2020/08/04

習志野ラビリンスの地元走り

浦安市から出発して、市川市と船橋市を抜け、市原市まで行って折り返す往復100kmのロードバイクのソロライド。天候は快晴、五井にたどり着いた段階での気温は33℃。


両腕や顔には大量の汗がしたたり落ち、乾いて塩になり、再び汗とともに流れていく。

重さを度外視して取り付けているサーモスの魔法瓶は期待に沿う性能で、氷を入れたスポーツドリンクが身体を中から冷やしてくれる。

信号待ちと自販機でのドリンクの補給を除いて、市原市の姉ケ崎までの50kmを走り続ける。

慣れない暑さもあって、往路で飲んだドリンクは約1.5リットル。往復で3リットルか。

成人男性の血管を流れる血漿が約3リットルなので、丸ごと入れ替える計算になるな。

前日はウトメとコトメと飼い犬のアポ無し訪問があり、夫婦間の会話が全くない夕食を終え、私は多めに酒を飲んで眠りに就いた。

父親という役を演じてはいるが、あまりに嫌なことがあると素に戻る。

平日は顔を歪めながら耐える長時間の電車通勤。

人混みでの接触も吐き気がするが、何より、駅や構内で露呈する人間の品の無さが嫌なんだ。

浦安が住みよい街?嘘だろ。23区内からの通勤の利便性には劣る。

そして、休日になれば義実家による自宅への突撃。

こんなことが続いたら、私にはストレスばかりがかかって、休む時間がない。

落ち着きのない上の子供が夕食中にしゃべり続け、私は「静かにしなさい」と叱る。

それでも上の子供は自制が利かずに数分後にしゃべり出す。

「黙れと言ってるだろ!」と私は怒鳴る。

義実家から突撃を受けた日には、私は穏やかな父親という役を演じないことにしている。

夫として、義実家の肩を持つような妻を心から愛し、信頼し、人生を連れ添っていくことができるかどうか。

いつまで親離れができないのか。10年以上、この調子だ。

それにしても、義実家は自分たちのことばかり考えて、好き放題に行動する。少しは祖父母の役や叔母の役を演じてほしいものだ。

浦安に引っ越してくる時、住居費が大変だろうからと義実家から経済的なサポートがあるのかと思っていたら、1円もない。私が全て支払った。

子育てをサポートしてくれているのかと思っていたら、子供の塾や習い事の送迎さえ助けてくれない。

それなのに、自宅で疲れて眠っていると、義実家がアポなしで自宅に突撃してきて大きな声を張り上げる。

これで介護や墓の世話?

関わりたくないのに、向こうから関わってくる。

私としては、「いい加減にしろ!」と義実家に対して直接的に抗議したいが、妻としてはそれを恐れている。

いざ、私と義実家が大バトルになったら、どちらに付くだろうか。義実家の味方をした時点で、即、夫婦は別居だ。

かといって、義実家と縁を切る勇気はない。それが今の妻の心境だろう。

何がLINEグループだ。夫とコミュニケーションを取るよりも実家優先か。

妻と家庭を築くはずが、そこに義実家が常に干渉してくる。

自分の家庭という基盤が崩れていて、この家庭のために身を粉にして働くことが虚しくなる。

この人たちは、子離れと親離れができない共依存の関係なのだろう。

義父母が世を去るまで解消には至らないし、その時は夫婦の絆なんて削り取られていることだろう。

配偶者が義実家とのトラブルを放置していて熟年離婚に進む理由がよく分かる。

このように些細な、しかし本人にとっては深刻な家庭内での軋轢は、父親になれば誰もが感じるかもしれないし、五十路が近くなれば色々と背負うものなのかもしれないな。

姉ケ崎に到着し、そのまま木更津くらいまで走り続けて倒れようかなと思ったけれど、色々と背負っているので大人しく浦安に向かって引き返す。

ロードバイクに乗りながら禅を続けているつもりだが、さすがに浮かび上がる思考を鎮められずにいる。

それは家庭のことだけでなくて、仕事のこともある。限界なのだろうな、全てが。

市原市から千葉市に入り、そこから幕張に向けて抜けるのがいつもの定番だが、今日は幕張に行きたいという気持ちがない。美浜区の辺りはマッチョなロードバイク乗りが多くて疲れる。

