否定せず寡黙に越える休火山
今の私は、風邪っぴきの全身の倦怠感と喉の痛みに加えて、左膝を襲った怪我の痛みにも耐えている。
もはやボロボロの年の瀬だ。状況を整理したい。
すでに昼に近い日曜日の午前中。仕事に行かねばと這うように布団から起き出した。
すでに仕事納めを過ぎたが、私の年内の仕事は全く納まっていない。
繁忙期での子供のインフルエンザは仕方がない。しかし、私まで寝込むことになろうとは。
それまでの疲れもあったのだろうけれど、たった5日間で4kgくらい痩せた。巷ではインフルエンザダイエットと呼ばれることがあるらしい。
クローゼットの前で着替えるためフラフラしながら部屋を移ろうとしたら、出入り口に子供のバッグが置かれていた。
何のことはないとそれを避けてドアを開け部屋に入ろうとしたら、足元がよろけて入口の枠に左の膝頭を強打した。
普通に生活している時には使わない「グハァッ!」という叫び声を出して、あまりの痛みでうずくまる。
一般的な家庭と違うのは、父親が痛んでいても妻や子供たちが全く気にしない点。
家庭内別居をしているわけではないが、夫であり父親である私という存在について家族はあまり関心がない。
膝頭の上の打撲なので、骨や靱帯に影響はなくて、筋肉が傷んだだけだろう。内出血が始まった。
足が痛い上に寒気がする。咳も酷い。辛くて立っていられず、座したまま目に見える光景を眺める。
無様だ...この姿は実に無様だ。
ある程度の学歴と職歴を重ね、誇れはしないが真面目に生きてきたはずだ。
しかし、ここに座り込んでしまっている私の姿は、風邪を引いて疲れているだけの白髪混じりの中年親父。
今、ぶつけた膝に手を当てて痛みを耐えている。稼ぎを消費する側の家族から気遣いの言葉さえ受けずに。
長袖シャツにステテコ風のインナー、そして靴下という格好がその侘びしさをさらに引き立ててくれる。
しかし、この無様さがいい。
俺の人生は上々だと喜んでいる時の方が、背後のピットフォールに気付かなかったりする。
人はどこまで生きても孤独で小さな存在だ、自分の姿は情けなく無力だと感じて這い蹲った時の方が、落ち着いて足元を確認することができる。
その状態で訪れる小さくも喜ばしい事象は、自身が無様だと思っているからこそより有り難く感じる。
この数日、病欠開けに復帰して働いていたのだが、本調子に戻る前に無理をしたのか、細菌性の二次感染を起こしたらしい。いわゆる風邪のぶり返しだな。
体調が良くても通勤が辛いのに、体調を崩した状態での通勤はさらに厳しい。これが地味に精神力を削る。
精神力というブラーな存在を神経内分泌系として定義すると、この複雑なシステムが免疫系との間でクロストークを繰り返しているということは科学的にも示唆がなされている。
ストレスを受け続けると免疫力が落ちることは珍しくない。とりわけ今の私にはディズニーという存在が精神力を奪っていく。
嫌いなんだ、ネズミが、そして舞い上がったこの街のテンションが。
住みたくない街に引っ越して、10年以上も我慢している。
夢の国がある浦安に住む人の宿命かもしれないが、年末はJR京葉線がさらに混み合う。
新浦安駅から広がるシンボルロードも観光客が多くて真っ直ぐ進めない。
最近になって新浦安、とりわけ日の出地区と明海地区で開業した多くのホテル群が、実際にこの場所で生活している人たちから見た住環境を悪化させていると言わざるをえない。
こんなに観光客を集めても、浦安市の財政は令和6年度から収支が赤字に転落するらしい。
一体、この街の行政や議会は何をやっていたんだとまでは言わないが、この段階になるまで情報を市民に知らせず、今も財政の見通しについて不明確な点が多い浦安市には責任がある。
煽るわけではないが、多くの市民どころか市役所や市議会でさえ、この状況をあまり深刻視しているように感じられないのはどうしてだろう。
あと5年くらいでやってくる街の姿を想像することができないのだろうか。
もはやこの状況では「前だ! 前だ!」と勢いで突き進むことは困難。
よくある町おこし、もしくは各事業の緩やかな節約や入札の厳格化で財政赤字を回避することも難しい。それは単純なシミュレーションで容易に解が得られる。
そもそもこの街の行政において、とりわけ優れた知性や先見性があるとは思えない。
行政の力だけでは成し遂げられないことを民間企業の力を得ながら実現するという「機」の掴み方に長けているところがあったが、企業は公共性ではなくて利益を追求する。
企業や資本家にとって浦安という街で金を儲けることができないと判断すれば、行政への追い風もやってこない。
