キッズケータイを解約したら新しいiPhoneをもらった
この繁忙期において、私はできる限り自分の心身を休めたいと考えている。
子供のスマホが必要だと妻が判断したのであれば、妻が対処すべきだ。
夫婦共働きで子育て中の母親たちからすれば、なんたる駄目な父親だと批判を受けそうだが、私はそう思わない。
私が往復3時間を超える電車通勤の地獄に耐え、休日出勤を続けながらも何とか万円プレーヤーとして家庭に金を入れ、それによって妻は実家がある故郷の浦安に住んでいる。
妻だけではなく子供たちも経済的に苦しむことなく、まるでそれが当然かのように生活している。
他方、私は毎日が地獄だ。数え切れないストレスを抱え、数年前は感情を失ったこともある。
家族の前では穏やかな父親を演じているだけで、正味の話としてはふざけるなと思いながら生きている。
冷静に考えると、若き日の私は将来のキャリアを考えて必死に学歴を上げ、職業人としての階段を登った。その先により大きな幸せがあると信じた。
しかし、現実はどうだ。家に帰りたくなくて川に飛び込んで死のうかと思うくらいに追い詰まったこともあり、家庭では一人暮らしの時よりも狭い自室でほとんどの時間を過ごしている。
子育てのストレスで体調を崩し、出世とは縁遠くなり、けれど家族は父親が稼いで当然だと感謝もない。
このような状態になるために、私は頑張ってきたわけではない。
とはいえ、どのような物理学的法則においても、時間は元には戻らないことを前提にロジックが進む。
つまり、過去のことをどれだけ悔やんだところで、時間は前にしか進まないということだ。
妻は私に対して様々な不満を持ち、私としても同様。それが多くの夫婦の関係だと信じたい。
妻との間で意見が平行線になり、互いに理解しえない関係だと思う根拠の一つとして、妻が有している強烈なフェミニズム的な思想がある。
男女の同権であったり、そのように理路整然とした思想ならば分かるのだが、妻の場合のフェミニズムとしては男尊女卑を反転した考えに近い。
自分の思想は保守だと妻は言うが、フェミニズムとはリベラルな思想だと私は理解している。
妻は昔ながらの夫婦像を否定し、何かあると男が悪いという結論に着地する。保守というよりもリベラルな思想なのではないだろうか。
また、この思想を妻に植え付けたのは、間違いなく過干渉な義母だろう。
義父が若き日に夜の蝶に惑わされたからといって、そのケースが私に当てはまるとは言えない。
男に対する攻撃的な姿勢は男を遠ざけ、弱い男は別の花の蜜を求める。それだけのことだ。
自分の夫婦仲さえコントロールできなかった義母が、うちの夫婦に干渉するなんておこがましい。
それなのに、義母も妻も、家庭で女がマウントを取って男を管理すべしのような考えがある。
男の意見については最初に否定し、そこから自分の意見を言うところがあって、私はそのやりとりがとても苦手だ。
義実家は私なりの理解の範囲を超えすぎて、もはや顔を合わさない方が幸せなレベルにいる。
妻は、男女のトラブルについて、常に「男が悪い」というベースラインから話が始まり、自分に非があっても私に対して絶対に謝らない。
ごめんなさいと言えば済む話なのに、夫婦間のマウントを取りたいのか、全て男が悪いと思っているか分からないが、自分は間違っていないと主張して絶対に謝らない。
妻の態度で私の精神がどれだけ削れたことだろう。
このように偏ったフェミニズム的な思想を持っていることを、私は十分な長さの交際期間において一度も気づくことがなかった。
妻の思想に気づいたのは、結婚して子供が生まれてからの話だ。それまでずっと私にばれないようにしていたということだ。
しかも、子供たちと過ごす時間は私よりも妻の方がずっと多い。
父親を尊敬するように妻が子供たちを育てているとは思えないし、暴走したフェミニズム的な思想を刷り込まれていないかと心配になる。
とはいえ、すでに子供たちが育っている状況なわけで、妻との数え切れないバトルを経て、もはや互いに理解しえない関係というところに落ち着き、私は金を家庭に入れつつ夫や父親としての責任を果たすという毎日が続く。
そのような生き方が楽しいのかと尋ねられれば、義務なのだから楽しいかどうかなんて関係ないという返答になることだろう。
ごく希に、私は眠っている時に新婚の頃の夢を見てから目を覚ますことがある。漫画のようで面白いが、目尻に涙の後が残っていたりもする。
