ハニートラップと何とかディスタンス
「お父さんは、どんな女性が好みのタイプなの?」
私の頭の中で思考が高回転し、どのような返答が適切なのか、その解を導き出す。
家族に対してウソをつくことは正しくない。
正直に答えるのであれば、D_DriveというヘヴィメタルバンドのギタリストのYukiさんのような女性がタイプだな。
妻と交際を始める前に縁が切れた女性がYukiさんのような感じの人だった。
クリスマスの時期にレストランで食事をすると、男たちは他のテーブルに座っているカップルに目をやったりもするものだが、彼女を見かけた周囲の男性からの嫉妬を帯びた視線が多かった。
保育園や小学校の保護者で彼女のような奥さんを見かけたこともない。
その女性は性格も面白くて楽しかったし、お互いの実家への挨拶も済んでいたが、結婚しても子供なしのDINKsを希望する彼女との間で将来の話が進むことはなく、結局は他人に戻った。
その女性は他の男性と結婚した後で希望通りにDINKsを貫いているらしい。それも人の生き方だな。
「妻をめとらば 才たけて 眉目麗しく 情けある」なんて、男の身勝手な願望でしかないし、「情けある」という部分が最も大切だと思う。
さて、休日の夕食時の食卓では、対面に妻が座っている状況。
しかも、うちの妻は元カノの顔を知っている。
D_DriveのYukiさんがタイプなんだと言ったりすれば、妻は即座に画像検索した後で様々な仮説を立て、得られた内容を義実家のLINEグループに投稿して情報が共有されることだろう。
ここで下の子供から女性のタイプを尋ねられたわけだが、どのように答えるべきか。
妻と上の子供は、口と声が笑ってはいるが、目が笑っていない。
父親としての模範解答は、唯ひとつ。
「うーん、うちのママみたいなタイプだな」と私は答えた。
なんだつまらんと、子供たちは再び夕飯を食べ始めた。
「あのさ、ここでママと違うタイプの人がいいなんて言えないだろ?」と妻に向かって私が言うと、妻もそりゃそうだと笑った。
父親として子育ても家事も足りない私だが、家族からそれなりの評価を受けていることがある。
それは、家庭で性的に浮ついた言動をしないということ。
休日には壁を向いて座禅を組んでいたり、平日の朝は洗濯物を干しながら光明真言や十善戒を唱えているくらいだ。
これらは私が宗教に傾倒したわけではなくて、バーンアウト後のメンタルトレーニングの一貫なのだが、妻子からは敬虔な仏教徒と思われていることだろう。
宗派が混ざっているのだが気づかれない。
夜の街に出かけることもなく、ただ地道に働き、家族にとっての歩くATMになる。平凡だけれど大切なことだ。
とりわけ、浮気や不倫といった類は御法度だな。十善戒では邪淫と明示され、殺しと盗みに続く悪行だと伝えられている。
独身の人たちなら、当たり前だろと感じるかもしれないが、家庭を持てば分かる。
サラッと言ってしまったことでも子供たちにはつぶさに父親を観察している。
私がスマホやパソコンで服を着た女性を眺めているだけでも「へぇ〜」と子供は思うことだろう。
夫婦にとっての繫がりとは、時に切れることもある不安定なものだが、子供たちにとっての両親とは、確固たる存在なのだろう。
父親が母親以外の女性に注目することを許さない感じが子供たちにあって、なるほどそうかと学ぶ。
他方、妻について言えば、女は男よりも鋭敏に相手を観察している。夫が邪淫を犯していれば、すぐに気づくはずだ。
また、その根拠は話の辻褄であったり、食事の内容であったり、会話中の目の表情であったり、様々なのだろう。
興信所による調査は、往々にして女の勘の確認作業に他ならず、男が「なぜバレた!?」と驚くこと自体が滑稽なことだな。
それにしても、我が家においては、夜の街や浮気あるいは不倫というフレーズが、父親に限定した形で割と自由に飛び交う。
子供たちがそれらの言葉を発することに違和感を覚えるのだが、もちろん私が教えたことはない。
だとすれば、私の妻や義実家を経由して、子供たちが覚えてしまったのだろう。