また、行政が無能だと法人に上手く入り込まれて市民の利益を吸われる。多くの市民はそのことに気付かない。
豊かな財政力の中でハコモノを増やし続け、一方で大切なインフラのメンテナンスを後回しにしてきたこと。
それと、次世代を育てる子育て世代、とりわけダブルインカムの高所得層の引き込みに限界が生じたこと。
最後に、街も人も時が経てば衰えるということ。
この三つが、近い将来訪れる浦安市の財政赤字の大きな要素なのだろう。
そして、浦安市としては努力を継続するものの、将棋で例えれば詰んだ状況だと察していることだろう。
あまり財政赤字について言及すると市民からの突っ込みがあるだろうし、議会の責任も追求される。
財政赤字がやってくることが分かっていてもハコモノを建ててしまうという傾向にもローカルな事情があるが、ここでは論じない。
この規模の赤字の場合には、市の施設のネーミングライツや市職員の人員調整、もしくはふるさと納税等は焼け石に水をかけるようなものだ。
とはいえ新たな施設の中止や既存施設の売却、あるいは市の事業での入札額を絞るといったことは諸般の都合により難しいことだろう。その都合をオープンにすることも。
となると、より上位の自治体あるいは国から何らかの形で予算を獲得するということになることだろう。
浦安市の関係者が「県や国と連携して」とか「県や国に働きかけて」といった言葉を使う時があるが、それらは浦安市の自主財源では手に負えないので助けてもらうしかないという意味だと私は理解している。
より上位の自治体といっても、東京ディズニーリゾートがある浦安市の場合は千葉県が該当する。
千葉県の財政から考えると浦安市よりも厳しいだろうし、先の台風災害を考えると優先して助ける必要がある自治体はたくさんある。
浦安市のことも、千葉県のことも、それぞれの街に住む人たちが行政に関心を持っていれば、こんなことになっていなかったかもしれないが。
まあいい。住みづらくなれば街を捨てて引っ越すだけのこと。
いつも思うのだが、ディズニー関連の企業に対して、より多くの地方税を課すことはできないのだろうか。
この街の市民である私は、ディズニー産業の恩恵を受けておらず、観光客の言動について我慢することの方が多い。
朝夕の新浦安駅は、ディズニーの最寄り駅である舞浜駅のように混雑するようになった。
人が押し寄せて、真っ直ぐ歩くことは不可能。皆が自分のことばかり考えて我先にと突き進む。
しかも、舞浜駅よりも顕著だが、新浦安駅は通勤や通学のために多くの地域住民も利用する。
浦安市の行政がどのようなシティデザインを考えてきたのかも、これが街の姿として望むべきか望まざるべきかも私には分からない。
ただ、新町エリアの住宅街に隣接してディズニー客を集めるようなホテルの建設を浦安市が許可したことは、地域住民にとってデメリットの方が大きかったと思う。
街は人がいるからこそ成り立つ。人とは一時的に訪れる観光客ではなくて、その地で生活する民のことだ。
地域住民を大切にしない街の行政に発展はありえず、その結果は近い将来、この街全体に影響する形で具現化することだろう。
JR京葉線でディズニーの外側を毎日眺めている一人の浦安市民の目には、海を埋め立てた土地に俗世間と隔てた人工の小さな町をつくり、そこに集って興奮し欲求を充たしている無数の人たちの姿が映る。
私が浦安市民ではなかった頃、当時に交際していた女性と何度かディズニーを訪れたことがあった。
その女性の実家が金持ちで、両親も私を大切に扱ってくださった。新浦安エリアではなくて舞浜地区の高級ホテルの宿泊チケットを頂いて、二人で泊まりがけでディズニーで遊んだことがあった。
彼女と一緒にいる時間がとても楽しくて順調に結婚準備が進んだが、将来的には子供を望む私と、子供を全く望まない彼女との間で話が折り合わず、結局は別れることになった。
彼女は後に別の男性と結婚したが、やはり子供を産まないまま人生を進むらしい。それも夫婦の姿だろう。
私としては別に未練もなくて、人生の1ページに過ぎない。その過去は妻にも伝えてあるし、もちろんだが妻と結婚し、子供たちに出会えて良かったと思う。
その当時の彼女は、クリスマスイブに連れ添って歩いていると他のカップルの男性がチラ見してくるくらいで、そこいらのアイドルよりもずっと美人だった。
性格も明るくて、とにかく構ってくれる楽しい人だった。
その当時に彼女と訪れたディズニーランドやディズニーシーは、まさに夢のような空間だった。
しかし、今になって振り返ると、妙なことに気付く。
