電車通勤のストレスを「悪霊」と表現する絶妙なセンス
最近はゲリラ豪雨や雷も頻繁に起きていて、不思議な天候が続いている。
台風が去った後の空は晴れ渡り、強烈な暑さと湿気がさらに不快度を高める。
朝の通勤電車はカオスと表現しうるくらいの状況だ。
先程から前方のシートに座っている小太りの若い女性は、サンダルを脱いで足を伸ばし、頻繁に足首を回したり、指をサンダルに擦りつけている。
おそらく水虫なので治療が必要だな。
感覚過敏では様々な感覚が鋭敏になっている。私は感覚過敏が標準仕様なので、普通の人の感覚が分からない。
感覚過敏の一つである視覚過敏は、視界の様々な光、あるいは動く物体が刺激になる。
目の前で落ち着きのない人がせわしなく動いていると疲れる。
右横にいるサラリーマン風の中年男性は、マスクを付けて鼻を出しているが、それよりも奇妙なくらいにせり出した肥満の腹が気になる。
彼は顔も腕も大量の汗をかいている。フェイスタオルで汗を拭った後、扇子を取り出して顔を扇ぎ始めた。それだけ脂肪を蓄えたら、さすがに暑かろう。
だが、扇子の使用はパーソナルスペースを逸脱する行為だ。すえたような臭いが中年男性から漂い、私は軽い吐き気を覚えた。
私も中年なので加齢臭がするが、毎朝シャワーを浴びてから出勤している。この肥満男性は朝どころか、昨夜も風呂に入っていなさそうだ。
これが嗅覚過敏の辛いところだ。
下車した後の駅構内で人混みに飲まれ、乗り換えた電車では、斜め前に座っている男子大学生風の二人組が、並んでスマホの対戦型ゲームに興じている。
モサッとした黒髪の一人は、いかにも女性にモテなさそうだ。ゲームで一喜一憂して大きな声を出している。
頭を茶髪に染めたもう一人はマスクを顎にかけ、足を組んで盛んに足首を回している。
この二人組は声のボリュームを下げるべきだ。煩くて仕方がない。
そのタイミングで耳を劈くような大音量の車内アナウンスが流れ、心拍数が上がる。
これが聴覚過敏のストレス。
再び下車して駅構内で人混みに飲まれる。
駅構内では、スマホに脳を乗っ取られたかのように首の関節を奇妙に曲げ、下を向いて歩く人たち。スマホゾンビと呼ばれる姿だな。
本物のゾンビを見たことがないので確かなことは言えないが、ゾンビの方が真面目だろう。きちんと前を向いて歩いているのだから。
すぐ前を歩く白髪の男性は定年退職が近いサラリーマンだろう。老いている割には動きがキビキビしている。
彼は、私にとって地獄でしかない電車通勤を耐え抜いた猛者だな。
そして、職場の最寄り駅に到着した時には、すでに身体の力が入らないくらいに消耗し、脱力している。
「浦安は東京まで20分!」とか「都心よりも住宅が安くて広い!」といったアピールをする市民がいるが、詭弁だな。
その人は新浦安駅に自宅があって、東京駅に職場があるのか?