軽量なフレームのロードバイクに乗って、自動車の迷惑も考えず、彼らがピチパンで激走する姿を見て、私は酷く興ざめする時がある。

若い人たちならまだしも、私と同世代あるいは年上のオッサンたちが、ボーラのホイールを回しながらハァハァと荒い息を挙げてペダルを漕いでいる姿が無様だとさえ感じる。

この人たちは、何が楽しくてロードに乗っているのだろうか。

そのような考えは、私がロードバイクという趣味に飽きてしまったことを示唆しているのかもしれないし、他者についてとやかく言える立場でもないな。

実際のところ、ロードバイクは自分にとって健康器具になってしまっている。

何台ものカーボンロードバイクを乗り継いで、手元に残ったのは通勤用のクロモリロードバイクのみ。

エントリーグレードの安物だが、これでバーンアウトを治したわけだから、たぶん意味があるのだろう。

ダンベルを手に入れて、「どうだ、俺のダンベルは凄いだろ!」とか「俺のトレーニングは凄いだろ!」とイキることに意味がないのと同様に、健康器具としてロードバイクに乗っているわけだ。他者を意識する必要はない。

今の私は仲間も必要ないし、レースにも興味がない。ただひたすら自転車に乗って走るだけ。

仕事での不満、家庭での様々な不満、そんなことは生きていれば誰だって感じることだ。五十路が近くなって、いちいち気にしていたら残りの人生が無駄になる。

世の中はコロナ一色だが、その前は「共働きで子供たちを育てましょう!ワークライフバランス!」という流れがあったと思う。

私もその潮流に飲み込まれて生きてきたわけだが、結局、ワークアンドハードワークで突き進んだ人たちの方が上に登っていく。

こっちは次の世代を担う子供たちを育てているのに、どうしてこんなに苦しみながら生きるんだ、子供がいない世帯に重税をかければいいじゃないかと嘆いても仕方がない。

そのような不平不満も、千葉市に戻ってくると頭の中から消え去ってきた。

今はただ、「暑い」という気持ちしかない。それにしても美しい雲と青空だ。

汚い話かもしれないが、手首に出来上がった塩の塊を少しだけ舐めてみる。

自分の汗が干上がって、塩が出来た。真面目に考えると凄いことだ。そう、私の身体が生命活動を維持している証だな。

この瞬間に悩んでいることなんて、10年も経てば大して意味すらなくなる。記憶に残っているのかどうかも分からない。

まるで夢のように去ってしまう程度の話なのに、私はなぜに悩んでいるのだろう。

千葉市内を走り、黒砂陸橋で左折して幕張に入るところだが、直進して習志野市に向かってペダルを回す。

習志野市から船橋市に入り、そこから市川市を抜けて浦安市を目指すルート。

しかし、今まで何度か習志野市を通って帰ろうとしたのだが、道を迷わずに浦安市に戻った経験がない。

千葉県の習志野市。

南関東出身ではない私にとって謎多き街だ。

昔、千葉県北西部は習志野と呼ばれていたことは知っていたが、その場所はすでに分割されて名前もなくなったと思っていた。

ところが妻の実家の都合で千葉県民になった時、浦安市の近くに習志野市という街があることに気づいた。

市川市や船橋市、千葉市といった強豪のような自治体に囲まれて、習志野市の存在感は薄い。

浦安近辺の自動車は習志野ナンバーを付けているが、習志野市がどこにあるのかを意識する人は少ないことだろう。

しかし、私としては、習志野市には東京から最も近い「千葉県」を感じるわけで、もしも職場へのアクセスが良いのなら、この街で生活してみたいと思う。

何をもって千葉県なのかというと、その定義は難しい。多少の不便はあっても、人が人として、心穏やかに生活することができる環境だろうか。

浦安市はもちろんだが、市川市や船橋市なども、東京と千葉のハイブリッドのような状態だと思う。

野田市や松戸市、流山市は千葉県のテイストが強めだが、やはり千葉県らしさを感じるのは、習志野市や鎌ヶ谷市、八千代市、柏市、我孫子市くらいから向こう側だな。

穏やかで、人が少なくて、のんびりして本当に過ごしやすい。

しかしながら、浦安市から習志野市を抜けることは難しくないのだが、習志野市を通って帰ろうとすると、途中で道がなくなる。

細かすぎて説明を省略するが、14号線を走り続けて東京方面に向かうと、途中で習志野市の手前で高速道路のような緑色の標識が見えて、そこから先に進めなくなる。

仕方がないので迂回したり、住宅街に入ったりと、色々と頑張っているうちに訳が分からなくなり、必死に走っているうちに気がつくと船橋市に入っていたということが何度もある。

