2020/12/09

謎が多い爺さんの酒とスローライフ

消耗郷と名付けた町での生活も、地獄のような電車通勤も相変わらずだが、なぜに目標を年内に設定するのかという仕事の慌ただしさも相変わらずだ。休日出勤で電車に乗っていたら、ふと昔から不思議に思っていた謎が解けた気がした。なるほど、彼は本当の地獄を生き抜いたということか。


その謎とは、私の母方の祖父の生き方。私の家族以外は誰も興味がないことだろう。

父方の祖父は私の実家の近くに住んでいたので、彼の生き方については把握している。

父方の祖父は、自ら立ち上げた会社で大きな負債を残しながらも金遣いが荒く、遊ぶことが大好きで40代の頃には実父に会社を押し付けてアーリーリタイアし、両親がその借金を返済することになった。

さらに、父方の祖父は気性が荒く、気に入らないことがあれば家族に暴力を振るうこともあった。

当時40代の祖父が暴れ、20代だった実父が立ち向かう時の迫力は凄まじかった。

当然だが、父方の祖父の放蕩ぶりは私の生活にも大きな影響があり、特に両親の借金の存在は痛かった。人生のスタートラインがマイナスから始まる惨めさは、それを味わった人にしか実感しえない。

小さな頃から常に家庭の経済事情を気にしたり、塾に通えなかったり、大学に進学してから金に困った。

実父は祖父の墓の前で決して手を合せない。

学歴もなく、知性や教養があるようには感じられなかったが、父方の祖父は自分が優れた賢人だと信じ込んでいて、知ったかぶりの講釈を垂れる姿が酷く苦手だった。

生前の祖父の言動を回想する限り、彼は自己愛が非常に強く、何らかのパーソナリティ障害があったのかもしれない。妻や子、孫のことを全く考えない人だった。

父方は職人の家系だったからだろうか、性格がおかしくても仕事ができれば何とかなったのか。いや、大きな借金が残ったのだから何とかなっていない。

祖父の今際の時にも私は見舞いに行かなかったし、特に何も感じなかった。

父方の祖父の記憶については忘却の彼方に飛ばすことにして、今回の録のテーマになっている母方の祖父の謎について考えてみたい。

母方の祖父(ここでは爺さんと呼ぶ)は、私の郷里から離れたところに住んでいたので、盆や正月の帰省で顔を合わす程度だった。

私が保育園に通い始めて物心付いた頃、爺さんはすでに重度のアルコール依存症で、昼間から酒を飲んでいることが多かった。

当時の爺さんは50代だったろうか。その世代としては結婚が遅かったそうだ。

酒を飲んだ爺さんは、陽気もしくは粗暴なアッパー系になるわけでも、人生を恨むかのようダウナー系になるわけでもなく、とにかく水のように酒を飲んだ。

夕食にはビールを飲み、腹が膨れたら日本酒をチビチビ...どころか一升瓶を手元において飲んでいた。

盆や正月に遠くに住む娘や孫たちが帰省してくれて、爺さんが喜んで飲んでいるのではなくて、普段からの習慣だったようだ。

子供の頃の私は、爺さんとの意思疎通を試みたのだが、酔っ払って呂律が回らないしゃべり方に加えて、互いに地方の訛りがあって、何を言っているのかよく分からなかった。

爺さんは他者に合せてフリートークを続けることが苦手で、要はコミュ障だった。

この時点で分かると思うけれど、私は爺さんに容姿や性格が似ている。

父方の遺伝子の影響なのか、私は爺さんよりもずっと身長が高いが、目鼻立ちや立ち姿勢はよく似ていた。

爺さんは30代の頃から薄毛が始まって、40代にはハゲ上がって頭部が光り輝いていたそうだ。

子供の頃から、私は爺さんのようにハゲ上がるのかと絶望的になったものだ。しかし、その遺伝子は運良く発現しなかったようで、五十路が見えてきた今でも頭髪が維持されている。

中年親父はとかくマウンティングに精を出すことがあるが、髪の毛が残っていることは大きなアドバンテージだと思う。

顔や骨格がここまで似ているのだから、おそらく私の脳神経系の設計図は爺さんに由来するのだろう。

つまり、私の老いを考える上で爺さんの生き方をリファレンスにすることは、より深く自分を知ることになりはしないか。

しかし、過去を思い出しても、あまり参考にならない記憶しか残っていない。

帰省の度に出会う爺さんの姿は変わることがなく、相変わらず酒を飲み、くたびれた古着を着て、中古車として売りに出せないくらいの自動車に乗り、広いけれど作りが古くて質素なボロ屋に住んでいた。