妻の母親や義実家に同居している妹、つまり私にとってのトメやコトメは、男という生き物は浮気をするという前提で物事を考えている節がある。
おそらく妻も同様なのだろう。
休日に私が出勤する時、妻は必ず弁当をタッパーに詰めて私に手渡して来る。
誰かと洒落たカフェに行くのなら、お前はこれを食べろということだろうか。
平日に処理しきれなかった仕事を休日にこなすことで精一杯だ。カフェどころか、どこにそんな余力があろうかと私は思うのだが、おそらく妻は弁当を渡した瞬間の私の表情や仕草を観察しているものと思われる。
そういえば、結婚して第一子が産まれる前、私は義母から直接言われたことがる。
それは「浮気は厳に慎め」という無粋な注文だった。
普通なら「父親として頑張って」とか、そういった励ましがあっても良さそうなものだが。
私に浮気癖はないし、なぜに浮気をするという前提で義母が私に注意するのかと不思議に感じた。
その場には妻がいない状況で、義父と義母と私の三人だけ。
その後、義母は「そうよね!お父さん!」と義父に同意を求めたわけだが、義父が「う、うん!」という感じで頷いた瞬間の違和感を察した。
家に帰って妻に尋ねてみると、やはり義父は若い頃に浮気でチョメチョメして、大変なことになったらしい。
私の生い立ちを振り返ると、実母は大変に気性が荒い人なので、実父が浮気をすれば確実に命を獲りに行ったことだろう。
親戚のおじさんが浮気相手と自動車で走っているところを見かけたおばさんが、おじさんの自動車に追突する形で神風アタックを仕掛けたことがあって、どうしてこれが殺人未遂ではなくて、単なる物損事故になるのだろうかと子供ながらに思った。
実母は、その親戚のおばさんよりも遥かに洞察力が長けていて、性格も激しい。
実父が性的に浮ついた行いをしたことは一度もないし、家の外で酒を飲んで来ることさえほとんどなかった。
たまにお釣りは小遣いだという実父からの特命を受けて、子供の私が大人の週刊誌を買いに行ったが、あの程度の燃料での自家発電はさぞかし厳しかっただろうと、オッサンになった私は実父の想像力に感服する。
まあしかし、父親とはこのようなものだと思いながら私は育ったわけで、その感覚で私は生きている。
だが、義実家での義父のチョメチョメなんて私には関係がないのに、最初から要監視人物として扱われていることが気に入らない。
けれど、妻から聞いた内容として、義父が最悪な男だとは思わなかった。
邪淫に該当するので、人の道に反する悪行によって来世は地獄道か餓鬼道に落ちるかもしれないが、あらかじめ仕組まれた罠に義父が陥っただけだな。
当時、世界的に有名な大企業の営業職で活躍した義父は、仕事として頻繁に接待の場を催していた。
景気が良かった時期の話なのだろう。契約さえ取ることができれば、その場所が応接室であれ、その他の場所であれ関係ない。
また、ひとつの契約で億単位の金が動くわけだから、たかが接待と傲ることはできない。
まずは、取引先の相手を美食家が好む名店に連れていき、食欲を満足させる。
その後、相手の好みが分からない状況で、接待相手をあからさまな場所に連れていくと差し障りがあるので、夜の高級なクラブ等に連れて行くわけだな。
おそらく、派手なドレスを着た女性がハイテンションで待ち構えて、一般的な稼ぎのサラリーマンがニヤけながら入店するような店ではなくて、和服を身に纏い、知性も教養もある女性がいる店なのだろう。
交渉相手を他人という存在から友達という存在に変える営業のテクニックかもしれないな。
相手から女性を介して引き出した情報も交渉の材料になる。
そして、妻から聞いた話では、そのような高級店のママあるいは店員と義父が仲良くなってしまったことがあるらしい。
高級クラブのママと付き合うなんて、キャバクラ嬢とのデートより遥かに難易度が高いことだろう。
背後にアレな人がいたら大変なことになっていたが、そのリスクも切り抜けたということか。
「お義父さん、漢として凄いじゃないか」と思ったが、なるほど、義実家にとっては大変なトラブルだ。
男は浮気する生き物だという考えが刻まれても仕方がない。
義母のことだから、烈火の如く怒ったことだろう。
