2020/12/17

スタンドアローン・コンプレックスを実感した2020年

早いもので今年もあと何日というフレーズが広がり始める時期だけれど、今年は昨年よりも時間の流れが遅く感じた。だからといって穏やかであったはずもないが、見方によっては再認識することが多く勉強になる1年だった。


年明けから始まったパンデミックは、全世界を覆っていた何かを剥がし、社会や人の素の状態を晒したように思える。

それが何かというと、それぞれの社会の歪みであったり、人々の利己的な側面であったり、そういった負の要素を見えなくしていた霧のようなものだ。

加えて、今回のパンデミックは社会や人の多様性を明確に示す事象でもあった。

ネット上ではウイルスと戦っている人たちを応援したり感謝する人も見かけられたが、特に我が国では自分を守ることが第一で、批判する相手を探して不満を投げつける人が多い。

感染症が専門ではない人まで自称専門家として前に出て、マスコミと一緒になって煽ったと感じざるをえない。

スーパーやドラッグストアには、マスクを買い占めようとするシニア世代や転売を狙う若い人たちが並んだこともあった。

神経質になりすぎて自治体のツイッターに絡んでいく子育て世代とか、休校中に小学生が外に出ていると目くじらを立てて小学校にクレームを入れたシニア世代とか。醜いエピソードが山のように生じた。

日本人は和を重んじる。しかし、その和というものは集団の中での自身の立場であって、必ずしも集団全体のことを考えているわけではないようだ。

その心理の柱になっているのは、「自分に直接的に関係する集団において自分がどのように見られているか」という点であり、昔に外国の研究者から指摘された「恥の文化」という日本人の価値観にも通じる。

そして、自分のことを第一に考える人たちが集まることで同調現象が生じ、互いに意識し合った結果として和が生じるということか。

首都圏の電車や駅でマナーやモラルが崩壊しているような人を見かけることも、匿名のSNSに罵詈雑言を吐き続ける人が溢れていることも説明が付く。

それらの場では、集団の中で自分の立場を意識しなくても構わないわけで、自分第一の感情や思考が前面に出る。

とはいっても、日本人はこれでも穏やかで理性的な方だ。苛つきの対象になる人はいても、他国のように他者に危害を加える人は少ない。

ここから一気にアニメの話になってしまうのだが、数ある日本のアニメ作品の中で個人的には比類なき名作として攻殻機動隊がある。

人によっては銃声が響くサイボーグアニメではないかと感じるかもしれないが、これらのシリーズは実に世界観が深淵で勉強になる。

攻殻機動隊の映画やアニメシリーズは、士郎正宗氏が描いた同じ名前の漫画が原作になっている。この漫画は単行本としての分量が、たったの1冊分。その後で数冊が出版された程度だ。

コミックの攻殻機動隊では、漫画のコマ割りの外のスペースが細かな文字の解説に埋め尽くされていて、しかも内容がマニアックで難解なので、読了までに時間がかかる。

だが、それ以上に興味深いことは、攻殻機動隊という原作が登場したのは1989年のことだ。

一方、日本においてインターネットのプロバイダによるサービスが開始されたのは1992年。

つまり、士郎正宗氏はインターネットという存在を体験することなく、その先に生じる社会をたった1冊の作品によって表現していたことになる。

人間のサイボーグ化や第三次世界大戦といったエピソードは生じていないが、ネットというツールによって個人という存在がどのように変わっていくのかについては、攻殻機動隊の世界で部分的に実現しているわけだから、非常に強い先見性があったのかなと思う。

その後、押井守監督によって映画の「GHOST IN THE SHELL」が、神山健治監督によってテレビアニメの「攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX」が登場した。

