2020/07/30

テレビを見過ぎたら、アレになりますよ

この前、理容店に行って髪の毛を切ってもらっていたら、鏡越しにテレビの画面が映っていた。


私はテレビが嫌いなので、自宅にはテレビがない。声のテンションが高く、画面の光が気になるし、そもそも内容が面白くない。

子供たちにもテレビを見せない。

理容店のテレビでは、タイミングよくコロナ関連の特集が放送されていた。

...と思ったら、いつまで経ってもコロナの話ばかりが続き、中身のない話と不平不満を何回繰り返すのかと、私はうんざりした。

理容師さんの話では、この番組が特集をやっているわけではなくて、半年前くらいからテレビはコロナの話題ばかりなのだそうだ。

理容師さんたちとしては生活がかかっていて社会の情報を得たいわけで、客の中にもテレビを付けろと言ってくる中年やシニアがいるそうだ。

しばらくの間、私は目を閉じて、テレビから流れてくる音に耳を傾ける。

後出しジャンケンのように上から指摘したり、視聴者の感情に合わせるように文句を言ったり、何人かで同時に同じことを言って盛り上げたり。

途中から、サイエンスの枠を飛び越えた飲み屋の会話のような議論が始まり、私は苦笑を堪えられなくなった。

私が笑っている姿で理容師さんが何かを察したのだろう。

「こんな話を信じる人なんているんでしょうか?」と私が言うと、理容師さんが不思議な顔をしている。

「テレビで言ってることなので、信じ込んでいるんですが...もしかして、違うんですか!?」と理容師さんが答えた。

「テレビよりも勉強になる話をしてあげますよ。この番組で専門家のように発言している人、実際には...中略...なんです。それで、前の職場で色々と...中略...ありましてね。それと、何とかをやりまくれって言ってる人たちに特徴があるんですよ。それは歴史的にみて...中略...というわけで、裏では繋がっていたりもします。これらは内緒話ではなくて、全てネットの隅に転がっている話です。それと日本のテレビの中って、実は...中略...なんです。不思議でしょ?」

私が理容師さんに本当のことを伝えると、彼は「え!?世の中って、そうなってるんですか?そんなこと、テレビで言ってませんし、学校でも習いませんでしたよね。この人、専門家だと思っていましたが、違うんですか?いつもテレビに出てコメントしてますよね?」と本気で驚いている。

「この演出だと、視聴者はそのように解釈するでしょうね。テレビという情報媒体には、一般の人が知らない、いや、知らされないことが多いですよ」と私は答える。

何をもって専門家なのかという話だが、その理容師さんとしては、それなりの研究業績があり、他の同業者から認められ、行政分野からもアドバイザーとして声がかかるくらいの人というイメージなのだろう。

違う。

本物の専門家は最前線に立っているので、テレビに頻繁に出演して持論を展開している暇はない。

その余裕がある人は以下略。

テレビ局としても、自分たちの方針や番組のシナリオにフィットして、しかも頻繁に出演してくれる人を探すのは大変だと思う。

SNSで罵詈雑言を吐く人たちは、行政に近い位置にいる研究者を「御用学者」と揶揄することがある。

一方で、テレビを含めたメディアにおいて頻繁に登場する自称あるいは他称専門家の中には、研究者番号さえ持っていない人が珍しくない。

その人たちから見れば、御用学者は嫌悪や指摘、さらには嫉妬の対象なのかもしれないな。

だが、そのような人たちであっても、公共の電波に乗って自信満々で発言すると、視聴者として信じてしまうのだろう。

テレビに出演するくらいだから、きっと凄い人なんだと。

マスコミは自分たちに都合が悪い情報を発信しなかったりする。それはマスコミに限った話でもない。

翻って、テレビ局からインタビューを受けて、ニュース等で本人の動画が流れるような人たち、あるいは単発で番組に登場する人たちには著名な専門家が多い。

ところが、そのようなインタビューのスタイルであっても自称専門家が混ざることがあって、判断が難しい場合がある。

さらに、本物の専門家のコメントであったとしても、編集によってどこが切り取られているのかを見定める必要もある。

これらの傾向は、テレビだけでなく、新聞やタブロイド紙にも当てはまる。

新聞やテレビがあるから、またネットがあるからと、社会が全て見えていると思うのは正しくなくて、見えていない社会の方が多い。

しかしながら、よくよく考えてみると、マスコミだって慈善事業ではなくビジネスとして情報を伝えているわけだ。

会社の方針もあるだろうし、売上やスポンサーとの関係もある。

彼らのことをゴミと揶揄する人たちが多いわけだが、総じて批判する必要はない。

彼らの仕事はゴミではなく、多くの人たちに情報を伝えるという大切な役目がある。

その大きな力の使い方を間違ったり、その責任を取らなくて開き直ったりすると、もちろんだが辛辣な批判が飛んでくる。

そのような批判が飛んできても傾かない程にメディアの力は大きい。いや、歴史的には、そうなるようにデザインされたと言うべきか。

その変遷の時期はPTAとよく似ている。もっと踏み込めば、保護者活動やメディアなど、様々なことについて連合国からの介入があったことの名残だな。

時が過ぎ、様々な課題が表面化している点、軌道修正が難しいほどに大きな存在になってしまった点、あるいは多くの人たちから距離を置かれてしまっている点においても、両者は似ている。

