ひとりになれる静かな場所を求めて松戸の農地へ
今に始まったことではないが、ロードバイクでライドに出かけるという表現は格好つけているように感じるな。
〇〇〇〇ライドと語呂がいいのでよく使われる言い回しだが、私のような走り方をライドと呼んでいいものだろうか。
健康器具に乗って移動体操に励むという感じだな。
先週末は妻が子供たちにキレて激度4強の揺れを観測して気持ちが萎え、健康器具による移動運動に励む余裕がなかった。
とはいえ、これだけモチベーションに斑があって手のかかる子供たちなので、妻が怒るのは仕方がない。
我が子たちの強い個性は、将来、職業人として生きるための力になる。
だが、個性が強い子供たちに対しては叱責で対応しても、バリアのように跳ね返してくるので育てることは大変だな。
それでも妻は褒めずに叱るというスタイルだ。
さて、2週間ぶりの実走だが、天候が不安定で出発するかどうかを躊躇する。
台風が近付いているそうで気圧が低く、私自身の気力も弱っている。
通勤地獄は相変わらず精神を削り取っていく。電車や駅はカオティックな様相を呈していて、品のない人がたくさんいる。
特に、50代のオッサンたちの態度が酷い。長い人生を歩んで、その程度なのか。
まあとにかく、このように郊外に居を構え、夫が長時間の通勤に耐えて仕事に励むというライフスタイルは、妻が専業主婦というシングルインカムを前提として社会に定着したのだと思う。
妻が育った義実家だって、義母が専業主婦だった。義父のシングルインカムでも維持しうる時代だったわけだ。
しかし、夫に加えて妻もフルタイムで働いたら、どちらにも負荷がかかってリミットを超える。
マスコミや行政が共働き子育ての啓発に取り組んだとしても、社会は簡単には変わらない。
しかも、長引く不景気によって、共働きで子育てをしないと経済的に苦しく、その姿を見た若者たちが子育てに後ろ向きになり、少子化が続く。
その潮流に飲み込まれ、妻の実家があるストレスフルな街で、かつ感覚過敏を背負っていれば疲弊してもおかしくない。
倒れないようにやり過ごさねば。
裸足用ペダルと鼓童のBGMを用いたスピンバイクトレーニングにより、厳しい動悸と目眩は緩和されてきた。
ここで実走に出かければ、さらに楽になることだろう。
最近、気圧以外にもモチベーションが下がる事象があり、全身が重い。
この数日は自己愛という人間の性質について考えていたりもする。
黄金聖闘士のようなパワーをもった人たち同士のバトルに、なぜか錆鉄世捨士の私が巻き込まれてしまい、酷く疲れた。
中高生や保護者に分かりやすく説明すると、偏差値75の人たちのバトルだ。
頭の回転が速すぎて組手が見えねぇ的な勢いで火花が散っている。
うっかりと私が動くと鎖や拳が飛んできそうな状態だ。
その人たちは能力が非常に高い上に自尊心や自己顕示欲が強く、まあそれだけ凄ければなと納得する。
この勝負はずっと続くはずだが、間に挟まれた私としては対応を考えねばならない。
おそらく、どちらかの黄金聖闘士の肩を持てば、どちらかの黄金聖闘士との繋がりがなくなることだろう。
何とかして両者の緩衝役になろうとしたのだが、それは困難だった。これからの身の振りを決めねばならないのか。
だとすれば、腹の探り合いがあったとしても、義を守った側につくべきか。
しかし、双方から私が学ぶことはたくさんあり、10年以上の付き合いを通じて私の理解者になってくださった。
直接的な対立ではなく、間接的なパワーバランスで人間関係が疎遠になるのは辛いことだ。
重い気持ちを引きずりながら、本日のサイクリングのテーマを「ひとりになって落ち着いて考えごとができそうな場所を訪れること」に設定した。
このような時、往年の名ドラマの「ぽっかぽか」に登場する田所家であれば、夫婦でコタツに入って夫が悩みを相談し、妻が真正面から話を聞き、お互いの気遣いや愛情を確かめて励まされることだろう。
ありえない。
あれはドラマだ。
虚構だ。
理想像だ。
SF作品だ。
ありえないくらいの夫婦仲だからこそ番組として成立するんだ。
当時は花王・愛の劇場の昼ドラマの枠でぽっかぽかが放送されていたが、この番組を見ていた奥さんの中に、どれだけの数の田所麻美風の人がいたというのか。
さらに聞き分けが良くて親思いの子供が「チチー!ハハー!」とやってくるなんてありえない。
うちの子供たちは父親が苦しんでいても知らない顔をして夜中に大声で歌ったりもする。
妻とは目を合せて会話すること自体が稀だ。
あの番組を信じて家庭を持ってしまった結果がこれだ。私がテレビを信じない理由のひとつだ。
うちの妻は私が悩んでいても気にしない。そもそも私に興味も関心もない。私は働いて家庭に金を持ってくる人だ。
この状態に悩んだけれど、仕方がないと諦めた。
夫婦という関係は、互いに諦めてからが本当の夫婦だと思う。
まあ歳はとっているがこの程度のスペックの男ならばリーズナブルかなと結婚してくれたのだろう。義実家だってその程度の認識だな。
自分のことは自分で。
それが家庭において父親を「演じる」上での鉄則だ。
それでも生きよう。
私は家族のためだけではなく自分のために生きる。
それにしても、私が住んでいる浦安という街は人が多くて騒がしい。
遊歩道にしろ公園にしろ、さらにはマンションの中でさえ、上下左右の半径20メートル以内に人がいたりする。
都内23区も同じようなものだが、繁華街を除いて夜は静かだ。
浦安市内では、周りに誰もいない環境はほとんどない。夜の防波堤でさえ釣り人やジョガーがいる。
