ちょっと袖ケ浦まで走ってくるという日常
ロードバイクという趣味がなかったなら、私はこのストレス満載の街で倒れていたはずだ。
「ツレがうつになりまして」の舞台は浦安だったはずだし、メンタルクリニックはどこも大繁盛しているそうだ。
こんなに人工的な街に多くの人々を集めて、フラストレーションを溜めずに生きる方が難しい。スペースコロニーのような街だな。
あるいは、ストレス下での人間の集団の限界を調べるための社会心理学的な実験のようにも感じる。
だとすれば、私にはその結果がすでに出ている。対象者から外し、早くこの街から出してくれと願う。
浦安が嫌いな市外の千葉県民が多いと聞くが、実際の市民だって嫌いな人がいる。
浦安の良さを過剰にアピールしている人たちの正体を市民目線で明かしてみれば、その多くが不動産業者、投資家、政治家、それと市内の中小企業の人たちだな。ディズニーオタクと浦安出身者については論じない。
彼らはこの街で生活の糧を得ているわけで、街という商品をアピールしているという解釈になるのだろう。
一部の市役所職員もいたな。カモフラージュが上手くなったものだ。
彼らのアピールは、浦安が嫌いな私にとって鼻につくことがある。だが、街のことを想う気持ちも伝わってくる。
この街が悪い方向に進むと彼らの生活にも関わるし、ビジネスというラインを越えたところにある郷土愛を感じたりもする。
彼らとは対照的に、新浦安の子育て世代について言えば、市民としての帰属意識が育つ以前に街を消費の対象として捉えている節がなくもない。
行政や政治には関心を持たず、街づくりにも関心がない。市のサービスを利用し、市の施設を利用したとしても、近い将来にやってくる財政悪化については興味すらないことだろう。
音楽ホール? 素敵な施設が出来て良かったねと。
誰かが何とかするだろう、まあ何とかなるだろう。それよりも自分たちのことを考えましょうよと。
まるで超長期滞在型のホテル街のようだな。
市民としての帰属意識なんて言葉を口に出すと「意識高い系?」「市議会議員になりたいの?」という揶揄が飛んできたりもするし、市の財政赤字について論じれば「反市長派?」というくだらない疑念が降ってくる。
この街は、液状化による崩壊で何を学んだのだろう。
国からの支援で立ち直ったが、浦安市の自力での復興は不可能だった。それをありがたく感じているとは思えない。
待っていたら、何とかなったと。
そして相変わらずコストばかりかかるハコモノを作り、市民は他人事のように通り過ぎる。
将来の財政赤字を回避することは難しく、あと数年で実際に赤字になると思う。
市のサービスや施設にも支障が出るはずだが、それでもこの街の多くの人たちは真正面から現実を見ようとせず、何も学ばないことだろう。
妻や子供たち、義実家のために自らを犠牲にして好きでもない街に住んで10年以上が経った。
あと少しで脱浦ができる。
さて、空を見上げてみれば、日曜日の天候は晴れ、気温は20℃前後という絶好のサイクリング日和だ。
自室にこもっていそいそとライドの準備を始める。
ロードバイクサークルなどでグループライドを募ると、参加希望者が50代のオッサンばかりになることがある。
五十路が近づくと、確かにライドに充てられる時間が増える。
サークルによっては20代や30代の独身者や既婚子供なしの若者が集まって、凝ったコース設定でロングライドやサイクルイベント、グルメライドなどを楽しんでいることがある。
ボーナスでフレームを買おう、ホイールやウェアを買おうと、とても賑やかだ。
しかし、彼らが父親になって子育てに入ると、どれくらいの人たちがロードバイク乗りとして生き残るのだろうな。
経済状況が厳しい昨今では夫婦共働きの子育てが広がっている。保育園も増えた。共働きの育児に入ってもロードバイクに乗り続けられる男性は1割くらいだろうか。いや、もっと少ないかもしれない。
子供が一人生まれただけでライドに出られないと嘆く父親がよくいるが、子供が二人になればさらに厳しくなり、子育ての期間も伸びる。
共働きの育児中に夫が気楽にロードバイクに乗っているとすれば、余程に実家のサポートが手厚いとか、育てやすいタイプの子供で妻の理解があるとか、夫の感性や思考が偏っていて育児を放棄しているとか、様々なパターンがあることだろう。
