2020/07/22

生きるという役を演じるか、演じさせられるか

たまにツイートが炎上して、その度に厳しい批判をハードルのように飛び越えていく元陸上選手のツイッターを眺めていて、とても勉強になるやり取りを見かけたので書き留める。

以前、彼は希死念慮を持つ若者に出会って、どうして自ら死んではいけないかを説明したことがあった。そのエピソードを振り返り、より深く考察してツイートしたわけだ。


この一連のツイートを眺めて最初に感じた印象だが、その元陸上選手には、引退後に中高生を育てる教師の道という選択があったと思った。

様々なことに悩みながら成長する若者たちにとって、本当に自分のことを考えてくれる教師の存在はとても大切だが、現実的にはその力がない教師が多い。けれど、彼には教育者としての能力がある。

現役時代の活躍が華々しく、知名度が高かっただけに引き際が難しかったのか。

それとも、選手を引退した後の生活を考えて、大学時代に教員免許を取得するように諭してくれる師と巡り会うことがなかったのか。

あるいは、本人が指導者としての優れた力に気づいていなかったのか。

いずれにしても、四十路を越えると人生のレールの切り替えは難しい。

希死念慮を持つ若者に死んではいけない理由を説くという元陸上選手の考察は、他のツイッターユーザーからチクチクとリプライにて指摘を受けていて、本人も傷ついているだろうなと感じた。

彼のツイートが炎上する理由はあまり分からないが、多くの事象に適用しうる法則性のようなものを演繹的に主張して、それらが他のユーザーから上からな極論と解釈されてしまうことがあるようだ。

また、自分をより知的に魅せたいからなのか、彼の文章では難しいフレーズや用語を背伸びして使ってしまう時があるように感じる。

それらを本人の哲学だと彼は信じているようだが、文章の途中で話が飛躍してロジックが繋がらない時がある。

本来の哲学は論理性を重んじるし、学問の素養が足りない人が哲学者の真似をすると、自惚れ、もしくは支離滅裂な主張になる。

書籍やネットには難しい言葉や表現がたくさんあるが、文章の論理性とはあまり関係がない。平易で深い文章もよくある。

他者を啓蒙するような存在になりたければ、語彙を増やすのではなくて、ロジックを磨くことが大切だな。

謙虚であることを美徳とする人、あるいは帰納的な思考を好む人たちからすれば、彼のツイートやブログが鼻につくのかもしれない。

ただ、そのスタイルも人の個性なので、他のユーザーが厳しい言葉を投げかける必要はないと思う。

あえて炎上を誘導して関心を集めるという手法もあるが、彼の場合には精神的に疲れているように見えるので、おそらく素の表現なのだろう。

一方で、彼からのメッセージに心酔している人たちもいる。

生きる中での柱を探している人たちにとっては、彼のように明確な主張をする人が心の拠り所になるのかもしれないな。

では、彼が綴った長文の中に書かれた内容が希死念慮を持つ若者たちの心に響くかどうか、それは分からない。

実際に自分がそのタイプの若者だったから言える話だが、生きることへの虚しさや疑問というのものは、往々にして言葉で説明しうるものではないと思う。

しかしながら、彼の一連のツイートは「皆が役を演じながら生きている」という趣旨の言葉で閉じられていて、なるほど、そうかもしれないと思った。

そのツイートに対して別のユーザーからリプライで突っ込みが入った。

「自分の意思で役を演じられる人は少数派だ。多くの人たちは役を演じているのではなくて、演じさせられている。それが限界に達して死を選択するのではないか」という指摘だった。

なるほど、そのような考え方もある。

かなり本質的で意味のある内容だが、その先の両者の間での議論が見当たらない。

元陸上選手のツイートと、そのツイートに対して指摘した他のツイッターユーザーのリプライは対立しているように見えて、実はとても近いところにある気がする。

「生きる中で、役を演じるか否か」という命題は、最近の私のサイクリング中の禅の中で頭に浮かんでくることが多い。

くどいほどに記しているが、それまでの私の人生観が大きく変わり、「役を演じる」という考え方を実感したのは、2015年頃から苦しんだバーンアウトの経験だった。

その当時、サイクリングサークルを主宰していたのだが、その世話人としての私は、ブログのハンドルネームのままで他のサイクリストと交流し、世話人という役を演じていた。

思い悩んで川から飛び込んでニュースになったりしたら、サークルの人たちが複雑な気持ちになるかもしれないし、サイクリングの時くらいは現実から逃避して、別の人の人生を歩いているような気持ちになりたかった。