押井守監督は神山健治監督の上司だった人ということもあって、原作を皿にして自分の料理を盛り付けるようなところが似ている。

押井監督がパトレイバー、そして神山監督がサイボーグ009を手がけると、リメイクという表現すら足りないくらいに原作を超えてしまったりする。

けれど、両監督は原作のキャラクターの魅力やストーリーの世界観をきちんと残した上でアレンジするので、違和感なく作品を楽しむことができる。

押井守監督が描く攻殻機動隊は哲学や思想といった特徴が色濃くて、神山健治監督が描く攻殻機動隊は心理学や社会学的なテーマを多く含んでいると私なりに感じる。

前者は社会が抱える問題といった範囲を飛び越えて、自分とは何かというテーマに突き進んでいくわけだが、後者はもっと身近な社会や人情までを取り込んでいるようだ。

今回のパンデミックにおいては、「STAND ALONE COMPLEX」というキーフレーズが社会の姿と同調している気がして神妙になった。

その姿はパンデミックが始まる前からすでに日常となっていたはずだが、社会が異様な状況になったからこそ水面から浮かび上がってきたような実感がある。

なるほど、スタンドアローンとその複合体だなと。

知っている人が多いと思うが、「stand-alone」とは「独立した」とか「孤立した」という意味で、形容詞として用いられる。

必ずしもコンピューター用語として用いられるだけではなくて、stand-alone basisは独立採算制、stand-alone companyは独立企業を意味する。

コンピューター用語としてのstand-alone(スタンドアローン、スタンドアロン)は、主としてコンピューターがネットワークや他の機器に接続せずに動作する状態を意味している。

その対義語をオンラインと表現すれば分かりやすいが、スタンドアローンとオフラインとは厳密には違う。

スタンドアローンの場合には、オフラインになっても自らで機能を維持しうる。

また、スタンドアローンが時代遅れの役立たずというシステムではなくて、ネットの外からの攻撃に非常に強いため、高いレベルの機密情報を取り扱うマシンではスタンドアローン化されていて、使用者も限定されていたりもする。

テレビアニメ版の攻殻機動隊の「STAND ALONE COMPLEX」というタイトルが何を意味するのかを考えてみると、スタンドアローンとは個々の人々であって、その人たちが複合体を形成しているという状態のことだと想像することだろう。

人と人が繋がってひとつの複合体を形成している状態とは何かと言えば、要はネットによって個々が繋がっている現在の社会だと思うと納得がいく。

だが、STAND ALONE COMPLEXというフレーズはそれだけではないようだ。

テレビアニメ版の攻殻機動隊ではそれぞれの放送時のエピソードが短編集のようになっていて、全体としてひとつのストーリーに組み上がっていく。おそらく神山監督はそれらの展開も含めた多重の意味を持たせたのだと思う。

物語のクライマックスでは、サイボーグが有する電子頭脳の中に膨大な数の人たちが自我を転送させてひとつの集合体を形成しようとするシーンがあるが、それを表現するのであれば、「Complex」ではなくて「Fusion」という単語が適しているはずだ。

なぜ、FusionではなくてComplexという単語が用いられたのだろう。スタンドアローンである人々はどこまで集まってもひとつにならず、複合体として存在するという悲しさを示しているのかもしれないな。

今回のパンデミックにおける社会を眺めて、STAND ALONE COMPLEXというフレーズがどうして重なって見えるのかというと、説明するまでもなく人々の外出が制限されて、個人レベルもしくは世帯レベルでスタンドアローンであることを余儀なくされたからだな。

スタンドアローンな状況に追い込まれたのは人や家族だけではない。

限られた情報の中で、自治体レベルにおいても自分たちで対応せざるをえなくなり、さらにはWHOによるコントロールが混乱して国家というレベルでさえスタンドアローンになった。

日本の行政は判断が遅くてグダグダだとマスコミや国民から批判を浴びることがある。

その批判は感情的になれば確かにそうかもしれないが、我が国の憲法や法律が再構築された経緯を学んだ後であれば、批判ではなくて諦めが先に来るはずなんだ。

多くの人たちは再構築がどこで生じたのかも知らない。情報は存在しているのに、そのことを考えることが望ましくないという世界で育った。

だが、今回のパンデミックでは、他国の動向や社会の現状を鑑みながら、慎重に判断を続けたからこそ、日本の被害が少ないような気がしてならない。あくまで他国と比較しての話だが。

世界を眺めると早々と方針を決めて突き進んだ国が珍しくなかった。外交や経済といった場では、即断することができる国は強い。

しかし、相手は国家でも人間でもない新しく出現したウイルスだった。人知が追いつかずに情報が足りない段階でサクッと方向性を決めた国において大きなダメージが生じたと思う。

日本は資源に乏しく、多くの国々に経済を依存しており、また軍事的にもスタンドアローンではないことは明らかだ。

しかし、パンデミックに対して他国に助けを求めることもなく、脅威を真正面から受け止めて自分たちの力で対処している。そうでない人たちもたくさんいるわけだが、思ったよりも根性がある国だと思った。

一方、日本に住む人たちは平和ボケしているとか、愛国心がなく社会全体についても考えていないと揶揄されることがあるわけだが、またそれもパンデミックでのダメージを減らした気がする。

