2019/12/18

金縛り中の思考を楽しむ

趣味のロードバイクサークルというプライベートな人間関係のトラブルが影響して、繁忙期にも関わらず仕事が滞ってしまった。


その分を取り戻すために休日に出勤して働くことになった。前回のロードバイクの実走の翌日から一日も休めていない。

それにしても、趣味の世界での人間関係はカオティックだ。仕事の場合にはセレクションがかかるので空気も距離感もある程度は分かる。

しかし、PTAや自治会もそうだが社会人のロードバイクサークルにおいても様々な人たちが集まる。

やる気のある無能が最も困るというゼークトの組織論ではないが、深く考えずに勢いで突き進むタイプの人とは距離を置くことが大切だな。

休日だと思っていたところで仕事になると身体が重い。さすがに憤怒と疲労が蓄積している。

労働時間の過労死ラインがすぐ近くまで来ていて、終電を逃してタクシーで帰宅することもある。

そもそも私のようにコミュニケーションが下手で度量の狭い男がサークルを立ち上げること自体が無理だった。

サークルの世話人として使っていたメールアカウント自体を削除し、出会った人たちの連絡先も全て消去したら気分が楽になった。

親しいロードバイク乗りたちには携帯電話の番号を伝えてある。何かあればショートメールで連絡をとろう。

さらば友人たちよ。機会があれば再び走ろう。

しかし、職場に到着すれば存分に働く環境が待っている。全力で取り組んでも絶対に終わらない壁を登る。

壁を乗り越えることを目指さず、とにかく登り続けること。それが大切だな。

共働き子育てと長時間通勤という重荷が背中に乗っている状態では壁を乗り越える力が出せないし、焦っても仕方がない。

「これって、今やる必要ある?」という年末の雑務が一段落して、さてここからが私の本来の仕事だ。

そして、最近では定番となっているモンスターエナジーを一気飲みしてから、普段の生活では重荷でしかない感覚過敏を使って仕事を進める。

五感が鋭くなると対象のわずかな差違や変化に気づくが、脳には大量の情報が流れ込んでくる。

ギフテッドや発達障害をもった子供、あるいは大人であっても思考がオーバーヒートして感情が発火することがある。

そのメカニズムが違っていたとしても、おそらく脳への情報の流入が関係しているのだろう。

しかし、過敏な感覚によって雪崩のように脳に押し寄せる情報を光に例えれば、虫眼鏡のように光を一点に集中させることでエネルギーが高まる。

虫眼鏡に入ってこない光については気にしない。私の場合には、このような感じで過集中を仕事のために使っている。

数年前に家庭と通勤のストレスでバーンアウトしかけた時には過集中が使えなくなって苦しんだ。今も本調子ではないが、少し無理して発動させている。

「なにカッコつけてんだよ!中二かよ!」と批判されるかもしれないが、私の本職を理解することができれば「どうぞ、感覚過敏でも過集中でも存分に使ってくれ」となるだろうか。

