言っても言わなくてもいい言葉に碇をつけて海に沈める
元旦から妻との間で緊張が高まることでストレスのベースラインが上がり、通勤地獄がさらに厳しい。
HPの残量が減っている状態から朝が始まり、電車通勤でほぼゼロになる。
妻が義実家に長居して戻ってくると、夫がいても気にすることなく聞き触りの悪い方言を喋り始める。
なぜ私にとって聞き触りが悪いのかというと、その方言は妻の本来の話し方ではないからだ。
浦安出身の妻が浦安訛りで話してくれれば、私はその話し方をむしろ好むことだろう。それは大切な独自性のひとつだと思う。
しかし、妻が義実家で再び頭に焼き付けてくる話し方は、義母の故郷の方言だ。まあそれも妻の独自性なのかもしれないが、義母の言葉が移るくらいに妻と義母との会話が多いということだ。
それが何を意味するかというと、せっかく私と妻が家庭を持って人間関係を熟成している最中なのに、義母によって妻の精神が上書きされて戻ってくる感じがする。
いや、むしろ義母の人格が妻の脳の中で同居している感じだ。新婚時代の毎晩21時に我が家に電話をかけてきた義母の記憶が蘇る。
そして、家中に響き渡って私の脳にダメージを加える甲高い大声。これは義母の特徴だ。
結婚前は妻のように穏やかで静かな女性が、まさかこのような大声を出すとは夢にも思わなかった。
妻が義母の方言を喋り始めると、まるで義母が自宅にいるような気持ちがして私は顔をしかめ、高性能な耳栓を取り付けて自室に閉じこもることにしている。
義実家が私の家庭に押し寄せてきたような感覚があり、動悸が激しくなったり目眩がする。同時に、私の家庭というものが義実家のサテライトに過ぎないという現実を認識する。
また、妻が義実家に長居して戻ってくると、夫婦間でマウントを取ろうとすることが多い。
これは義実家のスタイルで、義母が家庭を管理して、義父が従うという形だ。
義母が妻に何か言ったのかもしれないし、妻の深層心理にかけられた鎖のような思考が戻るのかもしれない。
しかし、私は義父と性格が違うし、他者から管理されることを極端に嫌う。
私の人間関係は零か百で間がない。自らを管理しようとする人とのコミュニケーションを断つ性質がある。
このままだと、いつか妻が激怒して夫婦喧嘩だな。子供たちの手前、何とかせねば。
新浦安駅に向かう途中の浦安市内は相変わらず人が多い。自動車もひっきりなしに走っている。
住居を作りすぎなんだよ。
ディベロッパーや市内の業者との関係もあるだろうけれど、地方行政がレギュレーションをかけないと、軍艦島のようになるぞ。というか、すでになっているではないか。
だが、衝動性や多動性が高い人たちにとっては、この騒がしい街は飽きなくて最高に楽しい場所なのだろう。
確かに新町には落ち着きのない人が多い。先日、勢い余って特定してしまった浦安の大ファンに至っては尋常ではないテンションだ。友人になれそうにない。
元町の人たちが新町の人たちと交流すると、何だか違う人たちだなと思うことだろう。
新町の住民である私から見ても、この町は何かがおかしい。景観は落ち着いているが、住民に落ち着きが足りない。とにかくせっかちで効率重視の唯我独尊。
赤信号なんて無視して歩道を自転車で疾走していく。
ああ嫌だ。早く引っ越したい。
混み合った電車で動悸に耐え、乗り換えようとスマホゾンビをかき分けてホームに並んだところ、50代のサラリーマンの中年男性が行列を無視して先頭に割り込んだ。
スーツをだらしなく着崩し、横に立っている若い女性の胸や足を品のない視線で凝視している。
それにしても下劣な表情だ。マスクから鼻が出ている。
通勤中に発情しているように思える中年男性の股間を後ろから蹴り上げると間違いなく私が捕まるし、マナー違反だと注意するだけの価値もない。
また、よくよく考えてみると、このオッサンの迷惑行為を取り締まる法的な根拠は見当たらない。
彼はそれを分っていてギリギリのラインでマナーやモラルを捨てているということか。
問題は、このような人と同じ乗り物で移動せざるをえないことだ。在来線の指定席のようなものが通勤経路にあったなら、私は何倍もの追加料金を払ってでも利用することだろう。
私の収入においては、職場の近くに住むことを前提として上乗せされている感があり、同僚たちは自転車で通える範囲に住んでいることが多い。
私の場合には、妻が浦安市の出身ということでこの街に引っ張り込まれたという経緯が大きいのだが、もうひとつの理由があった。
それは、私の世帯が子育てに入った時には都内の保育施設に全く空きがなく、夫婦共働きを維持するためには近隣の自治体に住まわざるをえなかったということだ。