外出の自粛を強制しなくても人々が自発的に外に出なくなったり、マスクを付けていない人がおかしな人だという雰囲気が生じたのは、自分の利益や立場を重んじる人々の性格によるものではないか。

他国のように政府の方針を巡って大規模なデモが生じることもなく、フラストレーションを溜めた人たちが別の事象を契機に暴動を起こすようなことも、この国では生じていない。

パンデミックの前からネット上ではゴミと揶揄されるマスコミにおいても、裏取りをせずに情報を発信したり、自称専門家を招いて人々を煽ることがあったことは確かだ。

だが、多くの人々に対して感染症に対するアラートを発するという点においては機能したと思うわけで、本当のゴミではないことを知った。

さらに勉強になることがある。

この状況では社会も人もスタンドアローンにならざるをえないが、それを続けると社会全体の経済のダメージが生じる。

とはいえ、行政が人々に求めているのは、感染を防ぐために心がけるマナーのようなものであって、無理に何かを強制しているとは思えない。

むしろ、スタンドアローンな制約に耐えることができなくなった人たちが、そのマナーさえ守ることができずにタガが外れてしまい、結局として感染が広がっているように感じる。

マナーを守らずにタガを外して感染を広げることと、経済を考えて社会活動を維持することは違うのだが、それらが混ざり合ってしまっている。

STAND ALONE COMPLEXの作中の中では、「水は低きに流れ、人の心もまた低きに流れる」というフレーズが用いられている。

オリジナルは孟子の言葉だが、攻殻機動隊のストーリーの中では「低きに流れる」という意味が孟子が意図する内容と反対の意味で使用されていると思う。

人は、欲求の対象になること、楽しいと感じること、より容易だと思うこと、そういった自分自身にメリットがあることに向かって気持ちが流れてしまう。

感染者数の増大の波が訪れるたびにピークが高くなり、医療機関の能力は限界に達しつつある。

それでも、「まあこれくらい構わないだろ」とか、「自分は若いから大丈夫だろ」と低きに気持ちが流れた人たちが利己的に行動する。

そのような行動に対しては法律や条例は通用せず、その人たちの良心に呼びかけるしか方法がない。まさにスタンドアローン化した人たちが社会という複合体から部分的に乖離したような感じがある。

今の私には、そのような事態について「なんたることだ」と憤る感情が沸いてこない。

2016年から2018年頃まで続いた深刻なバーンアウトで感情を失い、2019年も後遺症に苦しんだ。

バーンアウトに限った話ではないが、自らが疲れ切ってしまった場合に人がどのような思考になるのかというと、まるで自分だけが深い井戸に落ちたような感覚になる。

つまり、社会が普通の状態だったにも関わらず、私自身はスタンドアローンな状態になっていたわけだな。

もちろん、人が社会生活を送る上で完全なるスタンドアローンな状態はありえない。職場やライフライン、家庭においても他者を必要としながら生きる。

けれども、スタンドアローンな情報機器が設置場所や電力を必要とするように、必要最小限の関係を残したまま、私自身は私という役を演じて生きていた。

本来の感情が枯渇しているので、自分の役を演じるしか術がなかったからだ。

周りの人たちから見れば当時の私は私そのものだったはずだが、本人にとってはどこまでが自分なのか分からないというよりも、明らかに自分のアバターを動かしている感じだった。

素の私として生活するよりも、アバターである私を演じていた方が職場や家庭で受け入れられることに気づき、そのままのスタイルで生きていくことにした。なんとも皮肉なものだな。

そして、2020年は家庭でのストレスが減って復調の兆しが訪れ、枯渇した感情を再び組み上げていくステージが始まった。

それと同時にコロナによるパンデミックがやってきた。何だこのタイミングは。

これまでは私自身が一人で感情の井戸に落ちてもがいていて、そこから這い上がって地上を見渡すと、世界中がスタンドアローンな状態に追い込まれていた。

このような状況では、脅威に怯える人たちは情報面で孤立することを忌避し、何とかして他者と繋がろうとする。

世論を支える人たちのタイプとしてテレビが情報のベースになっているシニア層や主婦層がいることは間違いない。行政や企業がターゲットとすることが多い人たちでもある。

とりわけ、私の両親を含めた団塊世代によって構成されるシニア層と、テレビや新聞といったオールドメディアとの適合性はとても高くて、マスコミによって切り取られた情報であってもそれこそが事実だと認識し、思考してしまうことがよくある。