サークルの運営はとても大変で、途中で嫌になって集まりを閉じることにしたわけだけれど、意味がなかったかというとそうでもない。とても勉強になることが多かった。

最も大きな価値があったのは、素の私ではなくて「世話人」という役を演じているだけの私が、他者から見ると実際の私として認識されることだった。

当時はサークルのブログも私が更新していたが、そこで書き綴る内容は、少し内向的でネガティブなことはあまり言わず、年相応に落ち着いていて、前向きで素朴なブロガーを「演じて」いた。

実際のサークルのライドでは、すでにバーンアウトで感情が枯渇していたので、表現が難しい時が多かった。

「ああ、たぶん、ここではこの会話がいいな」とか、一緒に走っていることが楽しくて仕方がないという体でわざとはしゃいでみたりもしたが、あれは演技だ。

HYPSENTの録の内容が素の私なわけで、サークルの世話人としてのブログの内容は、個人的にはとても違和感がある書き方だった。

けれど、他のサイクリストとしては、そのブログの内容が私の内面だと勘違いしてしまうらしい。

HYPSENTの録のアクセス数は半年経ってもほとんど増えないが、そのサークルのサイトのアクセス数はとても多かった。

では、サークルの世話人としての役を演じていた私は本当の自分ではないのかというと、周りの人たちからすれば見分けが付かない。

実際に発言し行動しているし、私が何を考えていたとしても言動に出さなければ伝わらない。

また、役を演じているからこそ、不快なことがあっても気にせずやり過ごすことができた。

この不思議な感覚を職場でも使ってみた。それまでの私は我が強くて攻撃的かつ多弁で、気に入らないことがあると喧嘩をしてでも主張するタイプだった。

バーンアウトで感情が枯渇したことも不幸中の幸いだった。自分の我が抑えられているので、役作りにおいて苦労がない。

そして、頃合いを見計らって、寡黙で謙虚なスペシャリストという体で生きることにした。

すると、敵が減ることで人間関係のトラブルが少なくなり、とても働きやすくなった。

これらの状況においては、私が自分の意思で役を演じているという形になる。元陸上選手が考察していた内容がこの考え方に相当するのではないだろうか。

自分の意思でサークルの世話人だとか職場のスタッフという役を演じているからこそ、ストレスが少ないわけだな。

あくまで本当の自分が有している感情や思考を「役」という仮想的な存在に置き換えているような感じがある。

「気持ちの切り替え」という表現があったりするが、そうだ、これは職業人としての気持ちの切り替えなんだと解釈すれば無理もかからない気がする。

併せて、元陸上選手のツイッターに対するリプライにおいて「自分の意思で役を演じられる人は少数派だ」と指摘した他のツイッターユーザーの気持ちとも重なることだろう。

しかし、そのツイッターユーザーが続けた「多くの人たちは役を演じているのではなくて、演じさせられている」というメッセージは秀逸だな。まさに核心を射貫いている。

私が苦手な長時間の電車通勤に苦しんでいる理由も、役を演じさせられているからだなと思った。

首都圏で生活する父親たちならば、自宅と職場の往復で3時間以上を費やすことは珍しくない。とりわけ、千葉都民であれば普通のことだろう。

私がバーンアウトを起こす前、妻は私に言った。「往復3時間の通勤なんて、普通でしょ?」と。引っ越してきた後で義父も同じことを言った。

そうなんだ。普通の父親であれば、ここまで通勤で疲弊することはないはずなんだ。

しかし、感覚過敏を持っている人を満員電車や乗り換えで人混みに押し込むことが、どれだけ残酷なことなのかを妻は理解していない。妻としては感じたこともない感覚なのだから。

