前向きに表現するためには力が要る
最近になって気になり始めたことがある。
以前の私ならば、自分が読んでクスッと笑うようなフレーズを並べることができた。
それらが他者から見て面白いかどうかはともかく、前向きな感じで文章を打ち込んで自分で読むと、自然と気分が上向きになることがあった。
調子に乗って他者から指摘や批判を受けることもあった。
しかし、HYPSENTでは暗い雰囲気の録がずっと続いている。
意識的に暗く書いているわけではなくて、ここから立ち直って、明るく強く生きることができればいいなと少しは思っていた。
けれど、未だ解釈に至っていないのだが、ネタのような明るい文章が頭に浮かんでこない。
過去に私自身が記した録を眺めてみると、HYPSENTのブログは芥川龍之介による後期の作品のスタイルを真似ているらしい。
実際に彼のような文章になっているかどうかはともかく、あの暗い世界観に入り込んでいることは確かだな。
とりわけ、芥川龍之介の「歯車」という私小説は心の底から恐怖がやってくる程にインパクトがある。
あの小説が架空の世界だと思っている人がいるかもしれないし、そもそも芥川龍之介の作品を読んだことさえない人も多いことだろう。
だが、歯車において描かれている世界はフィクションというよりも彼の内面そのもの、つまり現実的な事象を文章化したものという解釈が一般的だ。
この頃の彼はすでに睡眠薬中毒になっていて、幻覚の類もたくさん見えていたことが分かる。
また、彼はこの作品を残して睡眠薬の過剰摂取により自殺したとされている。
当時の彼が本当に自殺のために過剰量の睡眠薬を服用したのかどうかは分からない。
彼が用いていた睡眠薬は遅効性のバルビタールという薬剤であり、常用すると効きが悪くなって服用量が増えたそうだ。
初期のバルビツール酸系の薬剤を口から飲むなんてこと自体が凄まじい時代だったのだなと思いはする。
彼の死が本当に自殺だったのか、意図せぬオーバードーズだったのかは本人しか分からないが、三十路半ばだった芥川龍之介の精神を追い込んでいったのは何かというと、大きく分けて三点だろうか。
ひとつは男女関係のトラブル。要は不倫のもつれだな。
自業自得とはいえ、彼はかなり危険な女性にアプローチしてしまったことが分かる。
芥川龍之介が彼女を危険な女性に仕立て上げてしまったという見方も可能だが。
その不倫相手との情事はあまり深くなかったそうだが、彼女がストーカーとなってしまい、執拗に付きまとって自宅にまで押しかけてくるようになったそうだ。
歯車の作中では「ミイラに近い裸体の女」というフレーズに彼女の存在が認められる。
彼を苦しめたもうひとつの存在は、姉の夫、つまり義理の兄に起因するトラブル。
芥川龍之介と義兄の関係は以前から穏やかではなかった。
そして、義兄は金に困っていたそうで、保険金詐欺の疑いをかけられた際に鉄道自殺した。
歯車という作品の中で登場するレインコートを着た男は、義兄として実在していたわけだ。
そして、芥川龍之介は自身の家族だけでなく、義兄の家族までを養うことになり、経済的に苦しむことになった。
最後に、小説のタイトルにもなっている歯車。
彼が頻繁に目にして恐怖に怯えた歯車は、現代の医学において閃輝暗点と呼ばれている。
脳血管の収縮によって視覚野が影響を受けるのだろう。
小さな光の点が見えて、それがギザギザした形を広げながら視野全体を覆ってしまう。
両目ともに同じ像が見えて、しかも目を閉じても見える。
歯車がさらに広がって消えた後には頭痛がやってくることが多い。
私の場合には後頭部に鈍痛がやってきて元気を失う。
睡眠不足やストレスが蓄積した時に閃輝暗点が起こるので、アラートのようなものだ。
芥川龍之介の場合には、閃輝暗点の後で強烈な偏頭痛がやってきたらしい。