たぶん現実味がなさすぎて理解し難く、実際に苦しんで助けてもらってから気づくのかもしれないし、すでに自分たちが守られていることさえ理解していないと思う。

私の場合には感覚過敏や過集中を仕事に使っているが、それらの応用に自分自身で気付いたわけではなくて、気付いたらここにいた。

その道程では多くの方々からの支援や励ましがあった。自分の努力だけで前に進むことは不可能だった。

仕事へのモチベーションが何かと言えば、それは今までの恩返し。それと中二的なヒロイズム。

子供の頃から自分の存在を希薄に感じていたので、なんだかこう生きていることを実感する仕事が必要だった。

遅れていた分の仕事を少しずつリカバーしていく。

仕事のミスが直接的に誰かに迷惑をかけるものではなくて、私自身が取り戻せば済む話で助かった。

この年末に激務を何とかこなしていられるのは、妻のお陰だと思う。

いつもは仕事と子育てでイライラしてブチ切れることが多い妻が、さすがに夫が厳しい状況にあると察してくれたようで気遣いを感じる。

「妻よ、ありがとう」と、家事や子育てをほとんど丸投げして仕事に打ち込む。

「なんてことだ!」と批判がやってくるかもしれないが、私の仕事は苦しんでいる人たちを救うことだ。

そうやって批判する人たちだって、いざ自分が苦しんでいる時には「誰か、助けろ!」となるのだから。

しかし、家庭における私自身のペナルティは必要だと思ったので、私の冬のボーナスを全額、子供たちの学費のための口座に入れることにした。

私が電車通勤を苦手としている理由はたくさんあって、音や臭い、知らない人との接触などが辛い。

しかしそれら以上に苦痛なのは、社会心理の現実を感じてしまうからだと思う。

スマホゾンビと批判されることがある歩きスマホはその典型だが、多くの人たちは自分のことばかり考えて生活している。その基盤にあるのは人の「欲」だと思う。

私は満員電車での通勤や駅での乗り換えを「地獄」と表現することがあるが、まさに人の欲が溢れている。

電車に限らずツイッターの世界でもそれが顕著だ。常に、自分、自分、自分。

ツイッターに罪はなくて、人の内面を映し出すにはあまりに便利すぎた。

苦しんでいる人たちを助けようと仕事を続けている人たちにとっては、そういった人の欲がモチベーションを削る。

仕事とはいえ、ここまで自分のことしか考えていない人たちを救う意味はあるのか。自分が苦しんでいる時に助けてくれるわけではないのに。

しかし、ここで中二的なヒロイズムがモチベーションとして加わると意味合いが違ってくる。

自分の役目を果たすことが目的になると、他者がどうとかは関係なくなる。

そして、仕事が一段落して終電に乗って浦安に帰る。翌日の日曜日も仕事だ。歯磨きだけをしてから布団に倒れ込む。

翌朝の日曜日のことだった。

私は人の気配や生活音があると安眠できないので、妻や子供たちとは別の部屋で一人で寝ることにしている。

目を覚ますと、部屋のカーテンが強烈な夕焼けを浴びているかのようにオレンジ色に光っている。

おかしいなと思ったが、その光景が美しいと感じたので布団の上で休むことにした。

すると、妻や子供たちが起き出してきたようだ。妻は料理を作る時に菜箸で鍋やフライパンの縁を叩いて、箸の先に付いた食材を落とす癖がある。それがとてもうるさい。

子供たちが腹を空かせたようで、妻に向かって何か言っている。妻がイライラして大きく甲高い声で叱っている。

ああ、うるさい。

私は眠る前に高性能な耳栓を付けて眠る習慣がある。

家族の生活音だけでなく、新浦安に限った話なのかどうか分からないが、このエリアに新聞を配達してくれる人たちの原付バイクの音がうるさい。

かなり早起きして観察すれば分かるが、新聞配達の人たちは住宅街を勢いよく走り回っている。

聴覚過敏がある私は新聞配達の音だけで目が覚める。うるさいと抗議したところで分かってくれる感じがしないので、耳栓を付けた方が話が早い。

そういったこともあって、とにかく聴覚を抑えるために耳を塞いでいるわけだ。

しかし、終電に乗って帰ってきて、あまりに疲れたのだろう。耳栓をつけ忘れたまま眠っていた。

カーテンは真夏の昼間よりもさらに強く光っている。不思議だな。

枕元に置いてある耳栓を取って耳につけようかと思ったその時だった。

両手が全く動かない。身体を動かそうとしてもピクリとも反応しない。

それどころか、呼吸が浅すぎて苦しい。心拍数がどんどんと上がってくる。

ここで鑑別に挙がるのが心筋梗塞や動脈瘤破裂などの循環器系の疾患だろう。

いや、両手足が動かないことから考えると脳梗塞などの中枢神経系の疾患だろうか。

うつ病の場合には身体が重く感じ、生きる気力もなくなるそうだ。

しかし、今の私は疲れてはいるが、日曜日はサイクリングか仕事のために浦安という気に入らない街から一時的であっても脱出...いや、職務を果たすために出勤したい。

家族の生活音がするので、助けを呼ぼうとするが声が出ない。

働きすぎて過労死しかけているのか!?

やばい! !

マジやばい!!

