2021/01/03

「わたしはわたし、あなたじゃないもの」というフレーズの由来

かつて、エヴァンゲリオンの登場人物である綾波レイがこのミステリアスなフレーズをつぶやき、多くのファンの心に突き刺さった。それは彼女の孤独な生活や精神構造に悲哀を感じ取ったからかもしれないし、自らの境遇とを照らし合わせた共感なのかもしれないが、おそらくこの言葉にはオリジナルがある。


本日はアニメの話のようだが心理学の話。一般教養の講義で大学生たちが居眠りしながら聞くような内容だな。

様々なアニメで登場する名言の中には、昔の賢人が残した言葉のオマージュが含まれていることが珍しくない。

「わたしはわたし、あなたじゃない」という綾波レイのセリフにはオリジナルがあって、どう考えてもパールズの言葉だろう。

フレデリック・S・パールズはドイツの精神医学者で、ユダヤ人だったと記憶している。

エヴァンゲリオンの作中では死海文書といったキーワードも登場し、キリスト教というよりもユダヤ教のテイストがある。

また、惣流・アスカ・ラングレーはEVA弐号機とドイツ語でコンタクトをとっていたし、あまり深く調べたことはないが、この作品の世界観の中ではユダヤやドイツに関連したものが多いように感じる。

パールズはゲシュタルト療法の創始者であって、あまり有名ではないかもしれないが日本国内でもゲシュタルト療法を取り扱っている医師やカウンセラーがいたりもする。

生きることに苦労している私にとって、精神医学や心理学分野の情報はとても興味深く、その中のひとつにゲシュタルト療法があった。

世の中には物事をあまり深く考えない人たちが珍しくなくて、心理学と精神医学と宗教とスピリチュアルをごちゃ混ぜに理解している場合がある。

そのような区別さえできない人たちとの間でどのようなコミュニケーションをとればいいのかというと、より俗物的なテーマの方が話が通じたりもする。

どこどこの何とかという料理が旨いとか、今度のボーナスでどこどこの何とかという製品を買いたいとか。

さらに、人類の最大の叡智のひとつである文字を読まずにイラストや写真ばかりを追う人に知的な議論を求めるのは困難なので、テキストを読まない人を私は相手にしないことにしている。

その程度の単純な思考しか持ち合わせていない人とのコンタクトは疲れる。

さらに、一言で宗教といっても、それを信仰の対象とする人もいれば、社会的あるいは歴史的な見地から学問として理解しようとする人もいる。

加えて、宗教の体裁を取りながら多くの人々を悪い方向にコントロールするような活動はカルトと呼ばれていて、古くから親しまれている宗教とカルトは違う。しかし、それらを混同している人もいる。

まあ結局、人が何に関心を持とうと人の自由なわけで、それが人類の多様性でもあるのだなと感じる。

けれど、人は生きていればいつかは死がやってくる。

その段階まで物事を深く考えず、自分の生き方と死に方について向き合って来なかった人たちは大変だなと思う。

いきなり現実がやってきて頭が真っ白になることだろう。頑張って考えればいい。残り時間はあとわずかだ。

もとい、ゲシュタルト崩壊とか、そういった怖い響きがあるゲシュタルトという単語だが、日本語に訳すと「全体像」とか「統合像」といった意味になるだろうか。

ゲシュタルト療法は心理学や哲学といった方面をベースとして人の心の疲れを取り去り、調整する方法論のひとつだと私は理解している。

しかしながら、ネットでゲシュタルト療法について検索すると、それが何かを分かりやすく説明しているサイトが見当たらない。

「今ここ」とか「気づきの流れ」といった抽象的な表現が多くて理解に苦しむ。サービスを利用させるためにわざとやっているのか。

その人たちはゲシュタルト療法の原文を読んだことはあるのだろうか。

具体的あるいは論理的にゲシュタルト療法を説明してくれるとありがたいのだが、これでは宗教にも似た印象を感じざるをえない。

「実際に体験してみないと分からない」という文言を明記しているサイトさえある。私はこのような説明に大きな違和感を受ける。

この印象を何に例えればいいのか...そう、サイクリストならば多くが知っている「やまめ乗り」というポジションを説明している人たちに似ている。

やまめ乗りを提唱している人の書籍も読んだが、何を言っているのかよく分からなかった。文章に論理性や具体性が認められなかったからだ。

その研修に参加した人たちのブログも読んでみたが、やはり文章としてこのポジションを分かりやすく説明している人がほとんどいない。

結果、ロードバイクのステムを長くして身体を伸ばせばいいのだろうと前傾姿勢を取り過ぎてしまい、股間を痛めてしまう人がいたりもする。

この乗り方を分かりやすく説明すれば、背中を丸く曲げるのではなくて、ヘソと尾骨の間を曲げて前傾を取るポジションだと私は理解している。

これによって、大腿骨の可動部位が変化し、ペダルに対してダイレクトに筋力が伝わるというわけだ。

背中を丸めた場合よりもハンドルに手が届きやすくなるだけでなく、ステムが寸止まりになってしまうので長めのステムが必要になる。なので、ステムの長さは結果でしかない。

しかし、ネット上に広がっているやまめ乗りのスタイルは、股間を中心に前傾をとっているように見えるわけで、見よう見まねでやまめ乗りをすると股間を痛める。

では、やまめ乗りを提唱している人の説明がなぜ分かりにくいのかというと、ひとつに本人の文章力というか、論理性の乏しさがあると思う。動画で説明するシーンでも抽象的な説明が多い。