吸いかけて途中で消した煙草に再び火を付けて吸っていたりもして、相当な倹約家だった。

爺さんの食事については、白飯と漬物や野菜の煮物、後は婆さんや嫁さんが調理したものを適当につまんでいた。

爺さんは食というものに関心がなかったようで、いつも早食いだった。食事というよりも補給といった感じ。私と同じだな。

爺さんの家の床の間の近く、天井のすぐ下の壁には、B4サイズくらいの3枚の写真が掛けられていた。おそらく遺影なのだろう。

ひとつは爺さんの母親、つまり私の曾祖母の写真。あまりに解像度が悪く、はっきりとした表情は分からない。

彼女は私が産まれる前には逝去していたようで記憶はない。

その隣には爺さんの長兄の写真。短くカットした髪型に口髭をたくわえた彼の容姿は、いかにも大正時代に生まれた男という感じでダンディという言葉が似合う。

爺さんは三男坊だが、容姿と能力が整った長兄と比較されたらしい。

昔の地方の田舎では、長男は家督を継ぐ存在であり、次男や三男と扱いが違うことが普通だった。

その差に加えて、自分より優れた長兄と比較されて、若き日の爺さんは辛かったそうだ。

爺さんの長兄は病気で早世したらしい。

その隣には、一枚の賞状のような紙、そして軍服姿の青年の写真があった。爺さんの次兄だ。

彼は第二次世界大戦において大日本帝国海軍の兵士として出征し、太平洋で散った。

写真の隣の紙は、戦死した人たちに渡された叙勲。

内閣総理大臣の名前が書かれているが、実際は指示を受けた役人が業者に作らせたものだ。こんな紙をもらって、家族が喜ぶはずがない。

ただ、彼の存在を少しでも残そうとしたのだろう。紙を送る側も受け取る側も。

海戦での死亡だから、爺さんの次兄は血まみれの遺体のまま海に流されたか、軍艦もろとも沈み、遺骨は戻って来なかったはずだな。

当時の彼は、まだ20代前半くらいだったことだろう。なかなかの男前で、やはり爺さんは次兄とも比べられて辛かったそうだ。

海軍というと昔の詰襟の学生服やセーラー服の上着のような姿を想像するが、爺さんの次兄の格好は明らかに戦闘服だった。

「男たちの大和」という映画で、戦艦大和が特攻に出た際の反町隆史さんや長嶋一茂さんが演じた兵士の格好と全く同じだ。甲板に出る時にはヘルメットを被るわけだな。

爺さんの次兄の表情は、自らの死を覚悟した男の顔だった。

目を開けてはいるが、それ以外は死者のように感情が分からず、しかし、全てを語っているかのごとき鋭い眼光だった。

これから戦地に向かう前に遺影として撮影した写真だということは本人も分かっていて、当然の表情かもしれない。

子供の頃の私は彼の写真を見ることが怖かったが、生き様が格好良く見えた。

オッサンになった今でさえ、自分の存在を希薄に感じて、何か意味を探しながら生きている。

意味がないと分かれば生きる気がなくなる。

彼の顔には生きることの意味がみなぎっていた。死を目前にしたからこそ感じられることがあるのだろう。

陸軍は召集が多かったそうだが、海軍は志願によって男たちが集まったと聞く。

彼も自ら志願して日本を守ろうとしたのだろうか。あるいは、同調圧力が強い地方の田舎で、立場としてそうせざるをえない状況に追い込まれたか。

まだ大人になったばかりの青年が。

大艦巨砲主義が航空主兵論に移ったにも関わらず、時代遅れのスタイルを変えることができなかった状況だったはずだ。

戦争という悲劇を含めて、彼はどんな気持ちで散ったのだろう。

その当時の気持ちは私の心に深く刻まれ、高校生になると防衛大学校への入学を志すようになった。

海は静かで落ち着くし、海上自衛官として戦闘に至らずに職業人生を終えることができれば十分だ。

それはこの国が平和だったという証であり、その期間は国を守るという意味を持って生きることができるし、それを誇りとして残りを生きることができる。

防衛大学校を卒業して、仲間たちとともに自分の艦を動かし、任務が終わった後の穏やかな海の上で、爺さんの次兄や多くの人たちを想い、敬礼する。

何かあれば身命を賭して国を守る。素晴らしき職業人生だ。

よし、将来の進路はこれで行こうと思った。

しかし、実母が大の自衛隊嫌いで、防衛大学校の入試を受験すると伝えただけで激昂し、実父を巻き込んで大反対だった。

そのように育てた覚えはないとまで言われた。

実家が購読している新聞やよく見るテレビ番組は察しの通りで、文句ばかり言うが国の将来なんて考えていない。

戦後の団塊世代にはこのタイプが多い。私は両親の思想を否定し、その反動でとても真っ直ぐに成長した。

そういえば、最近、自衛隊に詳しい人と知り合いになり、当時のことを紹介したところ、私の身の上話を防大入試の面接で伝えれば、かなり有望な人材として受け入れられただろうという話だった。