これらは笑い話ではなくて、教科書に載っていない日本の歴史を学べば分かることだ。

さて、パンデミックが始まった時、テレビ局はその脅威を一斉に伝えた。

彼らの仕事は、結果として社会を煽ったり、人々を不安にさせたという側面がある。

けれど、今回のパンデミックにおいて、日本のマスコミが悪だったかというと、私はそう思わない。

足りない部分は多かったが、マスコミの働きがなかったなら、ここまで多くの人たちが行動を変え、感染症対策に取り組んだとは思えない。

マスコミの人たちは気づいていないかもしれないが、彼らの仕事によって、何千人、何万人もの命を救ったかもしれない。

しかしながら、半年以上もコロナ番組が続くと、さすがに視聴者のストレスも限界に達しているし、視聴が習慣化すると、意図しなくてもマインドコントロールのような形で思考に影響を与えるかもしれない。

多くの視聴者は、出演者の肩書きを見て先入観を植え付けられたりもするし、マスコミも肩書きを重視する。

とはいえ、その発言に業務上の責任を伴わない人を、まるで専門家のように番組に頻繁に登場させるのは良くないことだ。

今回の理容師さんのように、番組の思惑に乗って信じ込んでしまう人が増える。

過去の名作を再放送したり、心が落ち着く番組も必要だな。

一方で、行政においてはマスコミに批判されても仕方がないくらいの状況になってきた。

もちろん地道に続けて効果のあった取り組みもたくさんあるが、行政の舵取りが上手く進まず、人々の思考や感情が錯綜している。

そして、多くの国民が感じていることをSNS上に発信し、それらをメディアが受け取って行政に投げ込むというスタイルが生まれた。

日本の行政はIT化が遅れていると指摘されることが多いが、実際には国民が参加する部分のIT化が進んでいないという解釈にもなる。

国や自治体がIT化したサービスを提供しても、人々が使わなければ意味はない。

結局、使い慣れたSNSに気持ちを投影して、マスコミが偏らずに報じ、それを行政が受け止めれば、目的自体は安上がりで達成されるわけか。

これは、新しい市民参加型の社会の形かもしれないな。

最近では、国民の声によって行政の方針が実際に変わったりもする。

行政が押し切らずに、早い段階で軌道修正することは大切だと思う。

軌道修正を批判すると、行政はその批判を恐れて頑なに修正しなくなる。

朝令暮改であっても、先に進まない方が全体で見ればデメリットを回避しうる場合があるということか。

なるほど、これは勉強になる。

パンデミックは、人や社会の本質を炙り出しているように感じるが、それらの本質は人の「我」と「欲」に溢れている。

一方で、悪いことばかりではなくて、普段は気が付かない大切なことも含まれているように感じる。

だが、テレビを見続けると、ウイルスによる病態以上に精神がダメージを受けて疲れるので、コンセントを引っこ抜いてテレビ無しの生活を試してみることを勧めたい。

現在のマスコミの報道の問題点は、感染者数について前のめりになっていることだ。

感染者数は、PCR検査を積極的に実施すれば増える。

この状況においては、重篤者と死亡者の数で状況を把握する必要がある。

テレビや新聞、ネットに至るまで、メディアの情報は感染者数、実際にはPCR陽性者数ばかりを真っ先に伝え、本日は過去最多だ、何人超だと発する。

一方で、死者数についてはこれまでの累積で伝えている。本日の重症者は何人ですという伝え方をしない。

それはなぜか?マスコミとしては、都合が悪いからだろう。

彼らにとっては、第一波に続く第二波を、よりセンセーショナルに伝えたいはずだ。

「第一波と比べて、第二波では重症化することが少なく、普通の風邪に近いかもしれません」という感じの報道にはならない。

だが、そのような報道を展開してしまうと、人々の緊張感が緩み、さらに感染が拡大するだろうし、難しいところだな。

ところが、行政までが感染者数について前のめりになって慌てている感がある。

どこかの市では、全国に先駆けてコロナ警報なるものを発動したが、具体的な行政のスキームが見えてこない。

ただの注意喚起だけではなくて、実際のアクションが必要だが、行政としてはすでに万策が尽きたのだろう。

それを恥じることはない。今まで考えつく限りの対策を執り、あとは市民が対応するだけの状態になったというだけの話だ。

ただし、コロナによる病態が変化しているのに、その恐怖心は継続し、しかも感染が拡大しているというニュースばかりが流れる。

私はこの状況の方が深刻だと思う。

PCR検査を増やせと言い続けた人たちにとっては、これが望んだ姿だろうか。慌てても怯えても仕方がない。

ここで大切なことは、現状を真正面から受け止めることだ。

外出自粛や行動変容といった手持ちのカードはほとんど繰り出してしまったわけだし、承認されている範囲では革新的な治療薬も見つかっていない。