加えて、人間の関節の柔軟性や大きさはそれぞれなわけで、説明だけではなくて本人に合わせた至適化が必要になることだろう。これがすんなりと理解しえない二つ目の理由だな。

だが、やまめ乗りを教えることで生計を立てている人としては、文章や動画だけでこの乗り方を理解することができるようになると商売にならない。

むしろ、それを行うと楽に速く走ることができるけれど、その専門家のレクチャーがないと体得することが難しいという形の方がビジネスになるというわけだ。

さて、ゲシュタルト療法について考えてみると、方法は違うかもしれないが、そのベースにあるものは禅やマインドフルネスに似ている気がする。というか、禅そのものではないかと感じられる部分も見受けられる。

人が心身のバランスを崩すと、自らの感覚に加えて、葛藤や欲求、過去の記憶、将来の展望など、様々な内的要素がバラバラになって飛散する。

人の脳内において情報がネットワークを逸脱すると、それらが混乱してループし始める。

人が悩みを持っている時に、同じことが何度も思い浮かんだり、頭の上に黒く淀んだ雲のようなものが乗っかっているように感じるのは、別に悪霊が取り憑いたわけでもなんでもない。

脳内の情報伝達が混乱したり、エラーが生じていると解釈すると分かりやすい。

そこで、現時点での自分を客観的に捉え、それをベースに思考を組み上げ、脳内の情報を整理するという方法論が古来から伝えられてきた。

自らの頭の中でそれを理詰めに実行する方法が哲学であって、自らの外に絶対的な存在を置いて自らに取り込む方法が宗教だと私なりに理解している。

後者の場合には、その絶対的な存在が神や仏に該当し、存在を信じるか否かはそれぞれの人の自由に任されている。

なぜ人の自由に任されているのかというと、その存在を認識しているのは人の脳だからだと思う。その人が脳内で神の存在を認識していたとすれば、確かにその人の脳内では神が存在しているという理解になる。

他者が頭の中で何を考えようとその人の自由なわけで、日本国憲法にも信仰の自由が明記されている。

私は特定の宗教を信仰しておらず、限りなく無神論者に近い。だが、完全な無神論者だと言い切ってしまうと、憲法で保障された信仰の自由まで否定してしまう気がするので限りなくという表現を使っている。

他方、哲学は宗教とは異なっていて、その内容は真理を追究する知的な活動と表現しうる。

日本を含めて、博士号を有する人たちは自らの名前を英文で表記した後に「Ph.D.」という文字を付加することができる。

これは称号というよりも学位なのだが、海外では医師だけではなく博士号取得者が自らをドクターと名乗ることができる。

そのPh.D.とは「Doctor of Philosophy」、すなわち哲学博士という意味になる。どうして哲学博士なのかというと、哲学が様々な学問の礎になっているからなのだろう。

では、ゲシュタルト療法が宗教ではなくて、哲学に源流がある学問に由来するのであれば、どうして理詰めで他者に説明することが難しいのだろうと、私は疑問に思った。

なぜなら、私の母親代わりだった祖母は熱心な曹洞宗の仏教徒だったので、幼き日の私はオンサイトで禅を学んでいたわけで、その背景からゲシュタルト療法を眺めると、この取り組みは哲学だけではなくて宗教的な活動が取り入れられていると感じたからだ。

宗教色を抜いた上で「禅とは何か?」と考えてみると、確かに文章で説明することは難しい。

座って足を組んで静かにしている姿が禅なのかというと、それはやまめ乗りと同じで外から見た形でしかない。

それぞれの人たちが有している内的なイメージに違いがあるかもしれないし、学問として論理づけるとどのような説明になるのだろう。

なるほど、これは非常に興味深い。

フレデリック・S・パールズについて調べてみると、確かに禅の概念を取り入れた軌跡が認められる。

パールズ本人が来日して京都で禅の修行までやっていたそうだから、間違いないな。

やはりそうか。

だから、日本でゲシュタルト療法を広めている人たちが、この方法を文章で上手く説明することができないのだろう。

パールズとしては学問として提唱した内容ではあるけれど、それを取り入れようと体得した日本人が学問としては完全に咀嚼することができていないのではないだろうか。

その人たちは、ゲシュタルト療法を論理立てて説明することができないのに、なぜかそれを実行することができている。その理由を理解していないことだろう。

昔の学問分野においては情報が足りずに、学問と宗教が混在していたこともあるし、まさか自らの心理学のバックボーンに日本の仏教が取り入れられていたことがネットで公開される将来がやってくるなるなんて、パールズ自身が想像もしていなかったはずだ。

西洋人であるパールズが部分的に日本の禅を取り入れることで確立した心理学的な理論がゲシュタルト療法として日本に逆輸入され、それを広めようとする日本人が上手く説明することができないというのも興味深い話だ。

ところで、冒頭のエヴァンゲリオンの綾波レイの「わたしはわたし、あなたじゃないもの」という感じのフレーズの話に戻ると、これは明らかにパールズによって綴られた「ゲシュタルトの祈り」という詩のオマージュだな。

I do my thing and you do your thing. 