漠然としたイメージではなくて、覚悟を決めて入隊するわけだ。モチベーションがないはずがないし、いざという時の気持ちの整理もできている。

模擬試験の判定も合格ラインで体力もあったわけだから、残念だ。今のように電車通勤で苦しむこともなかったのに。

少年時代の話に戻る。

爺さんの次兄のことを知りたくて床の間から居間に戻ると、そこには飲んだくれてテレビを眺めている爺さんがいた。

会話のキャッチボールができないのは爺さんも実母も同じだが、とにかく会話が成立しない。

いや、むしろ私のコミュニケーション能力の低さによるものかもしれないな。

実母や妻にも当てはまるが、相手の話を聞かずに球だけを投げつける人との会話は疲れる。

爺さんが若い頃にどのような生活をしていたのかも、私は本人から何も聞かされなかった。

学生時代はどんな部活だったとか、大人になってどんな仕事をしていたのかとか。

とりわけ、爺さんの職業人生は謎だった。50代ですでに定職に就いていないはずなのに、この一家はどうやって生計を立てているのか。

二世帯住宅として同居している叔父は業界大手の企業の管理職だったが、彼の収入だけで家族と両親を養うことができるのだろうか。

父方の祖父も母方の祖父もアーリーリタイアしていて、職業人として誇ることができない爺さんたちの姿は、子供の頃の私にはあまり魅力的に感じられなかった。

子供たちを働き者の大人に育てるためには、大人たちが働いている姿を子供たちに見せて学ばせることが大切だ。祖父がその模範となっていない。

爺さんの情報の多くは、彼の妻である婆さん、あるいは婆さんから話を聞いた実母に教わった。といっても、当たり障りのない話ばかりだった。

爺さんは、第二次世界大戦で陸軍に召集されて外国に出征し、終戦後に捕虜として収容所に入れられ、日本に戻ってきたそうだ。

捕虜という響きが重い。

子供心に「うちの爺ちゃんは、戦争に負けて捕虜になったんだぞ!」と他者に誇ることはできないと思った。

だが、私がオッサンになった今になって、子供の頃に聞いた「爺さんはロシアで捕虜になった」というフレーズを思い出した。

当時のソビエト連邦をロシアと呼んでいた人だから、そのフレーズを言ったのは婆さんだと思われる。

オッサンの私は、その現実をどうして忘れ去っていたのだろう。爺さんの次兄のインパクトが強くて、爺さんのことを尊敬しえない人物と判断し関心がなかったからなのか。

ロシアで捕虜になったということは、若き日の爺さんが出征した先は満州国。

そして、捕虜になっていた場所はシベリアということになる。

つまり、爺さんはシベリア抑留の生存者ということか。

なんてことだ。どうして私は気が付かなかったのか。

当時の爺さんと歳が近くなってから、爺さんの人生の凄さが分った。

第二次世界大戦の終戦後、武装解除した日本軍の兵士や他の人たちをソビエト連邦軍が捕虜として列車に詰め込んで連れ去り、シベリアの収容所に入れて強制労働に従事させた。

シベリア抑留と呼ばれる現在では理解し難い悲劇において、60万人近い人たちが捕虜になった。

マイナス40℃になることもある環境や劣悪な衛生状態、粗末な食事、過酷な強制労働などによる飢えや病気が原因で、6万人くらいの人たちが亡くなった。

生き残った人たちにも心身ともに重度の傷が残ることもあったはずだ。

当時は世界中が狂っていた。生きるか死ぬかという単純な話だけでなく、人の尊厳さえ踏みにじられていた。

今でこそ我が国は平和が続いているように感じはするが、ほとんどの人たちは戦争を経験していないし、脅威が迫っている現実に見向きもしない。

