2020/08/11

お父さんの本当の夏休み

お盆休み前の三連休。案の定、子供の学習塾や習い事が立て続けに入って、我が家は朝から大騒ぎだ。休日という存在については、世帯によって、あるいは夫や妻によってそれぞれなのだろう。


「休日とは、休む日と書いて休日なのだ」と、平日に仕事で力を使い果たし、サイクリング以外はほとんど動こうとしない私と、家の中でじっとしていることが嫌いで、とかく子供たちと一緒に外出しようとする妻。

妻としては、食と子育てについては妥協したくないらしく、私のことは置いたままで我が家庭は先に進んでいく。

一時はその状態に悩んだものだが、妻のこだわりの強さは私の感覚過敏と同様に生来のもので、もはや修正が利かないのだろう。

今では開き直って自分のペースで生きることにした。

浦安市内に友人と言える父親がほとんどいないので分からないのだが、夫婦共働きの世帯の父親において、本当の意味での休日とはあるのだろうか。

三連休があったとしても、初日は上の子供が学習塾で、下の子供は習い事で、父親は平日に足りなくなった消耗品の補充のための買物。

自宅の消耗品、例えば、ゴミ袋やティッシュペーパー、トイレットペーパー、消毒用の塩素系スプレー、風呂掃除用の洗剤、ハンドソープの詰め替えなどを入れてあるストッカーを開けたところ、不足しているものが目立つ。

仕事がある妻としても、そんなことまで気を遣っている余裕がない。

ということで、ドラッグストアに行って足りないものを買って、ストッカーに詰めておく。

家族からの感謝なんてものはない。当然のことだ。

翌日は、平日にメンテナンスができていなかったキッチンや洗面台といった水回りの掃除。

そういえば、親戚に子供が産まれたそうなので、出産祝を選び、先方に送る。

昭和の団塊の男たちから見れば、そのようなことは父親がやることなのかと突っ込みが入るかもしれないが、平成、そして令和の父親においては当然のことだ。

その翌日は、風呂掃除や燃えないゴミの片づけ。

そういえば、アレもやっていなかった、コレもやっていなかったと、家庭の維持のためにやることはたくさんある。

独身の若い男性たちから見て、このような共働きで子育てを続ける父親の生活が幸せに映るかどうかは分からない。私自身、この生活が幸せかどうなのか分からないくらいだから。

あまりメディアで取り上げられることはないけれど、このご時世の父親には二種類の父親があるらしい。

一つは、兼業旦那。

夫婦共働きで子育てを続け、仕事と家庭を兼業しているスタイルだな。

もう一つは、専業旦那。

日本において幼稚園という存在が消滅していないという事実は、すなわち妻が専業主婦あるいはパート程度で働いている世帯が存在しているということを示唆している。

翻って考えれば、専業主婦の妻によってサポートを受けながら、仕事に専念している父親が存在しているということだ。

子育てを続けている専業主婦の生活が楽なのかというと、楽なはずがない。けれど、夫としては楽だと思う。

転勤でも家族ごと引っ越すことができたりもするわけだし、夫としても家庭のメンテナンスを妻がやってくれているわけだから、家庭で消耗することも少ないのだろう。

兼業旦那がどうして疲れるのかというと、仕事と家庭の両方をケアしなくてはならないからだな。

我が国の税制について真面目に考えてみれば分かることもある。

妻が育休に入った時、税金の負荷がとても軽くなって驚いた。

妻が仕事をしながら育児をしていても、家庭において専業主婦を続けていても、子育ての苦労は変わらない。

仕事があるからこそ辛いこともあり、仕事がないからこそ辛いこともある。

けれど、夫に対してかけられる税金は、妻のライフスタイルによって変わってくる。

兼業旦那の方が大変なのに、専業旦那よりも多く税金を払うという理不尽な構図になってはいないか。

とどのつまり、「男は仕事、女は家庭」というスタイルを想定して税のシステムが考えられてきたのではないかと思ったりもする。

一方で、父親の「趣味」という限られたエリアについて考えると、世帯にもよるが、兼業旦那は専業旦那よりも圧倒的に優位だと思う。

妻が稼いでくれているので、夫の小遣いがギリギリまで削られることも少ないのではないだろうか。

専業旦那のサイクリストに出会ったことがあるが、マイホームのローンと子供たちの教育費でカツカツになっていて、穴の開いたチューブまで再利用していた姿を目にしたことがある。

