心の中のアバターと同居する生活
2019年以前の5年間は、夫婦共働きの子育てと長時間の電車通勤で苦しみ続けてバーンアウトを起こし、リハビリを含めて職業人としての多くを失った。
子育てや通勤のストレスは引き金に過ぎなくて、直接的な事象としては中高年の男性の更年期、つまりミドルエイジ・クライシスではなかったのかと言われれば、確かにそのような気がしなくもない。ストレスに耐えるためのホルモンが減ったということか。
けれど、妻が苛ついて甲高い大声を上げたり、今でも変わらない千葉都民としての鬱陶しい電車通勤の度に心拍数が上がるのだから、それらは単なる誘起因子ではなかったのだろう。
似た境遇になって絶望している父親がいれば、数行でも構わないので、毎日の日記を残しておくといい。
トンネルの先には必ず光があるので、回復した後の記念になる。朽ちる頃には笑い話になるはずだ。
振り返ると多くの記憶が断片化して思い出せず、5年間という決して短くない期間が一瞬で過ぎた感じがある。
だが、実際には確実に時間が過ぎ去っていて、まるで壁に爪で血文字を書いたかのような心情が残っていたりもする。
自分が思ったように心身が動かないという、表現通りに悪夢の中で生きている感覚があった。
そのような辛い記憶ばかりを蓄積させると精神に負担がかかるため、人の脳は記憶を断片化させて風化を待つのだろうか。
当時は余裕がなかったのだが、最近になって気がついたことが二つある。
その一つは、家庭や地域、職場といった様々な場所での人間関係の脆弱性。
私の場合には、苦労しながらではあったが、出勤して働くことは可能だった。
しかし、苦しみ続ける毎日の中で、一体、どれだけの数の人たちが悩みを聞いて助けてくれたのかというと、愕然とするくらいに少なかった。
共働きで子育てを続けている夫婦は余裕がなくなることが多いはずだ。
家庭という最小単位の人間関係さえ不安定になった。
では、浦安という地での人間関係はどうなのかというと、地域の繫がりなんて全く頼りにならなかった。
ロードバイクサークルで出会った人たちとのライドは、自分を保つ上で大切な存在だったが、サークルの活動が停止すると、それまでの繫がりは海辺の砂の城のように跡形もなく消えた。
仕事においては、助けてくれたり、気を遣ってくれる同僚がいてくれた。とてもありがたいことだ。
しかし、知らないふりをして見放す人やこれを契機にアピールを繰り返して出世を狙っていくような人もいた。
あくまで一般論だが、徳があって有能な人が出世するのではなく、他者を蹴落としてでも上に媚びへつらい、立場によって部下の成果を吸い上げるような人が出世するような職場は凋落する。
もう一つは、本心とは別に自分の言動をコントロールする思考の存在。
周りは目まぐるしく変化していくのに、自分の中では感情が枯渇して時間が止まっているように感じる不思議な時期だった。
その頃から私は家庭や職場において「役」を演じることで過ごした。
感情がなくなってしまったので、「父親ならばこのような言動だろう」とか、「職業人ならばこのような言動だろう」という感じだ。
まるで自分のアバターを遠隔操作しているようなイメージだったので、私はこの人格らしきものをアバターと呼んでいる。
これはスピリチュアルでもオカルトでもサイコホラーでもなくて、私という主人格とは別に仮想人格のようなアバターを頭の中に用意して、それを経由して話したり行動するわけだ。
主人格がバーンアウトして出力することが難しくなり、これ以上の負荷がかかると生きることを諦めてしまうと絶望的になっていたところ、アバターが自分を動かして、家庭や仕事を維持してくれるようになった。
アバターが出現した時期を特定することは容易だな。以前、妻が観測史上最大の激怒で大暴れして、あと一歩を踏み出せば離婚するという事態になった。
当時の私は、バーンアウトが進んでいて感情がなくなり、妻が喚き散らしている姿を冷静に眺めていた。
妻は病気なんだと思って連れ添っていたが、本人が診療を拒否するのだから仕方がない。
これでは家庭が成り立たないと諦めかけて、離婚の手続きについて話し合うタイミングで、下の子供が泣きながら仲裁に入った。
小さな身体で懸命に家庭を守ろうとする姿を見て、下の子供に対してとても申し訳なく思った。
その切羽詰まった状況で激しい耳鳴りがして、私の思考が遊離する感じがあった。
中二的要素が豊富な展開だが、事実は漫画やアニメのように格好の良いものではない。限界を超えた負荷が脳にかかった結果だ。
妻への怒りではなくて、私自身への情けなさや不甲斐なさといった自己否定が心の中を取り巻いて、自我が蒸発した感じだった。
私からの一言で、この家庭は崩壊すると思った。
しかし、今から振り返っても不思議なのだが、その時、私は「子供たちが自立するまで夫婦として連れ添う。夫として、父親として役を演じる」と妻に伝えた。
