二月の勝者の世界に映る父親の現実
大手進学塾に通っている子供たちは、5年生の段階で公立小学校レベルのカリキュラムを完了し、6年生になると受験に向けてさらにハイレベルな学習に移行する。
中高一貫の進学校に入学すると、高校1年生や遅くとも2年生の段階で通常のカリキュラムを終えて、3年生では大学受験に特化した演習が中心になる。
中学生が高校受験を経験せずに高校の内容を先取りして学習するわけだ。
その過程には、子供たちの力以外にも学習塾や進学校の大人たちのサポートが介在し、もちろんだが親の経済力や生来の地頭も関係する。
その後の大学入試は、職業人生の最初の関門であり、その方向を決める大きな要素だな。
難関大学を卒業することが人生の幸や不幸に関わることもあるし、全く関係ないこともある。
これは私感だが、学歴や職業人生というものは、概ね本人や周囲の人たちの自己満足に基づくもので、他者は大して関心を持つことでもないようだ。
職場や地域の集まり、親戚や保護者同士の関係、同窓生といった非常にローカルな集団の中では、他者の生き方に関心を持ち、優越感や劣等感を覚えるかもしれない。
その価値観というものはとても分かりやすい基準によって測られ、人々はそれが普遍的な優劣だと信じてしまうのだろう。
しかし、狭い世界から出てしまえば、他者がどうあろうと気にならないものだ。
例えば、渋幕中高から東大文Iに進み、霞ヶ関で局長まで上り詰めた中年紳士が、自治会の夏祭りで奥さんに指示を受け、ソーセージを焼いて配っていたとする。
そこに同じ省庁で働く若いパパさんがやってきたとすると、そのパパさんは平身低頭になって一緒にソーセージを焼いて配ることだろう。
局長は企業であればセクションのトップ、社長に相当する事務次官へのルートにいたりする。
軍隊だと大佐とか少将くらいだろうか。とにかくすごく偉いそうだ。
そのパパさんを単身赴任で遠くに飛ばすことなんて造作もないはずだ。
他方、霞ヶ関のことに関心のない住民にとっては、局長というポジションがどれだけ偉い人なのか分からない。
たぶん市役所の部長と同じくらいなのだろうかとか。
その中年紳士もパパさんも、同じ省庁という大まかなグループとして認識されたり。
この関係は、大手企業の取締役がソーセージを焼いているというシチュエーションでも当てはまるな。
関係のない他者から見れば、職場の力学なんて小さな社会のマウンティングに感じることだろう。
さらに、同業者の場合には、互いの職場の知名度やランクで張り合ったりするかもしれないが、他の業種の人たちから眺めれば、年収と残業と福利厚生以外はどうでもいい感じがあることだろう。
そういえば、浦安市内には住友商事の独身寮があって、世帯を持ってからも浦安に住んでいる父親がいたりもする。
その父親との会話の中で三菱商事や伊藤忠商事といった社名が出てきたが、私にはそれらの企業のランクやパワーバランスが全く分からない。
商社というと、飛行機のビジネスクラスに乗って、世界を飛び回るという華やかなイメージしか湧いてこない。
もしくは、勇気のしるしが流れる環境で栄養ドリンクを飲みながら24時間働くイメージだな。
まあとにかく、関係のない他者への関心なんてその程度だ。
ところが、中学受験という土俵は極めて分かりやすい。
入試の偏差値と中高を出た後の進学実績、そして入学金と授業料。
中学入試は親の入試とも言われていて、親の努力が反映される要素が大きいそうだ。
親が熱くなる理由も分かる。
我が家では「二月の勝者」という中学受験をテーマにしたコミックの新刊が発売されるたびに妻が買ってきて、中学受験に関心のない私が熟読するように、無言のプレッシャーがやってくる。
私が深夜残業から帰ってくると、食卓のテーブルの上に二月の勝者だけが置かれている時もある。
この漫画は、読んでいてあまり面白いわけではないが、中学受験の現実を詳らかに表現していて、本当に勉強になる。
受験する子供本人が読むというよりも、親が読む漫画だな。
東大合格を目指す「ドラゴン桜」は娯楽として楽しめたが、二月の勝者は生臭いまでのリアリティを感じる。
漫画という手法を用いてはいるが、ほぼノンフィクションのような仕上がりだ。
現時点での最新刊では、旧帝国大学を卒業した父親が、自分の息子を開成中学に合格させようとして熱くなりすぎ、子供に対して受験虐待を、妻に対して言葉の暴力を行ってしまう。
その父親はすでに狂気を発動しておかしくなっている。
そして、受験虐待を受けた息子が家庭内暴力で反抗して暴れ、父親がさらに狂ってしまう。
愛想が尽きた妻が息子を連れて実家に帰り、職を見つけ、離婚前提での生活がスタートする。
息子が通う受験塾では、離婚した場合の収入の減少を想定した受験プランが策定される。
