懐かしい友人から届いた手紙
彼は市川市にお住まいで、私よりもひと回り以上も年下だが、とても礼儀正しくて正常な人だ。
私のような生来のイレギュラーであっても、心に仮面を被ったり、役を演じなくても素で付き合える稀有な人物だったりもする。
私の生き方は不思議なもので、人生の軌跡において、彼のようなマトモな人が現れてマイルストーンになってくれる。
しかし、その日の私はとても忙しくて汗だくだったので、電話をかけ直さずにそのままにしておいた。
すると、彼からショートメールでメッセージが送られてきた。
以前、その友人に預けたロードバイクの譲渡手続きについての相談だった。
我が家には妻が定めた自転車の室内保管に関する2台ルールというものがあり、スピンバイクを手に入れた時点でその制限が適用されることになった。
それまでカーボン製の軽量なロードバイクと重量級のクロモリロードバイクを保有していたので、どちらかを手放す必要がある。
普通ならエントリーグレードのクロモリロードバイクを手放すはずだが、私はカーボンロードバイクを手放すことにした。
このクロモリロードバイクは、バーンアウトで苦しんだ時の回復のために使ったもので、とても思い入れがある。
数年かけてポジションを煮詰め、速く走るためではなくて、心地良く走ることを追求し続けた。
この愛車でレースに出たり、山を登る気になれないが、走っていて気持ちがいい。
結局のところ、私にとってのロードバイクは辛い人生を生き抜くための道具だな。健康器具とも言える。
高価なフレームやホイール、コンポーネントは、金を出せばすぐに手に入る。
しかし、良いことがあった日も、苦しみ悩んだ日も、ずっと乗り続けたロードバイクは容易に手に入らない。
フレームの傷の一つひとつにエピソードが刻まれている。
逆に、転倒すれば即廃車のリスクがあり、一人でコンビニに立ち寄ることさえ憚られるカーボンロードバイクへの欲求が急激に萎んでしまったことも確かだ。
ということで、カーボンロードバイクのフレームをその友人に譲渡することにした。
彼にとってのロードバイクは、まさにロードバイクそのものなわけで、健康器具ではない。
それが本来の使い方だと思うし、カーボンロードバイクにとっても、その流通に携わった人たちにとっても本望だろう。
私は趣味の品で金銭のやり取りを嫌うので、彼に無償でフレームをプレゼントすることにした。
彼からのお礼として旨い梨をもらった。
うちの家族は自転車よりも美味を好むので助かった。
そろそろ実際にロードバイクを組んで乗り始めるのだろうか、防犯登録の変更が必要になったようだ。
登録カードの控えを彼に預けてあったので、郵送で返送してもらうことにした。
以前ならロードバイクに乗って気軽に会いに行けたのだが、浦安市内はコロナ警報が発令中だ。
浦安市のコロナ警報は赤い旗を掲げて注意喚起するだけで、とりわけ何か効果的なトランジションに入るわけではないらしい。
現在のコロナ禍は病態によるダメージよりも、社会的なダメージの方が大きくなってしまった感がある。
行政とマスコミが一丸となって走り続けた結果だと思うが、すでに本当の脅威が何なのかを、多くの人たちが感じ取っているはずだ。
ツイッターにのめり込み過ぎて、もはや思考にバイアスがかかってしまっている浦安市民を見かけるたびにうんざりする。
とはいえ、久しぶりに友人に会えば長話になるだろうし、私が無症候性に感染していたら、彼やご家族に迷惑をかけることになる。書面でやり取りせざるをえない。
しばらくすると、彼から一通の封筒が届いた。防犯登録カードの控えが入っている割には封筒が厚い。
中には譲渡証明書を送るための返信用封筒と、手書きのメッセージが添えられた一枚の便箋が同封されていた。
そこには、私の仕事を気遣う言葉も込められていて、とても大きな励みになった。
どれだけネットが発達しても、手紙が持つ意味はとても大きい。
長丁場の状況では、途中から自分が何のために働いているのかが分からなくなる時がある。
もちろん、ミッションについては理解して目的も分かっているのだが、これだけ社会が混乱し、その本性が剥き出しになると、職業人としての矜持が削られる感じがある。
自分は何のために何と戦っているのか。
しかも、様々な要素が複雑に絡み合い、必ずしも完全燃焼することが難しい時もある。
春先に転職の話があったが、現在の仕事が気に入っているからと固辞した。
その時に辞めれば良かったかなと後悔したこともあった。
けれど、今回のエピソードは、気持ちを取り戻す上で大きな意味があった。実に有り難いことだ。
ロードバイクという趣味を始めて、数十人を超えるサイクリストと一緒に走ってきたが、現在でも連絡を取り合いたいと思える人はほとんどいないし、実際に縁が切れている。
ロードバイク乗りには自己主張と承認欲求が強い人が多いように感じる。
彼のように人生を通じて付き合える友人を見つけることは難しい。
しかも、このコロナ騒動だ。グループライドどころの話ではなくなってしまっている。
その友人からの手紙には「機会があれば一緒に走ろう」という言葉が添えられていた。
それは叶わない希望的観測ではなくて、このペースならばいつかやってくることだ。
今でもグループライドで走り回っているサイクリストが珍しくないが、彼らの気持ちも分かる。
マスコミも行政も落ち着いていない状況で感染すれば、家庭内感染も含めて大なり小なり無用の社会的圧力がかかる。
もはやウイルスの病態を越えたところにあるパニック、それが現状になってはいないか。
行政にしろ、マスコミにしろ、本来ならば最も落ち着くべき存在が動揺してはいないか。
一方で、自らが感染した場合のダメージというよりも、バランスを失って前のめりになった社会への不満や憤りが全面に出てきている感がある。
とりわけ、若者たちは社会の矛盾に敏感だ。
この流れが大きくなると、いくらマスコミが煽ったところで、行政が呼びかけたところで、膨大な数の感情は変えられないし、すでに大きなうねりとなって押し寄せている。
コロナに感染しても社会的な圧力を受けない状況になった頃には、感染症の終息はともかく、世の中も落ち着いていることだろう。
その時が来れば、ぜひ彼と一緒にライドに出かけ、走り、笑い、朝マックを頬張りたいものだ。