2020/11/04

細かなことを気にする夫と気にしない家族

その方法があれば学びたいものだが、子育て中は休日の晴天を恨めしく眺めながらサイクリングを我慢して家の事をこなすことがあり、その場合の心身の回復が難しい。ステージにもよるが、父親にとって家庭が充電の場になるという話は虚構でしかない。


うちの妻や子供たちは細かな変化を気にしないし、気が付かない。

一部のこだわりついては細かいが、その他は実に寛大だ。

自宅の廊下に掃除機が横倒しになっていても、跨いで通行する。

私の実家は職人の家系だったので、「歩くところに物を置かない」というルールが徹底されていた。

職人の仕事中に足元で何かに引っかかると危険なので、子供の頃の私は普段の生活においても実父から厳しく躾けられて育った。

これは何たることだと妻に相談したところ、「地面に落ちているトラップを避ける注意力や反射神経だって必要でしょ?」という反論があり、なるほどそうかと思ったので私も気をつけて部屋の中を歩いている。

子供たちが脱いだ服は床の上に脱皮の跡のように残され、テーブルどころか床の上にも木の葉のように教科書やプリントが散らばって、それらをかき分けて深夜に一人の夕食をとっている時は、全てをゴミ袋に入れて投げ捨てたくなる。

妻子に対して「鍵や携帯端末、リモコン、爪切りといった小物は常に同じ場所に置きなさい」と私は伝えている。道具を定位置に置くことは職人の鉄則だと私は実父から教わった。

しかし、我が家では頻繁に小物が神隠しに遭う。

妻や子供たちが適当に小物をどこかに置いて、置いたことさえ忘れてしまうのだが、本人はきちんと置いていたのになくなったと主張する。

妻の形質が子供たちに遺伝したことは明らかであり、うちの家族に限って言えば、先祖代々受け継がれてきた職人家系の伝承が無残にも散った。

トースターの直近に可燃物が置かれていたり、リモコンや歯磨き粉のチューブがなくなって想像がつかない場所で見つかったり。

洗面台を放っておくと必要のないものが置かれ始め、髪の毛や埃がたまり、鏡は石鹸や歯磨き粉が飛び散って斑になる。

風呂で髪の毛を洗った後できちんと流さないので、床や壁にはトリートメントなどが残り、すぐにカビが生える。

大切な書類がなくなって家族で大騒ぎすることもある。

トイレットペーパーが補充されないこともよくある。常に1ロールが予備として置かれていないと私は不安になるのだが、うちの妻子はギリギリのチキンレースのようにトイレットペーパーの残量の限界に挑戦する。

神経質で変化に弱い私は、あるべきものがあるべきところにないとひどく混乱し、その度にストレスを感じて自宅で心拍数が上がる。

うちの家族は、どうしてここまでルーズでいられるのか。

途中で疲れて諦めた私は、ロードバイクやスピンバイクを置いてある小部屋にパソコンや布団などの様々な必要品を持ち込んで自室として占拠し、そこで寝泊まりを含めてほとんどの時間を過ごすようになった。

私が疲弊してバーンアウトを起こしかけても、妻や子供たちが労ってくれなかった理由も分かる。細かなことに気が付かない人たちだからだな。

むしろ、妻や子供たちは普通のレベルで、私が神経質なのだろう。

私は細かな変化を察知することで働き、生計を立てている。私が普通のオッサン...というか神経質でないオッサンであったなら、プロとして生き残ることはできなかったことだろう。

今だって仕事でミスらないために神経質にならざるをえないし、家庭に戻って気を緩めると、職場に戻ってからのギアチェンジが難しい。

学生時代はこの性質に悩んだが、「その神経質さは、使い方によっては職業人としての能力になる」と助言してくださった人たちがいて、本当に嬉しかった。

さて、休日の朝にカーテンを開けると、素晴らしき青空が見える。

だが、私には風呂場の床の上に放置されている上の子供の上履きが気になる。今日で4日目か。

昨日から、下の子供の上履きも風呂場に置かれ始めた。小学校から持ち帰ることさえ忘れていたらしい。

うちの妻や子供たちは、小学校のトイレを歩き回ったかもしれない上履きが置かれている風呂場で、髪や身体を洗い湯船に浸かっている。

子供たちは小学生だ。自分の上履きは自分で洗うべきだと私が主張しても、妻のこだわりがそれを許さない。

どうして父親が今でも上履きを洗うのかと疑問に感じはするが、たぶん妻の視界には風呂場の床の上に放置されている上履きが見えていないのだろう。

視覚としては目に入っているのだろうけれど、脳が認識していないのだと思う。

これはADD優位のADHDの徴候がある人には珍しくない現象で、直径30cmくらいの範囲を見ていて、その外側を意識しないらしい。すぐに注意が別のところに移ったりもする。