まあ、専業旦那の生き方においても、兼業旦那の生き方においても、妻あるいは夫の実家によるサポートによって話が変わってくるわけだし、世帯の数だけパターンがあるという話なのだろう。

結局、三連休があったのに、ロードバイクのライドに出かけられる時間は確保することができなかった。

若い頃は、綺麗な青空を眺めて「ああ、乗りたかった...」と嘆いたり、不満を溜めたこともあったが、さすがに慣れた。

30分程度の時間を見つけて、スピンバイクに乗り、ひと汗かいて風呂に入り、ハイボールを飲み干す。

翌日、とりわけ体調が悪いわけではなかったが、職場に連絡して、一日だけの有給休暇を取得することにした。

妻と子供たちが休日モードに入っている時、世間一般に言う「休日」という存在は、共働きの父親にとって本当の意味での休日には当たらない。

うちの妻のように、休日になると何かのイベントをセッティングしようとする配偶者の場合、私が自宅で静養したくても、静養にならない。

この連休の後の盆休みには、妻が主張した家族旅行が待っている。

せっかくの休みなのに、どうしてわざわざ人混みに行って、慣れない場所で眠り、再び疲れて帰ってこなくてはならないのか。

私は行きたくないと言えば、妻や子供たちが不機嫌になるわけだし、ロバになったつもりで同行するしかないわけだ。

結局、わが世帯においては、父親にとっての夏休みなんてものは用意されない。ならば、自分で用意するまでの話だな。

妻や子供たちに不意打ちの形で私が休みを取らないと、私にとって本当の休みはやってこない。

まあとにかく、妻も子供たちも落ち着きがない家庭なので、自宅で休んでいても甲高い怒鳴り声や喧嘩をする声が聞こえるので、私は休めないのだ。

かといって、妻がブチ切れて子供たちを連れて義実家に行ってしまったりすると、それはそれでフォローが面倒だ。ここは穏便に休みを取ろう。

たった一日だけれど、静かな休日がやってきた。

先日まで、マンションの上の階の世帯の子供が朝から晩まで走り回るという異様な状況だったが、何度も警察を呼んでいたら引っ越していなくなった。

同じルートを何度も走ったり、跳び跳ねたりする活動的な子供だったので早めの療育が必要だと思ったが、親が現状を認めたくないようだったから対応は遅れることだろう。今後の活躍を期待したい。

コンクリートでできた蜂の巣のような住居に多くの人たちが集まって生活する姿が、人が人として生きる上で本当に自然な姿だとは思わないし、こんなスタイルで生活せざるをえない我が人生を倦んでいる余裕すらない。

