休日出勤でミニベロに乗って見上げた冬空
私が忙しくなってきたことは妻も理解してくれていて、休日に出勤しても不機嫌になることはないようだ。
むしろ、神経質で鬱陶しい夫である私が家の中にいない方が、妻にとっては楽なのだろう。
しかし、頼んでもいないのに妻が飯とおかずをタッパーに入れて手渡してくれるので、休日出勤のひとつの楽しみでもある外食ができない。
外食といっても、ラーメン屋や蕎麦屋に立ち寄るだけなのだが、妻としては夫の健康管理と浮気防止を兼ねているらしい。
私が妻以外の女性と景色の良い洒落たカフェに行って会食するのならば、そこでタッパーに入れた弁当を食べろという意図だろうか。
そのような予定はないし、もう女性は懲り懲りだ。かといって男性に興味があるわけでもない。
あるいは、私が職場で過集中を起こすと昼食を忘れて仕事に没頭するので、その防止という意図だろうか。
弁当を持たせても過集中を起こせば食べることを忘れる。昼食が夕方になることは珍しくない。
休日出勤といっても、自宅で夜遅くまで仕事をしている時があるので朝は遅めに起きる。
キャッチボールのように私の言葉を受けずに自分の言いたいことを投げ込む妻のスタイルは、まるで雪合戦のようだ。
その旨を妻に言って、少しからかってみる。妻は笑っていた。
妻に感謝しながら都内の職場に向かう。
先日から始めたことだが、休日に職場に向かう時には、いつもの新浦安駅ではなくて、浦安駅から東京メトロ東西線に乗車することにしている。
私が住んでいる浦安の新町から元町の浦安駅までは、タクシーで結構な金額がかかる。
バスに乗る場合には、本数が少ない浦安駅行きを待つか、新浦安駅でバスを乗り換える必要がある。
このアクセスの不便さは浦安市の課題のひとつであり、また南北で別の街のような性質を生む理由でもある。
しかし、小径のシティサイクルで日の出地区から浦安駅まで走ると適度な運動になり、サイクリング欲が充たされる。
ロードバイクで走るとすぐに到着してしまうが、このミニベロは重くてスピードが出ない。しかし、それがいい。
また、住民がピーキーな新町を抜けて、ラフだが穏やかな元町に入っていく時の気分の変化が心地よい。
平日は日本有数の混雑率になる東西線だが休日は空いていて、座席に座ってのんびりすることができる。
私が苦手とするハイテンションなディズニー客が全く乗ってこない点も素晴らしい。
反面、JR京葉線では見かけないようなマナーに欠けた乗客が東西線に多い気がして、それは平日でも同じことだなと思う。
通勤サイクリングの途中でたまに店舗のガラスに映る私の姿は、お世辞にもスタイリッシュとは言えず、まるで自転車に乗ったサーカスの熊のようだ。
このミニベロはホイールベースが短いので、登り坂ではスタンディングによるペダリングが難しい。
しかし、自分のライディングスタイルがいかに無様でも、この楽しさがあればいい。
ロードバイクでは抜重しないとパンクする段差を軽々と乗り越えるミニベロという表現はシュールだな。
20インチホイールにブロックパターンの極太タイヤを履かせてみたのだが、とても面白い。
新浦安が地震で液状化した時にはマウンテンバイクのブロックタイヤが有用だったので、ミニベロにも取り付けたことが思わぬ副産物をもたらした。
自分の足の先に小さな車輪があって、立ったままコロコロと気軽に移動しているような楽しさだな。
元町の駐輪場を管理している気のいいおじさんに100円を渡し、ミニベロを駐輪する。
元町のネイティブなおじさんたちの明るい笑顔はこの街の財産だな。
ミニベロといえば、ダホンとかブロンプトン、KHS、タイレルといった折り畳み式のスポーツ自転車が人気だ。
しかし、ミニベロについてはスポーツタイプではなく、カゴがついたシティサイクルを愛車として乗ることにした。
