自己愛が強い人たちとの関係 (前編)
人は誰しも良いところがあり、自分自身を肯定して生きることは大切で、自分が他者から認められると嬉しく感じるはずだ。
しかし、自尊心と自己愛の完全な区別は難しく、またそれらを区別する必要すらないのかもしれない。
ここでは、他者や社会とのトラブルに発展するリスクがある自分大好きな性質を自己愛と定義する。
世の中には、その自己愛があまりに強い人がいて、精神医学的には「自己愛性パーソナリティ障害」の特徴に合致し、実際に受診すれば診断されることだろう。
ネットを介して誰もが自分のことを発信しうる時代になり、自己愛性パーソナリティ障害と診断される人も急増しているそうだ。
両者の関係は定かではないが、確かにネット上には「私はこんなに優れた人だ!」とか「私はこんなに頭の良い人だ!」とか「私は特別な存在だ!」と過剰にアピールする人たちが珍しくない。
人には良いところだけでなく足りないところがあって当然だが、そのような人たちは自分の足りない部分を閉ざして、上から指摘を飛ばすことが多い。
そのような事象はネット上に限られた話ではないが、このように現実と乖離することが容易な場では、自分のことを盛るユーザーがたくさんいる。
個別の事柄については言及を控えるが、社会の出来事についてツイッターで頻繁に指摘してはいるが、過去に社会に迷惑をかけて刑務所にいた人とか。
真面目に職場で働いている人たちを社畜と揶揄してはいるが、実際にはネットコンテンツの広告代で懸命に生活を繋いでいる人とか。
そのような明らかに目立つユーザーだけではなく、現実の社会ではそこまで立派とは思えないが、自らをより崇高な人だと飾って雄弁に振る舞う人がいる。ネット弁慶もそのひとつのカテゴリーなのだろう。
以前、私が続けていたブログにアクセスしてきて、学歴や子育てなどにやたらと絡んでくるロードバイク乗りのネットユーザーがいた。
彼はブログやツイッターでとても上から指摘するのだが、本人のプライベートな内容や自分の弱みについて完全に伏せていて、とにかく自分をより素晴らしく魅せようとしている。
彼はまるで実業団やプロチームで活躍しているレーサーのようなブログを書き綴っているが、本当なのだろうか。
自分が賢人であると信じ込んでしまったかのような状態だ。思春期の少年たちが背伸びしてしまっているかのような。
とても興味が湧いたので、ネット上に転がっている情報から本人を特定して詳しく解析したところ、氏名や年齢、職業、ロードバイク用のヘルメットやアイウェアを外した素顔の写真、電話番号まで得られた。
そのネットユーザーが育児に取り組む男性や学歴を揶揄する理由は容易に見当が付いた。
彼は私と同じ中年男性だが、結婚しておらず子供もいない。その生き方を私は否定しないし、ペットの犬がいたとして犬を我が子だと主張しても批判はしない。
同居している女性の氏名やその期間もネット上に漂っていた。
検索してもヒットしないので、大学に通ったことはないようだ。学歴としては高校卒業あるいは専門学校卒だろうか。あるいは大学中退か。
また、勤務先というか...働いている場所についても特定した。なるほど頻繁にネットで情報を発信することができるライフスタイルだな。
その業界で職業人として認められたというエピソードが見当たらない。年収を推定することは可能だな。
肝心のロードバイクの腕前については、大きなレースで上位入賞したこともないし、そもそもほとんどレースに出場していない。
リアルな実像とネット上の虚像があまりに乖離している。
昔、このような感じの自転車店主がいて、確かに勉強になることがあり多くのサイクリストが信じてしまったという事象があったな。
知らないふりをして、現実の世界で彼にコンタクトし、情報の裏付けを得ることは難くない。
攻撃することを目的として調べたわけではなくて、彼が私に絡んできた理由に興味があった。
彼の自己愛がとても強くて、社会に対する不満を蓄積させていることは分かった。
だが、本人が曰うほど、その人は優れているのだろうか。現状を遥かに越えた自己愛だが、この状態では社会生活で苦労することだろう。
自分はこんなに優れているのに、社会や人々はどうして自分を評価しないのだと。
そのような不満が蓄積し続けると、自分は正常で社会が狂っていると感じるかもしれないな。
また、彼としては同じロードバイク乗りの私が発信したコンテンツが気に入らない、あるいは自己愛を傷つけるような形になったのかもしれない。
自己愛が非常に強い人は、他者を鏡として自分が評価されることを欲し、自分が特別な存在だと信じ、他者を見下げる特徴がある。
また、自身の自己愛に反する負の面を頑なに隠し、自分よりも優位にあると感じた相手を否定し、貶めるような言動に出ることがある。
このようなトラブルに巻き込まれたことについて、私自身が反省する必要があり、また絡まれる筋合いはないと攻撃的になる感情を抑える必要もある。
それでは、私自身の自己愛はどうなのか。他者のことをとやかく言えるほどに徳のある人物ではないし、5年くらい前までは自己愛が強かった。
過去形の記載になっているのは、この録で度々登場するバーンアウトによって、自己愛や自尊心どころか様々な感情まで枯渇してしまったからだ。
IQ140、飛び級によって銀杏の紋章が刻まれた博士号を授けられ、誰もが知る職場で働き、かなり前から年収は何とか万円プレーヤー。
実は見た目もあまり悪くないし、頭髪もハゲていない。