都心よりも住宅費が安いのは、都心で働くには「不便」だからだ。千葉県なんだよ、ここは。
いきなり話が変わるのだが、FC2のブログジャンルはとても面白くて、ブログサービス自体が斜陽を迎えている現在だからこそ、かなり深淵なブログが生き残っている。
HYPSENTは「心と体」というジャンルにエントリーしたのだが、このジャンルはディープだ。
サブジャンルには、医学だけでなく民間療法やメンタルヘルス、さらにはスピリチュアルというテーマまで含まれている。
心や身体の病で苦しんでいる人たちや治療に携わっている医師、カウンセラー、宗教家、さらにはスピリチュアルな人たちまで集まっていて、これはこれで興味深い。
とりわけ、スピリチュアルな人たちのブログは、霊的なことであったり、超自然的なテーマについて真面目に書き綴っている。
また、それらのブログは話の途中から神や霊について言及することが多いが、特定の宗教を信仰しているというよりも、自分が感じてはいるが目に見えない大きな存在を意識しているという印象がある。
一応、博士号を持っている私としては、若い頃から論理的あるいは科学的な思考を叩き込まれている。
スピリチュアルを否定しないが、このジャンルのブログは、まるで昔の神話を読んでいるかのようだ。よくここまで真面目に書くことができるものだと敬服する。
私の場合には、根拠や論理に基づかない思考が苦手な上に、生来の強烈な自我がスピリチュアルな話の理解を阻む。
歴史のある宗教の中には、人々の生活の智慧が組み込まれている時があって、それらに気付くことは勉強になる。
神社に参拝する時には水場があって、日本人はそこで手を洗う。
手を洗うことは公衆衛生や感染症対策の基本であり、現在でもその効果が実証されている。
世界にはあまり手を洗わない国がたくさんあるが、日本人はその大切さを宗教と組み合わせて伝え続けたわけだ。
また、曹洞宗や臨済宗で行われる禅は、宗教色を抜けばマインドフルネスと同様の行為になる。
米国の大企業では、社員のストレスを減らして心の健康を保つためにマインドフルネスが取り入れられているが、日本人は古来から宗教の一貫として精神の安定を保つ術を伝えていた。
さらに、日本には古来から「輪廻転生」という概念がある。
現世が厳しいのは前世の行いが悪かったからだとか、現世の行いが悪いと死んだ後で地獄道や餓鬼道に落ちるとか。
自分が親になって子供たちを育てていると、なるほど輪廻転生だなと納得することがある。
宗教的な意図を除いて考えれば、親から子、子から孫へ伝わる遺伝情報は、配偶者との交配によって多様性を高めるものの、完全に消失することなく次代に引き継がれる。
つまり、長いスパンで考えた場合、自分自身の肉体は朽ちても、生命の本質である遺伝子は、まるで輪廻転生を繰り返すかのように何百年と受け継がれるわけだ。
このように解釈すると、遺伝子や形質といった事象が解明される遥か前に、人類はそれらの存在に気づいていたことになる。
だが、私なりに輪廻転生を現実に当てはめてみると、その期間は思ったよりも短くて、親から孫までの三世代でも大きな変化が生じるようだ。
親の代で行いが悪ければ、子の代では不遇な状態から人生が始まり、その状況を建て直さないと、孫の代でも苦しむ。
前世や現世、来世という概念を現実的な世代交代に解釈すると妙にフィットする。
しかし、長い期間にわたる先祖と子孫という因果関係ではなく、「悪いことをすると自分が地獄に落ちる」というように、まるで自分の記憶や思考が残っている前提で輪廻転生を説くようになったのは、なぜだろうか。
社会の規律を保ち、人々を啓蒙する上では、世代から世代への繋がりという長い期間の事象よりも、自らの行いが自業自得として降りかかると説いた方がインパクトがあったからだろうか。
人は利己的な生物なので、結局は自分本位で物事を考える習性がある。
自分に直接的に関係しないことには関心をもたないという心理は、昔も今も同じということか。
けれど、自分の孫のことまで考えれば、生き方はずっと違ったものになるはずだな。
