2020/12/02

ブログを続けると時間の流れが少しだけ遅く感じる

たまには観念的な録を残そう。6年以上前から様々なブログを立ち上げて、結局はHYPSENTという根暗なブログが残った。このブログを立ち上げたのは去年のことで、1年間で160件程度のエントリーを書き綴った。自分がどうしてブログを続けるのか、その意味を後方視的に考えてみたい。


自分の存在を他者が知ってくれることで大なり小なり幸福感を覚えるのは人間の性質なのだろう。ネットという道具がそのプロセスをより促すことになった。

この結果は偶然というよりも人間が望んでなし得た必然の世界という解釈になる。

しかし、四十路近くまで生きてきた成人男性が自らの本名でネット検索しても、該当するコンテンツがほとんどヒットしないことが多いはずだ。

何らかのスポーツ大会に出場したとか、地域の集まりに参加したとか、企業人であれば人材データベースとか。

職場のサイトのスタッフリストとか、官公庁や大手企業の幹部や管理職のリストとか。

ベンチャー系のIT企業では社員が積極的にネットに登場したりもするが、それは仕事において自分たちを紹介する必要があるためだな。

ネットに自分がいないからといって、無意味な生き方を続けているわけではないが、生きている中で自分が認められてネットで紹介されて悪い気がする人は少ないことだろう。

子育てを続けていると、子供たちが情報端末を使いこなすようになり、自分の父親の名前をキーワードにしてネットで検索したりもする。

とある地方の小学校では、IT関連の授業の中で「お父さんの名前で検索してみましょう!」という内容が本当に行われている。

自分の父親がネットでヒットすると、内容にもよるが子どもたちは誇らしく感じるようだ。

以前、うちの上の子供が私のことをネットで検索して、目をキラキラさせていた。

同時に、家庭では電車通勤で消耗して自室に引きこもっている私の姿とのギャップに驚いていた。

まあよくあるレスポンスだな。浦安という街で出会った大人たちも同じ感じだった。

その反応において我が子と他人の違いはもちろんあって、前者の場合には父の背中を追う目標のひとつとなり、後者の場合には集団の中でのマウンティングの基準になる。

けれど、ネットは現実の一部を切り取っただけの世界でしかない。

頼んでもいないのに自分のことがネット上に掲載され続けるのは、生きていく際に大した意味をなしていない気がする。

他方、世の中には様々なネット上のツールがあって、たくさんの人たちがネット上に自分を投影している。ブログもそのひとつだな。

ブログの楽しみに出会った時期と現在を比べると、ネットという世界が大きく変わった感じがある。

手作り感あふれる箱庭のようなホームページは、HTMLを知らなくても雛形でサイトを運営することができるCMSというシステムによって吹き飛ばされた。

その後、ホームページよりも気軽に更新が可能なブログが流行した。

しかし、SNSの登場によってブログブームも傾いている。

SNSにも栄枯盛衰があって、今ではユーザーの過疎化が進んだり、運営が終了したサービスが珍しくない。

匿名であればツイッター、実名であればフェイスブック、画像であればインスタグラム、知人同士であればライン。

動画の投稿が中心の簡易SNSについては運営がアレだということで展開が分からないが、その他についてはネットユーザーの需要に応じてサービスが普及して定着した感じがある。

だが、それらによって、この社会や人の生活は、より知的で豊かになったと言えるのか。

情報量ばかりが多くなり、人の脳が追いつかず、さらには人の孤独が広がってしまった気がする。

SNSを介した犯罪、とりわけ性的に異常な事象が相次いだり、誹謗中傷による自殺まで生じている。

一部の老人たちは若き日を思い出したかのように政治思想的なアジテーションを飛ばしている。SNSがビラの代わりか。

若者たちや中年たちは自己顕示欲や承認欲、あるいは不平不満を撒き散らしている。友だちを作るためではなくて、自分が目立ちたい。それだけじゃないのか。

これが人と人との繋がりであり、情報化した社会の姿なのか。

...と厭世的になったりもするわけだが、SNSは人の内面を出力する上で非常に便利なツールだな。

知性や教養、文章力に関係なく、無料で情報を発信することができる点も優れている。

何よりSNSには人の我や欲を充たす要素が多い。これからも衰えることがないことだろう。

一方、ブログのブームの隆盛期は個人の趣味から始まったことは確かだが、その始まりはプログラマーたちが業務において残していたログに源流があると私は認識している。

ブログにはホームページのような煩わしさが少なく、記事の連投が可能だ。

それらのブログにアフィリエイトの広告を貼り付けることで小銭を稼ぐシステムが導入されてから、とりわけ日本においてブログを始める人たちが激増した。

ブログを更新するモチベーションが他者に自分を紹介するというものではなく、いかに他者からのアクセスを集めて収入を得るのかという流れが生まれた時点で、ブログブームは衰退に向かって突き進んでしまったのだと思う。