しかも、どのような理由なのか分からないのだが、ロードバイク乗りには落ち着きがなかったり、我が強かったり、変わった人が多い。私も含めて。
彼らの子供たちが育てやすいかどうかについては予想しうる。奥さんは個性的な子供を相手にして疲れて気が立っていることだろう。我が家も含めて。
ロードバイクに乗れなかった時期の辛い記憶はオッサンになると忘れるが、女性は昔のことをいつまでも記憶している。子供たちも当時の父親の姿を覚えている。
後になって色々と突付かれたくなければ、精進した方がいい。
だが、これは経験論でしかなくて絶望的な話になるけれど、必死に育児に耐えたところで、男の人生に楽園が待っているわけではないようだ。
子供が大きくなれば、そこに老いた自分がいて、未来には長いレールが敷かれている。
私が見える視界はそこまでだが、レールの先には老後という駅があるのだろう。
育児中であっても適度に趣味を続けておかないと、振り返った時に仕事と子育て以外に何も記憶がなく、しかも老後はそれらがなくなる。
ストイックに子育てに励んでいたら、ストレスを溜めすぎて倒れることもあるだろう。その結果は家族の幸せには繋がらない。
私たちは苦しむために生まれてきたわけではない。適度な息抜きは必要だ。先は長い。
ああそうか、最近、キャンプが趣味という父親が増えてきたのは、そういうことか。
なるほど、キャンプならば育児と趣味を両立することができそうだ。焚き火の前で夫婦の会話も増える。
運動不足が解消されることはなく、子供と一緒に自らの腹周りを育てることもできるな。
そう考えると、ロードバイクという趣味は育児と相性が悪い。凄まじく。
育児中のライドは、妻や子供が眠っている休日の早朝の3時間ぐらいがターゲットゾーンになる。
前日にはライド後の育児や家事、妻の休養時間について取り決めておく必要もある。
満足に走れないと妻に対して不満を溜めるのは逆効果だ。スイーツやパンを買ってお土産にする。
そして、五十路に近くなると家族が休日に父親を必要としなくなる。
この落差が大きいな。寂しくも感じる。
ということで、家族にあまり相手にされなくなった私は、ロードバイクという健康器具に乗り、いつものルートで内房に向かって移動体操に出かける。
浦安市を出て市川市に入っただけで心拍数が10も落ちるのだから、精神活動が身体にどれだけの影響を与えているのかを実感することができる。
しかし、良いこともあった。
最近、目眩と動悸が激しかったので、迫力ある和太鼓演奏をBGMにしてスピンバイクをハイケイデンスで漕いでいたのだが、その結果は実走ですぐに分かった。
浦安市から市川市の妙典に入り、そこから江戸川を越える場合、妙典橋という尋常とは思えない高さの橋を渡ることになる。
この橋の歩道は斜度がきつくてママチャリで登ることが難しいくらいの坂道だ。
下り坂になると自転車が猛スピードで走ったりもするわけで、設計の段階でもっと歩道の利便性や安全性を考える必要があったと思う。
しかし、この付近は平地でありながら江戸川の氾濫による水害のリスクがあるので、妙典橋を高台として使用するという意図があるのかもしれないな。
ここに住民が避難して、ヘリや船で別の場所に運ぶことは可能だろう。
そして、輪行袋やスペアタイヤまで取り付けた重量級のクロモリロードバイクに乗ったまま妙典橋を登ったところ、いつもなら途中でスタンディングになるのだが、シッティングでスイスイとよく進む。
私が使用しているパワーマジックというスピンバイクは、ダイエット用のエアロバイクではなくて、ヒルクライマーやトライアスリートが使用するトレーニング機材だ。
ロードバイクのフレームやホイールを軽量で高剛性にカスタムすると速くなるが、やはり人が漕ぐ乗り物なので動力を鍛えると速くなるものだな。
別にレースで表彰台に立ちたいという話ではないし、あくまで過去の自分自身との比較でしかないが、生きている中で良い方向の変化が生まれると刺激になる。
船橋市を抜けて千葉市に入る頃、サイクルコンピューターの表示を確認すると、時速30kmと表示されている。