私にとっての習志野市は、「行きはよいよい 帰りはこわい」という存在なのだ。

以前、三人で走りながら習志野市でロストして、村人のマダムから道を聞きながら帰ったこともある。

日没が近づき、「おい、この道はさっき通ったぞ!?」というメンバーの叫びや、「ああ、この街に入り込んでしまったのね...」という感じの村人のシニアの表情がとても怖かった。

街があるのに、浦安のように歩道に人が溢れていない。ホラー映画だと日が暮れて一気に村人が出てくるような雰囲気だった。

その後、私以外の二人はロードバイクに乗らなくなってしまったようだ。余程、その経験が恐怖だったのだろう。

高速道路の標識が見えたところで、私はペダルを止めて足を着き、地元民が通り過ぎるのを待った。しばらくすると、ママチャリに乗った習志野市民と思われるお兄さんがやってきた。

第一村人発見だな。

彼の後をしげしげと追いながら、習志野市に入って行く。

すると、彼は車道から側道に入り、住宅街に向かって走っていく。そして、途中で急に方向を変えて、直角の向きに突き進んでいく。

「なんだと...ここで曲がるのか!?」

彼は、存在しないはずのインベタのさらにインを走って行った。

頭文字Dで登場するセリフを拝借すれば、まさに「掟破りの地元走り」だな。

習志野市に住んでいなければ、どう考えても進まないような方向だ。

この都市設計は何かがおかしい。

そして、習志野市に入ったところで油断した瞬間、その若いお兄さんの姿が見えなくなった。

習志野市はこれが恐い。一瞬で村人が消えてしまう。

そして、気が付くと私は森の中にいた。

NCM_3137.jpg

「ここが習志野市だ!」と紹介すると、習志野市民から怒られるかもしれないな。おそらく、357号線沿いの公園の一部だろう。

浦安市から357号線沿いの左車線をずっと走り続けると、この場所にたどり着く。

...ちょっと待て、おかしいぞ。私は14号線沿いを走って帰ってきたはずだ。

やはり習志野市には時空の捻れが生じていると理解した方が良さそうだ。

ところで、私の愛車は浦安市から都内への通勤で使っていたもので、フレームはアンカーの廉価版、フロントフォークはソーマという組み合わせ。

メーカー純正のクロモリフォークは直進性が今ひとつだったので、トレール値を伸ばすために他社製のクロモリフォークを取り付けた。

前から見るとソーマだが、横から見るとアンカー。それと、コラムを切らずに、クイルステム風に伸ばしてみた。

クロモリロードバイクだからこそ可能な適当カスタム。これをカーボンロードバイクで行うと危険だな。

その他は自宅に転がっていたアルミハンドルやPD9000のペダル、紐付きのR8000のコンポなどを寄せ集めて、バラ完で自分で組んだ。

トラブルに備えて、輪行袋やスペアタイヤ、応急用のメディカルキットが入ったツールボトルなどを取り付けていて野暮ったいが、道端で立ち往生しているロードバイク乗りを助けることがよくある。

助ける対象はサイクリストだけでなくて、熱中症で倒れているランナーを見かけて魔法瓶から氷と水を取り出してビニール袋に詰めて冷やしたり、道端で転んで怪我をしているお年寄りの擦過傷を大きな絆創膏でふさいだりと、来世に向けて徳を積んでいる。

では、なぜに通勤用のクロモリロードバイクに乗り続けているのかというと、我が家には妻が定めた「自転車は2台ルール」というものがあり、スピンバイクが自転車として認定されてしまったため、チネリのカーボンロードバイクを手放すことになった。

