自他境界でシールドを展開している何か
最近のHYPSENTは、ある程度の知性や教養がないとフォローが難しくなってきたかもしれない。
大学院レベルのレポートのようだな。
博士号取得者が本気で文章を書くとさらに難しくなる。そもそも日本語ではなくて英語で文章を書くことも多い。
このような体のブログはとかく一般受けが悪く、一部のコアな人が立ち寄るだけだろう。まあ、この録は私の遺書なので、遺書が面白くて一般受けが良かったら、それはそれで危うい。
「ロードバイクで走って絶景を見たよ!」とか「お洒落なお店で絶品の海鮮丼を食べたよ!」とか「新しい趣味の道具を買ったのでインプレしてみるよ!」といった純朴なネタをネットで欲している人たちを一切寄せ付けないオーラを放っている。
もとい、私がアバターと呼んでいる存在は、間違いなくバーンアウトを境に生じ始めた。
共働きの子育てと電車通勤のストレスを耐えているうちに、2016年から2018年にかけて自分の感情が枯渇し、どうにも表現しがたい不思議な世界で生活するようになった。
アバターの気配を感じ始めたのは2018年頃だったと思う。その頃に家庭で観測史上最大の妻の激高が生じ、私は非常に強い耳鳴りと頭痛に苦しんで倒れた。
そこから数週間のレベルでアバターが意識としてはっきりと分かる状態になり、とても面白いことに2019年から2020年にかけてはアバターを仕事や家庭で実際に使い始めた。
まるで漫画のような現象がとても興味深く、カウンセリングや投薬でアバターを消そうとするのは愚かだと思った。
そして、2021年。バーンアウトからほぼ回復し、かつてのように思考や感情、意欲が戻ってくるにつれて、アバターの存在感が薄くなってきた。
とても楽しく興味深い現象なので、このままアバターが消えてしまうのは、何だかもったいない気がする。ずっといてくれても良かったのに。
この不思議な体験を書き残しておかねばなるまい。
では、アバターについて具体的に説明すると、おそらくはバーンアウトによってダメージを受けた脳内が、その後の回復によって元に戻る際に生じる感覚や思考の変化だと解釈すると分かりやすい。
それらを生じているのは私の脳細胞であり、オカルトではない。
別に心霊現象でもないし、私が何かの宗教に入ったわけでも、人格障害を患っているわけでもない。職場で行われるメンタルチェックも問題ない。
では、その感覚がどのようなものなのかというと...ただのイメージでしかないのだが...実物の私をアバターのように動かしているような自分を感じる。
ほら、昔に流行したセカンドライフやミートミーといったネットゲームのように、仮想世界で自分のキャラクターであるアバターを動かしている感覚に似ている。
ただ、それらのゲームと異なるのは、動かしているキャラクターがネット上の分身ではなく自分そのものであり、もちろんだがキャラクターが存在しているのは現実世界ということだ。
アバターという言葉の定義としては自分の分身という意味になるわけだが、現実世界の自分をアバターのように動かしている脳内の感覚や思考そのものを私はアバターと呼ぶことにした。
現実世界での私がアバターとして動かしているキャラクターだとすれば、本物の私はどこにいるのだろうかという矛盾が生じる。
故に、この状況では頭の中に本来の自分とアバターが同居して、同一の存在である私自身を動かしているという理解になる。
アバターが現実世界の自分を動かしているといっても、もちろんだが私は自分の意思で生活している。
それぞれが別の人格というわけではなくて、アバターが私を補助してくれているような感覚だ。本来の私が厳しくなると自動で発動して、自分という「役」を演じてくれる。
これはとても便利だ。
しかも、バーンアウトを経験する前の状態と比べると随分と感じ方や考え方が違う。
五感から脳に入ってくる情報を自分が認識し、考え、行動するわけだが、その自分と五感との間にショックアブソーバーというかコンバーターというか、何かを挟んでいる感じがある。
中二風に表現すれば、自我の周りにシールドを展開する不定形の透明な塊があるイメージだ。
しかも、そのシールドが現実世界での自分の言動をオートパイロットモードで自動補正しているようで、明らかに本音と建前が違ったとしても角が立たないように私を演じてくれている。
