関ヶ原の戦いの東軍と西軍のような人間模様
彼らがどうして資格試験を受けているのかについては察しがつく。すでに始まっている経済の停滞、その後にやってくる不安定な社会に備えようとしているのだろう。
勤めている職場が不況の中で生き残る保証はどこにもないし、労働環境が悪化して転職を考えることだってあるはずだ。
職場で大規模な人員削減が始まった場合、そのターゲットとなるのは40代や50代の中年たちだろう。
四十路を越えてからの資格取得のための勉強はとても辛く、実務経験が伴っていないと後で苦労するかもしれないが、それでもリストラや会社の倒産に備えたり、いざとなれば他の職場に転職する心構えをもつことは大切だと思った。
父親が一家の大黒柱として家族を守る責任はいつの時代も同じだな。
一方で、この時期に趣味やスポーツに興じている父親たちには、これから始まる地獄に気付いていないかもしれない。
事態に気付いた父親たちはすでにアクションを始めている。職場もろとも沈んだり、追い出し部屋に入れられた後では遅いからだろう。
その反面、人々がコロナ慣れしている感がある年末だな。気をつけている人もいるが、大勢は現実味すら失ってしまったのだろうか。
マスコミが懸命に呼びかけてはいるが、夏場にかけて自称専門家を引っ張り出して煽ったりもしたことが影響したのだろうか、とりわけ若い男女や中年の男性たちにおいて「ああ、マスコミはいつもそうだ」という感じになってはいないか。
この時期に忘年会で盛り上がっている人たちが多かったので、2週間後は大フィーバーになるかもしれないな。早めのクリスマスで盛り上がった人たちで感染者が増えている。
感染症は脅威だが、同じ人類も脅威になるということを実感する。
このように不安定な社会において、どうすれば心を落ち着けて生活することができるだろうか。
歴史から学んでみると、自らが感染したらどうしようと無闇に恐れるよりも、最大限の対策を講じ、それでも感染した場合を覚悟して手順を決めておく。
そのような心構えは、不安定な世の中が続いた時代の日本では重要だったらしい。
鎌倉時代から江戸時代にかけての本を読んだりすると、当時の僧侶が社会を眺めた際の名言として語り継がれていたりもする。
戦や疫病の際に、暢気に構えすぎて動き回ったり、嘘や盲言を信じ込んで突き進んだ人たちに死者が多かったということは納得しうる。
地獄絵図として残されている絵画の中にも、当時の疫病の蔓延を描いたようなものが認められるが、後世にその悲惨さを伝えようとしたことが読み取れる。
しかし、人々は歴史よりも自らの経験を優先し、あくまで自分という狭い範囲で意志決定したりもするわけだ。
これだけ危険な時期に出歩いて、マスクを外して大騒ぎするのは愚行でしかないのだが、そのような人たちに巻き込まれる方はたまったものではない。
状況が落ち着いていた秋頃に速やかに法整備し、飲食店の営業について行政が制限する必要があったと言う人がいるが、それができれば苦労はない。
日本の憲法や法律の骨格は、この国を占領した他国が手を加えたものだ。よく読んでみると他国の有名なフレーズが入っていたりもする。
国家があまりに人々の生活を制約すると、裏を返せば他国にとって軍事的な脅威となりうる。
日本を占領した他国としては、この国が刃向かってこないようなシステムを作ろうとしたらしい。
途中から方針を変えたことはともかく、そのような意図もあって我が国では行政等が人々の自由をあまり拘束しないようにデザインされている。
団塊世代を中心としたシニア世代の中にはパンクな人たちが多いと感じるかもしれない。
あの人たちは若い頃からあのような感じだった。戦後の教育の影響が色濃く残っている。
その体制の再構築の結果として、良かった点もあるし、悪かった点もある。後者については軍事的な話ではなくて、犯罪の抑止といった点で個人に自由がありすぎるのではないかという点が含まれる。
パンデミックについて限定して考えてみると、他国でロックダウンを実施することができても、日本でそれを実施することができなかったのはその例のひとつだ。