このテーマパークの客たちは、実際には市内で浦安市民とすれ違うわけだけれど、浦安市民の存在をあまり強く感じないようにデザインされている気がする。
そのことは私自身が感じたことだ。まるで魔法にかけられたような気分だった。
ディズニー客から見た浦安市民あるいは京葉線の利用者は日常の生活の延長でしかなくて、特に目新しいこともない。
その日常からディズニーのゲートを抜けて非日常に入っていく。遊んだ後にディズニーを出て日常の世界に出たとする。
客の中には非日常と日常の区別が付かず、一時的にはその雰囲気を引きずった人が多い。キャラクターの帽子や耳を付けたまま浦安市内を歩いている人たちはその典型だな。
カップルが泊まりがけでディズニーを訪れたとする。シーもしくはランドで遊んだ後のカップルの次の楽しみはホテルでの夜食、あるいは男女の営みになることだろう。
我が国は少子化で苦しんでいる。気にすることなく励んでもらいたい。
しかし、浦安で実際に生活している私から見れば、ディズニーという非日常で魔法にかかったような人たちが住環境を行き交う。私にとってはそのことがとても疲れる。
さて、うずくまったままの思考の中で膝の痛みは落ち着いたが、風邪のぶり返しで身体が思うように動かない。
それでも時計は回り、時間は進む。
本日は仕事をせずに自転車部屋に布団を持ち込んで療養することにした。
毎年の恒例であってほしくないのだが、我が家でよくあることがある。それは妻の感情の大噴火。
妻としては年末の仕事の忙しさと、他所に預けられず自宅にいる子供たち、年末の掃除や年賀状の手配などで気が立っている。
また、妻は家庭において夫と妻の負荷の平衡性を重んじるところがある。
夫が年収1本以上を稼ぐためには身を粉にして働く必要があるが、家庭で休んで何もしないと怒る。
もちろんだが妻のサポートがあるからこそ、そこまで働くことができるわけで、私は妻に感謝し続けているし、できる限り家事にも取り組む。
しかし、年末年始の私は特に余裕がない。妻のフラストレーションが確実に溜まり、いつ爆発してもおかしくない状況になる。
共働きで子育てを続けている夫なら分かるかもしれない。妻がキレるタイミングを我慢しているというよりも、キレるタイミングを探していると感じる時はないだろうか。
以前は年越しソバの茹で方をめぐって妻が大爆発してキレたことがある。
もっとお湯を足した方がいいと私が言っただけで、それまでの私の家庭への貢献まで反省することになった。
今年の年末は私の仕事が忙しい上に、体調を崩して寝込んでいることが多い。
仕事のボーナスは全て家庭に入れることにしたが、家事や子育てにも貢献できていないので、さらに妻がキレやすくなっていることだろう。
頻繁に咳込んでいる状況では大掃除をやるだけの体力も残っていない。
そこで「今年の年末は仕事が忙しくて、体調を崩して寝込んだりもしたから、大掃除はゴールデンウィークくらいにしないか?」と妻に提案した。
このような時期に大掃除をする国は世界でも日本くらいだと聞いたことがあったし、昔の日本のように親戚が自宅に挨拶回りにやってくるわけでもない。
ということで、年末の大掃除を1回ではなくて、余裕のある時期に中掃除を2回やった方がよいではないかと思った。
しかし、妻からは年末に大掃除を実施するという返事がやってきた。
私が何かを提案した時に妻から全否定されるのは別に珍しくない。
よくこんなに考え方の違う男女が夫婦になったものだと思うが、それによってヒトは多様性を生み出し進化したとも言える。
普通に考えればここから夫婦で喧々諤々の議論が起きて喧嘩に発展するかもしれない。
しかし、うちの夫婦では何度もの衝突が起きた結果として「相互不干渉の原則」というか、お互いに思うようにやるというスタイルになりつつある。
妻としては、年末に大掃除をしたいということで大掃除をやる。
しかし、私としては自分が担当する部分、例えば高所の拭き掃除、あるいは換気扇や水回りについては中掃除に留めて、暖かくなった時期に再び中掃除をする。
理解し合えないことを前提として喧嘩せずに夫婦仲を維持した方が私は楽だ。
年末の妻の大噴火を避けるために自戒をこめて書き留める。
① 妻に自分が何かを提案して否定されても腹を立てずに受け流す。
② 夫としての意見を主張せず、寡黙に、謙虚に、妻の意見を訊く。
③ 妻がキレかけた時は速やかに自分の反省点を列挙した上で謝る。
とにかく今は眠って風邪を治そう。
体調が治まったら自宅の掃除と仕事の片付けだな。
物理的に考えて処理しきれない壁をよじ登る感じだな。手を離して落っこちたい気持ちになる。
それでも生まれたからには生きねばなるまい。