しかし、それは人のサガなのだろう。人は欲求に素直な生き物で、とりわけ、オッサンはカネとエロと食と趣味には懸命になる。

情報の発信者のことなんてどうでもよくて、発信者に感謝することもない。自分の欲する情報がネット上にあったというだけの感覚だろう。

アフィリエイトブログで小銭を稼ぎたい人たちにとって、手っ取り早く欲求に繋がる情報を得たいネットユーザーは絶好の標的だったわけだ。

アクセスしてきた人たちが感謝してくれたり、自分に興味を持ってくれることも期待していなくて、アクセス数とアフィリエイトの収益という見返りで満足するという関係だな。

まあそのようにブログを使って金銭欲に走りたい気持ちも分かる。

日本の社会では、成人するかどうかという時期までに学歴の線引きが終わり、それに付随して職業人としての行き先が方向付けられることが多い。

一度でもレールの上に乗ってしまえば、三十路や四十路にどれだけ努力しても期待した以上には収入が増えず、逆にレールを踏み外すと元に戻ることが難しくなる。

加えて、自分が生まれた家庭の経済状況、あるいは伴侶となった相手によっても金回りは変わってくる。

少しでも楽に金を稼ぎたいという人間の欲は、ネットにおいても保持されたままだ。さらに、職に就いていない人たちにとってはアフィブログが貴重な収入源になったのかもしれない。

アフィブロガーによる他者のサイトの文章や写真の無断使用も増えた。

一方、ブログブームの初期に個人サイトを継続していた人たちの多くは、ネットユーザー同士が繋がって短い文章や写真を投稿し、他者からのレスポンスをもらえる...ことがあるSNSに移行することが増えた。

ブログサービスの中にはユーザー同士を繋げる機能が付加されたものがあるが、あまり流行っている気がしない。

短文や写真で情報を発信することができるSNSの方が、ブログよりも楽で拡散が早いということも背景にあるのかもしれないな。

趣味としてブログを続けている人たちの多くは、自分が見つけた楽しさ、もしくは耐えている苦しみを誰かに伝えたいという気持ちがあることだろう。

ブログを集めて紹介してくれるサービス自体が過疎化で傾き、ネットユーザーがSNSに集まるような状況では、あまりアクセスしてもらえないブログを更新することに意味を見いだせず、モチベーションも上がらないという構図になる。

その結果、日本語のブログの場合には更新が止まって放置された無数の個人サイトが、まるで卒塔婆のようにネット上に漂っている。ブログブームの夢の跡だな。

とりわけ、ブログブームにとどめを刺したのは、最近になって行われたGoogleの検索アルゴリズムの大型アップデートだと思う。

アップデート前は、検索エンジンの性質をネットユーザーが分析して、自分のサイトが検索でヒットしやすいようにキーワードや画像を工夫するというSEOが有用だった。

しかし、アップデート後は検索エンジンの性能が飛躍的に向上し、AIが一般的なネットユーザーの知性を超えたことを実感する。

この変化によって、検索からサイトへのアクセスに依存していたアフィブロガーたちは大きな打撃、要はアクセス数の減少による広告収入の減益を被った。

それでもブログが儲かると喧伝しているのは、時代遅れのSEOという情報商材でツルハシビジネスを続ける人たちであり、彼らとしても収入源に困っていることだろう。

有名なアフィブロガーたちは、真っ先にYouTubeに参入して収入源を確保しようと躍起になっている感があるが、そこにはすでに古参のユーチューバーたちがいる。

併せて、アフィブログでは儲からないと考えた人たちが大挙してYouTubeでコンテンツを投げ込んでいる。

そこにコロナ禍で仕事が減った、あるいはトラブルによって出演の場を失った芸能人たちが参入し、もはやカオティックな様相を呈している。

素人感があった頃のYouTubeは楽しかったが、広告収入による利益があると分かれば、それを目当てに人が集まる。

その点ではブログもYouTubeも同じだな。膨大な数の人たちの我欲がGoogle社に影響を受けているわけだ。その影響の源がカネというところが人間っぽくて興味深い。