現在は感染症法(正式名は感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律)をベースとして対策がとられているが、「行政がなんとかしろ!」と人々が指摘したところで、そのアクションの根拠となる法律がなかったりもする。
行政が個人の自由を制約しないというスタイルは、平時ではあまり問題がないと思う。
しかし、色々と不満はあっても平和な生活を送る中で、人々の心の中から次第に国や社会という概念が薄くなってしまったことは否めない。
それぞれの自治体レベルの社会どころか、自分あるいは家庭のレベルでしか社会を考えない人はどこにでもいる。
そのレベルでコロナにかかって大変な目に遭うまで現実を受け止められず、結果としてタガを外して自分から感染に向かってしまうのだろう。
人間の欲求というものは、現実的に感じない脅威よりも、自らの快楽に向かって行動を推し進める。
だが、「自分は大丈夫だろう」という根拠のない自信でタガを外すステージはすでに過ぎた。
サイコロを振って奇数なら当たりという状態になるだろう。
パンデミックによって、それぞれの職場では体制が大きく変わり始めるはずだ。
本日の録の主題はこれだな。
不安定な社会情勢において所属する組織に大きな変化がやってきた時、自分はどのように立ち振る舞うのか。
支社や部署の統廃合などの人事が大きく変わり、リストラの波もやってくる。
優秀で実績がある人が職場に残ることができるとは限らない。組織にとって都合が良い人たちが残ることだって多いはずだ。
それまで職場のエース級だった人たちが活躍の場を失ったり、権力の近くにいたイエスマンが失脚したり、様々なことが起こることだろう。
それらの判断はトップや幹部の胸三寸で決まったりもするわけで、現場から見れば組織そのものを考えているのか、偉い人たちの立場を考えているのか分からない時もあるだろう。
人は石垣、人は城、情けは味方、仇は敵なりという言葉があるように、人を大切にしない組織はいつかは傾くと思う。
とはいえ、その言葉を残した武将の軍が、あまり部下を大切にしなかった武将の軍に敗れたことは大きな矛盾でもあるが。
ただ、勝った方の武将がもっと部下を大切にしておけば、謀反によって焼かれることもなく天下人になっていたはずだから、やはり正しい言葉なのだろう。
パンデミックに限らず、職場内の力学や政治はどこでも存在している。
浦安市という街に引っ越してきて、家庭を持ち、子育てを始めると、とかく地方行政との距離が近くなる。その最たる場所は浦安市役所だ。
浦安市のホームページにアクセスすることが増えてから、気づいたことがひとつある。
新しい市長が就任すると、市職員の配置が大きく変わる。
課長級以上の職員についてはネットで公開されているので、人事異動が実に分かりやすい。
前市長に気に入られて活躍していたであろう職員が、要所から離れた部署に異動になったり。
それまで目立たなかった職員が直接的に市を動かす部署に抜擢されていたり。
特に、市長の近くで参謀になっていた人たちは、部署を異動してもコアな部分からは動かないという印象があったが、一気に遠くに配置されたりもする。
...という私的な印象がある。ただの気のせいかもしれないし、細かすぎて分かりにくいかもしれない。
市長が替わるたびにパワーバランスが変わるのであれば、市役所で出世を目指すことは思ったよりも苦労が多いかもしれないな。
このようなターンオーバーは市役所に限った話ではないし、霞ヶ関や大手企業、さらには中小企業でも大なり小なり生じうることだ。
私立の中学校や高校の場合には、それまで進学校だったはずなのに理事長の方針でスポーツに力を入れるという流れになり、教員が戸惑ったりもするそうだ。
トップが替わったり、組織が大きく変わる時、その体制に適した人が選ばれる。
優秀かどうかというよりも、組織の論理や運までが絡む話なので、実に不気味だな。
それまでのトップにイエスマンとして忠義を示していた人があっさりと閑職に追いやられたり、部下までが流れ弾に当たって窓際になったり首を切られたりもする。