とどのつまり、通勤における私は、千葉県の住宅地に居を構え、そこから満員電車に乗って東京の職場に通う普通の父親の役を演じさせられている気がする。

普通って、しんどいな。

このロジックを演繹的に他の事象に適用していくと、確かに様々なことが頭に思い浮かぶ。

例えば、仕事。

自らが希望した学校に進んだり、夢見た理想の職業に就くことは難しい。望むことと生きることは違う。

自分がやりたかったことはこの仕事ではないと感じながら、あるいは自分が望んだ人生はこうではないと悔やみながら生きている人は多いことだろう。

日本の社会では、大人になるかならないかといった早い段階で、ある程度の職業人生のトラックが決まってしまう。

これは生きるための手段だと思って地道に働く中で、与えられた役を演じさせられていると感じても不思議ではない。

例えば、家庭。

役を演じるか、演じさせられるかという話は、家の外の話だけではなくて家庭でも当てはまる。

私の場合には、バーンアウトで苦しむ中で追い打ちをかけるように妻との不和があり、紙に捺印して市役所に提出するかどうかという瀬戸際になったことがある。

私が倒れてしまったら家庭の維持自体が難しくなるということを、癇癪を起こして感情的になった妻が理解してくれず、夫婦として連れ添うことができないと感じた。

しかし、子供たちの前で派手な夫婦喧嘩を起こし続けてきて、このまま私が家を出てしまったりすると、子供たちは心に深い傷を負ってアダルトチルドレンになってしまうのではないかと危惧した。

一方で、家庭において、素の自分、つまり現状をダイレクトに受け止めて表現しうる状態で生活していたら、おそらく精神が破綻してしまうことだろう。

そこで、私は「子供たちが大人になるまで、私は父親の役を演じるので、その条件で同居してください」と妻に伝えた。

あえて他人行儀の口調になったのは、私に相応の覚悟があることを示すためだった。

バーンアウトが始まりかける前までは、家庭における私は素の自分だった。だからこそ、理想とする父親像と現状との解離に悩み、苦しみ、疲れていった。

夫婦とはこうあるべきだという考えはなかったけれど、頻繁に怒声が飛び交うような家庭は望んでいない。

ならば、家庭において私は父親の役を演じるという気持ちで生きようと思った。

すると、少しずつ気持ちは楽になっていったが、家庭における多くのことが虚しく感じ、また自分の存在が希薄になっていくような感じがあった。

妻や子供たちでさえ、私自身の本当の内面を理解していない状態で毎日を生きるということは、それはそれで辛いことだ。

毎日、毎日、職場で地道に働き、満員電車や乗り換えで人混みに圧され、深夜に家庭に辿り着き、金を入れ、再び朝になって疲れたまま出勤する。

妻や子供たちからの感謝や労いも少なく、それが父親の役目だという流れの中で、私は役を演じ続ける。

経済的に家庭を支えていることは間違いないし、そんなに楽な仕事でもないわけだから、私としても言いたいことはたくさんある。言うと夫婦喧嘩になる。

そう、これは父親として生きているのではなくて、父親の役を演じながら生きているんだ。我慢しているのではなくて、役の台本に書かれていないから発言しないだけなんだと思い込む。

結婚や子育ては、私自身の意思によるものだ。色々と都合や経緯はあるが、この役を用意したのは私自身という結論になる。

自分で役を用意しておいて、その役作りで悩むことは滑稽だな。

ここまで様々な葛藤を私の頭の中で繰り広げていても、態度や言葉に出さなければ妻や子供たちは気づかない。

父親の役を演じ始めてから、夫婦喧嘩の回数は減り、直接的なバトルはほとんどない。

職場の場合と同じく、あくまで私の場合には素の自分を出さずに役に徹した方が、結果的には心穏やかに生活することができる。

その役を演じることが、「気遣い」とか「心がけ」に近いものであることは薄々気づいていたが、素の自分を出してこそ、生きていることの現実味がある気がする。

とはいえ、人間関係のトラブルは少ない方がいい。

父親の役を演じたまま休日出勤にて職場に向かう。

商売繁盛になってもあまり嬉しくないのだが、次から次に仕事がやってきてテトリスのように積み上がっていく。

さて、こんな時には、電車の中でロードバイク用品でもポチって、次回のサイクリングを楽しみに待つくらいが丁度いい。

一人で黙々とペダルを漕いでいる時の私は、役を演じる必要もない。役を演じていない私というのは、素の自分という理屈になる。

私は思うのだが、生きていく中で、このように役から解放される場を持つことはとても大切だな。

その場が、飲み屋でも競馬やパチンコ屋でもなく、ましてや風俗でも不倫でもない。青空の下でのサイクリングなのだから、なんて健康的なんだ。

最近は、愛車のクロモリロードバイクをコンフォート仕様にカスタムしていて、ステムの調整が完了した。

よし、今度はサドルを換えてみるか。