回想してみると、ブログブームは2005年から2010年くらいがピークだっただろうか。

2015年くらいになるとネット検索で鬱陶しいくらいにアフィブログがヒットするようになったが、個人が純粋にブログを楽しんでいたのは今から10年くらい前だったと思う。

「1ヶ月のアクセスが何万ページビュー!」と浮かれている人たちがたくさんいたな。

現在でも、相当に周回遅れな人がアクセス数を誇っていたりもする。

サイトを閉じてしまえば、その後の人生でほとんど何も残らない活動で時間を消費していたことに気づく。

ブログを更新し続ける気がないのであれば、潔くサイトを閉じてネットのリソースを増やせばいいのに、それができずにネットデブリばかりだ。

一時は熱中していたことを消し去るのが怖いからだろう。今際の時にはブログだけでなく人生そのものが同じような感じになる。

たった10年でブロガーの多くはSNS、とりわけツイッターに移行し、人の内面が吐き出される海で泳いでいる。

短文や写真を発信してたくさんの人たちと繋がっているように思っているのは自分だけで、ほとんどの人たちは気にかけてもいない。

その証拠がリツイートやいいねに表示される。自分が誰からも相手にされていないことを晒しているわけだから、見方によっては残酷なシステムだな。

けれど、ブログを止めてSNSに移行した人たちの気持ちは分かる。昔のような箱庭の楽しみはすでに消え失せた。

たくさんあったブログ村は過疎化が進み、どの家を尋ねても人がいないような状態だな。

検索しても個人ブログがヒットしないような環境では、コンテンツを更新する気がなくなり、手っ取り早く自分のことを発信するツールに気持ちが向かうということか。

SNSで自分のブログを紹介して、更新をアナウンスするユーザーまで見かけたりする。なるほど素晴らしいアイデアだな。そこまでして自分のことをアピールしたいのか。

それにしても、最近のGoogleの検索エンジンのアルゴリズムのアップデートは興味深い。

ブログのキーワードや画像だけでなく、全体の文脈や細かな類似性まで検索エンジンが分析している。

以前の検索エンジンにもそのような機能はあったが、格段にアルゴリズムが進化したな。

例えば、「浦安 ロードバイク」というキーワードはHYPSENTの録に頻繁に出てくるが、このフレーズでは検索エンジンでヒットしない。

浦安のロードバイク乗りが求めているのは、浦安市内のプロショップであったり、浦安市を起点もしくは目的地としたサイクリングコースだと思われる。

ロードバイクを健康器具として使っているオッサンの生活録なんて、知人以外は誰も必要としていないと検索エンジンが判断するのだろう。

他方、「P連 退会」というキーワードで検索するとHYPSENTの録が上位にヒットする。

この録には、浦安市P連の課題、あるいは単位PTAがP連を脱退して実質的にPTOになるまでの情報が細かく記載されている。

これまで引き継がれていたP連の意義や問題点がコロナ禍によって表面化し、P連からの退会を考えているPTAが全国規模で増えているそうだ。

特に話が揉めることもなく圧倒的賛成多数でP連を退会したという話は、そのような状況に適した情報と判断されたわけだ。

ネットのキーワード検索によってHYPSENTにアクセスしてくる人たちの多くは、手っ取り早く情報を得たい人たちばかりだ。

そのエントリーを書いた人のことなんて何も興味がない。その他の多くの個人ブログも同じ状態なのだろう。

このような環境では、ブロガーのモチベーションは大なり小なり削れる。

ネット上で他者によって認知されないブログを地道に更新しても楽しくないだろうし、検索エンジンの好みに合うようなエントリーを綴ることに意味はない。

そのような用途であればSNSを使えということか。

だが、SNSは人と人が繋がって楽しむという理想を叶えることができたのだろうか。逆に疲れる世の中になったし、人は自分が思っている程には他者に興味や関心がない。

それらがあるとすれば、他者に対して何らかのメリットがある場合だろう。

最近の検索エンジンのアルゴリズムは、利己的な人間の性格に合せて進化しているということか。