この一日が終われば、今度の盆休みに休んでいる暇はなくなる。

父親においては「家族サービス」という言葉があるが、一体、何のサービスなのだろう。それは昭和の専業旦那の発想ではないだろうか。

今までだって歩くATMとして、十分に家族に対してサーブしている。あえてサービスを追加したら、兼業旦那はさらに消耗する。

仕事で疲れ果てて、さらに家庭でも疲れて、再び仕事に戻る。それが夏休みなのだろうか。

さて、せっかくの休みだが、この炎天下ではロードバイクに乗ることも無謀だと思える。

盆や正月の時期は医療機関においてもエース級の医師が休みに入って、経験の少ない若手が担当していたりもする。

熱中症だけでなく落車して病院に運ばれたとしても、彼らの経験を積むためのトレーニングの対象に使われてしまうかもしれないな。

ということで、半日くらいの間、私は自宅で座禅を組むことにした。

私に限った話ではないと思うが、世の中が騒がしくて、思考が浮足立った感じがなくならない。

しばらく続けていたサイクリングによって、以前から困っていためまいは随分となくなってきたが、コロナ騒動によって自分の気持ちを落ち着けることができずにいた。

勘の良い人たちなら分かると思うが、現在のコロナ禍という状況は、病原体そのものの脅威というよりも、社会的な混乱による脅威の方が大きくなってしまっている。

感染者数は検査数が増えれば大きくなる。別に不思議なことではない。また、一時期の外出自粛が解かれて、人々の気持ちも緩んでしまっている。

人の心は自らの欲に従って傾く。

余程の恐怖やデメリットがない限り、我慢を続けることは難しい。もはや限界なのだろう。

一方で、感染者数が増大しているにも関わらず、第一波と比較すると、重篤者や死亡者の数がそれほど増えていない。

研究者たちは、この現象について非常に関心を持っており、実際に解析のためのアクションが始まっている。

では、社会一般について言えばどうなのか。

感染者数の増加自体をセンセーショナルなニュースとして取り上げたいマスコミたちは、一生懸命に感染者数について報じている。

第一波の時に勉強したであろう「クラスター」という専門用語を連発し、どこどこでクラスターが発生した、どこどこでクラスターが発生したと喧しい。

ストーリーを立ててから情報を切り取るのではなく、生じた事象を偏りなく客観的に報じることが大切だ。それができない人たちだな。

昔も今も。

マスコミだけでなく、市役所の職員の中にも、重篤者数や死亡者数の変動をそっちのけで、感染者数に前のめりな人たちがいるようだ。

地理情報システムで感染者数のマップをつくって公開している人を見かけたが、目の前で生じている事象は地図では歯が立たない。

PCRで陽性を呈した見かけの感染者の地理分布は、実際の感染者の数をリアルタイムで反映しているかどうか分からない。

「ああ、これはこのようなものだな」と感染症を理解したつもりでいても、実際には理解していない部分が多いわけで、状況は週単位で変化している。

これからどのように展開されるか分からない感染症の場合は、特にこの読みが難しい。

同時に、宿主である人間の行動や社会の体制も変わり続ける。

日本の場合、現時点では感染者数を追うことに意味がないことを、マスコミも行政もあまり理解しているとは言えない。

