乱世を感じながら自分でロードバイクをオーバーホール
世の中には趣味のことばかりをブログで紹介して、仕事や家庭については一切触れない人がたくさんいる。
それはそれで奇妙なスタイルだな。生きていれば様々なことに心が傾いて当然だと思うのだが、余程に人に紹介することができない仕事や家庭なのだろうか。
また、ネット検索によるアクセス流入を念頭に金太郎飴のような薄っぺらい内容を連投する人もいる。アフィリエイトで小銭を稼いだり、自分の存在を誰かに認めてもらいたいのだろうか。
私の趣味はサイクリングだが、ロードバイクやライドの話はできるだけ控えるようにしている。
それらを目当てにアクセスしてくる人たちは鬱陶しい。私の生き方ではなくて、自分の趣味についての情報に関心があるだけの話だ。
そのような人たちにわざわざ情報を提供してやる義理もない。
まあそれらも人の自由なわけで、嫌ならアクセスしなければいいだけの話だな。
さて、私には通勤時に毎日通っているコンビニがあり、その店の店長は私よりも10歳程度若い子育て中の男性だ。
彼はとても個性的な人で、以前の録にも記したことがある。
最近、私が商品を選んでレジの前に並ぶと、店長は商品の陳列の途中であってもカウンターに出てきたり、バックヤードから挨拶に来たりもする。
私と会話したいらしい。奇特な人がいるものだ。
たくさんの客が来店するコンビニではあるが、相手は客なので気楽に世間話をするわけにもいかないことだろう。
店長という職業は孤独な存在なのかもしれないな。
私は店長と5年以上前からの知り合いだ。
店主と客という関係は変わらないが、彼がFXで数百万円の資金を溶かして奥さんがブチ切れて、仲直りするための方法を教えてから話し相手になった。
彼に全ての非があるので状況は異なるが、激怒した妻の扱いについてのノウハウを私は持ち合わせている。
それにしても、最近の店長は精神的にとても弱ってきたという印象がある。神経質な割に気が弱い。テレビを付けっぱなしにするタイプだな。
「あの...年末年始からコロナの感染者が増えてきましたよね。こんな生活、いつまで続くんでしょうか?」と、店長はマスクを指差して疲れ果てたようにつぶやいた。
「まだ運命の門が少し開いただけですよ。これからもずっと我慢し続けるしかないですね」と私は少し悲観的に答えた。
「マジですか...もう疲れましたよ」と、彼は肩を落とした。
運命の門という表現は大袈裟かもしれないし、実際に感染が拡大しているのだからその通りかもしれない。
現時点ではクリスマスシーズンの影響が出ている試算になる。忘年会や大晦日の賑わいによる影響はこれから始まることだろう。
私なりのイメージとしては、デビルメイクライというゲームの冒頭で街を守っていた門だか結界だかが崩れて、そこからカタストロフィーが始まったような印象がある。
では、運命の門がこじ開けられて、外から何が侵入し、社会に恐れと懸念と混乱を撒き散らしているのだろうか。
答えは簡単だ。門がこじ開けられて入ってきたのは、鬼でも悪魔でもなく、人間の「我」と「欲」だった。
本来の敵は、普通の風邪のようにたやすく宿主の間を伝播し、しかもインフルエンザよりも重篤な症状を引き起こすことはあるが、発症しないこともあるというトリックスターのようなウイルス。
しかし、人々の言動がさらなる感染の拡大を招いた。
このウイルスについては完全な封じ込めが困難であり、それを行おうとすると社会機能や経済が凍結されてしまう。
店長には詳しく話さなかったが、可能な限り感染の拡大を抑止しながら時間を稼ぎ、その間にワクチンを実用化させ、高齢者や基礎疾患のある人たちを守るというストラテジーで行政は動いているのだろう。
都道府県や基礎自治体のレベルでは財政調整基金が大幅に減ってきている。もはや金のかかる対応は困難になり、市民に呼びかけることくらいしかできなくなる。
第二次緊急事態宣言を最後のチャンスと言い切った某県知事がいる。気持ちはわかるが、それは言い過ぎだな。
コロナは確かに強敵だが、最後に勝つのは人類だ。
しかし、大きな犠牲を出して勝つわけにもいかない。
世界的なパンデミックが始まった時には抗ウイルス薬の大規模なスクリーニング研究が展開され、いくつかは候補として注目されたが、実際の臨床では期待に添う効果は認められていない。もはや手詰まりか。
かといって、ワクチンで全てが解決するわけでもない。とりわけ呼吸器系のウイルスについてはワクチンの開発が難しい。
腕にワクチンを注射して誘導される免疫というものは、血液中にウイルスが入ってきた時にはその排除のために働く。
しかし、呼吸器の粘膜や上皮から感染するウイルスに対しては、その場所での免疫の誘導が必要になるわけだ。