人間ドックで「サイコパス指数が高めですね~」と指摘されるような話なのだが、アバターがシールドを展開して内面が外に出ないように調整してくれたりもする。
普通ならば、「なんだよ...これ...なんなんだよ!」と驚いて混乱し、それなのに「出でよ、アバター!」と誇らしく発動するところまでが中二的なストーリーなのだが、感情が枯渇するというビッグイベントを経験した後のオッサンなので大して驚きもないし、なるほどこれは便利だと100円ショップのアイデア商品の要領で使っている。
結果的に、アバターが発動したことで、なんと私の性格が変わってしまった。
攻撃的で陰湿だった私の性格が、穏やかで陰湿になった。
これは凄いことだ。性格を変えることができるなんて想像もしたことがなかったし、間違いなく対人関係が楽になった。
しかしながら、これらの体験を人に話すと間違いなく私が発狂したか、何かの宗教に入ったと勘違いされるはずなので、誰にも話したことがない。
だが、この不思議な感覚によって、私の生活はとても楽になった。
妻が家庭でキレても、仕事で嫌な人がいても、そこにいるのは本当の自分ではなくて、アバターを使って遠隔操作している自分という感覚がある。
ゲームのキャラクターを動かすようにその場の全体を眺めるような光景が思い浮かんだりして、感情が波立たない。
くどいようだが、自分の心と外的な環境との間に1枚の透明なシールドが展開されているような感じがあって、外界からの情報がダイレクトに突き刺さってくることが少ない。
それと、孤独でいることに強くなった。
趣味の仲間がほしいという気持ちがなくなり、以前は頻繁にアクセスしていたブログも見なくなった。
仕事においても誰かを頼りにせず、ただ地道に自分の力で前に進んだ。
他者を心の拠り所にせず、他者に期待せず、孤独に生きることがこんなに自由で有意義なことだったなんて、想像したこともなかった。
バーンアウトは不幸な経験だが、人間の脳にこのような機能が眠っていたとは驚きだ。
おそらく、人間が高度に進化する前の時代には、感情が枯渇するようなストレスはよくあったはずなんだ。
そのような状態になっても、何とかして個体を生存させようと、脳がオートパイロットモードのように個体を動かす仕組みがあるのではないか。
さて、私なりのアバターの実践例だが、喧嘩は互いに怒るから喧嘩になる。自分が怒らなければ喧嘩になることは少ない。
それぞれのケースで、このキャラクターは何を話せばいいのかと言動を選択するくらいの余裕がある。
目の前に怒り狂った人がいても、「何だコイツ?」と思う人がいても、仮想空間で出会った妙な存在だという感じでスルーすることができる。
それが普通だと言われればそれまでだが、私は普通ではないので疲れたり、敵が増えたりもした。
なので、「そうか、これが普通の感覚なのか」と面白くなった。しかも、非常に分かりやすく敵が減って、人間関係が楽になっていく。
それにしても、不思議なことがある。
私がアバターと呼んでいる何かは、一体、どこに存在しているのか。
間違いなく自分の頭の中にいるはずだな。
具体的には、扁桃体や海馬といった大脳辺縁系で何かが生じているのだろう。
世間一般では「原始脳」と呼んだ方が分かりやすい。生命維持に必須の部位である脳幹の周りに大脳辺縁系がある。
この領域は様々な部位に分かれているが、1億5千万年以上前にはすでに形成されていたと考えられており、人類を含めた様々な動物の脳に存在している。
人類の場合には、高度な知的活動を営むにつれて、脳の外側にある大脳皮質が進化した。
大脳辺縁系において細胞の機能が亢進しているのか、あるいはそれが減弱することでアバターが生じたのかどうかは分からない。
なぜ大脳辺縁系を疑っているのかというと、仮にアバターが大脳皮質にいるとすれば、それを意識的に動かすことができるはずなんだ。
だが、実際には意識せずにアバターを使っている。
となると、情動や意欲、記憶などを司る大脳辺縁系にアバターがいると解釈することが自然だな。
アバターが生じるきっかけとなった感情の枯渇が、バーンアウトによるものか、ミドルエイジクライシスによるものかは定かではない。
ただし、感情が枯渇したということは、それを司る大脳辺縁系に過度の負荷がかかったことが推察される。そこで何かの変化が生じたと考えても矛盾はない。
