喉元を過ぎた後でやってくる熱痛
再びロードバイクのライドに出られない日々が来るのかどうか。
日本人の特徴として、喉元過ぎれば何とやらというところがある。
日本は、新型コロナウイルス感染症の第一波を辛うじて乗り越えた結果になった。
すると、すぐに緊張感が緩み、マスクを外す人が増え、人混みや夜の街に繰り出す人が増えた。
一次情報ではなくて、マスコミを介した二次情報、さらにはツイッター等でのデマやアジの類まで信じてしまう人がいかに多いことか。
社会のレベルで考えれば、必ずしも恵まれていない状況において、感染の拡大を止めるために身を削って対応した専門家や医療関係者、行政関係者への感謝や労いは少ない。
感染者数がピークアウトすると一気に安堵して、ここがダメだった、あれがダメだったと専門家に対して批判を飛ばす始末。
それは専門家ではなくて政府や自治体のマターだということまで批判する人たちがいる。
政治的な意図がないことを明言した上で言えば、市議会の関係者でさえ、コロナ対応について事実誤認の主張を展開することがある。
マスコミからの二次情報をアレンジして、三次情報を市民に流す。まるで伝言ゲームのようだ。
年間1千万円近い報酬を受け取りながら、彼ら彼女らにどの程度の働きがあるのかはともかく、明らかに間違ったことを市民に伝えることは適切ではない。
ツイッターがユーザーの内面を映す鏡であれば、市議会は街に対する市民の想いを映す鏡だ。
市議会議員においては、発言や主張に責任が伴う。しかし、ほとんどの市民は気にも留めないし、そもそも市議会に関心がない。
議員の定数を言い当てられない市民の方が多いことだろう。
特にシニアに多いのだが、特定の新聞社やテレビ局の報道を論拠にして主張を展開することがある。
昭和のスタイルだな。
主要な新聞社からの情報の全てに目を通していたならばまだしも、情報源において非常に分かりやすい偏りがあると、結果として偏った主張が目立つ。
まあ、ほとんどの市民が相手にしていないから、話題にも上がらないのだろうけれど。
主義や思想はともかく、この国について正しい情報を得たければ、特定のメディアに依存すべきではない。
情報はネット上にも漂っている。それらを見分け、一次情報にまで遡ってこそ、より本質を見抜くことができる。
「ほら、○○新聞に書いてあるじゃないか」とか、「今朝のテレビのワイドショーで言っていた」とか、その程度の考えで街の方針について意見を出すのか。
二次情報を伝える人たちの立場や思惑を疑ったことはあるか。
ツイッターが何とか発見器と呼ばれていることに似て、特定の新聞やテレビの情報だけを引用して主張を展開することもまた、自らの思想や背景を晒すことになる。
他者がどの新聞の情報を引用したかということだけで、大まかなスタンスが分かってしまう。
いくら立派な講釈を垂れたところで、一次情報に基づかなければ論理にギャップが生じる。
浦安に限った話ではないし、市議会議員に限った話でもないが、最近では、必死に努力した専門家たちに感謝するどころか、波が去った途端に、むしろ専門家と距離を置いたり、攻撃する人までいる。
医師にしろ研究者にしろ、一般人と比べて知能が高い人たちだ。
このような難局では「英知を結集して」という言葉が出たりするが、その英知を形にすると、この人たちになる。
だが、人は自らに直接的に関係しないことには関心を持たず、自らの我や欲に従って生きることが多い。
難局が過ぎて、英知が結集する必要がないと思ったのだろうか。
日本の頭脳が懸命に対処していたのに、マスコミはその努力をきちんと伝えたのか。
難局が過ぎたわけではなくて、大きな波の前に静かになる瞬間だったということに気づいていなかったのだろう。
緊急事態宣言が解除された後のあまりに早い社会の緩みは、とても気になっていた。
世界各国では、ピークアウト後の第二波が襲来することが多い。
「新しい生活様式? なんだそりゃ?」と失笑しながら夜の街で酒を飲んでいる人たちだって、ピークアウトしたからこそ、そのようなことを言えたのだろう。
懸念が現実となり、第二波の気配が近づいてきた。現在の感染者数は、ほぼ2週間前の状況を反映している。
2週間前から今まで、人々は積極的に感染拡大の防止に努めてきただろうか。その結果がこれから分かる。
専門家を揶揄するような主張を多くの市民に配ったどこかの人たちは、浦安という小さな街の力で感染症に対応できると思っているのだろうか。
長年の人生を生きてきたのだから、もう少し含蓄と論理性のある主張を賜りたいものだ。
市民の多くが都内に通い、全国からテーマパークに人がやってくる街。
第一波において、浦安市はクラスターの発生を逃れたが、人々が最大限まで活動を自粛したからこその結果だ。
では、その戦略の骨格を考えた人たちは誰か。
市長か? 市役所か? 市議会議員か?