学習塾に子供を迎えに行ったら、知らない男の子が近付いてきて、「スゲー!初めて見た!」といって目をキラキラさせていた。
その子の少し後ろには、我が子がドヤ顔で立っていた。
どうやら我が子が教室で私の仕事を紹介したらしく、その男の子の夢と一致していたらしい。
その夢の場にいるお父さんが目の前にいて感動したということか。
市内でロードバイクサークルを運営していた時、私は素性を隠しハンドルネームのまま参加していた。
サークルの限られたメンバーに本当のことを話すと驚かれた。
だが、それらのエピソードがあった時、私の感情はすでに干上がっていて、「たぶん、ここでの対応はこのような感じだろう」というアンドロイドのような状態で生活していたな。
喜怒哀楽が自分の中から湧いてこない世界はとても現実離れしていて、多くがモノカラーに見えた。このサイトで貼り付けている写真のように。
うつ病とバーンアウトは専門分野が異なっているので、両者の明確な区別は難しい。
うつ病の場合には強烈な自己否定とともに死への衝動がやってくるらしい。
バーンアウトの場合には、極度のストレスによる感情の喪失や虚無感が特徴的だな。
大学病院のとある診療科において調査したところ、約30%の臨床医にバーンアウトの徴候が認められて問題になった。
患者の3割ではなくて、医師の3割がバーンアウトを起こしながら勤務しているという現実はとても残酷で、システムエンジニアや教員といった他の職種でも同様の事象が生じていることだろう。
しかも、私の場合には仕事が楽しくて長時間の労働を続けていたわけで、バーンアウトの直接のきっかけになったのは電車通勤や共働きの子育てといった職場外でのストレスだった。
その状況は私にとって情けなくもあり、惨めでもあった。
感情が枯渇して思い通りに動かない心と身体を抱えて、自分なりに誇りに思っていた学歴や職歴、社会的なステータスを無価値に感じた。
自己愛が強かった頃の私は、それらにこだわり、他者を意識し、他者と比べ、競争心と嫉妬を高めていた。
しかし、そのような感情さえ燃え尽きてしまった後に残ったのは、砂漠のようにどこまでも続く虚無感と、わずかな希望だった。
希望と表現するのは語弊があるかな。多くが崩れ去った後で再構築されていく価値観を感じた。
あまり立派なことではないが、悟りとか諦観といった類の劣化版なのかもしれないな。
宗教的な意味合いを除いた上で記すと、昔の修行僧たちは悟りを得るために苦行に身を投じたわけだ。
現在の僧侶の生活は経営という意味で厳しく、檀家が減って収入が減ってきたとか、後継ぎがいなくて無縁仏をどうしようかとか、様々な悩みがあって悟りを開いている余裕はないことだろう。
昔の修行僧たちが何を求めて悟りを開こうとしたのかというと、要は涅槃の境地だと私は理解している。
生きていれば喜びや悲しみ、怒り、欲求などによって感情は波のように揺れ動く。
それらを自分自身で完全にコントロールすることができた時、人は世の中を達観し、生きることの苦しみから解放されるという解釈なのだろう。
しかし、簡単に悟ることができれば苦労はない。どうすれば人間の脳がそのような生理状態になるのかも分からない。
バーンアウトで心も身体も自由に動かない状態ではあったが、うつ病にならなかっただけでもありがたく、さらに感情が枯渇することで自分の価値観を初期化することができた。
悟りのように喜怒哀楽をコントロールしているわけではなく、それらがロックされているだけだが、悟りを疑似体験した気がした。
四十路近くまで生きてくると、様々なことがコンピューターのハードディスクのデータのように蓄積され、自分は何のために生きてきたのか、あるいは何のために生きるのかといったことがよく分からなくなる。
もちろん生きる中で方向付けられた価値観に従って生きているわけだが、この状態はどれだけの意味があることなのか。
このような悩みや不安は、中年親父が家族に相談せずに脱サラしたり、家庭のクライシスに向かって突き進んでいく現象にも関係するのだろうか。
頭に積み重なったことを整理するには、一度、感情や思考をクリーンブートする必要があるわけだが、映画のように頭にカプセルを取り付けてビリビリと脳に電気を流すわけにもいかない。
必死に生きているうちにバーンアウトを起こしたが、この事象は私の生き方において大きな意味があるのではないか。
そこから復帰した今の私は、自己愛が強かった時よりも仕事の勢いが落ちたが、人間関係はとても楽になった。
悟ったとか、性格が変わったと思われることもある。
他者をあまり意識せずに自分自身と向き合う機会が多くなった。他者からの評価に悩むことや、自分をより良く魅せようという気持ちも減った。
主観的に物事に取り組むことも大切だが、その場を俯瞰して客観的に見つめることも大切だなと、人生の折返しを過ぎてやっと分かった。
バーンアウトがなければ、私はそのまま老いて世を去ったのかと思うと、辛かったが意味ある経験だった。
同時に、今の視点で自己愛がとても強い人たちを眺めると、様々な共通点や扱い方が見えてくる。
人は社会の中で生き続けているので、自己愛性パーソナリティ障害のような人たちに遭遇することはよくある。
その障害は医師が診断することであって、診療を求めない人たちが診断されない状態で生活していることが多いはずだ。
そのような人たちに関わらざるをえなくなった場合の自分なりの取扱説明書を残しておこう。
文章が長くなったので録を二つに分ける。
後編につづく