2020/07/05

5秒間だけのアフターバーナー

一度でも感情やモチベーションが枯渇したことがある人ならば日常的なことかもしれないが、回復期においても付きまとう困った現象がある。


それは、実際に行動すれば難なくこなしうることであっても、行動する前の段階で強い抵抗感がやってくることだ。

仕事や家庭で行動しようとする時に、何かがモチベーションを止めてしまって、体が動かなくなるという不思議な感覚がある。

「面倒くさい」と感じることは誰にでもあるが、そのレベルを超えている。

すでに思考が混乱して、動き出した後のイメージが湧かないのかというと、むしろ逆だな。

動き出した後の段取りについては頭の中で明瞭に思い描くことができる。

これを取って、そこを歩いて、あれの上に置いて...という感じで。

しかし、目的が達成されるまでのイメージが完成すると、動き出すことが面倒になり、結局、一歩も動かずに時間が流れるという結果になったりする。

この現象を表現しているブロガーの文章を拝読すると、「心臓の周りに鎖がかけられたようだ」とか、「心の中にやる気を奪う小動物がいる感じがする」とか、人によって様々だ。

私なりには、通常の何倍もの重力(G)が全身を下向きに圧しているような感覚がある。

そのようにモチベーションを止める何かについて具体的に考えてみると、別にスピリチュアルなものでも、宗教的なものでもない。

人の脳には、あえて行動を制限して身体を動かさないようにするためのプログラムがあるのだと思う。

プログラムとは何かというと、要は神経細胞に記憶されている情報、ならびに細胞において入出力される電気信号だな。

とりわけ難しい話でもなくて、私たちは意識しなくても呼吸を続けているし、水準器がなくても平衡感覚を保って歩いたり走ったりすることができる。

本人が気づいていないだけで、脳内で無数のプログラムが実行され、生命機能が維持されているわけだ。

それらの中には、必ずしも活動的なプログラムばかりではなくて、ダウナー系のプログラムがある。

さらには、その理由が分からないのだが、自らを死に追いやるプログラムまで実装されているようだ。

これだけ自殺者が多い世の中だが、どうして脳がそのような判断に向かわせるのかが分からない。

時に穏やかで、時に強烈で、時に優美な匂いすら漂わせる死へのプログラムは、できれば経験しないまま人生を終えた方が幸せだと思う。

あれは怖かった。

もとい、脳においてモチベーションを止めている現象は、高次脳機能を担う大脳皮質ではなくて、より原始的な部位が中心になって作動している気がする。

思考しても身体が動きづらい感覚があり、金縛りほど酷くはないが、確かに思考を超えたところにある何かが邪魔している。

なるほど、これは興味深い。

この現象において大脳皮質が中心的な役割を担っていないと仮定すると、①脳の他の部位が関係している、あるいは、②超自然的な魔法や呪いがかけられていると考えることが妥当だな。

しかし、いくら私が浦安市民だとしても、舞浜地区から離れた日の出地区に住んでいるので、②はありえない。だとすると①だな。

10年以上も耐えている通勤地獄や共働き子育て、あるいは義実家との関係等の諸々のストレスが、私の脳のどこにダメージを生じているのかを考えると、やはり大脳辺縁系だろうな。

ストレスで心拍数が上がってしまう点などは、それを明示している。

大脳辺縁系の中でも、扁桃体や海馬は酷く疲れていることだろう。

悪い夢が続いているかのようだが、浦安に引っ越した時点で、この結果は既定路線だった。

どうしてもっと慎重に考えなかったのだろうな。

そういえば、脳の機能とオカルトやホラーといったフィクションとの関連はとても興味深い。

本人や周りにとっては大変に深刻なことだし、現時点で私も苦しんでいるので面白がっている場合ではないのだが。

例えば、米国の代表的なホラー映画の「エクソシスト」は、多くの人たちに衝撃を与えたことだろう。

この物語に登場する少女は、まさに悪魔に憑依されたように言動が変わり、飛び上がったり、尋常ではない怪力を出したり、激しい不随意運動を呈していた。

そこに祈祷師であるエクソシストがやってきて、悪魔を取り除こうとするわけだ。

この映画の恐怖の一つは、フィクションであるはずなのに心の芯まで震わせるようなリアリティだと思う。

若い女性が悪魔に取り付かれたようになってしまうというエクソシストの少女の状態は、果たして完全なフィクションなのかというとそうでもなくて、首が回転したり背面で歩いたり天井に張り付くことはないが、それら以外は非常によく似た症状を呈する脳の疾患が実在する。