スピードが出たり、持ち運びが便利だったり、格好が良いスポーツタイプのミニベロを手に入れて乗っていたこともあるのだが、それらを駐輪場に止めておくと盗難の危険性があると思った。
また、スポーツタイプのミニベロがロードバイクのように乗り心地が良いのかというと中途半端だった。
スピードが出なくても格好が良くなくても、普段着で気軽に乗って走りが面白い自転車を探して行き着いたのがミニベロのシティサイクルだった。
この愛車は近くの自転車屋で売っているものではなくて、それなりの価格だったし、すでにそれなりの価格のパーツへの換装が始まっていたりもする。
東西線に乗ろうとして改札の前に行くと、すぐ近くで喫煙している中年男性の姿を見かけた。
改札の数メートル手前までママチャリを手押しし、井戸端会議をしている婦人の姿も見かける。
しかし、あまり気にならないのはどうしてだろう。元町だからだな。
新浦安駅と比べると、浦安駅の周辺の雰囲気は雑多だが華やかだ。
明るい色の髪をなびかせて歩いているスレンダーな美しい女性をよく見かけて、思秋期の中年親父としては目のやり場に困る。
電車の座席に座り、しばらくの間、窓から見える景色を眺める。
このような気持ちが良い天気の日には、寒くてもロードバイクでのサイクリングが楽しい。
なぜに私は職場に向かっているのだろう。収入が増えるわけでもないのに。
仕事のデッドラインが近いからだな。ハードル競争のように年中がデッドラインだが。
緊急事態宣言下で予想通りコンビニが客のトイレの使用を中止し始めた。ロードバイクでのロングライドは大変だ。
また、首都圏では年末の忘年会や年越しの人混みによるコロナ感染者の増加が始まり、オーバーシュート、すなわち感染爆発が近づいてきた。
首都圏の感染者の人数をマップで表示している人たちがいるが、自然災害ではなくオーバーシュートの場合には混乱と動揺を生むので気をつけた方がいい。
各国の状況を眺めてみると、感染爆発が何の前触れもなくやってくるわけではなく、局所的に感染者数が増えて医療が崩壊するという特徴がよく知られている。
浦安市内の中規模の医療機関あるいは大学病院のキャパシティ、具体的には重症患者の治療が手一杯になった時、とりわけ重篤化しやすいシニア層の浦安市民はどこに搬送されるのだろう。
液状化の時のように東京都が千葉県浦安市を助けてくれることはないだろう。東京の方が深刻な状態だ。
逆に、近隣の市川市や船橋市内の医療が崩壊したと想定して、浦安市内の医療機関が支援することができるだろうか。
それなのに、緊急事態宣言下の新浦安において、どうして高齢者たちが人混みに入っていくのだろう。
もはや多くの人たちが行政やマスコミを信用していない感がある。
若い人たちや働き盛りの世代はコロナにかかっても重篤化しないことが多く、現状の行政対応では医療機関や保健所等が厳しいということで、コロナをインフルエンザと同程度の対応にしようという意見がある。
しかし、高齢者から見れば、そのような対応の変化は命の選別ではないかという意見があるだろうし、政治もマスコミもシニアに配慮する。
一方で、自分が感染しても重篤化しないことが多い若い世代は、今後もさらに高齢者のことを考えなくなると思う。
年齢に関わらず、赤の他人に対して日本人はとても冷たい。海外に比べればマシだが、気持ちが変わった時の社会レベルでの変化は世界でも稀な大きさだ。変化を誘導するオピニオンリーダーがいないのにムーブメントが生じる。
大昔の日本では行政のことを「お上」と呼び、武士たちの言うことに従っていたが、大きな出来事があれば自助と共助で対応し、公助についてあまり期待しなかったそうだ。
緊急事態宣言下でも出歩いている人たちの姿を眺めていると、これが日本人の逞しさなのかなと思う。
昔のように高齢者を切り捨てる社会になってほしくはないが。