例えば、私の実家は大きな借金があり、少年や青年の頃は経済的に苦しんだ。
その借金は、浪費癖があり無計画な事業を続けた祖父が残したものだ。
そして、実父は人生の大半をかけてようやくその借金を返済した。
実父から私に相続される資産があるはずもない。借金が引き継がれなかっただけでもありがたいことだ。
浦安に引っ越してきた時の住居費は、全て私が働いて得た金で工面した。学生時代に借りた多額の奨学金も何とか目処が立った。
実父は祖父の墓前で決して手を合せない。気持ちは分かる。
私自身が祖父になった時、孫から見てどのような爺になるのだろう。
立派な祖父になる自信はないが、せめて経済的にはプラスマイナスゼロ、できればアドバンテージがある状況から孫の人生がスタートできればいいなと思う。
私自身が経済的にマイナスからのスタートだったので、この辛さや惨めさを孫たちに経験させたくない。まあ、それは私の自己満足も含まれてはいるが。
そのためには、自分自身の楽しみよりも、将来に親となる我が子たちの教育を優先し、経済的に危険なルートを避ける必要がある。
我が子たちに資産を残しても、使えばなくなる。孫にまで生きる力を伝えるのであれば、教育に金をかけるべきか。
そして、孫が物心ついた時、私はさっさと世を去っていた方が格好がいい。
頑固爺になって醜態を晒すくらいならば、役目を果たした後は、さっさと死んでブログを孫に残そう。
ところが、スピリチュアルなジャンルで輪廻転生のテーマが入ってくると、その話の中では解釈に関係なく自分自身が生まれ変わってしまうようだ。
教訓とか遺伝子といった理解を遥かに超えた次元で話が進み、私の思考が混乱する。
宗教というジャンルと比べて、スピリチュアルなジャンルは、分析的もしくは論理的に理解することが難しい世界だな。
宗教と違った角度から神や霊的な存在を真面目に信じている彼らの内面を知る機会は少ないが、彼ら彼女らの思考をブログで拝見すると勉強になる。
一体、この人たちは何を感じているのだろう。
FC2の「心と身体」というジャンルのサブジャンルを辿って行くと、今まで見聞きしたことがないスピリチュアルなブログを見つけることができる。
最初、「月の裏側には宇宙人と人類が建設した秘密基地があって、最終決戦に向かって準備が!」といった内容が並んでいるのかと思っていたが、そういったジャンルは「心と身体」ではなくて、「謎」というジャンルに分類されている。
同様に、幻覚が見えたとか、誰かに襲われているといった精神的な話はメンタルヘルスのサブジャンルで見かけることがある。
スピリチュアルなテーマのブログは、まるでリアルな日記を書き綴るかのように超自然的あるいは非科学的な文章が並んでいる。
私には理解が困難だが、彼ら彼女らの脳は、現実的に神や霊的な存在を認識しているということか。あるいは事象の解釈という範疇なのか。
それにしてもスピリチュアルのサブジャンルは深淵だ。ふざけてもいないし、真正面から真剣に書き綴っているからこその迫力がある。
私にとって、それらの文章は難解な古文書や神話のように見える。だが、人が関心を持つテーマは実に多様だ。
一回きりの人生の時間を何に費やそうと、法に従い、他者に迷惑をかけなければ、その人の自由だな。
ツイッターやヤフコメで辛辣な言葉を投げ込んでいる人たちよりも、遥かに上品だと思う。
しかし、スピリチュアル系のブログの中で、霊的な世界に住む人たちを理解する上でヒントになりそうな投稿を見かけた。
それは「通勤電車に乗ると、悪霊に憑依されて疲れる」という表現だった。
そのブロガーは、電車通勤で悪霊に憑依され続けて精神を壊し、人生の軌跡が変わってしまったと書き記していた。
なるほど、悪霊の憑依か。確かに、このフレーズ以上にこの状況を表現しうる言葉が思いつかない。
私は霊的な存在を見たことがないし、信じてもいないが、「悪霊に憑依される」という言葉には納得した。
確かに、首都圏を走る電車の中や乗り換えの駅構内で、私は強いストレスを覚える。