他方、メトロ東西線の浦安駅で下車して繁華街を歩いてみると、飲み屋に入って至近距離で酒を飲みながら大声で会話している浦安市民たち。

市長の地元が浦安市の元町だからなのだろうか、もう少し飲食店に対して感染防止のためのアドバイスを用意したらどうだろう。

このような状態に無症候の感染者が入店したら、一気に感染が広がると思う。

新浦安に戻ってくると、マスクをせずに出歩いているシニアや若者たち。

真面目に新しい生活様式を守っているのは子供たちという状況だ。

そして、街中には赤い旗がはためき、その下をマスクを付けないお爺さんが自転車に乗って通過する。

果たして、これで感染の拡大を抑制することができるのか。

無理だな。

私感だが、このような状態で新型コロナを抑止することは不可能だ。

世の中には、徹底的にPCR検査を実施して、無症候者を含めて隔離せよと言っている自称専門家がいたりもするが、それが彼らの認識の限界なのだろう。

人的あるいは経済的なコストを考えれば、その戦略が困難であることは小学生でも分かる。

しかし、肩書きがあって頭の回転の速い人が、さも実現可能かのように自信満々で主張すれば、テレビが好きな人たちは「その手があったか!」と信じ込んでしまうのだろうな。

最前線にいる本物の専門家たちとしては、「門外漢は引っ込んでろ」と感じているかもしれないが、マスコミはそのような人たちに食いついて情報を拡散する。

全てには当てはまらないが、ゴミという形容詞の意味は分かる。

政治やマスコミに関心がある人たちの多くはシニア世代だということは明白で、当然ながら政治やマスコミはシニア世代に対して気を遣う。

SARSやMERSならともかく、COVID-19においては、ある程度の感染の拡大が進んだ状況ではPCRと隔離という戦略は必ずしも有効ではない。

市内を眺めても分かる。感染経路が不明というケースが多い。

この状況で陽性者を見つけて隔離していれば、施設が足りなくなるどころか、街が成立しなくなり、経済も傾く。

けれど、自らが感染すれば重篤化する可能性があると言われれば、シニア世代としては必死にその戦略を主張するのだろう。

政治やマスコミとしても、彼ら彼女らの気持ちを無視することは難しい。

その反面、政治やマスコミに関心がない若者たちからすれば、自分たちは感染しても風邪程度で治まるのに、どうして我慢しなくてはならんのだという気持ちになってもおかしくない。

まあ色々と感じることはあるが、これが社会の本質だな。

人の心は低きに流れ、自己を中心にして思考を展開する。

人の心のもう一つの特徴は、しばらく流れ続けると、途中で澱み、先に進まなくなることだ。

具体的には、テレビやネットで新型コロナについて同じような情報を脳に入力し続けると、この病原体の性質をある程度分かったつもりになってしまう。

ところが、このウイルスについては分からないことが多い。

ウイルスが変異して性状が変わると、それまでの人々の理解や認識が必ずしも通用しなくなる。

日本全国で感染者、正確にはPCR陽性者の数が増えたと恐れている人たちがいるはずだが、その恐れの背景には、第一波で多くの重篤者や死亡者が認められたという記憶があるはずだ。