それでは、この先のネット社会はどのような形になっていくのだろう。

すでにAIが人の感情や思考を学習して出力する時代になってきた。

現段階のAIは、機能もインターフェイスも不完全だ。人間の様々な活動を補完するような存在になってはいるが、所詮は道具だ。

しかし、近い将来、ネットという実体のない世界においては、AIと本物の人間の見分けがつかなくなるかもしれないな。

SNSでのネットユーザーたちのやり取りを眺めてみれば分かることだが、大して難しくもない短文のフレーズが多い。

小学生でも書けそうな平易なメッセージを大人が投稿しているとも言える。

SNSのユーザーたちが何を望んでいるかというと、自分が発したメッセージを誰かが受け取って理解してくれたり、共感してくれたり、認めて拡散してくれたり、褒めてくれたり、励ましてくれる存在なのだろう。

もしくは、自分が欲している情報を伝えてくれる存在、人によっては性的衝動の一部を充たしてくれる存在か。

女性のネットユーザーに絡むエロ親父たちは後者の典型だな。リアルでは大したことがないのにネットでアクセスを集めて満足している女性も似たようなものだが。

けれど、実際には多くのユーザーが情報を発するばかりで、他のユーザーからのレスポンスは少ないことだろう。

ネットによって情報面では便利な世の中になったけれど、逆に煩わしさや孤独が深まったようにも思える。

そのような時、自分が発した情報を真正面から受け止めてくれて、いつも気遣ってくれるようなネットユーザーがアクセスしてきたら嬉しく感じるはずだ。

その相手がAIであっても気付かない時代も近い。テキストの情報ではなく、音声によるAIとのコミュニケーションも飛躍的に進化するはずだ。

この分野においては激しい開発競争が繰り広げられており、ネットユーザーたちは自分が気付かずに開発のための個人データを提供している。

小説や映画の世界観まであと少しだな。ナイトライダーで登場したキットとか、動きは拙いだろうけれど連れ添って話し相手になってくれるドラえもんのようなデバイスがあれば楽しい。

老人介護や受付案内、スーパーの支払い、さらには市役所の職員の代わりまでAIが担当するという話を聞いたりもするが、夢物語ではない気がするな。

そのような正の面だけではなくて、もっと人の欲に繋がるAIも実用化されることだろう。SFでたまに見かけるセクサロイドも実現するだろうし、一体、どのような社会になるのだろう。

このように情報通信技術が発展する潮流において、私がどうしてブログを更新し続けているのか。

通勤中の暇潰しという面もあるが、共働きの子育てが忙しくて時間がすっ飛んでいくように感じ、しかし残りの人生が限られていることを感じる毎日の中で、自分が何を経験し、何を考えたのかをデータとして残しておこうと思った。

HYPSENTのサイトを立ち上げて、たった1年しか経っていないが、録を振り返ることで思い出すエピソードはたくさんある。

また、同じ季節がやってきた時に、相変わらず同じことで悩んでいたり、少しは仕事や家庭が良い方向に向かったりという進捗が分かる。

つまり、歳をとると時間の流れが速く感じるという現象は、脳に入力された情報の中から繰り返しや重複に該当するデータが消去されることに起因しているのかもしれないな。

もっと噛み砕いて言えば、歳をとれば忘れっぽくなるということは誰にでもあって、様々な記憶と一緒にその分の時間の感覚がなくなるというわけだ。

この変化には加齢による脳の器質的な衰えも関係するはずだが、同じ食べ物を食べていれば飽きるかの如く、同じ生き方を続けていれば生きることに飽きる。

同じ生き方に飽きないために、過去に経験した内容と似た情報が脳に入ってくると、それをスキップするという仕組みがあるとすれば分かりやすい。

子供の頃の夏休みがとても長く感じたり、新婚時代の記憶が甘く美しいイメージとして残っている理由も察することができる。

私の場合には、このブログを生活録や遺書として使っているだけだが、短文でも日々のことをログとして残しておくと、時間の流れが少しだけ遅く感じるはずだ。

記憶とともになくなってしまう時間の感覚を呼び戻しているからだろう。