てかけているイメージが浮かぶ。
電車で変な人がいれば、棺桶を立ててシールドとして使ったりもする。
職場では棺桶から出て働くわけだが、嫌な上司や苛つく同僚がいれば再び棺桶に入ってアバターに任せる。
階段やトイレではギターケースのように棺桶を背負うこともできたりする。
最近は少なくなったが、新浦安ではディズニー客がキャリアバッグを引きながら街中を移動するので、何かを引きながら歩くイメージ自体が想像しやすいのかもしれないな。
棺桶を引いて歩いている時に背後を人がすれ違った時にはどうなるかというと、人がそのまま素通りするようなイメージまできちんと浮かぶ。
なんとも不思議な感覚ではあるけれど、確かにこのイメージは便利だ。
棺桶を私が想像していても周りは何も気がつかない。
深夜の帰りの電車の中では、足を投げ出したり、マスクから鼻を出したり、ふらつくまで酒を飲んだ人たちの姿が目立つ。
乗り換えの駅ではスマホゾンビが半数近く。
私が頭の中で何かをイメージしていたとしても、それらをペルソナに投影することはない。きちんと座り、きちんと歩いている。
モラルやマナーが破綻しているような人たちの内面に比べればマシだと感じざるをえない。
電車通勤において、外面にまで内面が浮かび上がっている人たちの集団に飲み込まれながら、私はその人たちを観察し続けて疲弊し消耗していった。
また、私が苦しむ姿に同情も労いの言葉もない妻や義実家に対して、私は憤りや不条理さを蓄積していった。
しかし、私の自我をこの黒い棺桶の中に格納して通勤したり、家庭で過ごしているというイメージがあれば、生きることが思ったよりも楽になることに気づいた。
これは新たな発見だ。どうやらアニメやドラマを見すぎたことで自己暗示が捗ってしまったらしい。
10年以上もの間、この電車通勤がなんとかならないかと考え続け、様々なことを試して八方塞がりになり、最後は脳内のイメージで耐えている姿は情けないものがある。
けれど、あまりにシュールなイメージなので逆に面白く感じた。
バッグからヘッドホンを取り出して、オーディオプレーヤーで人間椅子のアルバムを選択し、音楽をかけてみた。
人間椅子の曲の中に「棺桶ロック」という突き抜けた作品があり、気がつくと棺桶の中にいて火葬場に運ばれるという内容だ。
ここまでインパクトのあるシュールな曲を大声で歌う人もいるわけだから、この程度のイメージを持っていても大丈夫だろう。