義理の息子である私に対して、夫の目の前で昔のことを蒸し返していたわけだ。
我が娘の苦労を考えて、私に警告しておきたかったのだろう。それを過干渉と呼ぶ。
しかし、話を聞いた限りでは、若き日の義父は事例集に載るくらいに分かりやすいハニートラップを仕掛けられたと私は思った。
ハニートラップにも様々な種類がある。
国家同士のインテリジェンス、つまり諜報活動において、政府機関の職員やエージェント、内資企業の職員等が狙われる色仕掛けが、本来の意味でのハニートラップだと私は理解している。
標的の好みに合せて、数千人のハニートラップ要員が用意されている国もあるそうだ。
容姿や言語では判断がつかないことだろう。
社交場に出席した標的の目の動きで好みのタイプが分析され、気がつくと好みの女性が耳元で囁いたりもするらしいので、スパイに狙われそうなお父さんたちは楽しみにせず、警戒したいところだ。
分析官だった人から聞いた話では、不適切な関係になったという証拠によって情報の提供を要求する美人局のようなトラップは、標的が開き直ってしまうと引き出せる情報が限られてくるので、二流なのだそうだ。
より高等なハニートラップは、標的となった相手を本気で恋愛に陥れること。
相手がスパイだと気づかずに、あるいはスパイだと気づいていながら、家族にも言ってはいけない国家機密を恋人に話してしまうという体だな。
人の心は常に孤独で寂しいものだ。自分を理解してくれる人や共感してくれる人を求めている。
そこに自分の好みの女性が現れて我を忘れてしまうというパターンなのか。
まあ、普通に生きている限りスパイに狙われることはないだろうから、一般の人たちにとって、この種類のハニートラップは映画や小説の世界の話だな。
他方、かなりスケールが小さいが、義父がトラブルに巻き込まれたのは、ハニートラップの亜型ではないかと考えている。
情報のリークではなく、対象者の権限が狙われるタイプ。日本でもたくさんある。例えば、以下略。
今はどうか分からないが、大企業の営業の接待費は物凄かった。
接待においてどの店を選択するのかは営業担当の判断に委ねられていたことだろうし、企業にとっては交渉が進めば良いだけの話だ。そこで営業の手腕が試される。
当時の義父は、接待で酒を飲んでいながらも、頭の中で計算しながら仕事として場をセッティングしていたはずだ。
翻って、高級クラブの経営においては、接待という仕事において懐具合を気にせずに金を使ってくれる社員は、常連になってくれれば上客になる。
枕営業という単純な話ではなくて、標的に恋をさせるという形で、若き日の義父が狙われたのではないか。
仕事の上で、それだけの価値が義父にあったということになる。4名で入店して月に100万円を店で使えば、年間で1000万円以上の利益になる。
だが、義父が営業のプロであれば、相手は男の心を読むプロだ。
ハニートラップ対応の訓練を受けているはずのない義父を落とすことは難しくなかったことだろうし、昭和の時代なら、そのようなことはよくあったはずだ。
確か、相手から義父にプレゼントされたネクタイを義母が見つけて、義父のチョメチョメがバレたそうだが、頭の回転が速い女性がうっかりと目立つプレゼントを用意するはずがない。
これは相手からの明確なメッセージだったわけだな。義父との関係を終えるための。
相手が義父にネクタイを贈ったことの意味は二つあって、その一方を義母は察したはずだ。
ご主人とチョメチョメしましたよと。
義母としては凄まじい憤りだったことだろう。相手が悪びれることなく挑発してきたと思うはずだ。
子供の頃の妻やコトメを育て家庭を守っているのに、夫が美しい女性から首に腕を回されていたら、そりゃキレる。なんとだらしない夫だと。
数十年経っても怒りが続いていることにも納得する。
義父としては、ネクタイを手渡された後、義母にバレる前に相手の意を察して、速やかに駅のゴミ箱に廃棄し、他の社員と担当を替わる必要があった。
そのプレゼントは、そろそろ火遊びを止めて仕事に集中しなさいという意味だ。
その真意に気が付かなかった場合の強制的な解除装置として、義母がネクタイに気づくように仕掛けられていたわけだな。