ワクチンを腕に注射して気道や肺の免疫が高まるのかという課題がある。血液中で液性免疫の中心となる抗体と粘膜上に分泌される抗体は種類が違う。
細胞性免疫については少し話が違ってくるが、それでも注射で粘膜の免疫を高めるのは大変だ。
つまり、注射するワクチンの場合、粘膜での最前線でウイルスを防御するというよりも、身体の中にウイルスが入ってきた後でその排除を促すという形になる。
注射ではなく鼻から吸い込むワクチンもなくはないが、ノウハウが足りない。
長年の研究の歴史があるインフルエンザワクチンでさえ、ようやく実用化の目処が立ったくらいだ。
加えて、ワクチンによる集団免疫によって日本国内での感染の広がりを抑止するには、おそらく50%以上の人たちにワクチンを接種する必要があることだろう。
現時点での日本国内の感染者の割合は1%程度だと理解しているので、感染が伝播することによる集団免疫はあまり期待することができない。その場合にはワクチンで免疫を賦与する必要がある。
また、高齢者や基礎疾患がある人たちだけにワクチンを接種しても感染は拡大するので、症状が軽い若者たちにもワクチンを接種し、免疫がある人たちで社会を守る壁をつくることになる。
現在、米国を中心として展開されている戦略がこれに該当するわけだな。
しかし、そのスタイルが日本で通用するかどうか。
我が国は世界的にも希なくらいにワクチンの副作用に対してシビアだ。日本の行政というよりも、日本のマスコミが。
ワクチン自体の副作用であることが分からない段階で、日本のマスコミは鬼の首を取ったかのように大騒ぎして報道し、行政を批判し、結果として有望なワクチンでさえ世の中から撤退させることがある。
マスコミは様々な背景を有しながらも情報を伝えることが仕事であって、世の中をより平和にすることが仕事ではないのだなと思う。
時に社会を良くすることもあれば、往々にして社会に混乱を招くこともある。
運命の門から人間の我や欲が入り込んできたと表現してみたものの、実際の私は毎日のように人間の我や欲にまみれている。
別に新鮮さもないし、このような事態になることは分かっていた。
往復3時間以上の浦安から都内への電車通勤を続けていると、人間の本性を痛いほどに実感する。
人の思考は利己的で、都合が悪いことや難しいことについての思考を放棄したり、我や欲に向かって突っ走ることが普通なんだ。
パンデミックが始まってからすでに1年が経過し、感染症への対応においても、人々は深く考えることを放棄し、我と欲を抑えることができなくなってきた。
それらを抑えることがあるとすれば、自分自身に何らかのリスクが生じる時だな。
この年末は「大丈夫なんじゃねぇか?」と羽目を外してしまった人たちが多かったのではないか。
そして、クリスマスだ忘年会だと人が集まって感染拡大の機会を増やしてしまった。
結果、この有様だ。
社会に混乱を引き起こしたのは病原体ではあるけれど、その混乱を大きくしたのは人の我や欲だった。
緊急事態宣言が発出されても、一度外れてしまった箍が戻るかどうかは分からない。
ここまで感染が拡大しても、ピークアウトさせることは不可能ではない。しかし、ピークアウトしたとしても人の心がこの状態だと、さらに大きな波が押し寄せることだろう。
若者たちにおいては現実的な就職氷河期がやってきて、自分自身が就職活動の試験で落ち続けるまで、我と欲を優先して事態を直視することができないのかもしれないな。
もしくは、ブラックな職場に就職して逃げようにも、より良い転職先が見つからなくて途方に暮れるまで。
中高年たちは自らの収入が減ってしまったり、リストラの対象になったり、職場が倒産するまで。
強気な高齢者たちは自らが入院したり、病床を隔てる窓の向こうに家族が集まるまで。
虚無感が自分を包むような空気の中、年始に休暇を取った私は自室で黙々とロードバイクのメンテナンス作業を行っていた。
少しでも平時の習慣を取り戻したくなった。
医療機関が切迫しているといっても、民間の病院の中にはコロナ発症者を受け入れない施設が多かったりもする。
一方で、発症者を受け入れている公的な病院のリソースは枯渇しかけており、それをもって医療崩壊という状態になっていると私は理解している。
日本における人口当たりの病床数は、世界でも有数のスケールなのだが、それらを有効に使うことができているかどうかは分からない。
民間の医療機関でクラスターが発生すれば、日本のマスコミが大騒ぎして煽っているわけだから、感染者を受け入れたくないという病院の気持ちも分かる。
年末年始は車道が混み合っていて、自動車の運転が荒いドライバーが多いので、実走でのロードバイクによるサイクリングを自粛していた。
ようやく年が明けて休日にライドに出ようかと思っていたら、千葉県も緊急事態宣言の対象になった。
