アバターと呼んでいる何かの正体が分かってきた
私にはそれがどのような機序によるものかを理解できずにいた。この感覚は、単なる気のせいなのか、それとも何らかの妄想、あるいは本当に中二病をこじらせたのか?
中二病だったら、自分が地面に沈み込むのではなくて、ほら、こう、もっと巨大なアバターが背中の付近から発動して、自分を取り巻いて守ってくれそうなものだ。
主人格が地面に引っ張り込まれているのに、身体だけ自動操縦で先に進むなんて、違和感を通り越してパロディのような話だ。
ちっとも胸が踊らない。
しかしながら、「それって、離人症なんじゃないの?」という誰かの一言で、散らばっていたたくさんの点が繋がって線になった。
なるほど、自分自身が舞台の役を演じていたり、ロボットのように動いている姿を遠くから眺めている感じがあったり、この録の写真のように色彩がなくなって見えることがあるのは、そのせいだったわけだ。
バーンアウトの回復期だと思っていた感情の平坦化は、回復期というよりも別のステージに移行していたわけだな。
沈み込んでしまった時にサイクリングや禅を行うと、思考や身体が自由に動いて楽になることにも納得した。
サイクリングや禅における感覚は、心的外傷や離人症に対するグラウンディングという認知行動療法とよく似ている。
何とかせねばと試行錯誤した結果が良い方向に進んだらしい。
だが、学生時代にもっと勉強しておくべきだったな。
実際のイメージというものは教科書に書かれている内容よりも随分とリアルだ。
気の所為などというレベルではなく、仮想現実よりもリアルだ。
まさに灯台もと暗しで、自分自身にアバターがやってくると客観的に診断することは難しい。
中年になってからの離人症は稀だと思っていたので、鑑別から除外していた。
ともかく、合併を完全に否定できないものの中二病をこじらせたわけではなかったことは分かったが、明らかにサイコホラーのような展開になってきた。
小説や映画の世界ならば暢気に眺めていられるが、私自身のことになると暢気に構えている場合ではない。
このまま日の出地区の近くのメンタルクリニックに行けば、おそらく髭のドクターから離人症の診断がなされることだろう。
なので、行かない。
しかしながら、人生とは一冊の小説、あるいは一編の映画のようなものだと私は考えている。
それぞれの人たちが世を去る時にその作品を眺めて振り返る。
全て順調に話が進む栄光のストーリーなんて、退屈で仕方がない。
それが悲劇であっても生き抜くことに美しさを感じたりもするし、笑ってばかりの喜劇なんて馬鹿馬鹿しくて楽しむ気がしない。
山あり谷ありの展開があった方が人生を楽しむことができる。
さて、教科書で勉強し直そう。
離人症は正式には離人症性障害と呼ばれていて、解離性障害のひとつとして定義されている。
解離性障害にはいくつかの種類があって、記憶喪失であったり、重篤な場合には多重人格障害(解離性同一性障害)というものがあったりもする。
離人症は、重度のストレスを受けた際に生じ、その背景として子供の頃の虐待が引き金となっていることが多いらしい。
私の場合には、幼少期に訳あって祖父母の家に預けられ、小学生の頃に両親に育てられるようになった。
しかしながら、小学校低学年の段階で、すでに私は周りの友達とはかなり違った性質になっていて、現在ならば自閉症スペクトラム症(ASD)の疑いとして療育を受けるような状態だったのだろう。
他方、自惚れではないが知能としては同世代の中でも高いレベルだったので、変わっていたとしても高等教育を受け続け、結果として銀杏の紋章を授与された。
海外の場合には、ASDのような発達障害と誤診されやすい性質としてギフテッドというものがあり、ギフテッドの場合には知能や芸術などにおいて優れた能力があったりもする。
とはいえ、日本の場合には発達障害の診療ガイドラインはあっても、ギフテッドについてのガイドラインは策定されていない。つまり、我が国ではギフテッドであるかどうかを診断することができない。
なので、少々変わったところがあっても勉強ができれば進学校に進み、難関大学を突破してエリート層まで生き残るか、途中で社会的なプレッシャーに潰されてしまうかという話になるのだろう。
日本では、欧米のようにギフテッドを見つけて才能を育てるという体制が整っておらず、変わった人だという批判を受けながら辛い目に遭うことも多いはずだ。
私自身がASDなのかギフテッドなのかは分からないが、自惚れを避けるためにASDだったと仮定しよう。
実際に医師の診断を受けていないので私はASDではないが、ガイドラインを元に自分で診断するとPossibleどころかProbableあるいはDefiniteの部類に入ることだろう。
そして、私の両親は二人とも学歴が高くなくて大学で学んだこともなかったわけで、変わり者の私について、「祖父母が甘やかしたからだ!」と勘違いし、非常に厳しい躾を加えてきた。
父からは毎日のように拳骨で頭を殴られてたんこぶの上にたんこぶができた。母からは人権を無視したような罵声を数時間にわたって受け続けた。
実際に父親になった私が回想すれば、これらは間違いなく児童虐待に該当する。
発達障害に関わらず、子供を殴り続けたり、長時間にわたって精神的に追い詰め続けることは、悪しき昭和の子育てだ。
とりわけ、母からの情緒的な虐待は酷かった。