実際に身体を壊しかけただけでなく、今でも苦しみ続けている。これが電車や駅にいる悪霊の仕業だといったところで、結果だけを見れば同じだな。
では、その悪霊の正体は何だろうか。
最初に気づいた思考の基点がある。
そのブロガー、あるいはスピリチュアル系の人たちの多くは、私と同じように感覚過敏を有しているのではないかという点。
人の五感の感度を数値として階層化することができたとすれば、中央に大きな山がある正規分布の形をとることだろう。
視覚や嗅覚、聴覚といったそれぞれの感覚において個人差があり、全体としてのパターンは様々だな。
また、鋭敏な感覚は必ずしもデメリットになるわけではなくて、職業人としての活きる力になる。
例えば、製造業では鋭敏な感覚をもった人を商品開発や品質管理の部門で採用することがあると聞いたことがある。
ビールやワインのわずかな成分の違いを識別することができる能力というのは、普通の人たちから見れば味覚過敏に近いことだろう。
警察の公安などのセクションでは、いわゆる第六感が異様に発達したような人材が採用されているそうだ。
表に出ていない情報を調べるくらいの人たちなのだから、並の感覚では通用しないのかもしれないな。
最近では、新型コロナウィルスの感染が拡大し、感染症やウイルスの研究者たちが対応にあたっているという話を耳にしたことが多いかもしれない。
知り合いの知り合いから聞いた話では、彼らのような研究者においても鋭敏な感覚をもった人たちが珍しくないそうだ。
ウイルス自体は肉眼や普通の顕微鏡で確認することができない。「見えない敵」に対して、鋭敏な能力と多彩な技術を駆使して戦うわけだ。
素人から見れば、まるで陰陽師だな。
しかしながら、鋭敏な感覚を活きる力として使うことができる人の割合は少なく、それを重荷として背負って生きている人たちの方が多いと思う。
日本のマスコミのことなのでどこまで正確なのか分からないが、一部の報道では4人に1人の頻度で高い感覚を持っているらしい。
人々の感覚のレベルが正規分布していると仮定すると、真ん中のゾーンに位置する多くの人たちは、いわゆる「普通」の感覚なのだろう。
この社会は、その普通の人たちに合せてデザインされているだろうから、感覚過敏があることで生き辛さを覚えて苦しんだとしても矛盾はない。
それらは生来の性質なので、望んだところで消すことも得ることもできない。
そして、鋭い感覚を通じて脳に膨大な情報が流れ込んだとする。
...そうか、ここからが重要なんだ。
その情報入力を職業人としての能力と組み合わせて活用する人がいれば、ただひたすら社会からのストレスとして苦しむ人もいる。
私は職場では前者だが、通勤やプライベートでは後者に該当する。
他方、スピリチュアル系のブロガーの中には、感覚過敏と内的な想像の世界をリンクさせている人がいるのではないだろうか。
想像の世界といっても、彼ら彼女らの脳内では神経細胞同士で思考のネットワークが形成されているだろうし、一人の脳の中に限定すれば、現実的に存在しているわけか。
加えて、感覚過敏の場合には、「普通」の人たちが感じることが難しいレベルの微細な音や臭い、光、温度、気圧、湿度、空気の流れを察知したりもする。
それらの感覚を通じて脳に入ってきた情報を分析的に処理したり、情報がオーバーフローして疲弊するのではなくて、神や霊といった内的な存在とリンクさせ、考えるのではなく、感じるという方向に脳を使っている人たちが、スピリチュアル系の人たちなのではないか。
だとすれば、スピリチュアル系の人たちが「何かを感じる」と言ったところで、普通の人たちが完全に理解することは難しいはずだ。
感覚が鋭い人たちは、そもそも普通の人たちが感じられない微細な変化や相違を実際に五感で感じているわけだから、真面目にその経験を伝える。
なるほど、感覚が鋭くない人たちには何を言っているのか意味が分からないかもしれないが、電車通勤の悪霊の正体が私なりに分かった気がする。
大勢の人たちが蛇のような鉄の箱に押し込まれ、鉄のレールの上で運ばれる。