外資系企業に至っては、一部の部門が丸ごと潰されて、その部門に所属していた人たちが一斉に解雇されることまであるそうだ。
いわゆる内資系の企業においては、リストラが進まないと毎週のように退職を迫ったり、追い出し部屋に左遷して、精神まで潰すような仕打ちが待っていたりもするらしい。
父親の育児参加だとか、仕事と家庭の両立だとか、そのようにハッピーな将来像が流布されたりもするが、現実としてはプライドや損得、計算、世渡り、計略などが織り成す複雑な人間模様の中で父親たちは生きている。
さて、組織において生きる場合、「犬になるか、猫になるか」という議論や心構えがあったりもする。どちらになるかは職場や本人の性質にもよる。
犬は人に懐く。
その時の有力者に気に入られるように頑張るわけだな。
義理堅い人や、素晴らしい上司に巡り合って恩を感じている部下に多いタイプだ。
また、能力が足りない人がイエスマンに徹して出世する力学には、この犬的な要素が多かったりもする。
力のある人に気に入られて引っ張り上げてもらった方が、より高い場所に登ったり、目立つ仕事が巡ってきたりもする。
ただし、有力者がいなくなって対立していた人が力を持ったりすると、粛清人事の的になったりもする。
ライオンの子殺しではないが、自分を裏切る可能性がある部下を近くに置かないという論理は組織においてよくあることだ。
白い巨塔に代表されるアカデミックな世界でも、准教授が教授選に敗れて、落下傘でトップが就任した時の前教授の弟子たちの末路は大変なことになることがある。
蜘蛛の子を散らすように講座員が転職でいなくなり、逃げ切れなかった人たちに苛烈な負荷がかかったりもする。そのループが繰り返される。
一方、猫は場所に懐く。
その職場の力学に逆らうこともなく、かといって派閥に入ることもなく、淡々と仕事をするわけだ。
その組織のトップが替わったとしても、仕事において気持ちが揺れ動くこともないので、トップから見て使いやすい。
組織において大きな変革があっても、ネズミを捕ることができる猫は良い猫だという体だな。
ただし、偉い人たちから見れば、自らに忠誠を誓う犬的な部下の方がやりやすいわけで、猫的な人は短期間の出世において犬的な人に負けることが多い。
猫になりきれずに犬になろうかと躊躇した瞬間が最も危険だな。出世を諦めてスペシャリストに徹するような覚悟が必要になる時もある。
歴史的に考えるとどうかといえば、武士がいた頃の社会では、男たちには犬的であることが求められたのだろう。
そのスタイルを現代に当てはめてみると、今でも犬的なイエスマンは多く、出世が早かったりもする。
しかし、そのやり方は組織やトップが安定している状況での話だと思う。
今回のパンデミックのように職場だけではなく社会全体が揺れ動いている状況において、はたしてそのやり方が通用するのかどうか。
その職場に大きな変化がやってきて、トップが入れ替わるどころかシステム全体が変わる時、犬的な人たちは大変だな。
また、猫的な人たちが優位に立つことがあるのだろうか。
職場全体が変わった時、犬的でありながら有能な人材を探した方が手っ取り早いかもしれない。
様々な状況が考えられるし、自らの力ではどうしようもないことの方が多い。
とりわけ、自分が属するセクションのボスがどのように立ち振る舞うかによっても、自分の状況は変わる。
このような駆け引きはサムライたちが刀で戦っていた時から続いている気がしてならない。
特に、関ヶ原を主戦場として日本全国の武将が二手に分かれて戦った関ヶ原の戦いのようだ。
職場全体が群雄割拠した日本で、それぞれのボスが武将という体で考えると分かりやすい。
現場の人間は、騎馬の上で槍を振り回したりするわけだな。鉄砲隊として後方にいるというパターンもあり、私はたぶん後者だろう。
旧来の勢力が西軍で、新たな覇権を狙う勢力が東軍だとすると、それぞれの武将、ここではボスの判断で家来の将来まで決まる。
それはあくまで職業人としての将来だが、当然ながら収入やライフスタイル、家族の人生にも関わってくる。
実際の関ヶ原の戦いの前にも、現場の侍たちが考え及ばないところで武将同士の水面下の駆け引きがあった。