「豚のような顔をしやがって!」と甲高い声で怒鳴られ、何を言っても否定形で詰問され、台所の残飯入れに入ったものを食べろと言われたり、冬の冷たい床の上に何時間も正座させられ続けたり、数日にわたって無視され続けたり。
玄関から外に出されてドアに鍵をかけられたこともあったし、突然、母が自室のドアを開けて怒鳴り込んでくることもよくあった。
ここでひとつの点と点が繋がる。
妻が子供たちに対して甲高い大声で怒鳴り詰問している姿を見ると、一気に妻への愛情が消え去り、動悸や目眩が激しくなるのは、おそらく自分の幼少期の心的外傷によるものという解釈が成り立つ。
妻の名誉のために記しておくと、我が子たちは普通の子供たちよりも変わっているので、妻が怒っても仕方がないと感じることはある。
また、普通の子供たちを叱る程度のインパクトでは、我が子たちは馬耳東風で親の話を聞かない。しかも、この子供たちはそれなりの知性を有しているようだが、使い方を間違うことが多い。専門用語で悪知恵と呼ぶ。
なので、手間のかかることが嫌いな妻の苛立ちが積もるのだろう。
加えて、妻は義母によく似て癇癪持ちで自己肯定が強く、夫が目眩や偏頭痛を起こして倒れても気にしないことにも起因するが。
また、現状として私が考えていたアバターがいる場所は大脳皮質ではなくて、もっと脳の深いところだと感じていた。
離人症の場合には線条体のドーパミン受容体の多寡が関係しているという最近の報告があるようだ。線条体といえば大脳基底核の中心的な部位だな。
大脳辺縁系にいるのではないかと私は感じていたが、やはり脳の深い部分でアバターが生じたと考えて矛盾がない。
また、離人症に対する効果的な治療薬は実用化されていない。つまり、付ける薬がないということだ。
確かに、本来の自分とアバターとを切り替えている時は相当に疲れる。
ところが、自分自身から自分が離れていってしまうという解離性の感覚は、よくよく考えると自分を客観的に見つめることができたりもする。
加えて、自分の人格が地面に沈み込んでしまっている感じがするのに、どうして自分が仕事に行って自宅に帰ってくることができているのか、とても不思議に感じた。
さらに、まるで役者が役を演じるように、自分の本音と建て前を鮮やかに切り替えることができたりもするわけで、人間関係がとても楽になった。
なるほど、これは実に興味深い。
患者の多くは離人症によって不安や恐怖を感じるそうだが、生きることに厭きてきた私にとっては、とても面白い出来事だ。
自我が自分から解離してネットの海に溶けていった攻殻機動隊の草薙素子は、この状態の超進化型なのかもしれない。
通勤地獄を招いた浦安住まいにも、気性が荒い妻にも、面倒な義実家にも私は感謝すべきだな。
離人症を生じさせるためのトリガーを与えられたからだ。
自分の脳を使って不思議な感覚を体験することができるなんて、仮想現実のゲームよりもずっと楽しめる。
私が何を考えているのかというと、離人感が生じている期間にアバターの言動をコピーして、本来の自分の人格に取り込んでしまえないかということ。
つまり、私のアバターのレプリカを作っておいて、道具として使うということだ。
方法は簡単だな。「アバターだったら、この状況でどのように発言し行動するのか」を細かく記憶し、それらを真似るだけのこと。
なぜアバター本体ではなく、その一部のレプリカが必要なのかというと、アバターが発動している時は非常に気怠くて辛いから。
頻繁に目眩がやってきたりするのは、自分が自己から離れかけているというアラートなのだろうか。
離人症の状態というのは私自身の感覚や思考が沈み込んでしまうので、何をするにしても身体が容易に動かず、モチベーションも上がってこない。
まるで地面から自分自身を遠隔操作している感じなので現実感が薄く、一歩間違えると死んでしまうような気配がある。
これが多くの患者に恐怖と苦しみを刻むのだろう。
この状態だと生きていて辛くなるのだが、物は考えようだ。アバターを道具として有効活用しよう。
「生きる」という役を演じているかのように生きることは間違っているとは思えない。
不条理だらけの社会や人間関係の中では、自分という役を演じることも必要だ。私はそれが苦手だった。
人は誰しも主観的に感じ、考えて行動する生き物だったりもするし、実際に行動してから「ああ、これは違った」と反省し後悔することもある。
自らを離れたところから眺めて、模範解答ではなくても客観的な判断を下すことができれば、それって素晴らしいことではないかと思ったわけだ。
もう一つの点と点だが、大昔の僧侶たちが過酷な修行を重ねて悟りを開こうとしたことは有名だ。
これは敢えて脳の機能に障害を起こさせることで、思考や感覚を変えようとしたのではないかという私見に通じるものがある。
千日回峰行といった荒行では実際に僧侶が命を落とすことがあったそうだし、失敗した場合に自害するための刃物を持って修行するそうだ。
もちろんだが、当時の僧侶たちが脳の機能について知っていたとは思えないし、それが離人症によるものかは分からない。
苦行を重ねた人が、まるで別人のように達観した状態で帰ってきたという経験則に倣ったものかもしれない。
彼らにとっては、普通の人たちが見えない視点から自分や社会を眺めたかったと思うわけだが、普通の感覚ではそれは難しい。
そのため、苦行を行うことが悟りへの道だと信じたのではないだろうか。
とはいえ、煩悩まみれの私が悟りに至ったとは到底思えないわけだが。