...なんてね。

普通ならパニック状態になって慌てるだろうけれど、私は子供の頃から同じようなことがあるので慌てもしない。

よくある金縛りだな。

現在の私の状況は、目が覚めたと自分自身が思っているだけで、実際には閉眼の状態なのだろう。

体勢はおそらく仰向け。カーテンのオレンジ色の光は眠る前に切り替えた時の常点灯ライトの色だな。

身体は眠っていて、脳も眠っている。しかし、脳の一部が覚醒して意識があるという睡眠麻痺の状態なのだろう。

このようなことを書いていると、「薄ら笑いのダンディ」と私なりに名付けた浦安の元町のロードバイク乗りが、大好きな酒の場でネタにして薄ら笑いを浮かべることだろう。

薄ら笑いのダンディについては機会があれば書くが、私が浦安市内で早○田大卒の父親を異様なまでに警戒するきっかけになった人物。

この人に限らず、自分の見識や感覚の範囲でしか物事を考えることができない人は多い。

自らをアピールして懸命にマウンティングを繰り返し、承認欲求を充たそうとするものの中身が残念。ハイスペックな凡人の限界というか、絶望するくらいの優秀さがない。

単なる思い込みかもしれないが、そういった人たちの共通項がWマークだった。保育園の父母会や小中学校のPTAで頑張っていた父親もいたな。

もちろんWマークにも色々な人がいるはずなのだが、どういうわけか浦安の子育て世代の父親に限るとその傾向がある。

銀杏の紋章やクスノキのエンブレムを授けられた父親たちは仕事が忙しくて、プライベートでマウンティングに精を出す余裕はないけれど。

いいよ、ダンディ。その薄ら笑いが素敵だよ。君が勝ったんだね。

どうしたんだい、ダンディ。薄ら笑いがなくなったよ。

誰かに負けて悔しいのかい? 負けることもあるさ。その小さな池の中で精一杯泳げばいい。

他方、IQ180のショートスリーパーのような超人が普通に歩いているような職場にいると、もはや人と違ったところがあっても驚かない。

人のルックスや身体能力にも相違があるのだから、脳機能に相違があっても何ら不思議ではない。

もとい、金縛りという事象は私にとってあまり珍しいことではなくて、最近の激務の中で感覚を上げて、過集中を意識的に発動し続けていたので無理が来たのかなと思った。

眠っている間にも脳のどこかの部位が働いていたのだろう。

それにしても息苦しい。

金縛りという言葉は仏教用語で不動明王が煩悩をフリーズさせる時に使う技だと理解している。

そのロジックだと、私の煩悩を金縛りで凍結させると全身が動かないわけだから、即ち私は煩悩の塊ということか。

しかし、諸外国の場合には、金縛りの状態における息苦しさについての表現が多かったりする。

悪霊とか悪魔とか、そういった恐い存在が眠っている人の胸の上に圧し掛かっているのだと恐れたことがルーツなのだろうか。

しかし、リアルな金縛りの間に私は思った。この息苦しさの正体は、睡眠時と活動時の呼吸の違いなのかもしれない。

身体は眠っているが、意識はあるので起きている時の呼吸をしようとする。起きている時のように呼吸ができなくて苦しい。

普段の金縛りの場合には、息苦しくてもがいているうちに目が覚める。悪い夢だった的な気持ちで目覚める。

しかし、この日の金縛りは何だか違う。

あまりに疲れすぎていたのだろうか、もう少し眠っていたいという気持ちの方が強くて、一部の意識を除いて心身が目覚めることを拒否している。

それ以上に不思議なことは、夢と意識が混ざっている状態が金縛りなのに、今の私は意識が明瞭で思考において夢のように朧気な要素がない。

仕事において、オーバードライブと中二風に表現している過集中を発動させすぎて脳に負荷がかかっていたのか。

ただ、この状態は極めて興味深い。普段の日常ではロックされていて取り出せないはずの記憶が簡単に取り出せる。

ベビーベッドに乗っている時の記憶はさすがに難しいが、親元を離れて祖父母に育てられた幼児期の記憶、少年期、青年期。

ああこれは新婚旅行の記憶だな。美しいビキニ姿の妻だ。当時はとても優しい人だった。

それと、この記憶は不愉快なロードバイク乗りたちの思い出だな。

出会ったロードバイク乗りのほとんどが合わない人たちだった。気の合う人の方が珍しい。

いや、むしろ私自身が誰とも合わせられないということだろう。

おおこれは懐かしい。私は一度、本当に死にかけたことがあって、その時もこのように無意識の中の意識を味わっていた。

よく、走馬燈のように記憶が流れると言うが、確かにその通りで今のように記憶が流れた。

日本では三途の川という表現がある。医療や社会が未発達な社会では死がもっと身近な存在だったことだろう。

昭和の初期でさえ、逆子で子供が産まれて女性が亡くなることがあったわけだから、三途の川のイメージが生まれた時代は生死の狭間を漂って戻ってくる人が多かったに違いない。