この病気を発症した女性のエピソードが、エクソシストという映画のモデルになったと考えられている。

疾患にも様々なタイプがあるが、何らかのきっかけで、自分の身体に対して自分の免疫系が攻撃してしまう病気は「自己免疫疾患」と呼ばれている。

エクソシストの少女のモデルとなった患者は「抗NMDA受容体脳炎」を発症していたと考えられている。

この疾患も、自分の身体に対して、自分の免疫系が攻撃することで引き起こされる。攻撃される部位が脳なので、人格が変わったり暴れたりする。

神経細胞の細胞膜には、N-methyl-D-aspartate(NMDA)受容体という蛋白質があり、神経細胞の機能を担っている。

しかし、とあることがきっかけでNMDA受容体に対する抗体が作られてしまうことがあり、結果として自分の免疫系が自分の脳を攻撃し、炎症を起こしてしまう。

そのきっかけは不思議なもので、抗NMDA受容体脳炎の場合には、(全てではないが)脳ではなくて卵巣に生じた奇形腫が関係する。

その奇形腫の細胞の中で、NMDA受容体の蛋白質が産生されると、免疫系が卵巣奇形腫に含まれるNMDA受容体を異物だと間違って認識し、攻撃を加えてしまう。

通常、NMDA受容体は頭の中の大脳辺縁系という部位の神経細胞に多く存在して機能しているわけで、免疫系が攻撃してしまうと神経細胞がダメージを受ける。

つまり、エクソシストの少女のような症状を示す抗NMDA受容体脳炎は、卵巣奇形腫に伴って引き起こされるというメカニズムが明らかとなり、この病気がどうして若い女性において認められるのかという理由も説明がつくようになった。

しかしながら、抗NMDA受容体脳炎の原因が分からなかった時代、人々がこの状態を悪魔の仕業だと考え、祈祷師に何とかしてもらおうとした理由も分かる。

悪魔としては「何でもかんでも俺のせいにするなよ」と言いたい状況かもしれないし、自らを攻撃してしまうきっかけを作った腫瘍こそが悪魔の正体だったという解釈にもなるな。

そのように考えてみると、科学と非科学の境界というものは曖昧で、もちろん森羅万象に明確な機序があるはずだが、それらが曖昧なまま考えざるをえないことは多い。

ここまで科学が進展し、人智が積み重なっても、分からないことばかりだ。

宇宙の果てがどうなっているのかも分からないし、たったひとつの感染症さえ制圧することができずに困ったりもする。

もとい、大脳辺縁系は「記憶」と「情動」という二つの大切な機能を担っている。さらに、この部位は本能や欲求、ならびに自律神経の働きも司っている。

情動という単語は難しく感じるが、要は感情の動きのことだな。嬉しいとか、悲しいとか、恐いとか。

うつ病やPTSD、パニック障害などのストレス性の疾患では、大脳辺縁系の中でも扁桃体や海馬の不調が関係していることがよく知られている。

これらの疾患に苦しんでいる人たちは、形の見えない「恐怖」を感じることがあると思うのだが、その恐怖は脳のこの辺りで生まれているわけだな。

心が疲れてくると、何かを判断することが難しくなったり、記憶が残らなくなったり、表現することが難しい不安が襲ってきたりもする。それらの現象は霊的なものでも気が狂ったわけでもなくて、生理学的なメカニズムによるものだと私は理解している。

とりわけ、感情については大脳辺縁系の扁桃体が担っている。

こんなに大きな頭の中で、プチトマトよりも小さなひとくちサイズの扁桃体が頑張っていると思うと、なかなかブラックな役割だなと思う。

大脳皮質が発達して様々な知的活動が可能になったわけだが、より高度な社会が形成され、ストレスはさらに多くなった。

しかし、脳の進化が社会の発展に追いつくはずもない。

数年前にバーンアウトを経験した私の場合には、当時の記憶があまり残っていないし、その典型的な症状である感情の枯渇が認められた。

今では随分と回復してきたのだが、感情の情報処理においても、交感神経を介した器官の制御においても、ひとくちサイズの扁桃体が関わっている。

そのように考えると、私の扁桃体はかなりの負荷とダメージを受けていたのだろう。

冒頭の「過度に面倒くさくなってしまう」というモチベーションの低下においても、やはり大脳辺縁系の扁桃体や海馬、もしかすると帯状回あたりが回復しきっていないのかなと思う。

バーンアウトの際に身体が動かなくなったことを脳が記憶していて、その当時と同じ情報処理を行っているのか、あるいは、まだ心が疲れていると脳が判断して行動にブレーキをかけているのかは分からない。

回復してきたとはいえ、通勤地獄は相変わらず続いているわけだし、浦安という街に住み続けていること自体が大きなストレスだ。

妻は毎週のように癇癪をおこしているし、状況は急変しないことだろう。

だが、バーンアウトで苦しんでいた時と違うことがある。

それは、目的に向かって少しだけ動けば、レールの上を進むかのように行動が続くこと。

バーンアウトを起こしていた当時の経験から、自分の思考の中で「たぶん、無理だ」と躊躇することでも、実際にやってみると大して時間もかからないし、苦労もなかったりする。