都内の保育施設は待機児童が多かったが、浦安市の場合には4月入園であればなんとかなった。
そして、私は健康を害するくらいに苦手な電車通勤の地獄を10年以上も続けることになった。毎日、往復で3時間以上も苦痛を受けながら時間を無意味に削られている。
電車や駅の中は人の本性が丸出しになったカオティックな空間だ。
先ほどのオッサンだけではなく、このような人がよく会社で働くことができているなと感じる人を見かけることばかりだ。
すると、今度は大声で騒ぐ20代の男子大学生が電車に乗り込んできた。通路に伸ばした足を組み、まともに座っていられないようだ。周りの迷惑を考えずに大笑いしている。
このような若者たちだって、就職のための面接試験では行儀よくドアを開け、背筋を伸ばして座るのだろう。
これからの就活は厚い氷河で覆われる。人気企業の新規枠は激戦だ。今のうちに笑っておけばいい。そのうち笑顔が消え去るから。
ああ、それにしても長時間の電車通勤が辛い。ストレスで脳が壊れそうだ。というか、一度は壊れかけた。
「浦安は都内までほんの20分!」という詭弁を撒き散らす人がいて、たぶん不動産関連の投資をやって副業で金を稼いでいるのかもしれないが、信用に値しない。
浦安から都内の職場に通う場合には往復2時間でも短いくらいだと思う。私は3時間を超えている。
浦安から都内への非常に不快で不便な電車通勤に耐えていたら、目眩だけでなく脳が痺れる感じがした。これはかなり深刻だ。
脳の扁桃体辺りの異常放電か、それとも神経伝達物質の多寡なのか。
脳が痺れるくらいの状態を耐え続けると、今度は頻繁に耳鳴りがするようなステージに入る。それをさらに我慢していると、閃輝暗点によって視界がサチュレーションを起こした後で強烈な偏頭痛に襲われる。
さらにそれを我慢すると、少しずつ感情が減っていき、最後はバーンアウトを起こす。
これが都内在住であれば、ロードバイクに乗って爽快に通勤することができるのだから、天と地ほどの違いがある。
そういえば、感覚過敏を有していると、普通の人よりもストレスを受ける程度が大きいらしく、自らの脳がただの身体の一部だという印象がある。
重いものを運び続けると腰が痛くなり、歩き続けると足が痛くなるようなものだな。
この状況の自分の脳をファンクショナルMRIで眺めてみたい。戦闘中の兵士のような画像が認められるかもしれない。
帰りの電車は頭にネズミの耳を付けた人たちに巻き込まれることだろう。朝の段階ですでに気が重い。
浦安なんかに引っ越すんじゃなかった。
今年に入ってすでに約100回目の嘆きだ。適応障害に近いな。
このようにフラストレーションの塊になっている時に心掛けることがある。
それは、「言葉の碇」だな。
オリジナルは釈迦が発したと言われているフレーズだったと理解している。
一連の録からも明らかだが、私は仏教を信仰していない。仏も信じていないし、理解してもいない。
助けようとした人たちが若くして亡くなるたびに、神も仏もあったものではないと思う。あまりに残酷じゃないかと。
しかし、禅や真言といった仏教の方法論を、現代の脳科学や心理学によって説明するとどのような解釈になるのかについては関心がある。
禅から宗教色を抜いたマインドフルネスが米国の巨大企業で取り入れられているように、長い歴史の中で蓄積された智慧が仏教に含まれている気がする。
それらと同等に興味深いことは、高僧たちが残した数々の名言だ。
それらの名言には宗教色がほとんど認められず、生きる上でのヒントとなりそうなフレーズが具体的かつ分かりやすく説明されている。
そこに仏が入ってくると途端に抽象的な宗教になってしまうのだが、高僧たちの名言には、仏といった超自然的な存在が含まれないことが多い。
むしろ、自らの内面や生き方、さらには社会の変遷を理詰めで解釈しようとしたように思える。
それらは宗教というよりも哲学、現代ならば心理学や社会学といった分野に該当する。
当時の彼らは、宗教家でもあり研究者のような存在だったのかもしれないな。
彼らを求道者と表現すれば、求道者の英訳はInvestigatorだ。
Investigatorを辞書で逆引きして和訳すれば研究者という意味になる。ひとつのテーマについて考え続けるところは確かに似ているな。
求道者のようにストイックで聡明な僧侶が現代にいるかどうかは別として。
仮に、医学分野で革新的な延命技術が確立され、私たちの寿命が500年くらいになったとする。
50年でもすでに長く感じるが、その10倍も生きて考え続ければ、様々な気付きや学びがあることだろう。
しかしながら、まあ普通に考えれば寿命に逆らうことは生命の本質に反している。