LINEのように手紙が飛び交っていたはずだな。
自分がいる集まりは、西軍に付くのか、東軍に付くのか。
定常的な状態では生じえない激動が始まったとすると、それぞれの武将が自ら、あるいは参謀の意見を聞きながらビジョンを固め、トップダウンで現場に指示を落としたことだろう。
現場の人間には雲の上で何が起きているのかは分からない。
また、今ならば歴史の教科書やネット検索で関ヶ原の戦いの結果が分かるわけだが、実際の合戦の前はどちらが勝つのかは分からない。
組織において大きな変化がやってくる時、その当時のボスたちはどのように動いたのか。そのボスの部下たちは、どのような末路になったのか。
日本の男たちの基本的な思考形式はあまり変わっていないとすれば、関ヶ原の戦いから学ぶこともあるかなと思って歴史資料を読んでみた。
これが実に興味深い。
当時の戦というものは、それぞれの武将たちの外交の延長線上にあり、いきなり他国に攻め込むというよりも、話し合った結果として最終的に戦になる形だったようだ。
関ヶ原の戦いの前にも、それぞれの武将に対して西軍や東軍から働きかけがあり、最終的にはボスである武将が意思決定を下したことだろう。
遠い昔のことだからフムフムと興味深く読んでいられるのだが、日本全国の武将の判断がとても面白い。
以下は私の経験論ではなくて歴史に基づく内容だが、様々な武将がいたことが分かる。
職場において大きな変化がやってきた際、当時の武将と自らのボスを重ね合わせてみるとさらに興味深い。
【1】 豊臣家への忠義を通すために西軍に参陣というパターン。
これはとても分かりやすい。逆に豊臣家に不満があって東軍に付くということや、徳川家に恩があって東軍に付くこともあった。武士としての論理に従うという考えにもなるが、それは違うと思った家臣もいたことだろう。リスクがあっても組織の方針に従って進むという日本の男たちの精神性は、この時代にはすでに構築されていたということか。
【2】 石田三成のような文治派が嫌いで、武士は戦ってナンボの武断派だから東軍というパターン。
この辺りは三成の気持ちを察したりもする。とりわけ経験を積んだ男性たちは、往々にしてそれまでのやり方を貫こうとする。これからの体制をより効率的に変えていこうと提言したところで、旧来のやり方にこだわる人はどこにでもいる。
【3】 徳川家康のことが嫌いだから西軍というパターン。
武将同士の好き嫌いは珍しくない。両者の間でトラブルがあったとか、同世代で張り合っているとか。武将から「お前もそう思うだろ?」と尋ねられると、家臣としては「いや、違うと思いますよ」なんて言えるわけがない。
【4】 天下分け目というよりも武将同士のガチ対決になってしまうパターン。
優秀な武将同士が手を組んだり話し合えば、より社会がまとまるはずだが、それぞれにプライドと流儀があって真正面から衝突したりもする。
美濃の本戦ではなくて東北地方で生じた上杉景勝と伊達政宗の直接対決がこれだな。両軍勢は、直江兼続と片倉景綱という日本屈指の参謀を連れていたわけで、巻き込まれた家来は大変だったはずだ。
【5】 西軍に味方するという体裁ではあるが、実際には東軍に内通したパターン。
上記はある程度想像がつくパターンが続いたが、実際の関ヶ原の戦いでは「そうきたか!」という斜め上の行動に出る武将もたくさんいた。そのひとつがこのやり方。
立場的には西軍に付かざるをえないということで西軍を名乗り、その陰で東軍に情報を流したり、軍勢の道案内をした武将が本当にいたそうだ。織田や豊臣の時代だったら合戦が終わった後で裏切り者として切り捨てられることが容易に想像しうるが、あえてその方向に舵を取って切り抜けた武将がいた。家来としては大丈夫なのかと不安だったことだろう。
【6】 どうしようかと悩んで最後まで結論が出ずに中立になってしまったパターン。
武将が優柔不断だったのか、老中たちの間で話が揉めたのかどうかまで分からないが、西軍にも東軍にも付かずに、合戦に出陣もしなかった武将がいた。まあ確かに戦わないので被害が少ないと思いきや、どちらが勝ったとしても冷遇が待っているわけで、もっとちゃんと考えてくれよと家来は思ったに違いない。