第二波において感染者数が増加しても、重篤者や死亡者の数は比較的少ないと説明したところで、人の思考が澱んでしまうと、先入観が働いてなかなか変わらない。

新型コロナウイルスが、どうしてここまで感染力を高めてきたのか。

検査数の増加も関係しているはずだが、あまりに容易に人から人にウイルスが伝播している。まさに風邪のような広がり方だ。

その反面、ここまで感染者が増えている状況なのに、どうして重篤者や死亡者の人数が第一波のように増えてこないのか。

医療機関の体制の準備だけでは説明しがたい。

そうなると、宿主である人間側、あるいはウイルス側において何らかの要素が関係していると言わざるをえない。

新型コロナについては、欧米とアジアにおいて考え方を変える必要があるのだろう。

多くの専門家が指摘しているように、おそらく遺伝学的な何か、もっと踏み込めば免疫に関連する遺伝子群の多型が関係していると思う。

また、日本だけでなく、欧米においても重篤者や死亡者が減少傾向にあるという事実は、宿主側だけでは説明がつかない。

一部の免疫学者の中には、新型コロナウイルスと交差反応を起こす何らかのウイルスが、日本国内にすでに広がっていたと主張する人もいる。

根拠に乏しくて賛同しかねるが、かといって否定することも難しい。今後の解析が待たれる。

最もありうるのは、ウイルスが人と人とを伝播している中で変異を生じているという考え方だな。

伝播を繰り返すと強毒化すると主張しているウイルス研究者は、コロナウイルスが専門ではなくてインフルエンザウイルスが専門である場合が多い。

確かにインフルエンザの場合には、伝播し続けることで人間の中でより増えやすい変異ウイルスが出現することがある。

呼吸器系ウイルスの専門家が、新型コロナウイルスにおいても感染が広がると強毒に変異すると主張してしまうと、他の研究者はあまり反論ができなくなる。

しかしながら、インフルエンザウイルスとコロナウイルスは違う。

個体間を伝播する中で感染力は高まるけれど、逆に病原性が低くなって、まさに人と共存する形になったウイルスはたくさんある。

今、健康に生活している人たちだって、数十種類以上のウイルスが身体の中に感染している。それに気が付かないだけの話だ。

「ウサギとカメ」の童話があるが、あのストーリーでは、ウサギが怠け者で、カメが真面目な感じで描かれていた。

しかし、その物語に登場するキャラクターが、穏和なウサギと狂暴なカメだったとする。

前者を感染力は高いけれど病原性が低いウイルス、後者を感染力は低いけれど病原性が高いウイルスに例えてみよう。

このウサギとカメが宿主というゴールに向かって競争したとすれば、穏和なウサギの方が先にゴールに達する。

そこで増えて、さらに別の宿主に移って行けば、後からきた狂暴なカメはゴールに入れないという理屈だな。

新型コロナウイルスが変異し続けているという情報は、すでに各国の研究機関が把握し、監視を続けている。

他の4種類の風邪コロナウイルスだって、最初に人間社会に出現した時にはこのような感じだったのだろうか。

その事象が生じたのは有史以前かもしれない話なので、想像さえ難しいことだが。

感染しても大して重篤化しない感染症については、社会がそれほどケアする必要はなくなる。

基礎疾患があると重篤化する日和見感染症はたくさんあって、今でもそれらに苦しんでいる患者はたくさんいる。

結局のところ、それらの対策の主軸をどこに置くのかという点が重要だな。

今のマスコミの報道では、多くの国民が落ち着いて考える余裕がないだろうし、民意に左右される政治が落ち着く余裕もない。

私なりの予想が当たるのかどうか分からないが、近い将来、このウイルスは人間社会に溶けていくと考えている。

コロナウイルスのゲノムが変異しやすいRNAであったことも幸いだなと思う。

高い感染性を持ちながら病原性がほとんどないウイルス型が現れて、先に社会に広がれば、そこから強毒型のウイルスが広がりづらくなる。

その機会は確率論なので、世界で同時多発的に生じるかもしれないし、特定の地域において生じた事象であれば世界に広がるまで時間がかかるかもしれない。

そして、今の子供たちが大人になった時、「こんな風邪で日本中の学校が休校になったんだよ」と笑う日が来るかもしれないし、そうあってほしいと願う。

ただし、新興感染症が社会に出現した時の打撃は非常に大きい。

このような状況にならないような監視や対応、研究の体制が必要なことは間違いない。

一人で禅を続けていると、頭に思い浮かぶ様々なことが浮いては消え、そのうち眠くなってくる。

ここには警策もないので、しばらく座椅子に座ってのんびりと居眠りに入る。

目を覚ますと、窓からは青空が見え、セミの声が聞こえる。

世界は目まぐるしく変化したが、この空の青さも、セミの声も、何も変わらない。いつもの夏だ。

そろそろ昼過ぎだろうか。怠けながらの禅が続く。

そこからは何も考えない時間が続いた。

妻や子供たちが部屋の中にいると、「ご飯を食べなさい!」という妻の怒声が聞こえてくる時間帯だが、本日は声の主が仕事に行ってしまっている。実に静かだ。

そのまま座禅を続けていたら、気が付くと陽が傾いてきた。随分と頭の中が軽くなっている。

話が逸れるが、最近のスマホの消費電力を眺めていると、ずっとバックグラウンドで何かのプログラムが動いているように感じることがある。

現代の人々の頭の中が、まさにその状態なのかもしれないない。

一度充電すると、会話しない限りずっと電池が持つガラケーのような時代に戻ることは難しいのだろう。

しかし、人には、何も考えない時間が必要で、その時間がないから疲れるのだろうな。

ようやく妻や子供たちが自宅に戻ってきた。

どうやら、上の子供は塾が休みで、自宅にいたらしい。自室で私がいるということを意識していなかったようだ。

そこからスピンバイクに乗り、30分程度のトレーニングによって汗を流し、ハイボールで喉を潤し、夕食をとってから風呂に入る。

たった一日だが、本当の夏休みがとれた気がした。

職場や家族に感謝せねば。