本心とは違ったのだが、自然に言葉が出た。
夫や父親の役を演じるなんて、今まで考えたこともなかった。
一体、誰がこのフレーズを言っているんだ。自分が言っていることは間違いないはずなのだが。
互いに素を出して激昂する夫婦喧嘩は見方によっては健全だな。互いに包み隠さず素の姿で言い合うから派手なバトルになる。
他方、夫が役を演じるということは、本当の自分を閉じてしまうということだ。
妻としてはショックなことだろう。
しかし、慣れとは大したもので、その生活が1年も経つと、アバターとして動かしているだけの私が家族にとっての私になった。
かつての私よりもアバターで動かしている私の方が気が利くし、言動が穏やかだ。
普通ならばどうかという言動をトレースしているのでリアクションが遅れるが、キレやすかった頃の妻が要求していた夫の理解や察しという部分が、私の言動の中に少しは含まれているのだろう。
家族や同僚から見た場合、私がアバターを操作しながら生きていても、素の自分のまま生きていても、大して見分けが付かないらしい。
むしろ、私自身の個性を消して、分かりやすい父親像、あるいは同僚像を演じていた方が付き合いやすいようだ。
本気で父親として生きるのであれば、もっと妻や子供たちのことを想う感情が強いことだろう。
それは良いことばかりではなくて、自分の感情を隠さずに発言したり、行動に出ることがあるはずだ。
父親というアバターを遠隔操作しているくらいの方が、妻や子供たちにとっては対応が楽だと思う。
期待した発言が期待したタイミングでやってきたら、誰だって居心地が良いことだろう。
子育ては夫婦あるいは親子の我が衝突するからこそ大変で、夫婦共働きになるとさらに遠慮がなくなる。
だが、それらの衝突は、家庭という環境でお互いの素を見せている結果でもあって、自然な家族の姿だ。
しかし、私の場合には、あえて素の自分を出さない方が夫や父親として歓迎されている気がしてならない。
それは私自身の内面で処理することであって、家族には分からない。
家族が気づいていることがあるとすれば、自室に引きこもっている時の私が本来の私だということくらい。
仕事においてもそうだな。
職業人としての矜持を高めて、時に上司と対立してでも自分の方針を貫くというのが、これまでの私のやり方だった。
しかし、アバターのように振る舞っていたら、とても分かりやすく敵が減った。
では、アバターとしての私ではなくて、本当の私はどのタイミングで動いているのだろうかと思案してみれば、サイクリングに出かけたりスピンバイクを回している時、禅を組んでいる時、それと通勤地獄の苦痛に耐えている時か。
こうやってブログに残している文章の中にも素の自分がいるな。その他の多くはアバターに入れ替わってしまっている。
眠りから覚めた直後は心拍数が高く、とにかく朝が辛くて苦しい。
眠っている間は素の自分でいられるわけだから、アバターに切り替わるタイミングは朝というわけだ。
この状況は私にとって違和感があり、息苦しくもある。他者とのインターフェイスとなっているのはアバターであって、私が感じたことを素直に出力したものではないからだ。
感情を失っていた頃の私は、むしろアバターが前に出てくれるので楽だった。
今では少しずつ感情が戻り始めているわけだが、周りがそのことに気付いているようには思えない。
感情とは正反対の表情を浮かべざるをえない時もあり、そのような状況では自分が仮面を付けている気がする。
人間の脳はどのような仕組みになっているのか分からないし、あくまで私自身の主観的な感覚でしかないが。
自分がバックアップとして使っていただけのアバターが自分を覆い尽くし、それまでの本当の自分が飲み込まれてしまったようにさえ思える。
自分はどうしてしまったのか、あるいはこのような状態で自分を失ってしまうのではないかという不安があるような、ないような、不思議な感覚だな。
確かにアバターを使って生活していた方が、妻がキレる頻度が明らかに少ない。それは妻にとってストレスの少ない夫の姿だと言える。
職場においても明らかに敵が減った、ほとんど苛つかずに自分のペースで仕事ができている。
これはどうしたものかと通勤中に考えていたら、ふと何かに気づいた。
電車の中では、様々な人たちの品位のない態度が見受けられる。それらを細かく説明するまでもない。
このような人たちが、このような状態のまま働いているとも思えない。小学生どころか保育園児にも劣るマナーの乗客はたくさんいるからだ。
途中で乗ってきた三人組のサラリーマンが、酔っ払って大声で会話をしている。足を前に投げ出し、とても品がない。
そのうち二人が飲み直すということで下車していった。
そのようなことを繰り返すから、サラリーマンのコロナ感染者が多いのだろうと思ってしまう。
