静かな年末にヨレヨレのレースカーテンを眺めてしみじみと
今年は心掛けようと思いながら失敗したことだけれど、来年こそは、それぞれの録を適度な長さで区切るようにしたい。
ついつい文章が長くなって、書いた本人の読む気が失せるエントリーばかりだった。
さて、夫婦の緊張感があまりに高まった時の年末では、年越しソバに海老の天ぷらを乗せるか乗せないかで夫婦喧嘩になり、妻がブチ切れたことまであった。
しかし、今年の年末は大掃除の担当を決めなくても夫婦ともに粛々と動き始め、大晦日の前には大方が片付いた。
「コロナさえなかったら、今年はとても良い年だったんだけれどな」
「台風が少なかったし、寒さも程々だったよね」
「野菜の価格も安くなったし」
「それ、半分はコロナの影響だよね」
「電車も空いてたし」
「それ、コロナの影響だよね」
「ディズニーの客も少なかったし」
「それ、間違いなくコロナの影響だよね」
年末の大掃除の最中に夫婦で漫才のような掛け合いができる日が来るなんて、育児の最中には想像もしたことがなかった。とにかく毎日が必死だった。
子育ては子供が小学校に入ると楽になると、どこかの父親が言っていた。それは正しくもあり、間違ってもいる。
子供が小学生になり、そのまま公立の中学校に上がるのであれば、確かに楽になるかもしれない。
しかし、私立中学の受験を考えると、低学年が明けて3年生や4年生の段階で受験塾に通うようになる。
育児を続けている状態の夫婦は結婚から始まって生物学的には生殖というステージであって、必ずしも互いの距離感がつかめない。だからこそ夫婦喧嘩が頻発したり、緊張感が生まれたりもするわけだな。
育児が終わって子供が小学生になり、そこから再び中学受験という壁が立ちはだかって、夫婦がザイルパートナーとなって進む。
子供が公立中学校に進む場合には、とりあえず小学校は中学校の前段階であって、高校入試が本番だなという感じかもしれない。
他方、中学受験を考える保護者としては、中学入試はすでに大学入試の前哨戦に他ならない。子供がまだ小さな段階で、子供の将来を考えて学校を選び、偏差値を確認し、決戦に向かって時を刻んでいく。
かといって、夫や妻が中学受験について十分な時間を確保することができるはずもない。互いに仕事を抱え、できる範囲で都合を付けて準備するしかないわけだな。
例年だと、私の仕事は年末になると落ち着くのだが、今年はさすがに忙しい。それは妻も分かってくれていたようで、私が働いている間に大掃除を先に進めておいてくれた。
ようやく私も休暇を取得することができるようになり、さて窓掃除から始めようとベランダに向かうと、そこにはヨレヨレになったカーテンが申し訳なさそうに垂れ下がっていた。
とりわけレースカーテンのダメージは著しく、見ていて気の毒になるくらいの状態だ。
私がいない間に妻がカーテンを全て取り外して、浦安の中町エリアにあるコインランドリーに運び、そこでグルングルンと洗って乾燥機までかけて持ち帰ったらしい。
その間、我が家は全ての窓が丸見えで、不審者がトラップではないかと不審に思うくらいに別の意味で安全な状態だったことだろう。
おそらく、レースカーテンのような素材はコインランドリーのプレート式のヒーターの熱に耐えられないはずだ。
私は「何をやってるんだ」と指摘することはなく、「ああそうか、長い間、太陽光に晒されていたから傷んでしまったんだな」と妻に言って、粛々とベランダで窓を掃除することにした。
トースターの上に紙を置いたことを忘れてパンと一緒に紙まで焦がしてしまったり、自信満々で鶏肉をブロックのままソテーして中が生焼けだったり、風呂で身体を洗って背中に石けんをつけたまま湯船に入って真っ白になってしまったり。
想像の斜め上をいく妻の行動はこれに限った話ではないし、交際していた時や新婚時代はそのキャラクターが可愛らしく見えた。
ところが、夫婦共働きで育児に入ると、夫も妻も全く余裕がない。育てている子供の性質や家庭の方針にもよるかもしれないが、夫の趣味なんて言っていられなくなる。
独身時代に「ARMS」という名前の随分と中二的な要素を含んだ漫画を読んだことがある。
ストーリーをザックリと紹介すると、主人公の高槻涼という高校生がいて、右腕に特殊な武器が移植されていることを知らずに成長し、いきなり現れた秘密組織と対峙してその武器が発動して、仲間と一緒に世界の平和のために戦うという内容だ。
