自らの命を絶つという不条理なプログラム
関節の痛みは仕方がないが、目眩はさすがに厳しい。ストレスがピークに達するのは帰りの電車で多くの千葉県民がスマホゾンビになり、恥を知らない底辺飲みを晒す中年が目立ち、さらに頭にネズミの耳を付けた若者たちがハイテンションで押し寄せる時間帯。
店舗でのレジ袋の無料配布は廃止になったはずだが、あの派手な袋は対象外なのか。
浦安に引っ越さず、都内で生活していたならば、仕事が終わってロードバイクに乗り、サイクリングがてら心地よい汗を流して帰宅しているわけだ。
天と地ほどの違いがあるなんて、若き日の私は気が付かなかった。
浦安に引っ越さなければ良かったと、何千回、何万回と心の中で叫び続けている。
新浦安駅のベンチに座り込んでしまうくらいにストレスを浴び、目眩でふらつきながら帰宅する毎日が幸せであるはずがない。
結婚して都内に新居を構えた時、義父母は大反対し、妻に渡した合鍵を使って私に無断でマンションの中をチェックしたことがあった。
義実家オールスターズで。
そして、義父母は言ったよな。「浦安は便利で住みよい街だ」と。
浦安ファンには、このように浦安の良さを妄信する人たちが多く、落ち着きのない多動力と、強烈な自己肯定が共通項だったりもする。
そのような人たちの琴線に触れるから、そのような人たちが住み着くのだろう。
これで住みやすいはずがない。
街には人が溢れ、ただ職場に通うだけで毎日3時間。無意味に時間が流れ、乗り換えだけでも精神力を削っていく。
生活するだけで消耗し、職業人としてのキャリアは停滞したまま。
この生活を続ける限り全盛期の勢いを取り戻すことは叶わず、着実に老いていく。
その悔しさと情けなさを妻や義実家は理解しているか。
なんだこの住みづらい街は。私にとっては、住みやすいなんてフレーズは詭弁やセールストークでしかない。
今の私は浦安という街で生活すること自体にストレスを受けて脳が拒否している。悪化すると適応障害になることだろう。
ギリギリのラインだな。
さて、最近の芸能界では、俳優や女優の自殺が続いている。大変に不幸な出来事だ。
私の田舎の実家は自営業で生計を立てていたのだが、小規模の会社あるいは自営業の経営者が自殺することがよくあった。
私の実父と同世代の働き盛りの父親たちだった。
彼らの子供たちは、もちろんだが私と同世代で、同じ学校の先輩や後輩にあたる。
その同世代の父親が亡くなるという話は、子供たちに対してあまりに非情だった。
父親が自宅で首を吊ったり、自動車ごと崖から飛び込んだり。さぞかし無念だったことだろう。
実父が彼らの通夜や葬式に参列して帰宅した時は酷く疲れていて、声をかけることさえ躊躇した。
実父は、そこで悲しむ家族の姿を目にしただろうし、明日は我が身だと思ったはずだ。
彼らを死に追いやったのは、事業が上手く進まずに抱え込んだ負債。
手形の不渡りが出たり、融資が受けられなくなり、もはやこれまでと父親たちが自らの命を絶ち、借金取りから家族を逃がそうとしたそうだ。
実父も自身に多額の保険金をかけていて、いざとなれば命と引き換えに家族を守るつもりだった。
金が原因で命を絶つなんて不条理な話だが、私はそれが現実だと認識しながら育った。
日本全体を眺めてみれば、自殺者はさらに増え続け、現在では月に2000名近くの人たちが亡くなっている。
新型コロナよりも自殺の方が死者が多いのに、前者ばかりが報道され、未だに飛び込み防止用のゲートが取り付けられていない駅が多数。
しかも、コロナについてマスコミが狂喜のように煽り、行政が混乱し、経済が低迷し、自殺者はさらに増えることだろう。
世の中は何かがおかしい。この国のことが嫌いな人たちを野放図にしていたからこうなったのか。
人の死が非常に身近な環境で育ったからではないと思うが、私の人生の中で自殺を見聞きすることはよくある。
大学生の頃、憧れていた美しい女性の先輩が亡くなった。
夏休みの前に階段で先輩とすれ違って、今日も美しいとホクホクしていたのだが、秋の訪れが感じられた時には自殺で他界したことを人伝に聞いた。
まるで向日葵のような若き日の思い出だな。とてもショックだった。思い切ってプロポーズしておけばよかった。
その事象とは別に他の学生が大学の建物から飛び降りたことがあった。
精神疾患で休学し、長期療養中だったらしい。無理を重ねて通学しようとしたのだろうか。
私はちょうどその現場を通りがかり、遺体に白い布がかけられて、片方の靴が脱げている光景を眺めながら警察を待った。その姿はとても寂しく見えた。
結婚して浦安に引っ越して来た後も、団地の真向かいの棟で大きな音がしたのでベランダに出ると、屋上付近から人が飛び降りて、救急車が駆けつけるところだった。
あの高さでは助からない。夜中にベランダに出てきて無表情で眺める多数の住人たちの様子には、群れで生きる動物のような空気があった。
それとは別に、サイクリングの途中でとある公園を通り過ぎようとしていたら、警察が黄色のテープを張って立入禁止区域をつくっていた。
公園の木で誰かが首を吊ったそうだ。
そして、鉄道の人身事故については述べる必要もない。
人が亡くなっても、翌日には何も変わらないような一日が始まる。
一方、私の仕事は死にかけている人たちを生の世界に連れ戻すこと。正しくは、その手伝いをすることだ。
どの施設でも手に負えず、最後の頼みの綱のように依頼がまわってくる。