そうでなければ、ネクタイなんて分かりやすいプレゼントを贈るはずがない。
むしろ、義父が仕事以外の場、あるいは社内でチョメチョメに陥った場合の方がシビアだったな。間違いなく離婚案件だ。
だが、関係のない私まであらぬ疑いをかけられるという羽目になったではないか。これは不条理だ。
しかし、「お義父さん、それはハニートラップですから、恥じる必要はありませんよ!それだけ大きな仕事をしてきたんです。情報をリークしたわけでもないし、胸を張りましょうよ!今は針のむしろですが、その時は最高だったでしょ!?」と義父を励ますわけにもいかない。
彼が本当に恋愛の心を持っていたとすれば、良き思い出を傷つけることになる。
ということで、私は気にしないことにしたわけだが、男は浮気をするものだという考えが義実家から我が家に引き継がれていることは否めないし、私が家族から疑われることも心外だ。
しかし、義父の名誉のためにも、この一件は子供たちには伝えず、私たちの世代で留めておこう。
間違いなく義母が子供たちに話してしまうと思うが。そして私のことまで疑ってくることだろう。
色々な意味で義父の気持ちが分からなくもない。
ところで、ハニートラップという活動から離れて、世間一般に行われて大変なトラブルになる浮気や不倫の類については、どれだけ訓練を受けた男でも、その場の雰囲気で引き込まれることだろう。
脳の深部の細胞に刻み込まれた情動なのだから、その欲求を理性で抑えることは難しい。
通行している人が誰なのか判別しうる田舎ならともかく、大都会の繁華街に男女が紛れてしまうと分かりづらい。
...と思いきや、追尾に対する点検行動の訓練を受けていない人を監視することは容易だ。
自宅の目の前まで追尾しても気が付かれなかったりする。
そして、ホテルから出てきたところをパシャリと撮影され、離婚と慰謝料と養育費のトリプルコンボを食らう。
最近では弁護士が飽和して経営が苦しくなり、離婚を専門に扱う事務所が珍しくない。
結果として子供がいる家庭を引き裂いてしまう仕事というのは、なかなかシビアだな。
弁護士は正義の味方ではなくて、クライアントの味方か。
では、そのような男女関係のトラブルに巻き込まれないためにはどうするか?
「危うきに近寄らず」だろうな。
この手のトラップにかからないためには、女性と連絡先を交換しないこと。
二人で食事に行きましょうと誘われても、「興味がない」と冷たく断ること。
自分は大丈夫だと、食事に出かけて酒が入ると危険だ。
知り合いの知り合いに聞いた話では、本物のハニートラップでもアルコールをきっかけに理性の箍が外れるので注意すべき点なのだそうだ。
子育てが一段落し、妻と目を合せて話し込む機会も減った中年親父の前に女性がいて、自分だけを見てくれているわけだ。
久しぶりに思い出す新鮮な高揚感やペイズリー柄の衝動。
少し休んで行きたいなとなれば、崖に向かって突っ走ることになる。
この段階でアクションを起こさずに帰宅すると、まだ脈があると勘違いされるかもしれないので、最初から二人で食事に行かない。
しかも、結婚適齢期の男女よりも、すでに人生が落ち着いた男女の方がハードルが下がる気がする。
結婚を考える必要がなく、お互いに割り切った関係になるからだろう。
まあしかし、既婚男性のことを女性が気に入って恋愛に持ち込むことは正しくない。
相手のことを本当に大切に思っていれば、家庭を壊すような手段に出るはずがない。
他方、妻との付き合いに飽きたからと、他の女性に手を出すことも正しくない。
身体的な欲求が勝ったり、精神的な繋がりや恋愛感情が欲しいのかもしれないが、すでに繁殖期を終えたのだという心構えが必要だ。
危ない場所には近付かず、地道に働き、家族から歩くATMのように扱われたとしても、結婚後の色恋沙汰に巻き込まれることなく、たまに健全な趣味を拠り所にしているくらいが、父親として丁度よい姿だな。
そもそも邪淫による夫の悪行は、命がけで子供たちを産んでくれた妻に申し訳が立たない。
金と時間を浮気に使うくらいなら、私はそれらを自転車の趣味に使う。