地理学あるいは軍事学的に考えて、我が国は非常に危険な場所にある。それを理解していない人が多い理由は簡単だ。それに気が付かないような社会が形成されたからだろう。

収容所に入れられ、人として扱われない苛烈な地獄を耐え抜き、生きて日本に返ってきた爺さんは、孫である私に何も話さずに世を去った。

凄い爺さんだと小学生並みの感想を持つことは容易だが、彼が私とよく似た思考や感性を持っていたと仮定すると、生きて帰ったこと自体に驚く。

当時の日本には、シベリア抑留で捕らえられた日本人を取り返す余力は残っていなかった。

終戦当時の連合国は、二度と歯向かうことがないように日本を徹底的に潰すつもりだった。

米兵が子供たちにチョコレートを配っていたが、そのチョコレートを買う金をどの国が用意したのかを知っている日本人は少ない。

国際的な取り決めに従い、ソ連に対して日本人の抑留を解くように働きかける国が現れるはずがない。

拡大する共産圏に対する最前線の砦として日本を使うという方針にGHQが舵を切り、この国を再軍備に向かわせた時期はもっと後のことだ。

また、シベリア抑留ではイデオロギーを変えるという強制があったそうだ。思想を変えることを拒んだ人たちは祖国に帰ることが困難になるという残酷なシステムだ。

爺さんの家の居間には皇族の写真が飾られていたので、どうやらイデオロギーは保たれたらしい。

実母の自衛隊嫌いは団塊世代によくある戦後教育の結果だな。

もとい、収容所での肉体的にも精神的にも絶望的な状況下に私がいたと仮定すると、耐えられずに衰弱して死ぬか、ほぼ廃人になって帰ってくるか、捕虜になる前に自決するか。

平和で豊かな現代で生きているからこそ私は適当なことを言っていられるが、その当事者であったならば大抵は想像がつく成り行きになっていたのだろうな。

シベリア抑留は長期にわたったそうだから、爺さんは職業人としてのスキルやキャリアを高める上で大切な時期を失ったということになる。

それでは、爺さんはどうして50代で仕事をリタイアしても生活することができたのだろう。

その答えはある程度の想像が付く。

自分のことを話すことが好きな実父から聞いた話では、実父が実母と出会って交際し、夫婦になろうと実母の実家、つまり爺さんに挨拶に行った時のことだ。

当時は実母よりも収入が低かった実父は、資産家でも名家でもなく、学歴も誇れたものではなかった。

実母の実家は結婚に大反対し、実父は爺さんから「どこの馬の骨とも分からん奴に娘はやらぬ」と言われたそうだ。

実母は別室で泣き続け、実父は爺さんだけでなく親戚一同に囲まれて厳しい言葉を受け続けた。

しかし、絶対に結婚するんだと、何度も実母の実家に通ったらしい。

ようやく爺さんに結婚を認めてもらった実父は、爺さんに連れられて町の家を一軒ずつ訪問して挨拶することになった。

田舎によくある古い風習だと言えばそれまでだが、爺さんが実父を家族の一人として町中に紹介したわけだから、実父としても嬉しかったはずだ。

その後、実父は実母と二人で共に連れ添い、先代が残した多額の借金を返し続け、還暦を過ぎて全て返済した。

実父いわく、こんなに厳しく長い苦しみを一緒に耐えてくれた実母に感謝しているし、頭の回転が速くメンタルがタフな妻だからこそ連れ添ってくれたと。

だが、その時の義実家への挨拶で、実父はとても憤ったことがあった。

爺さんと親戚たちに取り囲まれた完全アウェイの状況で、爺さんの姉から言われたセリフだったと記憶している。私も子供の頃に彼女に会ったことがある。背が高くて頭の回転が速そうな人で、息子が東京大学卒だったはずだ。