その姿には、オールドメディアを結節として個々の思考が平準化されてしまったような違和感があった。しかし、このような思考の平準化は団塊世代によくある事象だと団塊ジュニア世代の私は思う。

翻って、オールドメディアは信用に値せず、ネット上の情報の方が現実に近いと考えているネットユーザーたちに対してパンデミックはどのような影響をもたらしたのか。

テレビや新聞ではなく、ネットにおいて正しい情報を得ることができたのかというとそうでもない。

ニュースのまとめサイトには大手新聞社や独立系のネットメディア、さらには普段の生活であれば手に取ることもないタブロイド紙や週刊誌のネット記事までが並べられ、しかもどう考えても肩書ばかりで専門家とは言えない人たちの意見が取り込まれていた。

ツイッターに代表されるSNSにはデマを含めた情報が錯綜し、インフォデミックという言葉までWHOの代表が口にする事態になった。

スタンドアローンな状態になった人々が情報を求めてネットにアクセスした結果、そこにあったのは同様にスタンドアローンになった人々やメディア、さらには国家だった。

ネットは人と人を繋げる便利なツールではあるけれど、それによって複合体が形成されるわけではなく、融合することもなく、情報面での混乱と無秩序が広がった。

Coplexでもなく、Fusionでもなく、ChaosとかConfusionといった言葉が該当するような状態だな。

出口の見えない状態で何らかの希望の芽が出ると、そこに向かって多くの人たちの関心が集まったりもするが、結局は社会という集団ではなくて自分という存在を優先した思考に他ならない。

このような混乱の際には、あえてネットや他者から自分を遠ざけた方が心穏やかに生活することができる。

目新しい情報を得ようとネット上を彷徨ったところで、逆にフラストレーションを溜めて疲れるだけだと思うのだが、多くのネットユーザーはその方向に舵を切ることができない。

それがどうしてなのかというと、自分自身が孤立することが怖いからではないか。

人はひとりで生まれて、ひとりで死んでいく。どこまで行っても人はひとりだ。

その時間の歩みの中で知り合った人や物、環境などとの繋がりが自身の一部となり、また将来の繋がりに希望を持つことも間違ってはいないが、人は元々孤立した存在だということを受け入れる必要がある。

バーンアウトによって井戸のような思考の淵に落ちて、人は孤立した存在なのだと実感しながら壁を這い上がり、井戸から顔を出したら社会全体が孤立することに恐れ戸惑っていたという事態は、何かの巡り合わせなのだろうか。

ここまで様々な要素が複雑に絡み合い依存し合った現代において、トラブルもなく平常な状態で生きていれば孤立を実感することは少ない。

そこに外的な要素として孤立がやってきたわけだから、人や社会が疲れたり混乱して当然とも言える。

しかしながら、私自身はバーンアウトという超個人的な孤立の方がずっと深刻だった。

パンデミックがやってきても大して疲れておらず、むしろ人と人との距離が広がったので気持ちとして楽になったという印象さえある。

かといって、生活の多くがスタンドアローン化することを是とすることができない人たちはたくさんいるわけで、その感じ方が正常なのだろうと思う。

自分が自分であるために、より多くの他者が必要となる人たちは大変だな。

なぜに人が集まって酒を飲む必要があるのだろうかと私は思うのだが、わざわざネットで繋がってオンラインで飲み会を開く人もいれば、緊急事態宣言下よりも感染のリスクが上がっているのに夜の街に繰り出す人もいる。

とどのつまり、それが自然な成り行きだと皆が思って構築してきた個々の人たちの集合体やネットワークはパンデミックという事象によって崩壊し、それぞれが自分の判断で行動し始めたという私なりの解釈になる。

今後の展開としては、行政やマスコミがどのように行動しようとスタンドアローン化した人たちが自分たちで考えて動く世の中になるかもしれないな。

この状況が他人事だとは全く思っていないが、ウイルス自体の病原性よりも、人の思考の混乱の方が社会に対するダメージが大きいと感じる。

また、それを私が考えたところでどうにもならないだろうし、唯々、不思議な光景が広がっているなと眺めているしかない。

元々、人とのコミュニケーションが得意ではなくて、家から一歩も出なくても大して疲れず、バーンアウトを経験してさらに他者を必要としなくなった私という存在は、時代遅れのワープロみたいなものだろうか。