なるほど、これは興味深い。機能的MRIの被験者になって、バーンアウトから今までの脳の活動を調べておくべきだったな。
なぜなら、心が疲れて苦しんでいる人たちが、このアバターを得ることができれば、ずっと楽に生活しうるはずだ。
脳科学から心理学へと視点を変えて考えてみる。
心理学的に考えると...といっても私の理解は大学の一般教養レベルだが...私がアバターと呼んでいる感覚は、自他の境界の辺りに存在しているように思えてならない。
理系から文系の話になるので抽象的あるいは概念的な表現になってしまうが、「自分はどこまでが自分で、他者はどこまでが他者なのか?」と考えたことはないだろうか。
「あはは、そんなことも分からないの?」という人がいれば、おそらく学術的な素養がないので、そのまま遠浅の海のような単純系の思考の世界で生きればいい。テレビやツイッターは楽しいだろう。
1+1がどうして2になるのかということを突き詰めると非常に答えが難しくなるのと同じように、自分と他者という個人の境界を明確に分けることは非常に難しい。
人が普通に生活していると当然だが喜怒哀楽があって、何かあると脳に情報が入って色々と感じるわけだ。
その多くが対人関係であることは間違いない。
その際には、相手が感じていたり考えている内容を受け取って自分の中で理解したり、逆に自分のことを相手に伝えて理解してもらうという過程が必要になる。
目の前に誰かがいたとして、その人は自分ではなくて他者だ。ここまでは当たり前の話だな。
では、目の前の人物が声や表情で自分に伝える「情報」は、完全に自分と呼べるのかどうか。
自分の耳や目から感じ取った情報は、電気信号として神経細胞間を伝って脳に入る。それらの実体は自分の生命活動に該当する。
しかし、その情報のオリジナルは他者の脳から発せられたものだ。
情報という限定的なものであっても、他者の一部を変換して自分の脳に取り込んでいるという解釈になる。
つまり、対人関係においては、自分の脳の中で自分と他者が存在していて、他者を否定して排除することもあり、他者を肯定して影響を受けることもある。
このような個人の境界は、アルフレッド・アドラーが創始した古典的な心理学の頃からテーマになっていて、それらを応用したカウンセリングがあったりもする。
日本語のネット上では、「個人の境界」ではなく、「自他境界」というフレーズの方が広がっているようだ。
なぜにここまで日本人が自他境界について関心があるのかと驚いて記事を眺めると、発達障害やうつ病に関連した内容が非常に多い。
前者については、自閉症スペクトラム症の子供や大人では自他境界が曖昧になっているという話が多く、我が子の発達や自分自身の苦しみについて知りたい人が多い。
また、後者、つまり自他境界と精神疾患との関係について、うめき声のように悲痛な内容を発信している人たちも少なくない。うつ病とかアダルトチルドレンの話が多いな。
自他境界には人によって様々なタイプがあることだろう。
自分の頭の中で自分の情報と他者の情報が混ざった時、自分が優位になる人は自己主張や自己顕示欲が強く、反対に他者が優位になってしまう人は自己否定が強かったりもする。
他者に思考をコントロールされやすいのは後者だな。
また、明確な自他境界があるわけではなくて、時には思考や感情の中で自分を優先して主張することもあれば、他者を優先して共感することもある。
しかしながら、自他境界が不安定な場合には生活する上でトラブルを招くこともある。
発達障害の場合には、自分と他者との境目が薄くなり、自分が考えていることは他者も考えていて当然だと発言あるいは行動し、結果としてトラブルが生じたりもする。
空気が読めないというパターンだな。
逆に、対人関係による心的外傷を受けた人では、他者の思考や感情が自分を支配あるいは恐怖させることで苦しくなってしまったりもする。
そういえば、ブロガーの中には、プロフィール等を拝見することでアダルトチルドレンだと判別しうる人物に出会うことがある。
機能不全を起こした家庭で育ったという人では、この自他境界が不安定になったまま大人になる人もいるようだ。
それによって何が生じるのかというと、状態は人それぞれだろうけれど、自他境界にとても小さな自分がいて、そこに他者の情報が止めどなく流入し、自分の周りを埋め尽くしてしまうようだ。