その人から「うちの家の財産を狙っているのか?」と実父は揶揄されたらしい。

「財産なんて1円も考えたことはない」と、若き日の実父は本気で怒った。

結婚前に義父母や親戚から言われたことは、いつまで経っても記憶に残るのはなぜだろう。私も自分が挨拶に行って腹が立ったことをきちんと覚えている。

爺さんは当時から酒好きで、アルコールに強くない実父は、自分が倒れるまで飲みに付き合った。

まだ結婚式を挙げる前なのに、実母の家で爺さんと酒を飲み、風呂場で全裸のまま倒れ、実母に助けられたこともあったそうだ。

結婚する前どころか、結婚した後の現在においてさえ私を家に一度も泊めてくれない浦安の義実家とは大違いだな。

実父と実母が結婚する際の仲人は、私の父方の家系の中で最も酒好きな親戚が引き受けてくれた。

あのオッサンですら楽しく飲んだそうだから、爺さんのアルコール処理能力は凄まじかったことが分かる。鬼の肝臓だな。

この思い出話と断片化した情報を繋げると、爺さんは40代ですでにかなりの資産を有していたわけだ。

本人が一代で築いたはずがなく、先代から引き継がれた土地や金ということだな。

爺さんは三男なので、封建的な田舎の論理であれば遺産を相続する立場にいなかった。

順番はどちらか分からないが、長兄が病死、次兄が戦死という悲しい出来事の後で働かなくても生きていられるだけの蓄えが自分にやってきた。

その状況は爺さんにとって幸か不幸か。その判別ができないような社会の潮流で漂流しながら生きたということか。

人は何かの目標があった方が生きることへのモチベーションが高まる。生きるか死ぬかという修羅の場から戻り、職業人として生きる力を養うことができず、けれど働かなくても生活しうる状況がやってきたとする。

ラッキーじゃないかと遊んで暮らす人もいれば、生きることの実感がなくて悩み続ける人もいることだろう。

爺さんは後者に該当するのではないか。私が同じ状況にいたならば、きっと苦しむはずだ。

酒を飲み続けて苦悩を紛らわせて現実的な思考から回避し、それ以外は財産があるといっても質素で慎ましい生き方を続け、自らの運に対して無理に抗うことなく、地道に生きたということか。

酒浸りになっていたことを除けば、爺さんは男として敬服に値する立派な人だな。学ぶことが多い。

男の生き様は死んだ後で分かると言うが、確かにその通りだ。

それからしばらくして、爺さんは妻子と共に同居する息子(私の叔父さん)に対して、生前贈与で財産を移したという話を実母から聞いた。

実母への贈与はほとんどなかったそうだ。実父は結婚の時のエピソードの通り、1円も受け取らなかった。

爺さんは家屋や自動車、食、旅行、衣装といった多くのことに関心がなく、愛人がいたという浮ついた話もなく、酒の銘柄も適当で、実に無欲な人だった。

私が幼児の頃はハンティングが趣味で何匹かの猟犬を飼っていた記憶があるが、途中からその趣味も止めて、田畑で農作物を育てたり、地域の集まりを大切にしてまとめ役を引き受けたりと、スローライフを30年くらい続けた。

いきなり烈火のごとく怒りだしたり、酔っ払いすぎて暴れることはあったけれど、とても地味な人だった。

彼はフィルターが焦げるまで煙草を吸うくらいの倹約家だったが、家族や親戚に対しては金をケチらなかった。

この性格も大変に興味深い。自宅から少し離れた墓地には、爺さんの両親や兄弟が眠る墓があったが、墓石の色や艶が違う。

普通によくある灰色の墓石に文字を彫っただけの墓石ではなくて、石の材質そのものが違う。

墓石のサイズは周りの他の家のものと同じくらいだが、かなりグレードの高い石を取り寄せたようで黒光りしていた。また、彫った文字の部分にも苔が生じないような塗装加工まで施されていた。

実父の話では、普通の墓石の3倍くらいの金額がかかるらしい。

爺さんのことだから、今の自分を支えてくれた先祖に敬意を示して、カタログの中から最もスペックが高い墓を選んで、後は職人に任せたのだろう。

自らの命が短いことを悟ったのか、古くて質素な自宅も建て替えることになった。

出来上がったのは、何とかホームが作るような一代でボロボロになるような戸建てではなくて、間違いなく数世代にわたって住むことができそうな頑丈な家だ。

玄関先に人の胸くらいの高さの巨大な岩が並べられ、水害に備えたのだろうか、家自体がリフトアップされている。

正面玄関の横には自動車を横付けすることができるスロープがあり、家の中もバリアフリーになっている。

建物を支える大きな柱は成人男性が両腕で抱えるくらいの太さで、しかも何本も用意されている。

爺さんの思考は謎が多いが、子孫のことを考えて可能な限りタフな家を作りたかったようだ。家を建てる土地はたくさんあったわけだから、建物だけで1億円くらいかけたのだろう。彼はそのようにキリのいい予算を好んだ。