一度、大丈夫だと確かめた後は、モチベーションを止めてしまうような下向きの重力のイメージが薄れて、行動が軽くなる。

しかし、仕事でも家庭でも、身の回りのそれぞれの行動について確認しながら前に進む必要があるようだ。

感情が枯渇した後で、そのまま枯れさせていた方がいいなと思う感情もあるわけで、その辺の判断がなかなか難しい。

以前の私は、落ち着きがなかったり、熟考せずに言葉が出てしまうことが多かった。バーンアウトになってからは、味方が増えたというよりも敵が減ったわけだが、そのような悪い特徴がバーンアウトと共に封印されたのだろう。

これからの人生の残りを生きていく中で、このような部分はむしろ凍結しておいた方が穏やかに過ごすことができる。

そのように考えると、人の幸や不幸もよく分からないものだな。

それでも、仕事をこなし、家庭を築くための行動については、それら一つひとつのロックを解除して、元通りにする必要がある。

なかなか面白い経験ではあるけれど、これが実にしんどい。

モチベーションを日本語に訳すと「やる気」だと思うのだが、そんなに簡単にやる気が出れば苦労はない。

だが、とても幸いなことに、自分を実験体にして様々な仮説を試すことができるので、非常に興味深い。

失われたモチベーションを何とか起動させて、そこからのプロセスを軌道に乗せるという方法は、人によって様々だろう。

私なりに試行錯誤した結果として辿り着いたのは、「5秒間だけのアフターバーナー」というフレーズ。

実際に頭の上から全身に向かって強烈な重力がかかるような状況は、普段の生活では経験しないわけだが、実際にそれらを受けている人たちの動画を探してみた。

すると、さすがYouTubeだ。すぐに航空自衛隊のブルーインパルスのコックピット内の動画がヒットした。

そういえば、アニメでもこのようなシーンがあったなと探したら、マクロスがヒットした。

バルキリーが急旋回や急上昇している時のシーン。とりわけ、イサムがGに耐えながら飛び交っている姿がグッとくる。

そう、モチベーションや感情が枯渇したことがない人には全く想像がつかないだろうけれど、回復期において再び身体を動かそうとする時の「クゥォオオ」という感じは、戦闘機のパイロットが何倍ものGを受けて耐えているような状態に似ている。

戦闘機に乗ったことがないので、正確には違うだろうけれど、私なりのイメージはこれだな。

呼吸が苦しくなり、全身が重い。そして、その行動が問題ないと分かると急に全身が軽くなり、「なんだったんだ...」という状態になる。

問題は、最初の「超面倒くせぇ」というモチベーションの壁をどうやって突破するのかということなのだが、ゆっくりと1から5まで数えて、その間だけは我慢するようにした。

実際には5秒間ではなくて7秒間くらいに相当するようだが、たったこれだけの時間を我慢するだけで、そこから先はきちんと動く。

もちろんだが、バーンアウトや他の疲れにおいて、それらの真っ最中にこれをやるとモチベーションの前借りになり、さらに消耗することだろう。

その壁を突破するまでの5秒間は、アフターバーナーを点火した戦闘機に乗ったイメージでとにかく耐える。

五十路が見えてきたオッサンが何を考えているのだと、非科学的で自分でも笑ってしまうのだが、自分自身がバルキリーになって、脳から自分を操縦しているイメージを持つと動きやすいことにも気づいた。

試しにガンダムをイメージしようとすると「マチルダさーん!」とか「認めたくないものだな...」というパワーフレーズがリフレインして感情移入が難しい。

エヴァンゲリオン初号機をイメージしようとすると「無理だよ、そんなの...できるわけないよ!」というパワーフレーズどころか、途中で暴走したらどうしようかという不安もやってくる。

この辺りのロボットの選定は人それぞれの判断なのだろう。

まあとにかく、バーンアウトによって固まってしまった一つひとつのロックを解除することはとても大変だが、短い人生でこのような状況を経験したことは、必ずしもデメリットだけではない気がするな。

「無理だ、できない...」というモチベーションの壁を、ボロボロで貧弱なアフターバーナーで何とか乗り越えて、そこから先に進んだところにあったのは、尊大な意味ではなくて、正しい意味での「自信」だった。

「自分を信じろ」と言われたって、最も信じることが難しい存在が自分だったりもするわけだし、あまりにありふれた言葉なので、逆に鬱陶しく感じることもある。

しかし、自信という言葉の意味さえ感じない状態、つまり思ったらすぐに行動することができる状態は、実は、とても幸せなことだったのだなと思う。

「生きることに飽きてきたら、たまには絶望の淵に落ち込んで、そこから這い上がってくると楽しいよ。本当の自信の意味が分かるから」と気安く勧めることはできない。這い上がってきたからこそ言えることなのだろう。

様々なことを諦めて、様々なことを失ったけれど、自分のことを理解する上では貴重な岐路だった。

ここまで頑張ってくれた私の扁桃体に感謝する気持ちを込めて、これからは苦手なプチトマトを我慢して食べよう。