休日の職場は人が少ないけれど、どのセクションも誰かが働いている。普段よりも静かなので集中しやすい。
浦安で共働きの子育てに入り多くの不満を抱えることになったが、そのひとつが仕事への影響だ。
電車通勤によって物理的な時間が削られて仕事が捗らない。
その焦りと街や電車のストレスが混ざり合い、泥酔した中年親父の臭いにも似た表現しがたい憂鬱がずっと頭の上に乗っている。
その状態で家事や子育ての用事が入ってくると、閾値のないストレスが降ってきたりもする。
だが、父親は子供たちのことが最優先だ。それが父親としての責任であり本能だと信じる。
しかし、現実問題として休日出勤で仕事の遅れを少しでも減らすと気分が楽になる。
本当は趣味でストレスを解消したいところだが、仕事でストレスを解消して休憩している形が興味深い。
深夜に職場から浦安に帰り、元町からミニベロに乗って、海沿いを大回りしながら新町エリアの自宅までペダルを回す。
周りは暗くて人がいないが、浦安市は電灯が多いので全く問題ない。冷たい海風が耳にや指先に当たって痛くなる。この感覚すら懐かしい。
ちょっとした冬のナイトライドだな。カゴが付いた自転車だけれど、いつまでも走っていたい気持ちになった。
ペダルを回していたら、久しぶりにサイクリングで禅が始まった。
現在の自分はどこにいるのか。自分とは何なのか。
過去でもなく未来でもなく、今、この瞬間の自分と向き合い、心を整えて練っていく。
様々な思考が浮かび、それらを流れる風と共に後方へ流し、正しい意味での正気を取り戻す。
外的な環境が目まぐるしく変化し、真に思考が休まる時間や場所がない状況だ。
そのような時期だからこそ、人は心が休まる場を求め、それが見つからずに不満を溜め、様々なリスクを承知で自らを解放しようとするのだろう。
ネットを徘徊したところで、そこに自分を支える情報があるわけでもなく、理解してくれる人が待っているわけでもないのに、四六時中スマホを見つめている人は多い。
これまでに抱えていた社会の課題や平時には感じられなかった人々の本性がパンデミックをきっかけに堰を切ったように流れ出し、思考にノイズが入り続ける毎日だ。
多くの人たちが批判の標的を探し、アイツが悪い、コイツが悪いと憂さを晴らそうとしている。
けれど、そのような社会を看過して放置してきた責任は自分たちにもあるのではないかな。
自分について直接的に関係することばかりに関心を持ち、社会について考えることが意識高い系だと揶揄されるような世の中を作り出したのは、人々の意志の集合体ではないのか。
そのことを知っているはずなのに、「仕方がないじゃないか!」と開き直る。
解決することと考えることは違う。
考えても解決しないことばかりだが、考えないと解決には至らない。
...と、高尚なことを考えたところで、今の私は熊乗りでミニベロを漕いでいるくたびれた中年親父だ。
地道に働いて子供たちを養い、ペダルを回して機嫌が良くなり、自宅で酒を飲んで眠り、再び地道に働く。
この繰り返しを柱として、環境の変化に惑わされないことが大切だな。
自宅に帰ると、妻がホットカーペットの上でストレッチとも筋トレとも表現しかねる奇妙な体操に励んでいた。
そういえば、通勤中の駅構内に貼られていた女性誌の広告でモデルが同じ格好で足を伸ばしていた。
外出が減って下半身太りが気になる人のための体操なのだそうだ。
本当に効果があるのかは知らないが、何かに希望を持つことは大切だ。
「おお、痩せてきたよ!」と適当に妻を励ました後、酒を飲んでさっさと眠る。
翌朝もミニベロに乗って休日出勤のために浦安駅に向かう。
毎日の通勤がこの状態ならば最高なのだが。
信号待ちのアップライトのポジションから眺めた元町の低層ビル群の上には、晴れ渡りつつ白く凍ったような空が広がっていた。
通勤に苦しむことがない日々に希望を持つことも大切だな。いつになるか分からないが。