彼は酒好きの割に長寿で、確か80歳くらいまで生きた。当時の私は独身だった。

爺さんの葬式は悲壮感がなく、自宅で行われた葬儀には地域の多くの人たちが参列してくださった。

彼は自分が住む町のことを大切にしていて、住民同士の冠婚葬祭の義理を守り、季節の挨拶や付届けを忘れず、礼儀正しかったということを私が大人になってから知った。

また、弔辞の際には彼の同級生が言葉をかけてくださったのだが、爺さんは若い頃は運動能力に長けたアスリートだったらしい。

私の勘違いでなければシベリア抑留を耐え抜いた爺さんは、その状況を乗り越えるだけの体力があったということか。

爺さんが寝たきりになった自宅の病床も見せてもらった。可動式のハイスペックなベッドの隣には、私を含めた孫たちの写真が飾られていた。

先祖や子孫を大切にした爺さんらしい最後の場所だな。彼が生き抜いたから私がいて、子供たちがいる。人はそうやって命を繋いできた。

その大切な活動が、社会の都合あるいは個人の都合で途絶えることが増え、少子高齢化がやってきた。

時は流れ、コロナの第一波がピークアウトした頃、実家に挨拶がてら電話をかけ、実父に爺さんのことを尋ねてみた。

爺さんが若い頃は、想像通り資産運用で生計を立てていたらしい。普通のサラリーマンが稼ぐくらいの利益はあったのだろう。

労働の対価として金を受け取るという形ではなく、先代が遺した資産に支えられた形の生き方はどのような感じなのか想像もつかない。それは実父も同じ意見だった。

謎が多い爺さんと比べて、彼の妻、つまり私の婆さんはとても分かりやすい人だ。

結婚する際の完全アウェイな状況においても、若き日の実父の話を建設的に聞いてくれたのが婆さんで、実父は今も彼女のことを尊敬している。

爺さんと婆さんはお見合いで結婚したそうで、縁談の場で夫婦になる気があれば、出されたお茶を婆さんが飲んで両家に合図するという手筈だった。

婆さんが相手を気に入らなければ、お茶に手を出さないという形で合図し、周りの大人たちが状況を察してその縁談をなかったことにするというわけだ。

当時にしては女性に選択の余地が残されていたことに驚くし、おそらく若き日の爺さんは女性とのフリートークが難しかったはずだ。相当に女性にモテなかったことだろう。

そして、お見合いの場で婆さんは話の途中でお茶を飲んだ。

婆さんは喉が乾いてお茶を飲んでしまったのだが、その行為は縁談を受け入れるという合図だったことに途中で気付いて焦ったらしいという話を実母から聞いた。

爺さんはその事実を知らないまま来世に旅立ったはずだ。

知らされない方が幸せなこともあるし、婆さんは金に困ることもなく長生きして今も存命なのだから、大変だったろうけれど良きパートナーだったと思う。

私が知りうる母方の祖父の話はこれくらいだな。

彼は私の子供たちにとっては曽祖父にあたる人物であり、私の孫たちにとってはご先祖というグループにまとめられることだろう。

話好きあるいは筆まめな一族でない限り、曽祖父のことはあまり知らされない。

知りたいか否かは別として、こうやってログを残しておけば、いつか子や孫が読む日が来るかもしれない。

これは私感だが、自分のルーツを知ることはとても楽しい。

他方、男の気持ちとしては謎多き爺さんとして世を去ることも素敵だと思う。

ヒットした「永遠の0」という物語を観るとそのような気持ちになる。

謎多き爺さんになるためには若い頃のエピソードが格好良くないと意味がないと私は思っていた。しかし、その考えは間違っていた。

爺さんのように地道に生きただけでも十分に価値がある。まるで1冊の小説のようだ。

その価値に気付いたことは、私にとって大きな気付きになった。とても勉強になる。