【7】 何かの理由をつけて武将は動かずに代理の家来を出陣させたパターン。
責任者である自分が体調不良といった理由を用意して出陣せずに、息子であったり家来を自らの代わりに立てて、そのまま出陣させた武将がいたようだ。家来としては、あえて現場に出てこない方が戦いが捗るという無能な武将もいただろうし、戦に敗れた場合に代理の武士に腹を切らせて、自らは別の場所に逃げた武将までいたらしい。どの時代にもいるのだな。
【8】 東軍に付いたけれど結局、あまり戦わずに勝ってしまったパターン。
関ヶ原の本戦での山内一豊がこのスタイルだな。功名が辻の人だ。
一豊は政治や行政では有能だが、戦闘能力があまり高くなかったことは、おそらく東軍の偉い人たちも知っていたのだろう。彼の軍勢は前線ではなくて後方に陣を敷いていた。
本人のプライドとしてはどうなのか分からないし、出世したければ前線で結果を残したいと考えたかもしれないが、家来としてはこのタイプの武将の下にいるとラッキーだったかもしれないな。
最終的に四国の領地を与えられて引っ越すことになった時の奥方の気持ちは分からない。
【9】 有能で家来からも慕われていたのに不遇な結果になるパターン。
これは間違いなく島津義弘のスタイルだな。彼にはとても魅力があるので詳しく書く。
義弘は関ヶ原の戦いの前から徳川家康と親交があり、東軍に付くことになっていた。しかも、戦国最強といわれた島津家だ。そのまま話が進めば、何ら問題がなかったことだろう。しかし、島津家の中で色々と意見があって西軍に付くことになった。
わざわざ九州から出陣するということで手勢も少なかったが、義弘は有能である上に家来から尊敬されていて、義勇軍のような形で島津家の武士が集まった。
しかし、義弘が提案した夜討ちを石田三成が却下したことが、当初優勢であったはずの西軍の敗北の原因になった。織田信長や豊臣秀吉だったら間違いなく夜討ちで攻め込んで東軍を蹴散らしていたことだろう。
義弘はこの段階で西軍の敗北を悟ったらしい。三成のように大将の器ではないトップはどこにでもいる。
結局、関ヶ原の合戦で島津義弘は本領を発揮することができずに退却することになる。しかし、島津の軍勢が東軍の本陣を正面突破し、追ってきた井伊直政や松平忠吉といった猛者の軍勢に対して「捨て奸の戦法」で反撃しながら主君である義弘を守り抜いたことは、この戦の大きなエピソードのひとつになっている。
捨て奸の戦法とは、最後尾の小隊が留まって敵と戦い、その小隊が全滅したら、再び最後尾の小隊が全滅するまで戦い、武将がいる本隊を脱出させるという捨て身の戦法だ。
島津の武士たちは、義弘を死なせてなるものかと、怯むことなく自らが犠牲になったらしい。
島津豊久を含む最後尾の小隊は、少ない手勢で井伊直政を騎馬から落として傷を負わせ、松平忠吉に足止めを食らわせ、徳川方の猛将である本多忠勝の軍勢まで振り切って、現在の岐阜から鹿児島まで辿り着いたのだから、島津恐るべしだな。
関ヶ原の合戦が終わった後、島津家は西軍に付いていたにも関わらず、家康から領地を安堵されて存続することが許された。捨て奸で散った武士たちの希望は確かに実ったとも言えるし、西軍に付くべきだと文句を言って戦に参加しなかった他の家来たちはどうなのかと思いはする。
何だか考えさせられるエピソードだ。当時の世の中にあって、義弘のように家臣から慕われ、自らが犠牲になっても守りたいと思える武将がどれだけいただろうか。
【10】 引き返せないところで方針を変えて周りを巻き込むパターン。
ローカルな合戦と比べて関ヶ原の戦いでは思ったよりも少ないという印象があるが、誰のことなのかを言うまでもない。小早川秀秋のパターンだな。
西軍に参陣しておいて、途中で東軍に寝返って西軍を攻撃し始めたという優柔不断にも程がある展開になった。
このようにチャブ台を返して、やっぱり呼ぶんじゃなかった的な人はどこにでもいる。