偏頭痛は本人でしか苦しみを理解することが難しいかもしれないな。
閃輝暗点と偏頭痛が繰り返し起き、彼はそれらの変化が「あること」の前触れだと思ったらしい。
それは自らの精神の崩壊。
彼の母親は重度の精神疾患に苦しんでいたそうで、自分も同じ状態になるのではないかと恐れた。
実際には閃輝暗点と精神疾患との関連性は薄いわけだが、すでに薬物中毒になっていた彼としては、カタストロフィがやってきたと怯えていたらしい。
したがって、芥川龍之介は本業の文筆活動において追い詰まったわけではなくて、プライベートなトラブルと体調不良が重なって衰弱したことが分かる。
彼の作品は人や社会の残酷さ、あるいは異様な世界や地獄をテーマにしたものが多い。
しかし、あくまでそれらは彼の想像の世界で生まれたものであり、その世界観を頭の中でコントロール、あるいは楽しんでいたような印象を覚える。
他方、歯車という作品では彼自身がその世界観に飲み込まれてしまったかのような現実感と恐怖を感じる。
当時の状況としては、もはや小説を書く余力が残っていなかったことだろう。
その状態の脳の感覚や思考を文章として書き出すことができたのは、やはり彼の卓越した能力によるものだと思う。
彼の死後、歯車という小説を彼の最も素晴らしい作品だと評価した作家は大勢いたらしい。
確かにそうだな。
自分が死ぬ直前の内面を文章にして残すなんて、思ったところで成し遂げることは難しい。
とりわけ、自殺の場合には遺書はともかく小説を書いている余裕はないことだろう。
多くの人たちが無言のままで世を去るのだから。
さて、このブログでは芥川龍之介の私小説のような体裁で文章を書こうと思ったわけだが、特に意識して真似ているわけではない。
私にとってこれが最も楽なスタイルなので、思うままに文章を並べるとこのように暗くシニカルなものになってしまう。
では、どのような工夫を加えれば、HYPSENTの録が明るく前向きになるのだろうか。
自己から意識が離れて地面に沈み込んでいる状態で、「毎日がハッピー!」と書き綴るようになると、別の意味で危うい。
明るく元気な表現のためには、生きる上での何らかの希望や期待が必要になると思う。
その内面が文章に発露されるわけだな。たぶん。
ところが、今の私には希望も期待も薄い。
誰かに自分の存在を知ってほしいというブロガーによくある動機もなく、誰かのためになるような小ネタを提供するつもりもない。
ただぼんやりとした不安があって、自分の内面を文章で出力して、それを眺めて自分を確認している感じだな。
そうか、芥川龍之介が遺した「ぼんやりとした不安」というフレーズの意味を体感した気がする。
いや、コロナ禍の現在では、ぼんやりとした不安が個人レベルだけではなくて、社会レベルで世界中に広がっていると解釈した方がしっくりくる。
そういえば、ブログの更新を止めてしまった人は珍しくないし、ツイッターで不平不満や罵詈雑言を吐く人が増えた気がする。
所詮、この世の中は人の我と欲で動いているのかと失望するような醜聞が毎日のようにメディアを塗り重ね、人々は憤りを投げつける相手を探している。
こんな大変な時期によくもまあそんなに煩悩を追い求めることができるものだと驚く人も見かけるが、おそらく以前からそのような姿だったのだろう。
地獄の世界観と現在が重なって映る。地獄絵図というよりも、ステレオタイプな昭和の時代劇か。
まあとにかく、明るく楽しい文章を書くことができなくなったとしても、それはそれで私の状態ということだな。
非常に鬱陶しく、通りに出るだけで心拍数が上がる最悪な街から転出し、心を削り取る長時間の電車通勤から解放される時が来れば、文章も少しは明るくなるだろうか。
その時まで耐えることができればという仮定の話でしかないが。