心拍数に基づいて様々な動物の寿命を計算すると、現在の人類の生存期間でさえ長寿になっていることが分かる。
脳の情報を全てエクスポートしてクラウド上に移し替える時代は来るかもしれないが、それが本人である確証はない。本人であったならまさに無間地獄になるが。
ということで、寿命に限りがある人類が個々に考え、気付き、学ぶ内容は限られている。
だが、ずっと昔の人たちが同じように考えて、次世代に情報を残してくれていたとすれば、それらは寿命という制約から解放される。
多くの学問や科学は、その活動の蓄積に他ならない。スマホひとつにしても、その開発には数え切れない人たちの努力が詰まっている。だが、それらの歴史は浅い。せいぜい数百年という範囲だろう。
では、人の内的な世界についての理解や知恵はどうなのか。目に見える形で産業や科学が進歩するよりも遙か昔から人類は生きていたわけだ。
その長い歴史の間に、「生きるとは何か?」とか「自分とは何か?」といった内的なテーマについてひたすら考え続け、辿り着いた結論やヒントが文字として残されていれば、その後に生きる人たちの貴重な情報となる。
自分が生きている時間よりも遥かに長く人間が考え続けたわけだから。
「言葉の碇」とか「ことばの碇」という考え方は、釈迦が発して弟子が書き記したものという記録が残されている。歴史的に考えると2000年以上前の話だ。
書籍を読むとこのフレーズが紹介されていたりもするが、ネットで検索しても日本語のサイトがヒットしない。
エヴァンゲリオンの碇ゲンドウがヒットしたりもする。
メディアがフレーズを紹介し、アフィリエイト職人のブロガーがせっせと金太郎飴のような記事を量産する日本のネット事情においては、メディアもブロガーも本を読まないからだろうか。
インド出身の人たちの中には、人間離れした頭脳を持った人が珍しくなくて、複雑な計算式を頭の中で解いてしまったりもする。おそらく彼も凄まじい頭脳を持っていたことだろう。
しかし、釈迦に説法ではなく、釈迦が説法する時には、相手に合せて分かりやすく言葉を選んだそうだ。
しかも、抽象的な概念が仏教に取り込まれたのは、釈迦よりもずっと後のことだ。彼自身は宗教家ではなくて哲学者や思想家に該当したのではないかと私は考えている。
「言葉の碇」についても分かりやすい。碇とは船を停泊させるイカリのこと。そのままだな。「言葉の碇」のルールはたった3つ。
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①自分が言うべきことは、しっかりと相手に対して言う。
②言うべきではないことは、言葉に碇を付けて沈める。
③言っても言わなくてもいい言葉も碇を付けて沈める。
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これだけのルールなのだが、非常に分かりやすい上に実行力がある。
②と③はイメージなので、川でも海でも構わないのだろう。
碇が水の中に沈む姿は、なぜか強烈に頭の中で想像することができる。
喉まで出かかった言葉を何のイメージもなしに飲み込むことは大変だが、その言葉に碇を付けて意識の外に落とし込むイメージを持つと、とても楽に発言をコントロールすることができる。
当然だが、「言葉の碇」が生きる中の全てに適用しうるわけではないし、ライフスタイルによっても効果が違ってくることだろう。
例えば、様々な役所に勤めている事務職の人たちは、①の言うべきことをしっかりと言わない方が責任を回避して出世することができたりもするだろう。
その話し方が、一般人から見ると「役人」に見えるかもしれないが、あまりにはっきりと発言する人は重要な部署から外されて衛星軌道に乗ってしまったりもする。
また、男性が女性と交際する時には、③の言っても言わなくてもいいことを用意しておかないと、コミュニケーションをとることが難しいことだろう。
交際を考えている女性を目の前にして、必要最小限の会話しかせず、何の前触れもなしに「好きです。結婚してください!」と切り出したら、間違いなく危ない人だ。昭和の時代はこの方法が受け入れられたこともあるらしいが。
実は、「言葉の碇」は私自身の経験を後方視的に振り返る中で、それに合ったフレーズを探している時に巡り会った。そのフレーズを発したのが釈迦だったというだけの話だ。
私がバーンアウトを経験して辛いことが多かったが、個人的には新たな発見もあった。
不幸中の幸いどころか、むしろバーンアウトを経験して良かったと思えること。
それは、物心付いた頃から苦しんでいた対人的なコミュニケーションだった。