子供の頃に親から自分を否定され続けた、あるいは自分自身を抑え続けた結果なのだろうか。
そのような人がブログのエントリーを投稿すると、他のブロガーの影響を非常に強く受けた鏡のような書き方になり、その人の内面が見えないことがある。
何かを考えたり行動する際に、常に他者の情報が気になり、あえてネット上を徘徊して他者の情報を自分の中に取り込もうとして、それらが毛布のように自分を包んでいないと不安になるというイメージだろうか。
だが、気に入らない他者の情報まで脳に取り込んでしまい、自分の中で他者の存在が大きくなりすぎて、子供のように唐突に切れてやさぐれた内容を発信することもある。
たまにエントリーの中に自分の内面が顔を出したりもするが、そこで見えるのは、子供が感じるような純粋さや小さな自尊心だったりもする。
周りから見て特に大したことではないと思うことでも、本人にとっては大切な自分なのだろう。
いずれにしても、ここまで自他境界というフレーズが日本のネット上に広がっている背景には、学問的な知的好奇心というよりも、自分に直接関係するトラブルについて人々が何とかしようと勉強しているように見受けられる。
自分に関係しないことには関心を持たず、深く考えることもなく、しかし自分に関係することには前のめりになる日本人の傾向がよく顕れている気がするな。
ここで、先の推論との間で点と点が繋がり、線になる。
もう少し推論を深めてみよう。
バーンアウトの後に生じたアバターという補助人格のようなものと、私の自他境界との間で何が生じているのだろうか。
対人関係を介して私の中に入ってくる他者の一部、つまり他者の感情や思考というものがダイレクトに自分のそれらと混ざり合っていないことはよく分かる。
その一方で、完全に自分を閉じてしまって他者を否定しているのかというと、そうでもない。
何だか不思議だな。ひとつの録で全てを書き切るような内容ではないはずなので、今後も考えてみよう。
宗教的な意図を除いて考えると、昔の僧侶たちがたどり着いた悟りの境地という現象は、苦行によって大脳辺縁系に対してダメージを加え、感情や欲求などを司る脳の機能を変えようとした結果ではないかと、ふと思った。
悟りの境地を明確に、かつ具体的に説明した文章がどうして見当たらないのかという理由もよく分かる。
その境地を説明するためには論理的思考が必要になるが、それを司っているのは大脳皮質という解釈になる。
大脳辺縁系を使って論理的に思考することができれば、悟りの境地を具体的に説明することができるかもしれないが、原始脳でそれを実施することは難しい。
実際には大脳皮質の活動をほぼ停止した状態で、大脳辺縁系からアウトプットされる情報のかけらをぼんやりと大脳皮質で受け取っているだけの状態ではなかっただろうか。
また、悟りの結果として得られる事象は、感情の完全な制御と苦しみからの解放だったのではないか。
その存在を感じてイメージすることはできるが、明確に理解することができないという、私なりのアバターに通じるものがある。
ただ、私の場合には、元々の生来の感覚過敏を持ったアレな人で、苦行とはいっても子育てや電車通勤というさらにアレなもので、しかも悟りに至っていないという点でさらにアレだ。
やはり、現実世界で誰かに話すことはやめよう。
感情や意欲が戻ってきて、頭も回転するようになってきた。仕事が捗り始めたことは喜ばしいが、とても楽しかったアバターは、そのうち私の中から消えてしまうのかもしれない。
けれど、おそらく大脳辺縁系に生じたアバターが行っていたことを、本来の自分が大脳皮質で考えて行動に移せば、周りの人たちはその変化に気づかないわけだ。
それを無意識に実行することができていた時よりも、意識して実行するので切り替えが面倒だが、感情や思考とトレードオフだと考えれば致し方ない。
悟りを開いたとされる僧侶であっても、その後にずっと修行し続けた理由が分かる。
私のように俗世間にまみれた人が本音と建前を使い分けて、それを表情や言葉に出さないことは、すなわち自分に対して嘘をつくことになりはしないか。
「アバター!カムバーック!」と望んでいると再びバーンアウトを起こしかねないので、やはりアバターがいるという体で生きざるをえない。