その時に脳に映ったイメージが口伝で広まり、同様の体験をした人が現れて説得力を持つようになったのだろうか。

確かに大昔の日本における生活では河川の存在が非常に大きかった。移動にしても、食糧の確保においても、農作物の被害にしても。

そこの筋で考えると、三途の川というイメージがどうして河川をベースにしているのかという仮説の一つが成り立つかもしれない。

それと、オカルト系のジャンルで家の中に宇宙人が入ってきたとか、枕元にご先祖様が立っていたとか、そういった話を真面目に話す人たちを私は馬鹿にしない。

睡眠麻痺の状態では、脳で処理しうる意識とその水面下に広がる無意識が混ざったような状態になるのだろう。

もちろんだがそれらは現実世界では生じえない事象であって、神経細胞を行き交う情報伝達によるものだと私は解釈している。

しかし、本人の脳の中ではそれを現実だと認識してしまうわけだ。

そういえば以前、哲学分野で水槽の中の脳というトピックが盛り上がったことがあったな。

ハリウッド映画の「マトリックス」や、マトリックスの監督たちがどう考えても真似したと思える日本の攻殻機動隊の世界観もこれに通じる。

もしも人の脳を模した高性能なコンピューターが開発され、そこに私の脳細胞のデータが完全にコピーされた時、そこにいるのは私なのだろうか。

昔なら夢物語だが、最近では脳とコンピューターとを繋ぐブレイン・マシン・インタフェースの研究が進んでいる。

人間が眺めた簡単な文字や風景ならば脳から出力してデジタルデータに変換して画像化することができるようになった。かつてのテレビの開発のようだな。

そこに謎があれば解き明かしてみたくなり、それが可能であれば実現してみたくなるという人間の本能のようなものか。

明瞭な意識がある金縛りはまだ続く。しかし、眠っている状態なのでロジックが飛ぶ。

現実にはどれくらいの時間が流れているのだろう。子供たちが休日に朝食を食べる食器の音から考えると1時間くらいか。

うちの子供たちは父親がアレなので食事中に読書に入ったり空想に励んだりと忙しい。

意識の中では部屋の姿がきちんと視覚野に映っている。カーテンからもの凄い量の光が差し込んでいるが、いつもの部屋だ。

妻や子供たちの音がうるさいという感覚は、別に夢でもなくてリアルなことだ。後で時系列を確かめても、やはりその時間帯はうるさかった。

しかし、耳栓を手に取って聴覚を塞ごうとしても、身体が全く動かない。夢の中なのだから当然といえば当然だが。

金縛りの中で冷静に物事を考えている自分がここにいる。なんだこの感覚。とても興味深い。

しかし、意識がクリアになるにつれて、睡眠麻痺が解けてきている感覚がある。

私はもっと大切な答えが欲しかった。

それは「生きることの意味は何か?」という哲学的なこと。

脳に記憶された情報が容易に取り出せる今なら分かるかもしれない。

知りうる限りのたくさんの人たちの生き様が視界に流れた。

今まで生きてきて助けてくださった人たちの笑顔や、涙が出るくらいに嬉しかったエピソードがスナップショットのように、そしてプラネタリウムのように映り、しばらくして真っ暗になった。

ようやく身体が動くようになった。

枕元には小さな人影が立っていた。下の子供だな。

「パパ、いつまで寝てるの! 起きて!」と。

ああ、もう少しで答えが分かるはずだったのに。

午前3時に寝て10時に起きたので睡眠時間は十分だ。そこからの日曜出勤で帰宅は深夜になることだろう。

平日より空いた電車の中で座席に座り考えた。

誰かを恨み続ける人生ほど不幸せなことはなくて、誰かに感謝し続ける人生ほど幸せなことはないと以前から感じている。

不快に感じる人たちは意識から外して無視すればいい。

人生が終わる時もこうやってお世話になった人たちの姿が映るのであれば、残り限られた人生で地道に生きねばと思った。

それと、私が鬼籍に入る時には静かにしろと妻子に言っておかねばなるまい。

自宅なら今回のように生活音がうるさいし、病院なら「お父さん!お父さん!」とうるさくて仕方がない。

耳栓は必須だな。ナースにお願いしておこう。