自閉症スペクトラム症(ASD)あるいはギフテッドのような先天的な性質を持つ人たちは、その場の空気を読まずに発言して場を凍らせたり、敵を増やしてしまったりもする。
私がそれらに該当するかどうかは分からないが、ASDのネット診断を使うと間違いなく該当してしまうし、感覚過敏も有している。だが、医師が診断しなければ確定しないし、その予定もない。
以前、ASDに苦しむ若い女性の動画が公開されていたが、「なんだ、この程度か」と思った。
もちろん本人には大きな苦しみなのだが、この動画の内容は私の日常生活の一部でしかないと感じた。
その状況で通勤地獄に耐え、職場で働き、子供たちを育てているのだから、疲れても仕方がないのだろう。
しかし、怪我の功名とでも言おうか、バーンアウトで感情を失うと、言うべきことも、言うべきではないことも、言っても言わなくてもいいことも、すべて碇が付けられて海の中に沈んでしまう状態だった。
職場で働く上で、もしくは家庭を維持する上では、必要最小限の発言は必要となる。これが言うべきことに該当するのだろう。
他方、言うべきではないことも、言っても言わなくてもいいことも、自動で碇が取り付けられて意識から外れてしまう。
自分のアバターのようなものを操作する気持ちで生き続けていたが、それによって敵が減ってきた。とりわけ職場での人間関係が楽になった。
自分で意識して話し方を変えることは思ったよりも難しい。ほぼ強制的に脳のシステムがダウンしている状態だったので、逆にその姿をデフォルトにすればいいのだと思った。
バーンアウトから回復してくると、当然だが感情が戻ってくるので、言葉の使い方についても感情による影響を受ける。
その度に、「言葉の碇」というフレーズを思い出すことにしている。
奇遇にも、私の愛車のクロモリロードバイクはブリヂストン社製の「Anchor」という銘柄なので、ロードバイクを眺めるたびに「碇」の単語を目にすることになる。
さて、ここからが言葉の碇の実用例になるわけだが、新年早々に始まった夫婦の間での緊張の高まりを回避するには、もちろんだが口論を避ける必要がある。
うちの妻に限った話ではないと思うが、既婚女性が家庭で苛つきを蓄積させた場合、夫が起点となった「キレるポイント」を探すようなところがありはしないだろうか。
口論のきっかけは何でも構わなくて、夫が何気なく言ったことに妻が噛みついて、そこで夫が反論し、過去の事例が引用されて夫婦喧嘩の火が燃え盛るというメカニズムなのだろう。
共働きで子育てを続けていれば、夫婦ともに大量の燃料が備蓄されている。
夫としても家庭で不満があると、妻に対して言いたいことがあるかもしれないが、往々にして妻はその発言の意図を理解しなかったりもする。
ということで、挨拶であったり感謝であったり、そのような必要最小限のことは言うが、言っても言わなくてもいいことには全て碇を付けて無意識の海に沈めることにした。それ以外は今までと同じ。
女性に限った話ではないと思うが、夫があれこれと指摘したり批判したり、建設的に話し合おうとするよりも、「言っても言わなくてもいい」という言葉を閉じてしまった方がインパクトがあるようだ。
言っても言わなくてもいい話が、女性同士のコミュニケーションの要素になっているからだろうか。うちの妻も神妙になる。
夫が唐突に激怒したり、不倫に走ったり、押印した離婚届を突きつけたり、自室で首を吊ったりと、そういった破滅的な雰囲気を感じるのかもしれないな。
他方、私としては釈迦の教えを守り、妻に対して「キレるポイント」を提供しないだけの話だ。
妻には妻の考えがあり、立場や都合もある。
義実家が苦手だと私が思っていても、妻にとっては本物の家族なわけだ。
夫婦がザイルパートナーとして人生という長い山を登るのだから、それなりの配慮も必要になる。
それと、10年以上が経過して妻の精神構造をようやく理解してきたのだが、彼女が怒り始める際にはプライマーとなって着火する要素が必要になっているようだ。
数日にわたって言葉の碇をより意識して過ごしているうちに、妻の脳にかけられた義実家のシステムが抜けてきたようで、いつもの落ち着いた妻に戻ってきた。全く私にとっては大変な存在だな。
義実家に碇を付けて私の思考から沈めようなんてことを考えると、本当に大地震がやってきて液状化で街全体が沈みそうなので考えないようにしている。
通勤地獄が解消されない状態で家庭が荒れると私のダメージが大きいので、これで良かったのだと思う。
今思ったのだけれど、言っても言わなくてもいいことに碇を付けて海に沈めながら生活している私だが、どうやら現実的にそれらを沈めているのは海ではなかったらしい。
このブログの記事がどうして長文になってしまうのか、その理由がようやく分かった。