あの頃から過干渉な義母は鬱陶しく様々な注文を付けてきたが、それを除くと幸せな日々だった。
その生き方が続くと信じて喜んでいたが、実際には短かった。
人生の楽しさのピークはそこで終わったわけだ。
ピークというよりも、生殖の前の幻想のようなものだ。
子供が生まれた後の女性は性格が荒くなり、品がなくなることが多いらしい。
男が逃げられない状態になれば、搾取と攻撃と管理の対象になるということか。
今の私の生き方は、重い荷物を背負い、どこまでも続く錆びついた廃線のレールの上をひとりで歩き続けているかのようだ。
暑い日も寒い日も、ずっと歩き続け、疲れて倒れても手が差し伸べられることもなく、ふらついても足を引きずってでも前に進む。
水筒の残りは空になり、たまに小川に立ち寄ったり雨水をためて、再び歩く。
旅が始まった時は、たくさんの人たちに祝福され、穏やかな日差しの下、夫婦で手を取り合って草原の上を自由に楽しく歩いていたはずだ。
しかし、気がつくと、目的地が見えないままひとりでレールの上を歩いている。感謝されるわけでもないのに。
そして、目的地に辿り着く前に私は老い、干乾びて命絶えるわけだ。
そのレールの先に終点なんてものは最初から存在しない。自分が死んだ時点で、そこが終点になる。
なんとまあ虚しいことか。
家族が離婚する時、子供たちが母親に引き取られることが多い。それは分かる。
ただし、離婚した後の父親が養育費を払わないことが多いのはなぜなのかと、私は最近になって納得することがある。
子供たちにとっては、母親という存在がとても大きくて、考え方や感じ方まで母親から大きく影響を受けるのではないか。
母親が父親のことを尊敬し、その内容を子供たちに教え続ければ、子供たちは自然と父親を尊敬するように育つ。
逆ならばどうだろう。養育費とは子供たちのための金だ。それを父親が払わないようになるなんて、何かの理由があるとしか考えられない。
もちろん、借金で首が回らなくなったとか、体調を崩して支払うことができないといった都合もあるかもしれないが、子供たちのことを考えれば養育費を支払うはずなんだ。
つまり、離婚した後の元妻や子供たちのことを、元夫が家族として認識していないことが関係するのではないかと。
昭和の時代、家族が父親を馬鹿にすることは許されないという不文律があったが、それは母親による子供たちへのしつけが背景にあったのではないか。
では、私の家庭はどうなのか。妻は行き過ぎたフェミニズムの持ち主だ。私のことを尊敬するように子供たちに教育を授けることはない。
このような状態で離婚するようなことがあれば、私は民法で定められた内容の養育費しか支払わない。
なぜに私のことを尊敬しない子供たちのために私立学校の学費まで用意せねばならんのだ。向こうが弁護士を付けてくるのなら、私も弁護士を用意して対抗する。
それが何を引き起こすかというと、現実的な子供たちのベネフィットが減ってしまうだけの話だ。
義実家だってそうだ。あの一家は許しがたい。
私がそれなりに欠陥の多い男であっても、地道に働いて一家を支えているはずなのだが、とかく何だかんだと指摘していることだろう。
浦安での住居費を支援してくれたり、それなりに財産の相続があれば耐えられるが、1円もない。
子供は親に恩返しをして当然か。残念ながら私は恩を感じていないので返す必要はない。
何が浦安は住みよい街だ。大嘘にごまかされて私は大変な目に遭っている。
とはいえ、やさぐれたところで時間は進む。これからの生き方をより素晴らしいものにしようなんて希望はバーンアウトとともに燃え尽きた。
生きていくことなんて、死ぬまでの暇つぶしさと歌った人がいたが、簡単に死ぬことができれば苦労はない。
子供たちが生まれた以上、私は父親として生きていく責任がある。
大切な休日が子供用スマホの手配に費やされることが余程に虚しかったのか、東京湾のヘドロのような気持ちで苛つきながら画面を見つめる。
古い男だと言われるかもしれないが、私は子供に対して個別の情報端末は必要ないと考えている。
安全のためにGPS、それと電話機能とショートメールの機能があれば十分だ。
妻は、子供のスマホにLINEがないと、家族や友達とのメッセージのやりとりが困ると言うのだが、LINEがないと成立しない家族関係や友人関係なんてなくなってしまっても大して変わりがないと私は考えている。