混み合った電車の通勤なんて、自ら望んで利用している人なんてほとんどいないことだろう。
皆、それなりの理由があって、こんなに人間の自然な生活とかけ離れた大量人員輸送のシステムを使わざるをえないわけだ。
そのシステムで労働者が運ばれ、地道に働き、利を得るのは誰か。
専用の送迎車で快適に通勤する偉い人たちか。都心を離れて住みやすい環境で暮らす家族たちか。
必ずしも自分のためになりもしないことのために、多くの人たちはストレスを抱え、時に倒れ、時に投薬を受け、時に泥酔しながら職場と家庭を往復するわけだ。
人々の苦痛や苦悩までレールの上で運ばれている。
車内では、人々から発せられる独特の臭いや湿気、周りの迷惑を考えない人たちの勝手な振る舞い、大きすぎるアナウンス、さらには不快感を耐えている人たちの表情や仕草。
人々の感覚のレベルが正規分布していれば、すなわち感覚過敏と反対側の性質を持つ人たちがいる。
感覚鈍麻という性質だ。もちろん感覚鈍麻が車内の傍若無人な行いに直結するわけではないが、モラルやマナーがない上に感覚が鈍いと、感覚過敏を持つ人たちに強いストレスを与えることになる。
在来線で安い発泡酒や缶チューハイを煽っているサラリーマンの行いのことを底辺飲みと呼ぶらしいが、なるほど飲み方としては最低レベルだな。
彼らの感覚は非常に鈍い上に、アルコール依存症の徴候があって、さらに感覚が鈍麻していることだろう。
降車して解放されたと思ったら、駅構内で漂う飲食店からの臭気、必ずしも清潔とは言えない通路、人混みでの他者との接触、後方の迷惑を無視して首を折り曲げて歩くスマホゾンビ。
ただ職場に通うためだけに人生の大切な時間が消費されることの焦燥感や虚無感。
普通の感覚であっても、首都圏の電車通勤は大きなストレスがかかるわけで、感覚が鋭いとさらにストレスは増大する。
膨大な情報が脳に入り、まるで一つの塊のように自分自身が飲み込まれていくようなイメージは私も感じる。
私はそれを社会が作り出した歪みだと分析し、通勤地獄に至った自らの判断の足りなさを悔いている。
他方、スピリチュアル系の人たちは「悪霊に憑依される」と表現することがある。
両者の頭の中をパソコンに例えると、ハードウェアの構造は同じで、OSどころかアプリケーションの種類が違うくらいの差しかないのではないか。
情報はおそらく同じで、そこからの解釈が違うだけで、心身が疲れるという結果も同じだ。
...と、夜の通勤電車の中で目を閉じながら考えた。視覚過敏があるとストレスが目から入ってくるので、考えごとをする時には目を閉じることにしている。
だが、これらの考察は私が勝手に思ったことなので、解が正しいのかどうかは分からない。
乗り換えのタイミングがやってきた。
目を開けて車内を見渡すと、多くの乗客が首を下に曲げてスマホを凝視している。
悪霊に憑依された人を見つけることは難しいが、スマホに憑依された人を見つけることは簡単だ。見たくなくても目に入る。
正しくはスマホという窓の向こう側にあるネットの世界と表現すべきか。
スマホが流行る前の昭和の時代では、電車通勤のサラリーマンは新聞紙を器用に折りたたんで読んでいたな。それがスマホに置き換わっただけか。
駅構内で歩きながらスマホをいじっているような人は、完全にスマホに取り憑かれて依存症のようになり、暇さえあればスマホばかり見ていることだろう。
その小さなプラスチックの鏡を見つめて、一体、どれくらいの人生の時間を融かしてしまうのだろう。
その時間を振り返っても、何ら意味もない情報という刺激で時間を潰していただけなのに。
彼ら彼女らには、電車の中の悪霊的なストレスを感じないのか、あるいはすでにストレスに苦しんでいて、スマホを見ることで苦痛に耐えているのか。
多くの人たちが奇妙な方向に首を曲げた光景は、スピリチュアルな世界よりもずっと露骨で現実的な不快感を覚える。
沈思黙考して自分自身と向き合って考えたり、しっかりと前を向いて歩くといった人として自然なことを大切にしたいと、首を曲げてスマホで録の原稿を打ち込みながら思った。