昼夜問わず稼働率の高い男子高校生の右手に武器が埋め込まれていることは現実的に考えて危険だが、その後の展開もあまりに中二的で心が躍る。
その高槻涼は母親と二人暮らしで、父親は単身赴任という設定になっている。
高槻美沙という名前の母親は冒頭から主婦という体でストーリーが進む。
そして、なぜか高槻涼が秘密組織の軍隊に狙われて自宅が襲撃されるわけだが、母親である高槻美沙がいつも通りニコニコしながら、完全武装した兵士を拳銃一発で仕留めてしまう。
その後、「しょうがない子ね...お父さんは一体この子に何を教えていたのかしら」と、相変わらずニコニコしながらオンサイトで戦闘方法について息子に教え、マンションの窓から軽々と飛び降り、機関銃をぶっ放して容赦なく敵の息の根を止めていく。
主人公の高槻涼が呆然としている間に、丁寧にも敵の兵士の解説が入り、高槻美沙が「ラフィング・パンサー」とか「地獄の黒魔女」という二つ名で呼ばれた伝説の傭兵であることが判明する。
ニコニコと笑いながらワイヤーだけで敵の頭部を一瞬で切り離してしまう彼女の戦闘力を前に、超能力を有する敵のエスパー部隊でさえ、恐れおののいて部隊を撤退させようとする。
なるほど、父親が自宅に寄りつかない理由は分かった。
その高槻美沙でさえ、「子育て以上に大変な戦場はこの世になかったわ」という言葉を発していた。
そのシーンを見て、「なんて大袈裟な表現だ」と当時の私は思った。
しかし、私の仕事は色々と大変だが、子育て以上に大変な事態を経験したことがない。私は子育てという生命の活動を軽んじていた。
それは妻にとっても同じような感覚だったかもしれない。夫婦共働きの子育てなんて、多くの家族が続けているのだから、何とかなるだろうと。
けれど、実際に夫婦共働きの子育てに入ると、どこまで力を入れても底なし沼のように労力が費やされて、しかもトンネルの向こう側の光が見えない感覚があった。
また、育児に入った女性は高槻美沙のように強くなることを学んだ。
妻は新婚時代とは比べることができないくらいに性格が荒くなってしまったが、妻から見れば私は同様に新婚時代と比べて頼りなく使えない男になったことだろう。
いつまで続くのだというステージがようやく過ぎて、気がつくと夫婦仲も円熟期に差し掛かったのかもしれないな。
最近、私としては「父親という役を演じて、アバターを操作して家庭にいる気持ち」と表現している姿が、実は予定調和の夫の姿なのではないかと思う時がある。
「あの人は我が強い」という表現があるが、我というのはその人の本来の性質であるわけで、つまりアバターを操作していない状態という解釈になる。
夫婦仲を続けていく上では、自らの気持ちとは違う発言の方が妻を怒らせなくて済んだりもするし、本心を伝えなければ妻も気がつかない。
そうやって仮面をつけたような生活が幸せなのかという疑問もありはするが、妻への気遣いや父親としての自覚とどのように違うのか。
子供が大きくなる前は、夫も妻も親として完全には成熟していなくて、ようやく距離感がつかめて落ち着いた時点で初めて親となり、夫婦になるのかもしれないな。
ヨレヨレのレースカーテンの向こうから少し傾いた日差しが部屋に差し込み、これまでに過ぎた時間を感じることができた。
夫婦共働きの子育てがあまりに辛くて、私も妻もカーテンの汚れなんて気にする余裕すらなかった。
これは育児を経験した人しか分からなくて、子供がいない夫婦や独身の人たちには笑い話かもしれないが、夫婦二人でザイルを結び、雪山に登るような気分だ。
そして、日本全国で決して少なくない夫婦がクレバスのようなクライシスに落ち込み、子供を残して両親が離ればなれになったりもする。
今はまだ子育てが懐かしい思い出になってはいないし、これからも二人でバディを組んで山頂に向かってアタックを仕掛けるのだろう。
その山頂にあるのは楽園でも何でもなくて、山を登り切ったという達成感かもしれないし、とにかく大変だったという徒労感かもしれない。
人はなぜ子を産み育てるのだろうかと思いながら、あえて苦しい道程を進み、孫の顔を見て喜ぶ。
自分が爺さんにならないと、その理由は分からないかもしれないな。
さて、これから窓のサイズを測って、通販でレースカーテンを注文することにしよう。
昨年は下の子供からインフルをもらって寝込んでいたし、それまでの大晦日は夫婦喧嘩で大騒ぎだったが、今年は静かな年越しを迎えることができそうだ。
いや、頼むから静かな年越しであってほしい。