そもそも、私はLINEを使用したことがない。このツールでやりとりされる情報がどこに集まっているのかを知っていれば、容易に使うことができないと思うのだが、妻はあまり深く考えないらしい。
結果、妻を含めた義実家のLINEグループに我が子も参加し、夫であり父親である私が知らないところで様々な情報共有がなされることだろう。
私から見れば完全アウェイの陰口大会だ。
親離れと子離れができない歪で不快な集団に我が子が巻き込まれる。妙な思想を刷り込まれることだろう。
そのようなくだらないネットツールのために、どうして私は大切な休暇さえ使って対応せねばならないのか。
かといって、そのような不満を妻にぶつければ夫婦喧嘩が勃発して私はストレスでダメージを受ける。
ああそうか、まあそうかと受け流し、父親という役を演じるだけの話だな。
子供用の格安スマホを操作して、保護者が管理するためのアプリケーションをインストールし、再び面倒な内容を設定していく。
アダルトサイトをブロックするとか、オークションサイトをブロックするとか。SNSの内容を選択するとか。
ああ、くだらない。
自ら稼ぎもしない子供については、GPS機能が付いたポケベルで十分だろ。昭和のサラリーマンたちは、ポケベルでも十分に仕事をこなしていた。
今から帰るとか、早く来いとか、電話しろとか。
子供と親との間で遠隔通信する内容なんて、四桁の数字だけで十分じゃないか。
親から事細かく指示されないと動けないような子供が、将来を生き抜いて行けるのか。
実家依存が増えるだけじゃないのか。
ようやくセットアップが終わったので、今度はキッズケータイを解約するために新浦安駅前のショッピング施設に向かう。
相変わらず冷たい小雨が降り、こんなことのためにどうして時間を使わねばならないのかと憂鬱な気持ちになる。
交際時や新婚時代は、大して二人で出歩く必要がない時だって、二人で手を繋いで歩いたものだ。
今では通常の生活でも妻に触れない毎日が続いている。子供たちを一緒に育てる同居人だな。
そして、エスカレーターを上って通信会社の窓口に向かったところ、受付の女性がまっすぐに私の目を見て話を聞いてくださった。
用件を伝えて紙に必要事項を記入すると、ほとんど待たずにカウンターに誘導され、ホテルのコンシェルジュのような男性スタッフが応対してくださった。
今回解約するキッズケータイは、いわゆるガラケーと言われている端末で、CDMA回線が使われている3Gタイプのものだ。
このガラケーであっても、GPS機能は我が子を守るために十分に働いてくれた。長い期間、この端末は毎日絶えることなく我が子の情報を親に伝え続けた。
物への感情移入が激しい私から見ると、このキッズケータイは本日をもって役目を終えることになる。
物も人も変わらない。役目を終える時ほど悲しく寂しいことはない。
それなのに、うちの妻は何の感傷もないらしい。子供たちも普通の顔をしている。
このような時、私の夫としての、あるいは父親としての生き方が間違っていたのではないかと思う時がある。
私が職業人生をリタイアする時も、鬼籍に入る時でさえ、妻や子供たちはこのような態度なのではないかと思うと、必死に生きて家族を養うことが馬鹿らしくなる。
要は、自他境界が自己肯定に偏っていて、他者を察することができない人たちなのだろう。義実家も妻も子供たちも。
生来の性格は義母だけで、そこから妻や子供たちにマッチョな自他境界が引き継がれている。
妻や子供たちが義実家を訪問して帰ってきただけで、義母のような我の強い話し方になり、自己主張が強くなる。
私が急にこの世からいなくなるくらいの衝撃を与えて、この忌まわしいループを断ち切りたくなる。
もちろんだが、保険については全て解約してからいなくなる。儲かったなんて絶対に言わせない。
だが、我慢していればインデューサーはいなくなる。今はとにかく我慢の時だ。
小雨が当たった私の上着には、何の抵抗もなく水が染みこんでいく。
上の子供が生まれた時に買ったゴアテックス製のアウトドアジャケットを、私は今も使っている。
昔はこれくらいの雨ならば軽く弾いたものだが、今は雑巾と同じようなものだ。
ロードバイクの趣味に金を使っているからと、普段の物はできる限り節約して生活しているわけだが、本当は子供のスマホなんかよりも、一着しかないジャケットを新調したかった。
これだけ私がボロボロのジャケットを着ているのに、うちの妻や子供たちは何も気づかない。
そもそも妻は私が着ているものに全く関心がないだけではなくて、私自身に関心がない。