数年前のバーンアウトでは、このクロモリロードバイクに乗って合計2万kmを走り、サイクリングによって脳の調子を整えた。

この自転車がなかったなら、私はバーンアウトだけではなくて適応障害やうつ病を発症し、すでに働けない状態になっていたかもしれないな。

その後、交通事故に遭ったのだが、私もフレームも無事だった。縁起が良いので、そのまま乗り続けている。

いつか、浦安市を脱出して、23区に引っ越し、この自転車に乗って通勤するんだという希望を持って生きているので、手放すわけにもいかない。

それにしても...まるで迷宮のように感じる習志野市だが、ここから船橋市にたどり着くための道程が分からない。

習志野市のことだから、おそらくGPSや方位磁石は通用しないと私は信じ込んでいる。以前、ナビの通りに走ったら大変なことになった。

やはりその場所で生活する人たちの姿を学んだ方が話が早い。

ここで大切なのは、自分が浦安市民だと名乗らないことだな。

千葉県内では浦安市が嫌いな人たちが多いらしい。

外房に行った時には、浦安市民だと名乗っただけで、冷たい視線と皮肉混じりの言葉を投げかけられたことがある。

中指を立てられたり、石を投げられることはないのだが、私は市川市の方からやってきたと答えるようにしている。

そして、再び村人がやってくるタイミングを待つ。

すると、第二村人のお爺さんがママチャリに乗って、獣道のようなグラベルを突っ切って走っていく。

NCM_3141.jpg

そこから適当に右折していたら、左に357号線、右に14号線という標識が見えてきた。

やはり地元走りによるショートカットだな。

今まで習志野市のラビリンスにはまり込んで抜け出すことが大変だったが、まさに郷に入れば郷に従えだ。

周りを見渡すと、「袖ケ浦」という地区があるようで、千葉県民としてはさらに訳が分からなくなった。

おそらく習志野市では時空に歪みが生じていて、袖ケ浦市の一部が巻き込まれているのだと勝手に思った。

この歪みを利用すれば、さらにショートカットが可能かもしれない。機会があれば村人に尋ねよう。

船橋市を抜けて江戸川沿いに入り、そこでようやくロードバイクを土手に転がして、川を眺めながら地面に座って落ち着いて考える。

「理想から現実を引けば、そこに残るのは何か?」という禅問答を始めてみた。

その答えは人によって様々だろう。理想から現実を引いたら、そこに後悔が残る人もいるだろうし、虚無感が残る人もいるだろうし、もちろんだが幸福が残る人もいることだろう。

私の場合はどうだろうか。

理想と現実は別物で、そもそも差し引きすること自体が無意味かもしれない。

もちろん、10年以上前の私は、様々な理想を心に抱いて子育てに入った。

しかし、現実は上手くは進まない。心身を擦り減らしながらイメージした生活との乖離に苦しみ、悩み、結局のところ流されて生きているだけだな。

義実家について言えば、最初から全く合わないことが分かっていたが、妻がいれば何とかなると思い込んでいた。けれど、妻に寄せていた期待は儚く散った。

あの時、違う判断をしていればと思ったところで、残りの人生の時間は限られている。

義実家と我が家の立ち位置について、もっと真剣に決めておく必要があったな。

それを絶望と捉えて真正面から受け止めたら、さらに疲れてしまうだけだな。

父親という役を演じていても、私が周りに何も言わなければ分からないことだ。

ロードバイクからサーモスの魔法瓶を引っこ抜いて、キンキンに冷えたスポーツドリンクを身体の中に流し込む。

そこから市川市に入り、浦安市の自宅に戻ってきた。

ロードバイクを自室に収納し、シャワーを浴びた後でハイボールを1缶だけ空けたら、途中で意識を失って昼寝に入ってしまったらしい。脱水状態でのアルコールは危険だな。

目を覚ましたら、妻や子供たちが外出から帰ってきた。

「おかえり!」と、私はいつもの父親の役に戻り、何事もなかったかのようにライドの時間を用意してくれた妻に感謝し、子供たちに声をかける。

子供たちは父親の調子が元に戻ったと喜んでいる。

「そう、これでいいんだ」と自分自身に言い聞かせて、自分自身で納得する。

そういえば、コロナ禍でしばらくロードバイクに乗ることができなくて、前傾姿勢が厳しいということでステムを短くしたのだが、何だか窮屈に感じた。

何度もライドに出かけて、体幹の調子が戻ってきたらしい。少し長めのステムをポチる。

生きていると、まあとにかく様々な悩みが降りかかってきたりもするが、とりあえずやり過ごして前に進むことも大切なのだろうな。

それが答えとして正解なのかどうか分からないけれど。