落車して病院に通うことも気がかりだが、一般道を走るタイプのサイクリストである私にとってはコンビニでのトイレ休憩という地味なところでの懸念もあったりする。
前回の緊急事態宣言下では、道端のコンビニが客にトイレを貸してくれなかったので、くどいようだが地味に困った。
河川敷のサイクリングロードのお世辞にも清潔とは言えないトイレを使う気にもなれないし、かといって道端で気にせずにやらかすような気力もない。
しかし、「ロードバイクに乗れない!辛い!辛い!」と大人げなく嘆く気持ちも私にはない。
この状況を1年くらい我慢することで事態が解決し、それによって以前のように気楽にロードバイクの実走に出かけることができるのであれば考え方も違ってくるが、おそらくこの状態がずっと続く。
状況に対応してロードバイクの楽しみ方を変えよう。ポタリングだっていいじゃないか。乗り続けることができるのなら。
愛車を整備していたら、少しずつ前向きな気分になってきた。
ロードバイクを趣味にしているサイクリストの中には、愛車の整備を自分で全く行うことができない人たちがいる。
せいぜい、レンチでボルトを回してハンドルやサドルの位置を調整するレベル。自分でブレーキやシフトのケーブルを交換することさえできない人たちだが、安全を考えるとその方針も理解しうる。
他方、フレームやパーツを個別に用意して、自分で1台のロードバイクを組み上げることができるサイクリストもいる。私の場合にはこのスタイルに該当する。
サイクルショップにロードバイクのオーバーホールを注文すると、通常は数万円の整備費がかかり、それらに加えてパーツが消耗している場合には実費がかかる。
私の大切な愛車は他者にいじられたくないという気持ちがあり、またショップのスタッフや常連たちからのウンチクを聞きたくないという気持ちもあって、自分でオーバーホールを行うことにしている。
10年以上前に初めて自分でオーバーホールを行った時にはとても大変で、実際には1週間くらいかかった。
しかし、最近では手慣れたもので、自宅の大掃除のような感覚で1日目にパーツを交換し、2日目に調整するという流れだ。
ショップで数万円の整備費を支払った場合と、自分でチェーンやスプロケット、ケーブル、プーリー、チェーンリングなどを全て交換した場合で同じくらいの金額だろうか。
前回のオーバーホールは2年前に実施したのだが、昨年はあまりサイクリングに出かけることができなかったのでパーツの消耗が少ない。
念のため、フレーム単体になるまで愛車をバラバラに分解し、フレームの中の錆の状態もチェックする。私の愛車はクロモリ合金製である上にサイクリングコースは海沿いが多い。
今回のオーバーホールでは、以前から気になっていたハンドルバーについても新しい製品に交換することにした。
クロモリバイクといえばシャロータイプだろうというこだわりがあったので、ドロップ部分が丸く加工されたハンドルバーを使用してきた。
しかしながら、以前のように下ハンドルを握って前傾で走る機会が減り、さらにパンデミックにおいては落車しない乗り方がより大切だと感じたので、アナトミックタイプのハンドルバーに交換することにした。
シャロータイプのハンドルバーでは、STIを取り付けるとブラケットの位置が下がり、ポジションの前傾が深くなる。
そこで、上ハンドルとブラケットの位置が同じような高さになるアナトミックタイプのハンドルバーを購入し、ブラケットの位置を高くすることでアップライトのポジションを取ることにした。
上体の前傾が緩くなるので風圧は増えるはずだが、サイクリングの際の視界はより広がることだろう。
これからの具体的なサイクルライフとしては、スピンバイクによるインドアトレーニングが主体になることは間違いないが、実走を自粛していたらあと数年間は自粛し続けることになるだろう。
往復50kmくらいのコースをいくつか用意して、短時間の実走に出かけて帰ってくる感じでロードバイクに乗り続けることにした。走り足りない分はスピンバイクで補おう。
私は心身の健康の維持と趣味のためにロードバイクに乗り続けている。
ロードバイクの実走を我慢し続けることで精神的あるいは肉体的な負荷が高まり、それによって心身の健康が損なわれるのであれば本末転倒ではないかと思ったりもする。
ブロンプトンのような折り畳みのミニベロを買ってのんびりと走るというスタイルも考えてみたのだが、すでに街乗り用のミニベロを気に入って使っているので必要もないな。
やはりロードバイクにはミニベロにはない爽快感と満足感がある。
2月くらいの極寒の日にロードバイクに乗って、帰り道にラーメンを食べていた日常が懐かしい。
パンデミックの前の生活に完全に戻るには、あと10年くらいかかるかもしれないが、せめてライドの後のラーメンを楽しむことができる日々を望む。
これらは私の我と欲かもしれないが。