I am not in this world to live up to your expectations,

And you are not in this world to live up to mine.

You are you, and I am I,

and if by chance we find each other, it's beautiful.

If not, it can't be helped.

この詩の中の「You are you, and I am I」を綾波レイ風に訳すと、「わたしはわたし、あなたじゃないもの」という表現になるというわけか。

そういえば、綾波が培養液の中で、現在の自分はどのような存在なのかを思考しているシーンがあったな。「この人知っている。碇指令」という場面。

単なる形而上学的な問いのループに嵌まったのかと思っていたが、もしかすると数あるクローンのひとりであったはずの綾波は自我を有し、ゲシュタルト療法のような活動で自分の存在を確かめていたという設定なのかもしれないな。

では、「You are you, and I am I」というフレーズは、本当にパールズのオリジナルなのだろうか。

私は違うと思う。

仏教を学問として見た場合、「自分は自分」という表現を好んだ高僧は時宗の開祖である一遍上人だと理解している。

ゲシュタルトの祈りが世に生まれる600年以上前だな。

人はひとりで生まれて、ひとりで死ぬ。どこまで生きても人はひとりだと悟ることは寂しくも感じるが、それが人としての本来の姿だと思えば、生きていることの苦しみが減る。

しかし、この考えが一遍上人の完全なるオリジナルなのかというと判断が難しい。

なぜなら、すでに釈迦が「サイの角のようにひとりで歩みなさい」というフレーズを残している。歴史をさらに遡って紀元前400年くらい前のことだ。

釈迦がその前の誰かから学んだとすれば、もはや時間を遡って考えることは不可能だな。

いずれにせよ、自分と向き合い、他者に依存しすぎないという心構えは仏教では広く浸透しているし、パールズがその考えに感化されて自らの学術的な理論に組み込んだと考えても矛盾はない。

「わたしはわたし、あなたじゃない」という方向に人々の思考が偏りすぎると社会が崩壊しかねないが、人の悩みの多くが人間関係だったりもする。

その苦しみを緩和する上で大切な心構えが頭の中で他者を切り離し、自分の足を地に着けて構えることだとすれば理解しやすい。

「どこまでが自分で、どこまでが他者なのか」という判別は普通に生活していれば他愛もないことだ。もちろんだが外から見た場合の自他は明らかに違う。

だが、人の脳内での思考においては、必ずしも自分と他者が明確に区分されているわけではなくて、混ざり合ったような状態で情報が点在しているのだろう。

自分が期待したことが他者に伝わっていなかったり、他者が期待したことを自分が理解していなかったりもする。

そこで、自分の存在を明確に保ち、他者に期待せずに生きれば、生きることの苦労も減るという解釈だな。

これは職場だけではなくて、妻や子供たちとの接し方においても重要なのではないかと思う。

ケチャップうどんで始まった私の元旦だが、「私は私、妻は妻」と開き直って怒りを静めることにした。

妻から見れば、私の口数が減っただけで問題がないと思ったことだろう。

夫婦喧嘩で消耗するよりも、もはや変わらないだろうと期待せずに時間を過ごすということも大切な心構えだと信じたい。

この心構えは私自身の感情を制御するだけではなくて、理不尽とも思える言動が妻から私に向かってきた時にも重宝する。

妻としては自分が考えていることが正しいと思っていて、私も同じように考えることを期待しているはずだ。

ところが、私は私なので違う意見がある。

どうして分からないのだと妻は不機嫌になるのだが、サイの角ではない別の2本の角を頭に立て、感情を爆発させることは無意味だ。

そこまで気が合う二人が結婚したわけではないし、妻はずっと猫を被っていた。そもそも波長が合っていないのだから分かり合えるはずもない。

そのような軋轢が家庭でのストレスを蓄積させる。

私の頭の中では綾波レイとゲシュタルトの祈りが紐付いてしまってはいるが、何か感情が波だった時には自分自身に思考を戻し、自分と他者との境界を意識するようにしている。

それが必ずしも奏功しない時だってありはする。

パールズの言葉を借りれば、「We find each other, it's beautiful. If not, it can't be helped.」ということだ。

日本でゲシュタルト療法を広めている人たちには、この文章を捻じ曲げてポジティブに解釈している場合がある。

それは間違いだと思うし、逆輸入したゲシュタルト療法について経緯を深く学んでいないことがよく分かる。

ラーメンやクリスマスのように日本独自の進化を促すマシネリーでもあるが、文法に従って正しく訳すべきだ。

パールズに仏教の心得があったとすれば、「どうしようもない」という和訳が正しい。それは諦観の境地だ。

私も家庭で諦観に至っている。