自分が安易に失敗すると人が死ぬ、あるいは二度と立ち上がることができなくなると思うと神妙になる。
依頼してくる側は何とかしてくれると信じているわけだが、こちらだって神ではなく人間なので限界がある。
場合によっては、その人の命を可能な限り伸ばし、家族と過ごす時間を少しでも長くすることが目標になることさえある。
助けられないことが分かっていながら、それでも時間を稼ぐ時の気持ちは辛いものだ。
状況が悪くて助けられなかった時には気分が落ち込むし、助かれば嬉しい気持ちになる。その繰り返し。
職場では人の死を冷静に捉える人たちが多い。
現実に人が死にそうだ、あるいは死んでしまったとしても顔色を変えない。
感情を移入させている余裕もないくらいに思考を高回転させている人もいるし、最初から気にしない人もいる。
子供の頃から生きることに執着していなかった私が、このような仕事に就くのは何かの因縁なのか。
妻の父親が死にかけた時には、仕事のついでに命を助けたこともあった。
その見返りを期待してはいないが、私の扱いが軽くはないか。
他者を死の淵から引っ張り上げることは難しいが、自分で命を絶つことはたやすい。
何より不思議なことは、それまで周りから見て普通に生活していた人が、突然に命を絶つケースが多いという点。
家族でさえ深刻に捉えていなかった悩みがあったり、命と比べれば大したことがない仕事の挫折であったり、その理由は様々だ。
私は以前から、人生を舞台として役を演じるつもりで生きるという考え方に関心がある。
それによって生きることの辛さを緩和しうることに気づいたからだ。
だが、周りから見てあまりに唐突に命を絶ってしまう人たちの話を聞くと、まるで悲劇の台本に書かれているデッドエンドをトレースし、その役を演じきってしまったかのように感じる。
昨今の俳優の自殺の場合には、さらに考察が複雑になる。
彼ら彼女らは役を演じることが仕事であって、出演中は役に入り込んで現実に戻ってくることが難しい時があるそうだ。
つまり、日常の世界での役と実体が反転しているように私は感じる。
役者が舞台や映画の中で演技として命を落とす時には、本当に死ぬ気になっているようにも思える。
現実とのボーダーが曖昧になり、それを踏み越えてしまうということか。
また、不安定な社会情勢で役を演じ続けることが難しくなったということも関係するのか。
私たちは作品を眺めて楽しんでいるわけだが、役者にとっては精神に大きな負荷がかかる仕事だな。
加えて、うつ病になると人は自ら死を求めることがあるそうだが、なぜに人間の脳にそのようなプログラムが組み込まれているのだろう。
人の脳に刻まれているプログラムは、往々にして人類の進化の過程で使用されたことがある、もしくは実際に使われ続けているものだ。
魅力的な異性を見かけると胸がときめくとか、腹が減ると何かを食べたくなるとか、競争相手を見かけると勝ちたくなるとか。
それらの衝動は生命や子孫の維持に必要だから脳に残ったのだろう。
しかしながら、自ら死を選ぶという思考回路が人の脳に残ったように思える理由は何か。
人類が進化する中、特に有史以前の段階で自ら命を絶った方が種の生存に有利に働いたとは思えない。
よく似たプログラムの誤作動、あるいはバグのような衝動なのだろうか。
プログラムのバグにしては頻度が高すぎる。
だが、その衝動を生じる脳の部位および細胞が確かに存在しているからこそ、このような状況になっているわけだ。
裏を返せば、それらが治療や創薬のターゲットになりうるわけだが、未だその解明には至っていない。
ここまで考えて気づくことがある。
若い頃の私は、生き続けることに加えてプラスアルファになる事柄があってこそ、より豊かで意義深い人生だと思い込んでいた。
学生の頃はより高い偏差値や競争率、社会人になってからはより高い収入や職場の知名度。
働くことの意味や遣り甲斐、当然だが出世も大切な要素だろう。
父親になったら、家族のために尽くし、家事や子育てにも積極的に取り組み、理想像を実現するといった要素も大切だと思っていた。
しかしながら、男の人生の幸不幸は妻によっても大きく変わるし、プラスアルファの部分さえ意味があるのかどうか分からない時がある。
確かに大切なことではあるのだが、結局のところ、地道に生き続けること自体に意味があり、その他の要素は本人の感じ方や考え方によっても違ってくるのかもしれない。
出勤時に思案しながら新浦安駅にたどり着き、乗り込んだ京葉線の電車が荒川を越えて都内に入っていく。
左手にディズニー、右手に葛西臨海公園、正面には海に続く河口が見える。
小さな船が水面に細い跡を残しながら海に向かって進んでいく。
目眩がするくらいに苦しい電車通勤の始まりだ。
バーンアウトしかけてロードバイクで通勤していた頃は、なぜか橋の上から飛び込むイメージが何度も頭をよぎった。
ここまで苦しんでいるのに温かい言葉をかけてくれない家族を見限ろうと思ったこともあった。
けれど、踏みとどまって良かったなと思う。
今、川面を眺めても飛び込みたいという衝動はない。それだけでも幸せなことだ。
妻や子供たちのために生きることも大切だが、とにかく生き続けることが大切だな。
人生がロールプレイングゲームのように感じることは多々あるが、道に迷って困っても、もがいているうちに次のステージが見えてくる。
リセットすることができず、その役さえ自分の自由にならないことが多い残酷なゲームだが、これはゲームだと思って生きるくらいが、私にとって丁度いい。