ふざけるなと思いはするが、これが私の生きてきた結果として得られた家庭の姿だ。
妻や子供たちには本当の貧しさを実体験しないと、その悲惨さが分からない。
夫婦で軋轢が生じた時にさっさと離婚して、養育費を制限すれば良かったのだろうか。
民法をきちんと学んでみると、同じ収入でも養育費を簡単に下げる方法はある。
妻が気づいているかどうかは分からないが、私が離婚した後で子供がいるシングルマザーと再婚したとする。
私のことを大切にしてくれて、血が繋がっていなくても尊敬してくれる子供たちと生活することが生きるためのモチベーションになることだってありうる。
今のようにストイックな生活が続くこともない。
養育費を下げるために再婚するわけではなく、すり減った精神を癒やすために再婚して何が悪いという考えだ。
そうなると、子供の数が増えることになるので、結果として離婚前の子供たちのために支払う養育費は減る。
私の年収を元に養育費を計算しても意味がない。
父親に感謝も尊敬もしない子供たちのために私立学校の入学金や授業料を支払う気持ちはない。
家族が希望すれば必要なものがすぐに手に入るという考えを広げすぎたことが、我が家庭の失敗だった。
私はATMになるために家庭を持ったわけではない。
父親は金を稼ぎ、家庭のことも担って当然なのか。
男という存在はそこまで酷使される時代になったのか。
尊敬も感謝もなしに。
なんだかもう、夫として父親として生きることに疲れてしまった。
未婚男性が増えたり出生率が下がる理由が分かる。
タイミングが悪ければ悲惨な人生がずっと続くリスクがあるのに、自分から飛び込みたくないという話だな。
とはいえ、通信会社の窓口の対応がとても良かったので、しばらくの間、この陰鬱とした思考のループから抜け出すことができた。
私は受付の担当のスタッフの男性に、このキッズケータイがどれだけ重要な働きをしたか、また、私がどれだけ感謝しているのかを伝えた。
家族の希望とはいえ、契約期間の途中に端末を変えることをあまり良く思っておらず、私は違約金を払うことを何ら気にしていない。
なので、気にせずに解約処理を進めてほしいと希望した。
すると、担当のスタッフが何かを思案しているように動きが止まった。早く解約せよと私が要求するわけにもいかず、私は目の前のアクリル板から見える光景を眺めていた。
その担当スタッフが何かに気づいたかのように私に説明を始めた。
このキッズケータイは、分類としてはガラケーに相当する。現在、ガラケーからスマホへの移行のキャンペーンが行われているので、契約期間の違約金を必要とせずに安価にスマホの端末を手に入れることができるらしい。
そのスマホは入門用のアンドロイド端末だけれど、高度な操作をしなければ十分に使えると。
しかし、私としては子供用の格安スマホをすでに購入した状態であり、新たな端末は必要がないと答えた。
大手通信会社が大幅な値引きを行うことになり、格安スマホの意義がなくなっている状態だ。
かといって、上手に世を渡るような能力は私にはない。常に真正面から受け止めて、地道にレールを歩くような人生だ。
この時間に私が行うことはひとつだけ。1万円程度の違約金を支払い、頑張って耐えてくれたキッズケータイを記念として持ち帰ることだ。
ボロボロのジャケットを着てはいるが、金に困ったことはないし、借金だって今は1円もない。
しかしながら、その通信会社の受付スタッフとしては、キャンペーンが行われている中で客が固辞して帰ってしまうことを良く思わなかったらしい。
このキャンペーンは1週間くらいしか行われていないそうで、彼の言動を観察する限り、人を騙そうとしているわけでもなさそうだ。
最初、携帯端末を解約する時によくある客の引き留めだと感じていたのだが、どうやらそうではなくて、客が受けるべき利益を還元せずに帰すわけにはいかないという気概を感じた。
彼としても職業人としての矜持があるのだろう。とても勉強になる。
その受付スタッフの男性がインカムで店長と通信し始めた。ようやく私は解約処理を済ませて帰ることができるのかと安堵していたら、彼が店の奥から3つくらいの箱を手にして戻ってきた。
これはキッズケータイではなくて普通のガラケーからの乗り換えについて適用されることが多いのだけれど、入門モデルのアンドロイド端末ではなくて、新しいモデルのiPhoneに乗り換えることもできるらしい。
ご丁寧に3色のバリエーションが用意されていた。