違う。
感染症対策の専門家たちだ。
自治体の対応は、戦略に肉付けをして、より具体性を持たせたものであり、浦安市の場合には、その骨格のアレンジがとても丁寧で慎重だった。
浦安市の情報発信は迅速かつ的確で、何より市民に寄り添って守る姿勢が感じられた。
浦安市の行政の実力が、この土壇場で発揮された。
ここまで高いレベルの感染症対策を執ることができた千葉県内の自治体は少なかったと思う。
しかしながら、第二波が襲来した際にこれまでの戦略をそのまま適応することは難しい。これ以上の自粛を続けると経済や教育にもダメージが生じるリスクがある。
さらに、浦安市内でも感染者が増えている。
見る人が見れば、クラスターが生じ始めていることくらい分かる。
これはかなり深刻だ。
このような状況下で、ベクトルがずれた主張を展開している人たちに問いたい。
誰かを悪者にして憂さ晴らしをすれば、この社会は元に戻るのか?
文句ばかり投げつけて、その人たちは社会を守るために何をやったのか。身を粉にして働いている人たちを批判し、皮肉を飛ばし、責任を指摘していただけではないのか。
もっと踏み込んでやろう。
もしも浦安市内で大規模なクラスターが発生し、市役所や保健所では手に負えない窮状になった時、文句ばかり言っていた人たちはどうするのか?
浦安市としては、最大限の努力を続けている。それは理解している。
だが、事態は想定を越えることがありうる。第二波がさざ波なのか津波なのかが分からないからだ。
もしも後者だったら、事実誤認の上で専門家を批判している人たちは、何を考えるのだろうか。
より上位の行政や専門家たちに支援を受けろと要求することだろう。
それまでの批判さえ忘れ、自分が言ってやったのだから、誰か動けと。
喉元を過ぎた熱さを忘れて雄弁に語り、その後にやってくるのは沈黙と無力感だな。
専門家たちは言ったはずだ。
新しい生活様式が必要なのだと。
それを大切にした人も多いし、斜に構えて守らない人も多い。
結果、このような事態になった。
もはや、活動の自粛という武器を繰り出すことは難しい。
けれど、今、この時間においても、人間離れした頭脳を持った人たちが、必死に解を探している。
第二波が来ることなんて、海外の動向を見れば想定の範囲内だ。
それなのに、多くの人たちがこんなに短い時間で気持ちを緩めてしまった。
人々が我慢してきたことは確かだが、ウイルスには義理も人情も通じない。
生物と無生物の間のような存在は、あくまで物理化学的な法則に基づいて振る舞う。
行政や専門家が頑張ったところで、人々の行動が変わらなければ意味はないし、我と欲を追求する人々の行動パターンまでをシミュレートすることは難しい。
例えば、ホストクラブ。
夜の街でコロナの感染が拡大していることなんて、第一波でも指摘されていたことだ。
まさに人の我と欲だな。
ホストクラブで金を使う女性たちの多くは、その後でどのような人たちと接触するか。
例えば、飲み会で盛り上がる若者たちや中年たち。
まだ、新型コロナウイルスが社会からなくなったわけでもないのに、サイコロを振るような確率論なのか。
行政に強制力がないとか、法的根拠がないとか、様々な都合があるだろうけれど、放置していたらカタストロフィーの引き金を引くことになりそうだ。
このような人たちまで守らなくてはいけない医療関係者や専門家たちの気持ちを考えると、何だかやりきれない思いだ。
実際に個々が脅威を経験するまで学ぶことがないのだろうか。
私や家族が生活する浦安という街においては、偏った主張を展開する人たちに左右されることなく、これまで通り、行政が適切に舵を取ることを願う。