しかし、そのまま電車に残ったサラリーマンの表情の変化が興味深かった。おそらく取引先あるいは同僚であろう二人を見送った後、一気に素の表情になってスマホを取り出した。遅くなったことを奥さんに謝るのだろう。
その変化は、演劇が終わって楽屋に戻ってきた役者のようだった。
その後、新浦安駅で下車すると、多数のサラリーマンが改札を抜けて街に出る。
駅の北口で底辺飲みを晒したり、歩きタバコで街中を通行したり、酒気帯びのまま自転車で赤信号を無視して交差点を渡ったり、交差点の車除けのポールに足を乗せるといった下品な行為は、新町のサラリーマンの父親たちにはよくあることだ。
収入はアッパーミドルかもしれないが、マナーやモラルはアッパーミドルとは言えず、プライドという皮を剥けば我と欲が飛び出す。それが新町の父親の現実だ。
店舗や市役所で突然キレるのも新町の父親が多いことだろう。
だが、このような父親たちが、このような性質のまま働いているとも思えない。
自らの本心を抑えた状態で礼儀正しく振る舞ったり、職場のコンプライアンスを守っているわけだ。
そして、新浦安というプライベートな空間に戻ってくると、箍が外れて素の自分が露出するのだろう。
つまり、私がアバターと呼んでいる人格らしきものは、実際には多数の人たちが普通に有し使いこなしているものだという結論に至る。
四十路になり、さらにはバーンアウトで感情を枯渇して私がようやく分かったことを、同世代のサラリーマンの父親たちはずっと前から身につけていたわけだから、アバターだ何だと言っている私の方が滑稽だな。
ネットの世界ではその対比がより明確だ。
人口密度が高い浦安に住んでいると、市内のツイッターユーザーをリアルに特定することができる。
穏和で徳のありそうなお父さんが、匿名のツイッターでは辛辣な指摘や罵詈雑言を飛ばすことがある。
イデオロギーが偏り過ぎている人や、私はこんなに素晴しい人物だと自己愛を丸出しにしてアピールしている人も散見される。
修正しすぎて実際と乖離した顔写真をネット上に晒す人もいるが、リアルな本人はそれほど格好が良くなかったりもする。
すなわち、私が現実世界で出会ったツイッターユーザーは、アバターによって動かされた、言い換えれば社会生活に適応した状態の姿であって、本心がツイッターに投影されているということか。
だとすれば、ネットと実生活のどちらがリアルなのかが分からなくなる。
そういえば、うちの妻も含めて母親たちは、状況によって別人のように言動を変える。このコンバージョンにおいてもアバターを使いこなしているということか。
翻って、私がオッサンになってバーンアウトするまでアバターを使ってこなかった理由を考えてみる。
先天的にアバターを使うことが苦手な上に、その必要がない人生を送ってきたからだな。
サラリーマンであれば、入社試験で普段と違う髪型になり、心にもないことを言ってアピールしたりもするわけだ。
アバターがなければ選考を通過することは難しいことだろう。私は入社試験を受けたことがないので、詳しいことは分からないが。
さらに踏み込んでみると、この社会にはアバターで自分の言動を変換することが難しい人たちがいる。
私を含めて生来の性質あるいは成長時の家庭環境など、その理由は様々だろう。
しかし、この世の中は素のままで生き続けたい人たち、いや、素のままで生きざるをえない人たちに対して、あまりに残酷だ。
心のプロテクターを付けずに抜身で社会に放り込まれるのだから、とても生きづらいことだろう。それが人や社会への不信感や恐れに繋がる。
さて、バーンアウトの真最中では、主人格がダウンしていたので、アバターを操作して生活していた。
主人格が回復して感情が戻ってくると両者が頭の中で同居する状態になった。
普通の人ならばアバターを自動で切り替えるのだろうけれど、私の場合にはヨッコイショと手動で切り替えている感じだな。
そもそも脳の初期仕様としてアバターをオプションで追加するようにはできていないはずだ。
私の場合には、バーンアウトにおいて必要に迫られ、家庭や生活を維持するための補助として急ごしらえのアバターを使っているだけだが、おそらく一般的な発達過程であれば、社会性や協調性という名のもとに自然と身に付くのだろう。
今さらそれに気づいても、人生は残り少ないし、天を恨むには老けすぎだろと自分で自分を嘲笑う。
素の自分が戻ってくると仕事が捗るのだが、家族も含めて周りの人たちは今の私が普通の姿であって、その私はアバターによって動いている。
どうやら、私が年老いて丸くなったと思われているらしい。我が強かった頃の私を知らない若者さえいる。
アバターの方が人間関係が楽だし、妻の機嫌も悪くないので、このまま自分を遠隔操作しながら生きてみよう。人生をかけた実験だな。
五十路前にこんな変化があるとは想像もしていなかった。