そもそも治療薬は一年やそこいらで見つかるはずがない。

第一波の時には本物の専門家たちがクラスター対策等で対応していたからこそ持ちこたえた。

また、人々も外出自粛を続けて耐えた。

しかし、その専門家たちを批判する人たちが増え、経済についてもケアせねばならず、人々の気持ちが緩み、予想通りに第二波がやってきた。

SARSやMERSといったコロナウイルス感染症で有効だった戦略は、全世界で破綻している。

辛うじてコロナの感染を封じ込めた国々においても、経済活動の復帰と共に他国から感染者が流入することだろう。

いつまでも往来を制限していたら、感染症ではなく経済において国家が傾く。

我が国においては、ここまでPCRの陽性者数が多くなると、クラスター対策による感染の封じ込めも難しくなってくる。

この状況を喜ぶかのように報じているマスコミがいるようだが、国家観が偏っているな。

もの凄いメンタリティだと感じるが、彼らはそれが正しいことだと思っているのだろう。

社会が混乱し、企業の広告費が減り、情報を受け取る側からの信頼を失えば、結局のところ自分たちの会社の不利益になることが分からないのか。

我が子たちには、教科書に載っていない教育を施さねばなるまい。

どうして日本のマスコミが、このような姿になってしまったのかを。

もとい、ワクチンを作ることは技術的には難しくないが、承認までは時間がかかる。

やる気になれば可能だが、色々とストップをかけてくる人たちもいるのだろう。

ワクチンの副反応について、日本ほどシビアな国は少ない。

マスコミとしてはワクチンを用意しろと行政を叩き、数少ない割合で副作用が出れば、何をやっているのだと行政を叩く。

マスコミとしては、それが仕事だと思っているのだろう。けれど、今回のコロナ禍においても言えることだが、彼ら自身がもっと学ぶ必要があると思う。

完全に理解していないことを他者に伝えたら、伝言ゲームのようになってしまう。

そのようなことが繰り返され、ワクチンの実用化について行政が慎重になってしまっている。

帰宅時の通勤電車では、すでに諦めたかのようにマスクを外して飲み歩いている中高年や若者たちの姿が目立つ。

HYPSENTのコロナ関連の録は、まるでデスブログのように未来と重なったりするが、おそらく浦安市にも感染の大波がやってくると思う。

そろそろ、感染者について細かく報じることを止めたらどうだろう。

他国の首相や大臣も感染しているくらいだ。浦安市長が感染しても不思議ではない。

...なんてことを記すと本当に感染しそうだが、このペースだと、どの市民が感染してもおかしくはない。

しかしながら、現状では過度に怯える必要はない。

個人レベルにおいては、これまで通りの行動変容を続け、行政においても適切に取り組むだけだ。

最近のコロナは、感染力が増大しているように感じるし、その反面、病原性が低下している気がする。

人から人に伝播する過程でウイルスが変異し、性質が変わることがよくある。

ウイルスの変異によって、重症者や死亡者が減っているのかどうかは、すでに研究機関が解析を続けている。

一方で、日本ではすでに病原性の低いウイルスが人々に広がっていて、免疫系の交差反応によってコロナの病態が抑えられていると主張する免疫学者もいる。

それらについても研究チームが解析を行っている。

並外れた頭脳を持つ研究者であっても、その解明には時間がかかる。現時点で一般の人たちが行うことは変わらない。

むしろ、感染者数が増大しているのに、重症者数や死亡者数が増えていないことに希望の光を感じる段階だ。

第一波と同じ病態のまま第二波に入っていたら、本当に危険だった。

しかし、マスコミの報道は明らかに感染者数に偏っている。これでは人々が不安になり、社会が混乱する。

状況が変わり続けているのに、最初の頃の先入観を引きずったり、他国のことばかり気にしても仕方がない。

深刻な病態を起こさず、熱と咳が出るくらいの病気のことを何と呼ぶか、小学生でも分かるはずだ。

第二波においても、医療機関の機能を守り続ける重要性に変わりはない。

もはや封じ込めは困難だと覚悟して、可能な限り社会への衝撃を減らしながら、ウイルスと共存する時期に入ったわけか。

あくまで我が国の場合には、他の4種類の風邪コロナのように、新型コロナも子供の頃にかかるようなウイルスになる気がする。

欧米等での深刻な状況がある中で、落ち着けと言っても落ち着けるはずがないかもしれないが、私は落ち着いている。

私自身が気をつけていても、子供がコロナにかかれば私もかかることだろうし、完治すれば懸念がひとつ減る。

ウイルス自体が怖いというよりも、本性が剥き出しになった社会や人々の心の方が怖い。

本当の脅威とは何なのか。