2020/08/27

自分のために続けるブログの価値

サイトのアクセス数が高まらないことは気にしないのだが、著名人でもない限り、日記や生活録といった個人ブログの類は、この程度なのだそうだ。


アクセス数を増やしたければ、テーマを設定して、それに沿った内容を連投する必要がある。

自分のためというよりも、他者にサービスを提供するような視点が必要だな。

そのようなことをやる気は全くないが。

過去に運営していたブログの場合には、子育てやロードバイクといったテーマに沿ってエントリーを重ねていた。

記事を投稿すると、すぐにキーワード検索でヒットするようになった。

そのサイトは1ヶ月のアクセス数が1万ページビューくらいあったので、頻繁にネットユーザーがサイトに訪れた。

別に誇ることでもなくて、アタマジラミの処理方法だとか、ベランダプールの作り方だとか、浦安近辺のサイクリングルートといった感じで、一部のエントリーがネット検索を経由して全体の8割くらいのアクセスを集めていた。

常連さんたちは残りの2割くらい。浦安市民からのアクセスが多かったな。

「ロードバイク 子育て」といったキーワードだけで1ページ目にヒットしていたし、「浦安」というキーワードと組み合わせると多くのページがヒットした。

だが、それによって友達や理解者が増えたわけでもなく、感謝されることもなく、何だか虚しく感じた。

むしろ、アクセス数が増えることで面倒なトラブルが増えた。

妻がサイトを頻繁にチェックしていて「そんなに嫌なら、離婚よ!」と激昂してきたり。

浦安市内の街の問題について考えただけなのに、恐い顔をしたオッサンからスラップをチラつかせて脅されたり。

見ず知らずの東京や埼玉のロードバイク乗りたちがネット上で絡んできたり。

撮影した写真がキュレーションメディアで盗用されたり、ご当地サイトにネタを真似されたり。

ブロガーとして、私にはアフィリエイトなどで小銭を稼ぎたいという気持ちはない。

金とは、汗水垂らした労働の対価として得るものだと考えている。

当時は、他者から関心を集めたいとか、他者に自分の意見を伝えたいとか、誰かのために役に立つ情報を伝えたいとか、まあよくあるモチベーションでブログを運営していた。

しかしながら、アクセス数が増えたとしても、それらの情報を誰が発信したのかなんて、他のネットユーザーは気にしていなかったと思う。

自分が欲している情報、もしくは自分が気になっている情報があるかどうか、ただそれだけのこと。

人々にとって必要だったのは、手っ取り早く手に入る情報という存在そのものであって、ブロガー本人にはあまり関心がないようだ。

また、それらの情報を手に入れようとする気持ちの多くは、人の「欲」が根底にあると思う。

趣味、子育て、金、酒、料理、旅行などに関係する様々な欲が生まれ、それらの情報を得て愉しみたいとか、楽をしたいとか、暇つぶしをしたいというベクトルなのだろう。

アクセス数を上げたい場合には、そのような人の欲を刺激するようなエントリーを投稿すると、反応がやってくる。

他方、情報を発信する側としては、かつての私がそうであったように、自分のことを誰かに認めてほしいという承認欲が働く。

「私は、このように素晴らしい経験をしました!」とか「私には、こんなに素晴らしい特技があります!」とか。

たまに、もの凄い勢いで自己アピールを繰り返すブロガーがいたりもするが、そこまで自分の存在を知らしめたいのだろうか。

先のブログを閉じたのは、バーンアウトが深刻化し、夫婦仲も最悪だった頃だった。

もはや自分自身への信頼を失い、感情さえも枯渇しかけていたので、他者に体よく利用されるだけのブログを続ける気がなくなった。

だが、今から振り返ると、当時からすでにブログというツールの旬は終わり、個人の身近な内容については、SNSを主体として発信する人が多くなっていたな。

ブログを更新し続けることは容易ではないし、せっかく更新しても誰からもアクセスしてもらえない、あるいはサイトの存在自体に気づかれないと、更新するモチベーションが削れることだろう。

ネット上には更新が止まって放置されたブログが無数に漂っている。

これでは楽しくないし、面倒だということで、ツイッターやインスタグラムなどのアカウントを取得して、短文でコンテンツを発信し、自らの内面や経験を放出するわけだな。

膨大な数の人々の内面がネット上に溜まり、確かに暇をすることはない。

しかし、大して面白いツイートもなくて、罵詈雑言も珍しくない。あまりに短文過ぎてストレスが蓄積することもある。

どうしてこの程度のつぶやきに多くのいいねが付くのか分からないアカウントを見かける。

その一方で、多くのユーザーはツイートしてもリツイートやいいねを全く押してもらえず、ただひたすらにツイートを投げ込んでいたりもする。

この状況、すごく孤独だよな。こんなにユーザーが多いのに、誰からも相手にされていないなんて。

自己愛が非常に強い人たちなら問題ないかもしれないが、孤独感を深め、同時に疲れを増やす結果にならないだろうか。

本人は気づいていないだろうけれど、他者が不快に感じることまでダイレクトに発信してしまうこともある。

そこまでしてツイッターが必要なのか。

では、私を含めたネットユーザーは、どうして自らの存在をネット上に発信するのだろう。

他者に自分の存在を知ってもらい、その反応を鏡とすることで、自分の存在を自分で確かめたいからだろうか。

大してアクセスもないブログで、私はどうして生活の記録を更新し続けているのだろう。

その答えは分かる。他者のためではなくて、自分のためだな。

30代に入って結婚して子供が産まれ、そこからの10年間はたくさんのことがあった。

毎日が目まぐるしく過ぎ去り、当時に何を感じたのか詳しく思い出せないことが多い。

すでに閉じてしまった子育てとロードバイクのブログは、私自身にとっては捨ててしまって構わないエントリーが多かった。

アクセスを集めることはできたが、だから何だという程度。他者を意識しすぎた結果だと思う。

しかし、先のブログには、アクセス数はほとんどなくても、自分が素直に書き留めたエントリーが含まれていた。

それらについては、捨てずに保存しておけば良かったなと、少し後悔していたりもする。

ブログを閉じた後、その情報は私の脳の中だけに存在していたわけで、もはや鮮明に思い出すことはできない。

当時の写真は残っているけれど、細かなことは文章で書き留めておいた方が分かりやすい。

まあ、そのような経験や後悔があって、HYPSENTでは他者の役に立つようなエントリーは残さず、ひたすら自分の内面を観察して文章として残すことにした。

オッサンの日記なんて読んでも楽しくないだろうし、社会からずれ続けて生きてきたわけだから、他者からの共感を受けることもないだろう。

それでも、その時に何を考えていたのかを記しておくことは、自分が老いた時に価値が生まれるのではないかと思う。

他者にとっての価値ではなくて、自分自身にとって。

老いて振り返れば、人生なんて夢のようなものだったというフレーズをよく見聞きする。何だか儚いものだ。

けれど、たまに文章として書き留めておけば、夢ではなくて小説くらいにはなるかもしれないな。