オプション満載で手組ホイールという重量が18kg程度のクロモリロードバイクで走ると、自然な出力では時速25kmくらいが丁度いい。
車道ではこれくらいの速度が安全かなと思い、特に気にせず乗っている。
その速度が時速5kmもアップした理由は何だろう。
PD9000系のビンディングペダルから三ヶ島のフラットペダルに交換し、なぜか巡航速度が2kmくらい速くなった。ビンディングの設定が合っていなかったのか、フラットペダルとスピンバイクのペダリングがよく似ているのか、三ヶ島ペダルのNEXTシリーズの鬼回転の影響なのか、理由はよく分からない。
残りの時速3kmについては、明らかに裸足ペダルと鼓童のBGMを合わせたスピンバイクトレーニングによるものだな。
室内で高いケイデンスと負荷をかけて、実走と変わらないくらいの心拍数まで上げ、汗だくになってペダルを回すと、ここまで走りが変わるのかと驚いた。
裸足用のフラットペダルは踏力が偏ると足が外れるので、ペダリングの矯正にもなっているようだ。
本日のライド...いや、健康器具による移動体操の目標は、「気が済むまで走る」ということ。育児中のロードバイク乗りにとっては羨ましく感じるかもしれないが、子育てが一段落するとすぐに気持ちが分かる。
念のため、ナイトライドも可能なようにライトやバッテリーも用意したが、片道50kmも走れば十分だろう。
特に気にすることもなく、30km巡航のまま船橋市を抜け、千葉市に入り、蘇我の辺りから急激に千葉県という感じがしてくる。
浦安というピーキーな街でストレスを溜めていることが無意味に感じるくらいに穏やかな時間が流れる。
市原市くらいからロードバイクに乗ったままの禅を始める。
曹洞宗の実家で生まれ育ったので、マインドフルネスというよりも禅だな。
何かについて分析的に考えるのではなくて、ペダリングと呼吸に集中し、頭を漂う思考を受け流す。
ストレスや悩みは頭の中でループを繰り返し、それが生きることの苦しみとなる。ループを断ち切ることは容易ではないので、ループそのものを一時的に思考から遠ざける。
この状態がたまらなく好きだ。
そして、16号線を走り続けて袖ケ浦市までやってきた。
千葉県内の財政力ランキングにおいて、浦安市と成田市に次いで第三位という袖ケ浦市だが、その理由は周囲を見渡せばすぐに分かる。
火力発電所や石油化学コンビナート、それと様々な企業の工場群。
人口6万人程度の自治体でこれほどの工業が発展していれば、確かに強力だな。企業からの税金が。
だが、難しい話は抜きにして、この人の少なさが私にとって心地良い。
狭い市域にも関わらず、浦安の人口は17万人近くある。しかも、この数字は定住人口なのでディズニー客が含まれていない。
人が多すぎてストレスを感じるのは無理もないことだな。個体密度が限界を超えている。
往路は50kmを休憩なしで走り続け、袖ケ浦の16号線のローソンをパスしてセブンで軽食とトイレ休憩。これだけで場所が分かってしまうところがシンプルでいいな。
おそらく往路は追い風だったのだろう。ずっと時速30kmを維持しながら走り続けていた。
浦安から袖ケ浦の往復ルートには、グルメスポットもないし、絶景ポイントもない。ただひたすら走り続けるだけ。
ネットで映える風景を探したのだが、なかなか見つからない。
これとか。
たぶん、火力発電所の送電線。
エヴァンゲリオンのヤシマ作戦でも始まるのかという勢いでケーブルが伸びている。
それと、これとか。
タイガーバームの工場と近くの川。
すごくないか?全国のタイガーバームがこの辺で作られているなんて。
復路に入ると、青年がカーボンロードバイクで私を追い越していった。追い越しながら、彼が軽く首を下げて一礼していた姿に私は感動してしまった。なんと礼儀正しいロードバイク乗りなのだろうか。
内房の16号線がどうして気持ちよく走ることができるのかというと、その理由のひとつとして鬱陶しいくらいに多数のロードバイク乗りがいなくて孤独でいられること。
しかし、ライドの最中で出会う人たちがとても穏やかで落ち着くこと。コンビニの店員さんたちでさえ、とても穏やかでリラックスすることができる。