乗り換えの手数料は必要なく、料金は驚くほどに安い。
そして、新規に契約した翌月に解約しても構わないそうだ。それをSIMフリーとして使うこともできるし、不要ならば売却することもできると。
しかしながら、そこまでやってくれる通信会社を私は切り捨てることができない。
会社としてはそれが目的かもしれないが、やはり守るべき義もあるのではないかと思った。
それ以上に、家庭の状態に疲れ切っていた私としては、他者からの心遣いによって気持ちが温かくなった。辛くとも生きていれば、たまにこのようなこともある。
最新のiPhoneを受け取り、ガラケーからの移行として手続きを済ませた。
実は、私はアップル社の製品がとても苦手で、昔も今も使わないことにしている。
若い頃のマッキントッシュはフリーズが多く、データの解析中にすぐに爆弾マークが出て止まってしまうことがあった。
途中からWindowsマシンが登場し、やはりWindowsだという考えが頭の中に刷り込まれてしまっている。
けれど、アップル社の端末は当時とは比べられないくらいに進化し、さらに昨今のサイバーセキュリティを考えると、Windowsマシンよりも安全なのだそうだ。
スマートフォンについて言えば、多くの人たちがiPhoneを使っているという、ただそれだけの理由でiPhoneに手を出していないということもある。
それ以前の話として、ブログを書く際にスマートフォンは便利だが、大抵のことはガラケーで十分だと私は思っている。
私がポケットに入れて常に持ち歩いているのは時代遅れの古いガラケーで、バッグにスマホを入れているような状態だ。
緊急の用件はガラケーに届き、妻への連絡は絵文字が全くないショートメール。それで十分じゃないかと思う。要件だけをやり取りするのだから。
だがしかし、ガラケーからスマホへの移行は通信会社の都合であり、ユーザーに迷惑をかけてしまっているのだから、代替機を用意するのは当然だとスタッフは主張する。
私としては、使わないかもしれない最新式の端末を受け取るわけにはいかず、足るを知ることが生きる上で大切だと主張したのだが、そのような思想が逆にスタッフの心に火をつけてしまったらしい。
最新のiPhoneを背中のバッグに入れて、どうしたものかと家に帰る。
その担当スタッフには、「奥さんから尋ねられたら、このように説明してください」というメモ入りの書類まで手渡された。
彼がこのような対応をとったのは、私で二人目だったらしい。
もう一人は、ずっとガラケーを使い続けた高齢者の男性だったそうで、とてもガラケーを大切にしていたので、スタッフとしても力が入ってしまったそうだ。
キャンペーンとはいえ、格安で最新式のiPhoneを手にお爺ちゃんが自宅に帰ってきて、ご家族はとても驚いたことだろう。
さて、私はどうすればいいのだろうか。
妻に尋ねてみたところ、彼女が自分で契約した格安スマホの端末が使えているので、新しいiPhoneは必要ないという返事だった。
若い頃の私のように情報端末の購入で苦労したこともない人には珍しくないレスポンスかもしれないな。
この人は、私に出会わなければ一生独身だったと言うが、その出会いに感謝していると言ったことは一度もない。
演技であっても大袈裟に喜ぶとか、そういった模範的なリアクションができないから、夫が感情を失った時でも平気だったということか。
そういえば、ロードバイクを通じて知り合った市川市の若い父親はiPhoneユーザーだったかもしれない。
サークルを閉じた最近ではほとんど連絡がなくなってしまったが、私のように変わった人物でも相手をしてくれた貴重な人物だ。
何かの機会があれば、彼にiPhoneをプレゼントすることもありだな。
熱いスタッフの配慮で用意された端末を、古物商やオークションで売って金に換えるようなことは、私にはできない。
物というものはどこまで手に入れても満足することはない。ある程度のところで線を引き、それをもって満足する気持ちが必要になる。
やはり、店員が何と言おうと、私はiPhoneの受け取りを拒否して帰るべきだった。必要になれば自分で働いて得た金で買うべきだ。
しかし、彼の心情を考えると、それでは誰かを幸せにしたという職業人としての達成感がなくなるだけでなく、自らの善意が大したものではないと見下されたと感じるかもしれない。
何ともやり切れない気分ではあるけれど、しばらくは地道に生きた記念品として部屋に飾っておくか。