浦安からサイクリングに出かけても、荒川や江戸川の河川敷はひっきりなしに人が通行する。
千葉県内でも内房や外房に行くと人が減るわけで、往復100km程度のサイクリングでは袖ケ浦市まで走ることにしている。
この辺りまで来ると静かだが、復路があるのでのんびりすることは難しい。
ということで、江戸川の左岸を経由して松戸市内の畑が広がる場所に行くことにした。
この場所は浦安市内のサイクリストに教わった。松戸市でも市街地は賑やかだが、川沿いの農地は本当に静かだ。
江戸川の右岸はグラウンドが多く、道幅も広いので人が多い。バーベキューを楽しむ人たちもいて、煩いだけでなく臭いが厳しい。
一方、江戸川の左岸は人が少ない。車止めが多くロードバイクで快走するような場所ではないので、マッチョなローディもほとんど見かけない。
雨上がりで曇の日は、江戸川の左岸の人手がさらに減る。気をつけないと増水した川に落ちる危険性もある。
これはこれでスリルがあっていいものだと走り続け、松戸に着いたところで河川敷の遊歩道を逸れて市内に入っていく。
道端には「野菊の墓」をテーマにした小さな施設がある。地方創生の取り組みで各自治体が町おこしに精を出したことがあったが、その一環だろうか。
野菊の墓は確かに素晴らしい文学だが、ターゲットゾーンは現在では70代から80代、若くても団塊世代くらいだろうか。
今の若者にとって、この作品は古典のような扱いかもしれないな。
その寂れた感じもまた趣がある。
人の社会も、人の生き方も移り変わりがあるものだ。
江戸川河川敷のすぐ脇の道路は自動車で混んでいるので、さらに市内に入っていくと、開放感のある光景が広がっていた。
農作業を行っている人を見かけたりもするが、近くに誰もいないので気が楽になる。
ロードバイクのトップチューブに腰かけて、その風景を眺める。
50年近く生きても、子供の頃に育った環境に似た場所にいると落ち着く。思えば遠くに来たものだ。
私の故郷も畑があって、森があって、人が少なかった。
浦安には畑もないし森もない。空き地に店舗やホテルや住宅を詰め込み、その姿はスペースコロニーのようだ。
確かに便利な街だが、人工物の中で生活している感覚が半端なく、息が詰まりそうになる。嫌なんだ。早く引っ越したい。
けれど、子供たちの環境を考えると、父親として泣き言を吐いてばかりもいられない。
こうやって楽になれる場所に来てストレスを緩和するというわけさ。
ロードバイク乗りの多くはヨーロッパのサイクルレースや日本の自転車漫画に影響を受けていると思う。
しかし、「こころ旅」の火野正平さんのように、クロモリロードバイクでのんびりと景色を楽しみながら走りたいという人もいることだろう。
また、若い頃に運動をしてこなかったが、定年退職が近付いて、あるいは定年退職後の趣味として彼のようにペダルを回したい人もいるはずだ。
気がつくと火野さんのようなスタイルのサイクルライフに近付いてきたが、実に気楽でリラックスすることができる。
若い人たちには楽しくないかもしれないし、人生経験を積んだからこそ醸し出されることもあるが。
自分を良く魅せようと思わず、他者を意識せず、自分の好きなスタイルとペースで走ることにサイクリングの本当の良さがあると思う。
考えごとをするために静かな場所に来たけれど、ここまで落ち着ける場所で悩み事を考えること自体が無粋に感じる。
再び訪れた秋を感じ、冬の気配を感じ、浮足立った気持ちを地に着ける。
生きていれば、悩んでも解決しないことは多い。
ネットが発達した現在では、すぐに誰かとシステム上で繋がって悩みや愚痴を伝えようとする人が多い。
それによって、本当に気分が楽になるというのか?
自分の中に蓄積する悩みは、他者からの支援によって軽くなる時がある。
そのようなことにネットは要らない。
人が完全に他者を理解することは不可能だ。人は一人で生まれ、一人で死ぬ。
どこまで生きても人は孤独な存在で、他者に頼りにするからこそ失望する。
辛いことを腹に押し込んだり、言いたい愚痴を飲み込んだとしても、一人で忍ばざるをえないこともある。
ネットのような薄っぺらい人間関係の中で悩みや愚痴を言って楽になれるような状態は、その程度の負荷だということだ。
結局、それぞれの黄金聖闘士と距離をとり、何か協力を求められたら快諾し、その人たちの自己愛を傷つけないように対応することにした。
私は対人関係が得意ではないし、謀や策も苦手だ。自分より遥かに頭の回転が速い人たちを相手に上手く世渡りができるとも思えない。
苦しみながらも地道に丁寧に生きていこうと思う。
自己愛を全面に出して、周りに気を遣わずに突っ走ることは刺激があって良いかもしれないが、修羅道のような世界で生き残った後に残るのはどんな気持ちだろう。
敵を増やさずに、自分の力に見合ったことをコツコツと進めることくらいしか私にはできないな。
さて、一人になって考えも落ち着いたので、再び浦安に戻るとしよう。
浦安は「人が輝き躍動するまち」をテーマにしているが、無数の自己愛に満ちた騒がしい街という私なりの感想と矛盾がない。
なるほどよく考えて街のフレーズが用意されている。
江戸川の左岸で霧雨が降ってきたので、バックパックにレインカバーを被せ、レインジャケットを羽織り、再びロードバイクに跨って走り始めた。
このロードバイクは健康器具であり、相棒の馬のようだな。
自分のことは自分でという世の中だが、人はそこまで強くない。
これからもペダルを回しながら耐えることにしよう。