塾の女性講師は「中学受験が原因で離婚するのではなく、そもそもの夫婦関係に問題があって、中学受験が引き金になっただけだ」と言い捨てる。
このようなタイプの女性と結婚すると後で苦労する。
子育て中の夫婦という関係は、互いに不満を持って当然で、大喧嘩を繰り広げても、時にいがみ合ったとしても、連れ添って子供を育てることが大切なんだ。
中学受験は離婚のきっかけに過ぎない?その危機を乗り越えてからが本当の夫婦だと思う。
筆記試験のように単純に解決することでもないし、離婚のきっかけになるような地雷原を、二人三脚で走り切るのが夫婦ではないかと私はイキる。
ところが、このストーリーの父親は自分が地雷になってしまっている。
夫からのモラルハラスメントによるストレスで、妻がトイレで嘔吐しているような状態だ。
逆ならば「夫よ、耐えろ」という話にもなるが、離婚もやむなしだな。
弁護士が間に入れば、息子の私立校の学費を父親が支払うように取り決めることができそうだが、狂って家族に暴力を振るうような夫とは関わりたくないという形なのだろう。
このエピソードだって、受験というキーワードを除けば、ひとり親世帯の母子の貧困を招くリアルな実情を描いている。
救いようのないストーリーに見えるが、これも現実の描写のひとつだな。
中学受験は、育児に続いて夫婦の相性や絆が試されるステージだな。
公立中学があるのに、どうして中学入試という山に挑戦するのか?
そこに山があるからなのか?それを登れば、さらに高みを見渡せるかもしれないからなのか?
公教育のアレな姿への絶望によるものなのか?
まあ、山に登る理由は世帯によって、あるいは夫婦によって違うのかもしれないな。
私にとっての中学入試は、我が子たちが、自分の到達度に合せて「勉強を楽しむ」という姿勢を身に着けたり、自分が目指す目標を自分で決めて努力することを経験させる機会だと思っている。
また、努力して入学した中学や高校で、人生のマイルストーンになってくださる恩師や、人生を通じて付き合える友人を見つけてほしいと思う。
しかし、妻に話を聞くと、子供の偏差値をエクセルに入力してグラフを作ったり、子供に張り付いて厳しく指導する父親が現実にいるらしい。
マジかよ。
私は中学入試にあまり熱量がなくて、妻と子供の意志に任せている。
もしかして、自宅では「必勝!」とか「一蓮托生!」といったハチマキを巻いた方がよいのだろうか。
子供に対しては「君の脳細胞にはお父さんから受け継いだ遺伝子というプログラムが入っている。使いこなせば合格するぞ」と伝えてある。
しかし、妻からは「プログラムにバグが多すぎて使いこなせない」という指摘を受けている。
「いや、それは製造者責任だ」と私が答えると、「設計図通りに作ったのだから設計者責任だ」と妻が反論する。
その議論を見て、平和な家庭だと笑う子供たち。
子供に全ての責任を乗せてしまうことは違うわけで、親から受け継いだ力も多々ある。
それを家族で認めて開き直ることも大切だな。
もとい、中学入試で熱くなる父親は珍しくなくて、塾の保護者会に父親が出席する世帯は多いそうだ。
私も最初は保護者会に出席していたのだが、講師のウンチクがあまりに暇だったので、配布されたプリントに塾講師の似顔絵を一人ずつ書いて自宅に持ち帰った。
その日以来、私は保護者会に出席しなくてもよいことになった。妻からの温かい配慮だと信じている。
まあ、職種にもよるが、大手企業や官公庁などでは、卒業した大学の名前がずっと付いて回ることが多い。
もちろん、大学名に関係しない実力勝負の世界もある。
中学入試には焦っていないが、子供たちの職業人としての生き方を左右する大学入試が近づいていることに焦りを感じる。
いや、大学入試というよりも、その先の職業の選択に焦っている。
とくに学部選定は重要だな。
生き抜く上では、大学の偏差値ランクよりも、国家資格の有無の方が意味があると思う。
社会が混乱したり、経済が低迷している時は、特に。
もちろんだが、職業選択には子供本人の希望や適性、競争率も関係する。
中学合格後に、長くても5年くらいで決める必要がある。
長い人生にわたって影響することを、こんな短期間で決めるのか。
焦っても仕方がない。
私本人がドロップアウト組なのだから、子供たちも同じような生き方をするかもしれないな。
私なりには、我が子たちが他者を助けて、社会から感謝されるような仕事に就くことを願う。ただし、ブラックな場所を除く。
だが、それも父親のエゴだな。
たった一度の人生だ、悔いなく生きろと教えるべきか。
子供たちが進む道で悩み立ち止まった時、私が的確なアドバイスで背中を押してやることができるのか。
中学入試は通過点でしかないが、その先にある現実を早めに知ることができて勉強になり、また神妙になる。