例えば荒川河川敷に行くと無数のロードバイク乗りが走り回っていて、他者のバイクがどうだとか、抜かれたとか抜いてやるとか、そういったくだらない自他の比較が行われたりするが、内房の車道ではロードバイク乗りに出会っただけで安心するくらいの孤独がある。
脇を自動車が走っているけれど、ロードバイク乗りの姿を見かけることはほとんどない。ソロライドの場合には、たった一人で黙々と走ることになる。
「自分って何だ?」とか「生きるって何だ?」と自問自答するには最高のシチュエーションだな。なにせ、目の前に広がる光景がこれだ。
周りに何もない。ただひたすら無心で走るのみ。この環境が禅を行う上でとても適している。
また、ごくまれにロードバイク乗りの姿を見かけることがあるのだが、この場所まで走りに来るロードバイク乗りたちは気が合うのかもしれないな。
先ほどのロードバイク乗りと信号で一緒になったが、とても感じが良くて礼儀正しい好青年だった。おそらく、これから子育てに入っても奥さんの理解が得られて走り続けることができそうだ。
私の走りはどうかというと、フラットペダルに交換してからしばらく続けていたポジションの調整がようやく形になったようで、50kmを走っても身体が痛む場所がない。
大殿筋や大腿筋が幅広く使われていて、とても気持ちがいい。河川敷のようにジョガーや散歩者のことを気にかける必要もない。
袖ケ浦市から市原市に入ると、スペシャのベンジに乗った50代くらいのオッサンロードバイク乗りと、彼の後を追って必死にペダルを回す30代くらいのビアンキ乗りが私を追い抜いていった。
オッサンの方はロードバイク歴がかなり長いな。ふくらはぎの筋肉がバキバキに鍛えられている。彼の後で息を切らせている若者は、たぶん初心者だな。
ビアンキと書かれたロングスリーブジャージも薄手のタイツも身体に合ってなくてブカブカだな。ペダリングの度に右足の膝が外側にカクカクと広がっている。
それでもオッサンに引っ張られて時速34km程度のスピードで走っているのだから、なかなかの体力だな。
面白いので彼らからかなり離れたところで付いて行くことにした。
スピンバイクでエンジンを鍛えることがこれほどまでに意味があるとは、このトレーナーを買って1年以上経った後でやっと分かった。
こんなに重量級の自転車を漕ぎながらも、彼らと一緒のペースで走ることができる。
信号待ちでビアンキ乗りの若者が私の姿に気付いたようだ。
素になって私自身の姿を確認すると、相変わらず汚らしい格好で走っていることを実感する。
まあ、これが自分に合っているのだから仕方がない。
それにしても、前を走っている二人組は元気だな。信号待ちからのスタートで一気に加速していく。
手組ホイールのクロモリロードバイクではなくて、軽量な完組ホイールとフルカーボンのロードバイクならば、もっと速く走ることができるかなと思ったが、今の状態が気持ちよいので変える気にもなれない。
フルカーボンのロードバイクに高価なホイールという組み合わせはよくあるが、私は今ひとつ楽しくなかった。
ホイールやフレームに剛性があって、しかもカーボンが衝撃を吸収してしまうので、走っている実感があまりないというか。走っていて暇になる。
信号待ちで彼らから聞こえてきた会話を聞いて驚いた。
千葉市から目的地にたどり着き、そこから引き返して市原市に入った段階で120kmくらい走っていたとのこと。南房総の方まで走って行ったのか? 内房マニアは私だけではないらしい。
先ほどの二人が視界からいなくなり、船橋市から市川市に入ると、それまでの無理が影響したのか私のペースが一気に落ちた。
けれど、関節はどこも痛くない。
この心地良い疲労感を保ちながら帰宅すると、妻が寝室で昼寝していた。子供たちはそれぞれ外で友達と遊んでいるらしい。
育児中は、私も妻も気を張って大変に忙しかったが、気が付くと子供たちは随分と成長していた。
途中のコンビニで買ったおにぎりをいくつか胃に放り込み、ハイボールのショート缶を飲み干して、自室で昼寝に入る。
100kmライドの爽やかでずっしりと来る疲労感を楽しみながら、夕飯の準備までしばらくの休憩。
このような息抜きは大切だな。