だからといって妻が発達障害というわけでもない。

週末までそのままにしておいて、まとめて一気に洗う...つもりならば風呂場に入れる必要がないので不思議だ。

やはり私が気付いて上履きを洗えということだろう。

細かなことを気にしない妻とは対照的に、私は細かなことを気にする。感覚過敏もあるし、こだわりも強い。人付き合いはゼロか100だな。好きか嫌いかで中間がない。

ガイドライン通りに診断を受けるとASDに該当するだろうし、海外の基準だとギフテッド風味の特徴もある。

だが、うちの職場は高IQだが変わった人ばかりなので、その中では至って普通だ。何をもって普通なのかは、相対的な基準でしかない。

事務のセクションには変わっていない人が多いが、現場では変わっていない人に会うことはほとんどない。

ネジやリミッターが外れた状態が普通になってしまい、それぞれがサイボーグ009のように得意な能力で仕事をしている感じだな。

家庭や子供を持たない人も多いし、人生の中心が仕事になっている人も多い。

さて、風呂場に放置されている上履き群は、すなわち私が洗えということだと察したので、サイクリングに行く前に洗うことにする。

上履きを塩素系の漂白剤で消毒した後、研磨剤入りの洗剤でブラッシング。上履き洗いは奥が深いな。メラミンスポンジで仕上げると楽しい。

激落ちくんというメラミンスポンジを気に入って使っているのだが、中学受験の時には片付けた方がいいな。

気がつくと随分と時間が流れていた。

上履きは綺麗になったのだが、今度は視野の先に見える風呂場の床のタイルの溝が気になった。

菌種までは分からないが、黒いカビが溝に沿って生えている。

入浴後に床の上のシャンプーやコンディショナーを洗い流さないと、カビが成長するための担体と有機物を提供することになる。

しかし、妻や子供たちは髪を洗ってから床を洗わない。

風呂掃除の後には、定期的に銀イオンで燻蒸しているのだが、その上からシャンプーやコンディショナーを乗せられたら意味がない。

これらのカビを踏んだ後で湯船に入るとどうなるか。

もしやと思って風呂の椅子を裏返すと、床から椅子の足にカビの勢力が拡大している。

現時点をもって、極小規模ではあるが人類と微生物の戦闘が始まった。

妻と子供たちは気づかずにシャンプーやコンディショナーを床に広げ、カビに加勢している。人類の脅威は同じ人類ということか。

洗濯機の隣においてあるツールボックスを取り出し、選りすぐった掃除キットを並べる。

妻は結婚してから10年以上、というか一度も風呂やトイレの掃除をやったことがない。水廻りの掃除は私が担当している。

それにしても、カビに由来する抗生物質が人類を救ったこともあるので無下に抹殺するのも忍びないが、どうして生えるのだろうな。

風呂場でカビが勢力を拡大したところで、カビにとってメリットがないだろう。

とりあえず、ブラシと洗剤で風呂全体を磨く。こうなると歯止めがきかない。

排水口のパーツを分解したり、バスタブのカバーを開けたり、壁を含めて全て磨く。

磨き終わったら、今度は塩素系の薬品でカビを駆除する。

塩素系のスプレーはエアロゾルが発生して吸い込む危険性があり、しかも殺菌能力が思ったように強くない。しかも、この濃度の次亜塩素酸ナトリウム溶液にしては価格が高い。

ということで、トイレ掃除用のドメストを適当な濃度に希釈し、ブラシで塗布してカビの根を取り除く。

風呂場の塩素処理のための待ち時間ができたので、今度は洗面台を磨き始める。

ワイパーを使って鏡に一点の曇さえない状態まで仕上げ、洗面台をメラミンスポンジで磨き、マイクロファイバークロスで整える。

次はトイレだ。先ほどのマイクロファイバークロスで壁や床を拭き、便器はドメスト処理の後で洗剤で磨き、ポリマーコーティングで仕上げる。

風呂場の塩素を洗い流し、銀イオンの燻蒸を始めた頃には、すでに太陽が傾きかけていた。

そういえば、あれをやっていなかった、これをやっていなかったと家庭のことを処理していたら夜になった。

明日は仕事がある。サイクリングは無理なので、せめてスピンバイクに乗って数十分間のトレーニングでリラックスしようかと自室でレーシングパンツを履いた瞬間、ダイニングから甲高い怒声が響いた。

妻が夕食をつくったのに、子供たちが集まりもせずに他の部屋で遊んでいて、妻がキレている。激度3弱。

いつも思うのだが、我が家は子供たちを甘やかせてしまったのだろう。

毎日の食事が当然のような生活では、食の大切さに気付かずに育つようだ。それは経済的な安定に伴うことかもしれないし、子供たちの生来の性格にもよるだろうけれど。

父親として、食に困るような家庭には陥りたくないが、実際にそうならない限り子供たちは今のような状態なのだろう。

父親が倒れて働けなくなったり、離婚した後で養育費が届かないといった理由で、食べることに困っている子供たちはたくさんいる。

そのようなクライシスは我が子たちにおいても無縁ではない。そこまで思慮深い子供がうちの夫婦から生まれるはずがないか。

妻による躾は、𠮟ることと褒めることの緩急がないので、褒めずに叱る。

𠮟り続けていると子供たちが慣れてきて、「ああ、この程度のキレ方ならまだ大丈夫だ」と子供たちに耐性がついてきている。

さて、せっかく履いたレーシングパンツから部屋着に着替えて、子供たちを食卓に集める。

せっかく目眩と動悸が減ってきたのに、ペダルを漕ぐことができないとリラックスする機会がなくなる。

この状態のまま眠り、朝が来て、鬱陶しい街に出て、魂を削るような電車通勤。

最近では、平時の通勤客とディズニー客が電車に戻ってきて、しかも人々が苛ついている。

千葉都民が自分たちでストレスを増幅させている姿は異様であって、まさに渦巻いた悪霊が憑依するかのごときストレスだな。

現時点での心のエネルギー残量は57%といったところか。先週に長めに走っておいて助かった。

次のライドまでには残量警告のランプが点灯することだろう。

ここまで苦しんでいても、妻や子供たちは私の内面に気が付かないし、気にすることもない。

まあしかし、家族がこのようにラフな性格だからこそ、私が趣味に興じていても細かく文句を言ってこないわけで、見方によってはこれでいいのだろう。