もちろん、秀秋は若くて経験が足りなかったということもあるし、家臣にも都合があっただろうし、それが最初から戦略としてデザインされていたかもしれない。この判断によって命が繋がったと考えれば、家来としてはまあ確かに優れたボスなのかなあとは思う。
だが、寝返った後で東軍が敗北したら家来は大変なことになっただろうし、結果的に勝ったとはいえ家来の気持ちはどうだったのだろうかと考えると、何とも言えない。もう少し他に考えがなかったのか。
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このように全国規模で生じた関ヶ原の戦いにおける当時の武将たちを並べてみると、日本の男たちの思考形式は現代においてもあまり変わっていない気がする。
「ああ、これはうちのボスと同じだな」というパターンがあることだろう。
関ヶ原の戦いが終わった後の処理については詳しく記さないが、思ったよりも論理的に話が進んだようだ。徳川家康が優れていたというよりも、彼の参謀だった本多正信の力によるものだろう。
西軍に付いた武将たちは斬首されたり、自刃したこともあったが、想像以上に生きながらえたパターンが見受けられる。
減封という形で領地が減らされたり、改易によって家の存続が止められたケースは多かったが、家来の中には他の武将の下で働いたということが多かったようだ。
西軍に付いたり、中立的な立場を取ったけれど、状況としてやむを得ない場合や東軍に危害がなかった場合には領地がそのまま残されたこともあり、感情論ではない緻密な計算が見て取れる。
まさに将棋的な思考だな。チェス的な思考がある西洋であれば武将たちは家臣を巻き込んで処刑されたかもしれない。
他方、東軍に味方した武将がどのように行動したのかについても詳しく分析され、現在の人たちが見ても納得することができるくらいの処理が行われたようだ。
東軍であっても参陣があまりに遅かった武将については領地が減らされたことがあったようだし、もちろんだが功績があった武将には領地が加増された。
徳川幕府が長きにわたって続いた理由の中に、関ヶ原の戦いが終わった直後からの体制構築が大きく関わった気がしてならない。
昔と今とを比べて、ひとつだけ違うことがあるとすれば、ボスの責任の取り方だな。
昔の武将は戦いに負けたり、組織に問題があった時には自ら腹を切った。責任をとるべき人が責任をとって家臣を守ったとも言える。
では、姿を変えた現在の武将たちはどうなのか。
自分が責任をとらずに逃げて、弱い立場にある家臣たちに責任をとらせる社会になってはいないか。
それは将棋的な思考ではなくて、西洋のチェス的な思考だな。実際、どこかの偉い人が飛行機に隠れて逃げ切ったケースもあった。
これまでの日本における強さの背景には、トップが入れ替わろうと、脅威がやってこようと、その職場に集まった人たちが組織を考えて行動したことにあると思う。
職業人としての矜持がある人もいて、それがない人もいて当然だが、組織が人を大切にしなければ、やはり長期的に考えてダメージが生じることは否めない。
トップを支える武将たちがイエスマンばかりになってしまうのは、日本に限った話ではなくて、欧米での大手企業においても幹部たちはトップに対しては忠実なイエスマンばかりだったりもする。反論すると解雇されるかもしれないからだな。
さて、私はこの変化の中、職業人としてどのように生きていけばよいのだろうか。
武将が間違った方向に舵を取ったとしても、自分が何かを考えたところで仕方がない。関ヶ原の戦いではどのパターンに該当するのだろう。あまり雲行きが良くない気がするな。
環境が悪くなれば出奔することもあるかもしれないが、かといってこんな老兵を召し抱えてくれる武将がいるかどうか。
だが、子供たちの教育にはさらに金がかかり、今さら浪人になるわけにもいかない。
忙しい毎日の中でネットを見ると逆に疲れるので、歴史物の書物を読んでいたりもするのだが、どうやらあまり目立たずに地道に働いていた武士が生き残ったことが多いような気がする。
切り捨てられるほどの無能ではないけれど、トップや武将が何かのビジョンを考えた時に頭数に入るくらいの存在感。まあその程度で生きていくしか術がないのかもしれないな。